映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ラビット・ホール

2011年11月21日 | 洋画(11年)
 『ラビット・ホール』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)クマネズミにとっては、久しぶりの二コール・キッドマンの主演作です〔以前、『毛皮のエロス』(2006年)とか『オーストラリア』(2008年)を見ました〕。

 この映画は、4歳の愛児を交通事故で失った夫婦が、その喪失感からなかなか脱出できない様子をジックリと描き出している作品です。

 妻ベッカニコール・キッドマン)は、愛児の遺品を自分の周りから取り除けようとしますし(それだけ悲しみが深いということでしょう)、逆に夫ハウイーアーロン・エッカート)は、携帯に保存されている愛児の映像を1人眺めては涙にくれています(注1)、。



 冒頭のシーンでは、庭に草花を植えているベッカのところに、隣の家の主婦が夕食の誘いに現れ、ベッカは別件があるからと断りますが、その際その主婦は、植えたばかりの草花を踏んづけてしまいます。
 ここには、ベッカの心理的な危うい状況がヨク表現されていると思われます。
 隣家の主婦に対して、ベッカは“かまわない”とは言うものの、内心ではその思いやりのなさを酷く非難していることが顔の表情で分かるように描き出されています。
 また、夕食の誘いを断ったにもかかわらず、特段の予定があるわけではないことや、そしてパーティーがどんな具合なのか気になることも、窓のカーテンの陰から隣家の様子をこっそり覗く2人の姿からわかるようになっています。

 さらに、心の傷というと、アメリカではすぐにグループ・セラピーになりますが、本作の場合も、子供を亡くして立ち直れない人達の集まりに彼らは参加します。ですが、いくらそういう集会で自分の状況を話してみても、覚醒剤とかアルコールの依存症などと違って、事態が改善されるわけのものでもなく、かえって懐かしい思い出に囚われることになってしまいます。
 さらに、自分の子供が天使となったのは神の御心だという夫婦に対して、ベッカは、「そんなに天使が必要なら、自分で作ればいいのよ、だって神なんだから」などと言って、スグにその会を抜け出てしまいます(注2)。

 そんな時、ニコール・キッドマンは、事故の加害者の青年ジェイソン(マイルズ・テラー)をみかけ、その内にその彼と話すようになります(注3)。



 ジェイソンが、『並行宇宙』という本を読んでいるのが分かると、自分も同じものを図書館から借り受け、また青年が描いている漫画にも興味を持ち出します。
 そのことを知った夫は、大変怒りますが、逆に妻の方は、その青年とのコミュニケーションや、ずっと以前息子(妻の兄)を亡くしたことがある母親(ダイアン・ウィースト)の話にも支えられて(注4)、ゆっくりながらも次第に立ち直ってくるようです。



 ブロードウェイの舞台を映画化したものでありながら、そういった臭みはまるで感じさせない作品で、ことさらな事件は起きないものの、その分、2人の心の葛藤が上手く描き出されているのでは、と思いました。

 ニコール・キッドマンの美しさと演技力は申し分はなく、また彼女を取り巻く脇役陣も落ち着いた大人の味わいを出していて、随分と見応えがありました。

(2)ベッカたちの子供を轢いてしまった青年ジェイソンは、『並行宇宙』の本を参考にして、ウサギの穴を通って父親をパラレルワールドに探しに行くという漫画を描いていると、ベッカに話します。
 出来上がった漫画を見ると、3人家族の宇宙が沢山描かれています。



 ベッカが、「素晴らしい漫画。まるで地獄で愛する人を探すオルフェウスのよう。あなたも父親を探しているの?」と尋ねると、ジェイソンは、「いや、これはすべて創作。父親は英語教師だった」と答えます。
 ベッカは何か悟ったようで、「こちらの世界で起きていることは悲劇バージョン。愉しくやっている私がどこか別にいるのかも」などと語ります。

 ただ、『ミスター・ノーバディ』についての記事(コメントを含めて)で申し上げたように、本来的な並行宇宙論=「多世界解釈」とは、「互いに行き来できたり、別世界の自分と会話できたりする、過去に戻って重大な選択をやり直して歴史を変えてしまったりする」ような「SF やアニメに出てくるパラレルワールド」ではなさそうですから、ジェイソンの描く漫画の世界とも違っているようにも思われます。

 でも、そんなことは、本作を鑑賞する上では余り意味がないことでしょう。
 その漫画が描く世界が何であっても、それをベッカが立直りの切っ掛けの一つとする方を見るべきでしょう。

(3)樺沢紫苑氏は、「もし将来、私が「グリーフワーク」について本に書くことがあれば、間違いなくこの映画を引用することになるでしょう」、「見ていて苦しくなりますが、息子の死を簡単に乗り越えることなどできるはずがないのです」、「ドラマティックな感動はありませんが、淡々と描かれる現実は心にグサグサ刺さります」として90点も付けています。
 渡まち子氏は、「ベッカの母が言う「悲しみは消えないけれど、重さが変わる。時間が経てば、のしかかっていた重い大きな石が、ポケットの小石に変わるのよ」というセリフが深い滋味を醸し出す。絶望の中から自分なりの方法で立ち上がり、もう一度前を向くヒロインを演じるニコール・キッドマンの切実な演技が素晴らしい」として70点をつけています。
 福本次郎氏は、「自分の胸中を分かってほしい、でも誰にも理解できるはずがない。そんな繊細なヒロインの心情を、ニコール・キッドマンは時に感情を爆発させてリアルに演じきる。世界中の悲しみをひとりで背負っていると思い込んでいて、確かに同情の余地はあるのだが、むしろイヤな女を演じて現実から逃避しようとする姿が痛々しい」として60点をつけています。



(注1)ハウイーは、遺児が可愛がっていた犬が、ベッカの両親の家で飼われているのが嫌で、暫くするとその犬を取り戻して自分で飼うようになります。

(注2)ベッカが行かなくなって、ハウイーは一人でグループ・セラピーの会に行きますが、そこで夫に逃げられたという東洋系の女性と親しくなって、マリファナを一緒に吸ったりします。でも、結局、深い仲にはなりませんでした。

(注3)青年ジェイソン(コネチカット大学への進学が決まっています)は、ベッカに会ったときに、「ズット気にはなっていた」、「ごめんなさいと言うしかない」、「あの日別の道を通っていれば」、「制限速度を2~3キロ上回るスピードで走っていたかもしれない」、「犬が突然飛び出してきて、その犬を避けようとした、でも記憶がない」などと話し、ベッカの方もジェイソンに対し、「わかったわ。それで十分よ」と言います。

(注4)母親はベッカに、「長男は、麻薬中毒で死んだのだから、あなたの子供と一緒にしないで」と言いながらも、「子供を亡くした悲しみは消えない。でも、変化はする。重さは変わる。耐えられる重さになる。重い石がポケットの石にまで変わるし、時々忘れることもある。でも、それでも消えはしないのだから、それでいいのだ」などと諭します。



★★★☆☆




象のロケット:ラビット・ホール


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