(「NORIKO学級」が入る建物の前で、ナジロフ・ガニシェル校長(前列右から2人目)と生徒たち。ウズベキスタン東部リシタン 【2月20日 GLOBE+】)
【「NORIKO学級」開校のいきさつ】
5日から中央アジア・ウズベキスタンを旅行中です。
実質二日目の今日(7日)は、チムール生誕の地シャフリサブスを観光してブハラへ移動。
今回旅行は直行チャーター便利用ということで、観光的にも今後ウズベキスタンを訪問する日本人も増加するとは思いますが、全体的にはまだまだ両国関係は太い繋がりとは言い難い状況です。
そうしたなかで、日本とウズベキスタンの「架け橋」と言えるものに、「歩き方」にも掲載されており、TVでも取り上げられたことがある「NORIKO学級」があります。
*****無料の日本語学校、灯は消さない 創設者の遺志継いだ校長の決意****
首都から車で5時間。中央アジア・ウズベキスタンの小さな町に、日本語を教える無料の私塾がある。20年前の開校以来、ウズベキスタンと日本との架け橋となる人材を多く輩出してきたが、資金的には厳しい運営が続いている。この冬、校長が来日して支援を訴えた。
■ボランティア頼み、綱渡りの運営
「ウズベキスタンでは最近、韓国や中国が経済的な存在感を増していますが、私は日本を応援したいのです。ウズベキスタン人に日本のいいところをもっと知ってほしい」
そう話すのはウズベキスタン東部のリシタンにある日本語学校「NORIKO(ノリコ)学級」の校長、ナジロフ・ガニシェルさん(55)。
昨年の大みそかに来日し、2月下旬まで日本に滞在。学校運営への支援を求めるとともに、各地で出身者の活躍ぶりを見て回った。
リシタンは、首都タシケントから車で約5時間。絹や陶器が有名なフェルガナ盆地にある、人口3万人余りの地方都市だ。
この地にNORIKO学級ができたのは1999年。建設機械大手コマツのエンジニアだった大崎重勝さんが、フェルガナ盆地の他の街にできた自動車工場で重機操作を指導するため、ウズベキスタンと日本を行き来していた。その大崎さんが退職金を元手に、妻の紀子さんと開いた学校だ。学校名は、紀子さんから取った。
ガニシェルさんは工場で運転手や世話係として働いていたが、滞在していた日本人と接しながら独学で日本語を身につけ、開校時には資金も出した。
学校ではこれまで約5000人が学び、100人以上が日本に留学。商社や銀行など日本企業で活躍している卒業生もいる。
大崎さんは体調を崩して2001年に帰国。その後05年に病没した。ガニシェルさんは、大崎さんの遺志を継いで学校を続けることを決めた。
現在、講師はウズベキスタンを観光で訪れる大学生などの日本人ボランティア頼み。
観光シーズンはいいが、寒さが厳しい冬場はほぼいなくなる。講師が学校内の宿泊施設(3食付き)に泊まる際に支払う1泊30米ドルだけが収入だが、支払えない人からは無理には徴収していない。あとはガニシェルさんが材木業で稼いだ持ち出しの資金と有志からの寄付だが、経営は厳しい。
「大阪大学に留学して、将来はダイハツの工場をここに持ってきたい」
記者が昨年12月に学校を訪れると、大阪府豊中市にホームステイしたことのある17歳の男性はそう日本語で夢を語った。
学校では、約15人の生徒が記者を迎えてくれた。ただ、資金難から暖房も付いていなく、室温が10度を下回っていた。
群馬県富岡市に滞在したことがある19歳の女性は「Hey! Say! JUMPの歌を歌うのが好きです」と話した。また、生徒らに知っている日本人を訪ねると、「本田圭佑」「柔道の野村忠宏」「E-girls」などとの名前が上がった。
暖かい季節は150人近くの生徒が通うが、冬場は10分の1に減る。講師もいなくなるため上級生が下級生を教えている。
悩みの暖房だが、以前、石炭ストーブを試すと室内が真っ黒に汚れてしまった。薪は高価で手が出ない。最近まで不安定だった電気が安定供給されるようになり、ガニシェルさんは次の冬からは電気暖房を使いたいと思っている。しかし、変圧器を買う資金はない。
昨年、日本語学校に対して綿花畑などに使われていた近くの国有地の使用許可が出た。3ヘクタールの広さがある。ガニシェルさんは庭園や建築など日本文化を紹介する「日本村」を作りたいという夢があるが、資金のめどが立たない。
ガニシェルさんは今回の来日で、支援を求めて各地を歩いた。富岡市の国際交流協会などから桜と桑の苗木をそれぞれ100本寄贈されたが、企業など大口の支援者は見つかっていない。
ウズベキスタンはいま、変革期を迎えている。1991年の独立以来、カリモフ大統領のもと孤立主義的な外交を展開してきたが、カリモフ氏は16年に死去。後任のミルジョエフ大統領は善隣外交に転換し、経済開放も進めている。
ガニシェルさんは、日本企業にとっていまが進出のチャンスだと強調する。そして、「大崎さんのお陰でみんなの人生が変わりました。NORIKO学級はどうしても残さないといけません」と力を込めた。【2月20日 GLOBE+】
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上記で紹介されている大崎氏とウズベキスタンの関わりが始まった話には、前段があります。
今回のツアーガイドのドストンさん(30歳過ぎぐらいの男性)はリシタンの出身で、彼自身も「NORIKO学級」の生徒でした。その後、文部省の留学生試験にパスして、筑波大で1年学んだそうです。
そのドストンさんのおじいさんがリシタンでは有名な陶器の職人でした。
ソ連崩壊・ウズベキスタン独立時の混乱で、それまでの大きな国営の陶器工場は潰れ、ドストンさんのおじいさんが中心になって、なんとか大勢の陶工たちの生活がなりたつようにあれこれやっていたそうですが、ある展示会でリシタンの焼き物を見た日本大使が九谷焼とコラボすればいいものが生まれると思い、おじいさんと日本大使の交流が始まりました。
その関係でドストンさんのおじいさんは日本に来て九谷焼の技法を学ぶことに。
ちょうどそのときウズベキスタンで工場建設の仕事を請け負っていたコマツは、現地に派遣するエンジニアの日常の面倒をみてくれる人を探していました。
そして、近隣にウズベキスタンから陶工が来日しているのを知り、30名ほどのエンジニアの現地生活の面倒を依頼します。
ドストンさんのおじいさんはこの依頼を受けて、コマツのエンジニアのウズベクでの面倒をみることに。
ドストンさんの家でも大勢のエンジニアが暮らしていたそうです。
そうしたエンジニアの一人が上記記事の大崎氏で、上記のような「NORIKO学級」の話にその後展開したとのこと。
この「NORIKO学級」のおかげで、リシタンの人々の多くが職を得ることができるようになり、暮らしも改善したそうです。
【志ある人】
ガイドのドストンさんと日本の間には、そのような因縁浅からぬものがありますが、ウズベクで発見された150万年前の人骨から始まって、各民族の興亡、更にソ連崩壊後の独立・苦難の時代に至るまでのウズベキスタンの歴史を車中で30分ほど話したあと、「実は私にはある秘密があります」と話始めました。
「私は将来、この国の大統領になりたいと思っています」
独立当時に比べれば改善したウズベクの人々の生活ですが、政治家・上層部にはまだ“ソ連的”な考えが残っているとのこと。
日本留学の経験を経て、そうしたものを一掃して、ウズベキスタンを更に発展させるために必要なものは「教育」だとわかったそうです。
そこでまずは教育面の改革から初めて、やがては大統領になってウズベキスタン全体の改革を進めたいと考えているそうです。
(冗談半分にしても)こういうのを「志」というのでしょう。
日本の若い人たちのなかに、そのような志を持った人がどれほどいるのか・・・?
みんな今ある小さな幸せを守ることだけに気を取られて、大きなトラブルなしに生きることを望んでいるようにも見えます。「志」を語れるひとがどれほどいるでしょうか?
もちろんそれは、日本が豊かになったことによるものですが、少子化、AI技術の革新といった社会の転換点を迎え、非常に懸念されることです。
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