『(500)日のサマー』を渋谷のシネクイントで見ました。
予告編で見たときは、“夏”の500日とは変だな、なぜタイトルに括弧書きがあるのだろう、と気にはなりましたが、どうせたわいのないラブストーリーに違いないと思えてパスしようかと考えていたところ、決して一筋縄ではいかない映画との評判も聞こえてきて、それならばと見に行ってきたわけです。
実際に見てみると、専ら男の子の側から見た失恋物語といえ、それが様々の音楽と絡み合いながら、さらには時間の前後が何度も入れ替わって描かれているという、ちょっと変わった映画でした。
当初、トムがヘッドフォンで「ザ・スミス」を聞いていると、センスがいいと思ったのでしょう、サマーの方から近づいてきます。トムも、サマーがキュートで可愛いと思い、これは恋愛関係にまで発展すると積極的になっていきます(そのクライマックスでは、楽しいダンスシーンが展開されます!)。
ところが、サマーが、ビートルズで好きなのがリンゴ・スターだと言い張るところから意見の対立を生じ、結局は、サマーは、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を読んでいるときに近づいてきた男性と結婚してしまいます(その男性に大人の愛を感じたのでしょうか)。
初めの方の話からすると、サマーは、恋愛関係に入って縛られたくない、もっと自由でいたいと言っていたり、かつまた正統からはずれる「ザ・スミス」やリンゴ・スターを愛好するといった女性なので、世の中より先を進む個性的な女性なのではと思いました。
例えば、サマーに何度もしつこく言い寄ってくる男性を殴って排除しようとしたとき(逆に殴り返されてしまいますが)、トムは、サマーによく評価されるに違いないと思っていたところ、逆に、そんなことはしてほしくないとスゲなく言われてしまいます。これは、自分にあまり深く介入しないでほしい、自分を自由にしておいてほしい、というサマーの姿勢の表れではないか、と思いました。
そういう自立心の強い女性というのであれば、それはそれで理解可能です。ところがラストになると、サマーは、オスカー・ワイルドの小説を読んだり、きっちりと結婚したりと、正統派の女性でもあることが分かり、なかなか捉えどころがありません。
これでは、人の良いトム(幼い妹から恋愛指南を受けるほど未熟!)が振り回されるのも当然です。ですから、微温的なグリーティングカード会社を、厳しい言葉を言い放って辞め、元からの望み通りに建築家としてやっていこうと意欲的になってはじめて、別の女性(オータム)と大人の恋愛関係を持てるようになる、というストーリーも十分に頷けます。
問題は、こういったストーリーが、映画では一直線に進行せずに、絶えず時間の前後を入れ替えながら描き出されていることでしょう。
一般に男女の出会いから別れに至る時間的な経過は、最初の頃の浮き浮きした気持ちが持続している期間、次いで様々の疑問が生じてきて二人の関係がぎくしゃくしだす期間、そして最後の方の次第に疎遠になっていく期間、と大まかに3つに分けられるでしょうが、この映画では、それらの期間相互で場面は何度も行ったり来たりします。
ただ、各場面の初めに「○日目」と表示が出るので、どの期間に該当するのかおおよその見当が付き、そこではじまるエピソードがどんな風に展開するのかは、大体予想できるようになります。
ですから、見ている方は、その時間の前後が何度も入れ替わることに、とくだんの煩さを感じません。逆に、このお話が一直線に時間が進行してしまったら、単なる失恋物語にしかならないでしょう。こうした手法をとることで、事態はギクシャクとしか進行せず、あるいは別の方向性もあったのでは、などといった面も見えてきます。
とまれ、もう少し音楽的要素を強めたらミュージカル映画になるでしょうし、あるいは、もう少し主人公の意識の中身を強調したら、プルースト張りの“意識の流れ”を描く映画にもなったでしょうか。ですが、この作品はそうした方向には進まずに、それらの中間辺りに踏みとどまって、エンターテインメント作品としてうまくまとめあげている、といった感じです。
映画評論家の評価もまずまずのようです。
小梶勝男氏は、「500日間に渡って、ほとんどトムとサマーの恋愛だけが描かれる。それだけの話なのだが、実に新鮮で、切ない物語になっている」として84点もの高得点を、
渡まち子氏は、監督にとって「長編映画デビューだが、軽やかな演出に非凡なセンスを感じる。しかもライト・タッチなのに、中身は意外に骨太だったりするのだ」として75点を、
それぞれ与えています。
ただ、福本次郎氏は、「運命の出会いを信じる男と出会いは偶然と割り切る女のかみ合わない交際を通じて、傷つくことを恐れる現代の若者の胸の内をリアルに再現する」としながらも、「一方でなぜ時制をランダムに並べるようなややこしい編集をしたのか。各々のエピソードが後の伏線になっていたり因果関係で結ばれているわけでもなく、ただ混乱するだけだった」として50点しか与えていません。
しかしながら、あの映画で「混乱」してしまうのは福本氏だけではないでしょうか?
★★★☆☆
象のロケット:(500日)のサマー
予告編で見たときは、“夏”の500日とは変だな、なぜタイトルに括弧書きがあるのだろう、と気にはなりましたが、どうせたわいのないラブストーリーに違いないと思えてパスしようかと考えていたところ、決して一筋縄ではいかない映画との評判も聞こえてきて、それならばと見に行ってきたわけです。
実際に見てみると、専ら男の子の側から見た失恋物語といえ、それが様々の音楽と絡み合いながら、さらには時間の前後が何度も入れ替わって描かれているという、ちょっと変わった映画でした。
当初、トムがヘッドフォンで「ザ・スミス」を聞いていると、センスがいいと思ったのでしょう、サマーの方から近づいてきます。トムも、サマーがキュートで可愛いと思い、これは恋愛関係にまで発展すると積極的になっていきます(そのクライマックスでは、楽しいダンスシーンが展開されます!)。
ところが、サマーが、ビートルズで好きなのがリンゴ・スターだと言い張るところから意見の対立を生じ、結局は、サマーは、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を読んでいるときに近づいてきた男性と結婚してしまいます(その男性に大人の愛を感じたのでしょうか)。
初めの方の話からすると、サマーは、恋愛関係に入って縛られたくない、もっと自由でいたいと言っていたり、かつまた正統からはずれる「ザ・スミス」やリンゴ・スターを愛好するといった女性なので、世の中より先を進む個性的な女性なのではと思いました。
例えば、サマーに何度もしつこく言い寄ってくる男性を殴って排除しようとしたとき(逆に殴り返されてしまいますが)、トムは、サマーによく評価されるに違いないと思っていたところ、逆に、そんなことはしてほしくないとスゲなく言われてしまいます。これは、自分にあまり深く介入しないでほしい、自分を自由にしておいてほしい、というサマーの姿勢の表れではないか、と思いました。
そういう自立心の強い女性というのであれば、それはそれで理解可能です。ところがラストになると、サマーは、オスカー・ワイルドの小説を読んだり、きっちりと結婚したりと、正統派の女性でもあることが分かり、なかなか捉えどころがありません。
これでは、人の良いトム(幼い妹から恋愛指南を受けるほど未熟!)が振り回されるのも当然です。ですから、微温的なグリーティングカード会社を、厳しい言葉を言い放って辞め、元からの望み通りに建築家としてやっていこうと意欲的になってはじめて、別の女性(オータム)と大人の恋愛関係を持てるようになる、というストーリーも十分に頷けます。
問題は、こういったストーリーが、映画では一直線に進行せずに、絶えず時間の前後を入れ替えながら描き出されていることでしょう。
一般に男女の出会いから別れに至る時間的な経過は、最初の頃の浮き浮きした気持ちが持続している期間、次いで様々の疑問が生じてきて二人の関係がぎくしゃくしだす期間、そして最後の方の次第に疎遠になっていく期間、と大まかに3つに分けられるでしょうが、この映画では、それらの期間相互で場面は何度も行ったり来たりします。
ただ、各場面の初めに「○日目」と表示が出るので、どの期間に該当するのかおおよその見当が付き、そこではじまるエピソードがどんな風に展開するのかは、大体予想できるようになります。
ですから、見ている方は、その時間の前後が何度も入れ替わることに、とくだんの煩さを感じません。逆に、このお話が一直線に時間が進行してしまったら、単なる失恋物語にしかならないでしょう。こうした手法をとることで、事態はギクシャクとしか進行せず、あるいは別の方向性もあったのでは、などといった面も見えてきます。
とまれ、もう少し音楽的要素を強めたらミュージカル映画になるでしょうし、あるいは、もう少し主人公の意識の中身を強調したら、プルースト張りの“意識の流れ”を描く映画にもなったでしょうか。ですが、この作品はそうした方向には進まずに、それらの中間辺りに踏みとどまって、エンターテインメント作品としてうまくまとめあげている、といった感じです。
映画評論家の評価もまずまずのようです。
小梶勝男氏は、「500日間に渡って、ほとんどトムとサマーの恋愛だけが描かれる。それだけの話なのだが、実に新鮮で、切ない物語になっている」として84点もの高得点を、
渡まち子氏は、監督にとって「長編映画デビューだが、軽やかな演出に非凡なセンスを感じる。しかもライト・タッチなのに、中身は意外に骨太だったりするのだ」として75点を、
それぞれ与えています。
ただ、福本次郎氏は、「運命の出会いを信じる男と出会いは偶然と割り切る女のかみ合わない交際を通じて、傷つくことを恐れる現代の若者の胸の内をリアルに再現する」としながらも、「一方でなぜ時制をランダムに並べるようなややこしい編集をしたのか。各々のエピソードが後の伏線になっていたり因果関係で結ばれているわけでもなく、ただ混乱するだけだった」として50点しか与えていません。
しかしながら、あの映画で「混乱」してしまうのは福本氏だけではないでしょうか?
★★★☆☆
象のロケット:(500日)のサマー
ナンシー・シナトラの代表曲「シュガータウン」は、ナンシー自身の解説によれば、リー・ヘイズルウッド版のBeatles「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ザ・ダイアモンド」とのことだそうですが、後者がLSDを織り込んだ曲ともいわれ、前者も歌詞には薬の匂いがあります。製作者にどの程度の意図があって、Sugar Townが歌われたのか分かりませんが、文字通りの甘さではないということです。本作映画も、男目線からすれば甘い物語になってほしかった失恋譚でしょうが、相手サマーの女目線からすれば、実にシビアにクールに展開したのでしょう。男がいくら思っても、彼は「運命の人」ではなかったと言うことで、こういうことは男女の出会いのなかでよくあることかもしれません。
ともあれ、相手方のズーイー・デシャネルが、天然ボケ気味の小悪魔(主役の男目線であることに注意)を好演し、キュートで魅力一杯というところです。彼女は、「テラシビアにかける橋」で美人教師を演じ、「イエスマン」でもなかなか面白い役を演じていました。こんな彼女に少しでも振り向いてもらえたら、それでイチコロにならない男はつまらない男だし、それだけでも幸いだったと思うのがよいでしょう。しかも、男のほうは自分の仕事についても新たな活路を見出し、次ぎに「運命の女」になりそうな別のタイプの可愛い子チャンにも巡り逢っています。
だから、本作は、総合的にみてハッピーエンドとして受けとめられ、ストーリーとして見ても、なかなかの佳作だと思われます。大雑把気味のアメリカ映画にしては、細やかな作風であり、だから当初は上映館数も少なかったようですが、これが急拡大したということで、アメリカ人の感覚も変わってきているのでしょうか。
「yohoo!映画」で、本作を評している人たちは、自らにどこか思い当たるところがあるのか、他の映画作品に比べて、総じてその記事内容が高いレベルのもので寄せられているのも面白いと感じるところです。
ヒロインのサマーは、それを演じるズーイー・デシャネルが、おっしゃるように「キュートで魅力一杯」だとしても、役の上では「ザ・スミス」が好きだったり、オスカー・ワイルドの小説も読むというように設定されており、さらに、カラオケで歌う「Sugar Town」に「ロスのキャッチャー」さんの指摘のような背景があるのであれば、かなりシビアに男性を見る面を持っているとしてもヨク納得出来るところです。
この曲も66年暮れに全米5位の大ヒットとなっています。」というインターネットでの記事(http://oldiesus.seesaa.net/category/3789453-1.html)も見かけました。
そのサビの部分が、「Strawberries, cherries and an angel's kiss in spring. My summer wine is really made from all these things」(苺、サクランボと天使のくちづけ。これらはみな春のもの。わたし〔女〕の夏のお酒は、本当にこれら全部でできている)ということであり、Autumunばかりか春まで登場し、かつ、男はサマーワインでしたたかに酔わされて、昼間になって目が覚めたときには、これを飲ました女に有り金全部を盗られてしまっていたけれど、それでもサマーワインをまだ渇望する気持ちが残った、という話につながるのです(参照 http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20060831)。
なお、ナンシー・シナトラには、カリフォルニアやサンフランシスコ・ハリウッドなどの同州の地名が多く付けられた「California Girl」というアルバムもありますが、そこには映画の舞台のロスアンジェルスはでてきませんし、「Sugar Town」が入ったアルバム「Sugar」には「Summer Wine」は入っていません。映画には、酒場でのトラブルや酒が出るパーティの場面もありましたね。