映画的・絵画的・音楽的

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ザ・マスター

2013年04月02日 | 洋画(13年)
 『ザ・マスター』をTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)本作は、ヴェネチア国際映画祭で様々の賞をとった作品だということと、フィリップ・シーモア・ホフマンの姿が見られるということで映画館に足を運びました。

 舞台は1950年代のアメリカ。
 職もなく彷徨い歩いていたアルコール依存症のフレディホアキン・フェニックス)は(注1)、中でパーティを繰り広げている船に密かに潜り込んでしまいますが、見つかってそのパーティを取り仕切っている男(フィリップ・シーモア・ホフマン)のもとに連れて行かれます。



 男は宗教団体の「ザ・コーズ」の主宰者(ランカスター・ドッド)で、皆にマスターと言われています。



 マスターは、フレディが飲んでいた自家製のアルコール飲料に興味を示し、彼を追い出すどころか、パーティ(彼の娘の結婚式)にも参加しろといいます。
 その後、フレディに対し、マスターは自分が開発した様々な治療を施したりして(注2)、二人の中は急速に深まっていきます。



 ですが、マスターの妻ペギーエイミー・アダムス)や娘婿らは、フレディに対しよそよそしい態度を取ります(注3)。
 マスターとフレディの関係はどう展開していくのでしょうか、……?

 本作では、『フライト』と同様アルコール依存症の主人公を取り扱っていますが、同作のようなあからさまに教訓的なテーマは盛り込まれてはおらず、またトム・クルーズが加入したことで知れるサイエントロジー教会類似のカルト教団を取り上げているものの、それは物語の背景であって、専ら、主人公のフレディとマスターとの激しいぶつかり合いが描かれていて、長尺ながらもその長さを見る者に意識させない充実ぶりです。
 本作は、第85回アカデミー賞の作品賞にはノミネートされなかったものの(注4)、ノミネートされた作品でクマネズミが見たものと比べても、格段に優れているのではと思いました。

 何にせよ、本作では、マスターに扮したフィリップ・シーモア・ホフマンの演技がすばらしく(注5)、冷静に考えればそんなに説得力があるとは思えない教義内容とか治療法を、一点の曇りもないような姿勢で展開する様を見ると、彼に傾倒する人々が増えていくのも分かるような気になってくるほどです。



 さらに、それに対するフレディを演じる主演のホアキン・フェニックスについては、『ウォーク・ザ・ライン』(2005年)でジョニー・キャッシュに扮したのを見ただけですが(注6)、本作ではこれまたホフマンに勝るとも劣らないものすごい演技で圧倒されました。



 彼らに並ぶと、本作で高く評価されたエイミー・アダムスも霞んでしまうほどです(注7)。




(2)フレディは、最初のうちは、自分を対等のものとして認めてくれたマスターに心酔して、その教義に異論をとなえる者を暴力で抑え込もうとしたりします(注8)。
 ですが、自分に施される治療法に効き目がなかったりすることなどから、次第に疑問を感じ出し(注9)、ついにはマスターのもとから離れてしまいます。
 フレディは精神的に病んでいるにしても、自己に忠実に生きているように思われます。

 こうした点から、フレディは、マスターが密かに抱え持っていた負の部分を人格化した人物(分身)のようにも思えてきます。
 マスターは、あるいは、フレディのように自分に忠実に生きてみたかったのかもしれません。強いアルコールを思い切り飲んだり、妻以外の女性と奔放な性的行為を行ってみたかったりしたかったのではないでしょうか(注10)?また、自分の教義の欠陥についても、マスターは十分に自覚しているのではないでしょうか(注11)?
 でも、結婚して家族を持ち、また大きくなった教団を抱えてもいますから、そのようなことはできませんし、教義を放り出すわけにもいきません。
 そんなところから、手に負えないとうんざりしつつも、離れ難いものをマスターはフレディに感じていたものと思われます(注12)。

 ラストの方で、マスターはフレディを自分の元に呼び寄せます。
 そして、「ここを去るなら二度と会いたくない、しかしここに残ってもいい」とフレディに言いますが、フレディは「たぶん次の人生で」と答えます(注13)。
 最後に、マスターは、フレディに対して優しく「中国行きのスローボート」(注14)を歌うのですが、この場面は、一緒にやって行きたいんだが君が嫌だって言うんなら仕方がないな、といった感じが溢れていて、実に素晴らしいものがあります(フレディの方も、マスターの気持ちが分かり、目に涙を浮かべます)。

 ただ、実際には、マスターはフレディを迎え入れたいのに対し、フレディはマスターのもとから完全に離れることによって、過去の束縛から解き放たれて自分自身を取り戻すことができたように思われます(注15)。

(3)渡まち子氏は、「新興宗教団体を舞台に人間の心の闇をえぐる「ザ・マスター」。PTAの作品は見る側にも力を要求する」として75点をつけています。



(注1)映画の冒頭で、上陸用舟艇らしき船から鉄兜を被った顔をのぞかせて遠くを見つめていたり、また艦内用ラジオからマッカーサーの演説が流れてきたりしますから、フレディは、太平洋戦争で日本軍相手に戦ってきたものと思われます。
 その戦争の影響でしょう、彼は、度数がきわめて高いアルコール飲料を自分でブレンドして飲むに至るほど、アルコール依存症に陥っています。
 また、ロールシャッハ・テストを受けると、どのカードについても、強い性的な反応を示してしまいます(さらには、海岸で仲間と憩っている時も、砂で象られた女の体に対し、卑猥な行為をしてしまったりするのです:この時の映像は、その後も何回か流れます)。

(注2)例えば、マスターは「プロセシング」と称する治療法をフレディに施します。
 その際マスターは、フレディに、瞬きをせずに直ちに質問に答えさせます。例えば、人を殺したか(日本兵を)、父親は(酒におぼれて死んだ)、母親は(精神病院にいる)、親類と性行為をしたか(叔母と)、何回か(3回)、後悔していないか(いない)、「影の支配者」のメンバーか(違う)、共産党か(違う)、などなど。

(注3)マスターが家族と食事をしている際に、家族はフレディについて問題を指摘します。
 娘婿のクラークは、「フレディはザ・コーズの熱心な仲間じゃない、スパイだ」と非難しますし、娘のエリザベスは、「彼がそばにいると不安」と言い(実は、その前にフレディの手を触ったりしたのですが)、妻のペギーも、「彼が何者か分からない、私たちの破滅につながる」と申し立てます(ぺギーも、自身でいろいろフレディに働きかけるのですが、何の効果も上がりません)。
 ここら辺りは、組織に闖入した余所者に対する一般的な反応でしょうが、あるいは、エリザベスやペギーについては、自分らの働きかけが功を奏さないのに対する苛立ちの表れといえるかもしれません。

(注4)アカデミー賞及びゴールデングローブ賞では、主演男優賞(ホアキン・フェニックス)、助演男優賞(フィリップ・シーモア・ホフマン)、そして助演女優賞(エイミー・アダムス)の3部門でノミネートされました。

(注5)フィリップ・シーモア・ホフマンについては、最近では、『スーパー・チューズデー』や『マネーボール』を見ましたが、本作では、『カポーティ』(2005年)における演技が蘇ったかの如くです(というか、久しぶりに彼にマッチした役柄がまわってきたというべきでしょうか)。

(注6)ホアキン・フェニックスが『ウォーク・ザ・ライン』で演じたキャッシュも、本作のフレディと同様に、依存症(アルコールとドラッグ)でした。
 なお、ずっと以前ですが、『帰らない日々』(2007年)をDVDで見たことがあります。同作で、ホアキン・フェニックスは、轢き逃げ事故で亡くなった愛息のことが忘れられず、事故の真相を自分で解明しようとする大学教授の役を演じています。

(注7)エイミー・アダムスについては、最近では『人生の特等席』や『ザ・ファイター』などを見ましたが、本作では、それらよりもさらにレベルアップして、フレディの妄想の中にせよ、そして遠目ながらも、妊娠中の裸の姿を見せたりするのです(この場面は、『テイク・ディス・ワルツ』におけるプールのシャワー室の場面を思い起こさせました)!

(注8)ニューヨークでのパーティにおいて、モアという男が、マスターに対して、「あなたのやっていることは催眠術ではないか、すべてを治療できるというのはおかしいではないか(白血病は治せるのか)、「過去への旅」と言うが、タイムトラベルは不可能ではないか」などと批判しますが、パーティの後、フレディはその男の部屋に行って殴りつけてしまいます。

 なお、モアが「催眠術(hypnosis)だ」と言ったことに対して、マスターは「違う、脱・催眠術(de-hypnosis)だ」と答えますが、こんな言葉遣いも評論家に本作が受けがいい理由の一つなのかもしれません(ただ、マスターの妻は、議論のレベルが低いとして、機嫌が悪くなりますが)。

(注9)マスターの息子ヴァルが、フレディに「何もかもがデタラメだ」と言いますし、マスターとフレディが、フィラデルフィアで警察の留置場に入れられた時、マスターは大人しく、「囚われの境遇は数万年前からのものだ。我々は、何兆年も前から悪と闘っている」云々と喋りますが、フレディは大暴れして「デタラメだ」と応じます。

(注10)マスターは、妻から「私が気が付かなければ、望む誰とでも何しても結構。でも、それができないのなら大人しくするのよ」と厳しく釘を刺されます(性的手慰みを受けている最中に)。

(注11)マスターが2冊目の本〔『The Split Sabre』:第1冊目が『The Cause』〕を出したところ、その出版記念パーティで、女性信者が、最初の本とは表現が違っている部分(recall→imagine)があると言いにきます(マスターは、いらついて彼女を怒鳴りつけてしまいますが)。
 また、助手のビルも、2冊目の本は失敗作で3ページほどのパンフレットで足りるなどとフレディに言ったりします(フレディは、ビルをぶちのめしてしまいますが)。

(注12)マスターは、フレディに対し、「君はいつも自由だ、束縛がない、マスターに仕えることなく生きる最初の人間だ」などと言います。ある意味で、フレディはマスターにとって理想の人間なのであり、導いてもらいたいのはマスターの方かもしれません。

(注13)最初にフレディに会った時に、マスターは、「どこかで会ったことがある」と言いますが、イギリスで再会した時も、「普仏戦争の際に、通信兵として、プロシア軍に囲まれたパリに君と一緒にいた」などと話します。マスターの方は相変わらずなのです。

(注14)「Slow boat to China」(このサイトの歌詞によります)
I'd love to get you
On a slow boat to China
All to myself alone ……

(注15)フレディは、映画の最初の頃は、砂で象られた女の体に性的行為をしかけたり、マスターの集会に参加する女性について性的妄想を抱いたりしていたのが、最後には、酒場で知り合った女とドッキングするに至るのですから(その際には、マスターが行っていたプロセッシングをこの女に冗談交じりで施したりするのです)。

 この背景には、もう一つ、ドリーという娘(知り合った当時は16歳)のことがあるかもしれません。
 戦争に行く前に彼女と知り合ったものの、突然出征することとなり、「必ず戻る」と言って別れたものの、復員後会いに行っていないという後ろめたさが彼をずっと苛んでいました。
 それが、久し振りでボストンの彼女の家を訪ねたところ、母親が出てきて、彼女は3年前に結婚してアラバマにいて子供が3人いる、などと答えます。
 彼女の歳を尋ねると「23歳」と母親が言うものですから、フレディも「出会ったのが早すぎたんだ、幸せなら何よりだ」と納得してその家を立ち去ります。
 この過去のわだかまりが彼から消えたことも、立ち直りの要因の一つと考えられるのではないでしょうか?

 といっても、この先フレディが上手く生きていくことが出来るかどうかは保証の限りではありませんが。



★★★★★



象のロケット:ザ・マスター