(南京にある儒教の寺院で行われた新学期の式典に出席する小学生【6月13日号 Newsweek日本語版】
なかなかインパクトのある光景です。)
【儒教ブーム:急激な社会変化のなかでの「道徳の危機」への不安感】
日本と中国の間に様々な難しい問題があることは今更言うまでもないことです。
ただ、“ライバル”としてアジアにおける影響力を競い合うなかで、種々の軋轢があるのは、ある意味当然のことです。歴史認識の問題や、領土問題は厄介な問題ではありますが、これらも世界中いたるところで“ごく普通に”隣国間に存在するものであり、日中関係だけに特別なものではありません。
それだけの話であれば、いろいろな問題はあるにせよ引っ越す訳にはいかない隣国同士ですから、問題を乗り越えて、あるいは棚上げして、お互いの利益となる関係を・・・ということにもなるのですが、そのような方向を難しくしているのが、相手の国民に対する嫌悪感みたいな国民感情が存在することです。
日本側からすると、そうした感情の中核に、中国人はマナーをわきまえていない、自分や家族の利害しか考えていない、カネがすべてのような下品さがある・・・等々の“礼節をわきまえない中国人”というイメージがあります。
そんな中国から領土や歴史問題でとやかく言われると、解決策を探るより反発が先立つ・・・といったことにもなります。
文化大革命で伝統的価値観が破壊され、共産主義が新たな価値観を提示できないままに、食べるのがやっとの貧困状態から一気に物欲全開の時代に突入した中国では、日本人が重視する礼節といった精神的なものへの配慮が欠けているのもやむを得ないところもあります。
もっとも、最近は日本を訪れる中国人が急増し、彼らが日本の清潔さ、礼儀正しさ、細部へのこだわり、互いの思いやり等々の日本的価値観を称賛するような話も多々目にしますので(もちろん、従来同様の反日的な声も中国国内には多々あるのでしょうが)、中国人が礼節・日本的価値観を否定している訳でもないようです。
となれば、教育の問題になります。
中国にあっても、急激な社会変化のなかで道徳が失われていることへの不安感は一定にあるようです。そうした不安感を抱く人々を“儒教”が惹きつけており、儒教を基盤とした私学教育が増加しているそうです。
もとより、日中両国は儒教文化の国ですから、お互いが儒教が教えるような礼節をわきまえる国民になれば、様々な問題を乗り越えての“大人の関係”の構築も可能となりますので、中国の“儒教ブーム”は日本としても歓迎すべきことでしょう。
しかし、儒教の教えは、誤った国家権力への不服従・抗議を説くものでもありますから、批判を許さない権力者たる共産党にとっては“要注意”の側面もあります。
****共産党が怖がる儒教の復権****
孔子の教えを重んじる私立学校の存在を党指導部がひどく警戒するこれだけの理由
中国で今、孔子が再びブームになっている。
学術会議でもテレビのクイズ番組でも、孔子の思想が取り上げられている。政治指導者や有名人が、こぞって孔子の言葉を引用し、さまざまな自称「儒学者」たちが儒教の意味を議論している。
だが中国共産党にしてみれば、儒教の流行はあまり歓迎すべきものではないようだ。中国政府は国外で展開する中国語学校を「孔子学院」と称し、習近平国家主席は公式なイベントで孔子をたたえてもいる。だからといって、全ての国民に儒教を支持させたいわけではないというのが本音だ。
中国の教育省が2月に発した通達は、儒教の流行の一因となつている私立学校を牽制するものだった。これらの学校は、古典的な哲学の書物や慣習を重視した教育を行っている。
共産党機関紙・人民日報系のタブロイド紙である環球時報は、この通達の背景を次のように報じている。
「子供の教育について保護者たちは伝統的な手法に目を向けつつあるが、各地方の教育当局には、『四書』(儒教の重要な書物)を教育に取り入れている私立学校には注意を払うようにとの指示が出ている」
同紙によれば、国内にあるそうした私立学校の数は約3000校。そのほかに、公立学校の教育方針が合わないため自宅学習を選んだ子供が約1万8000人いる。
だが中国にいる膨大な小中学生の数に照らせば、ほんの少数だ。なぜ教育省は、非主流の教育をそれほど懸念しているのだろうか。
パリを拠点に研究を行う社会学者のセバスチャンービリユとジョエルートラバールは、共著『賢人と国民-中国における儒教の復活』の中で、その理由を以下のように指摘した。
「四書教育がいま注目されているのは、中国の教育制度に及ぼす影響力というより、新世代の儒教活動家を生む可能性があるという点に関連している」
実は権力批判の基盤に
私立学校の運営の細かな点には、国の権限が及ばない。ところがこれらの学校は、権威主義的な専制国家を批判する基礎になり得る道徳規範の下に、新しい世代の教育を行っている。
孟子はかつて言った。「民を貴しと為し、社稷(しゃしょく)はこれに次ぎ、君を軽しと為す」
すなわち人民が栄えることも、伝統儀式が尊重されることもないのなら、君主などいなくてもいいという意味だ。明朝の皇帝はこの思想を脅威と見て、孟子の書から削除しようした。
古くから儒教は、国家を支持するために使われたが、同時に国家に反抗する道具にもなってきた。(中略)
しかし、儒教が権威に対してむやみに追従を示したことは一度もない。歴史のさまざまな時点において、高潔な官僚たちは儒教の原則を引用し、理不尽な君主を批判してきた。(中略)
それから現在にかけて、中国からは道徳が失われていったと多くの中国国民は考えている。私立の儒教学校の存在は、多くの国民が文化面で不安を抱えていることの証しだ。経済の急成長は、都市化や物質主義化、性的解放や個人主義化という急激な変化を社会にもたらした。
この混沌とした状況の中で、毛沢東時代に既に崩壊していた道徳的方向性が失われたという実感が広がっている。何か善で何か悪か、国民が共通の感覚を抱けなくなっていると指摘する知識人たちもいる。中国は「道徳の危機」とも言うべき状況にあるのだ。
不確実な時代に直面し、多くの国民が宗教に目を向けた。この流れの中で、儒教を道徳的指針の源と考える人たちが出てきた。儒教は厳密には宗教ではないが、機能としては宗教的な役割を果たしている。
そんな中、一部の市民が私立学校を開設した。伝統的な儒教の書物や慣習に基づくカリキュラムを用いて、小中学生に道徳を基礎とする教育を提供。公立学校をやめる決心がつかない子供たちのために放課後や週末の授業を提供する学校もある。
だがこうして増えた私立学校の存在は、義務教育の全国的な基準と衝突する。
党の言う道徳とは別もの
中国では、全ての子供は中学校教育を修了することが求められている。教育当局は学年ごとに、全国共通のカリキュラムを設定している。全国の中学3年生は同じ試験を受け、それによって高校や大学に進学できるかどうかが決まる。厳格である上に競争の激しいシステムだ。
そのため、道徳的に意義ある教育を求める保護者たちは、困難な選択に直面する。わが子を私立の儒教学校に入学させれば(入学させるのにも義務教育法の履行を任されている地方自治体の承認が必要だ)、子供の進学に不利になる可能性がある。
『論語』や『孟子』の暗唱に時間を費やせば、国立の高校や大学への進学に向けた準備に費やす時間を削ることになる。
共産党は道徳的な指導力を独自に示そうとしている。しかしその道徳とは、共産党自身が定義し、コントロールする道徳だ。
この図式の中で儒教は、いかに高潔に生きて不当な指導者を批判するか、あるいはいかに優れた統治を行うかという指針を示すよりも、中国の偉大さをたたえる国粋主義的な主張の背景としての役割を果たしている。
しかも共産党の現指導層には、古代中国の君主だちよりも、さらに儒教を恐れる理由がある。習は自分を教養ある紳士として見せたがり、演説に占典の引用をちりばめる。その一方で彼は、共産党の支配の及ばないような概念的・哲学的な流れを拒絶している。
習は儒教やその他の伝統的文化の復活を進んで容認し、奨励さえしている。だがそれは、共産党の覇権を脅かさない場合に限った話だ。共産党指導部にしてみれば、私立の儒教学校の台頭のような比較的小さな社会の動きでさえ、初期の段階で抑えておく必要がある。
そうしなければ孔子の言葉が、習とその仲間たちを脅かすことになるかもしれないからだ。孔子はこう言った。
「もし君主の言葉が間違っていて、誰も反対する者がいないのであれば、それはまさに、わずか一言で国家が滅亡するという事態に近いと言えるだろう」【6月13日号 Newsweek日本語版】
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【“批林批孔運動”から「孔子学院」へ 党の掲げる「小康社会」、「以徳治国」、「和諧社会」】
文化大革命の時代は“批林批孔運動”という言葉をよく目にしました
****批林批孔運動*****
1973~74年に中国で展開された林彪,孔子を批判する政治運動。林彪事件後の 73年7月,毛沢東は「林彪も国民党も尊孔 (子) 反法 (家) 」と述べた。以後,江青をはじめ四人組は北京大学,清華大学などで梁効などの「大批判組」を組織し,マス・メディアなどを通じて林彪・孔子批判を展開しはじめた。さらに,74年1月毛沢東の決定で,共産党中央は江青の編集した『林彪和孔盂之道』を全国に送達し,批林批孔運動はさらに全国規模に拡大した。そのなかで,四人組は「影射史学」の手法を用いて周恩来首相を「現代の大儒」「周公」として攻撃し,運動のほこ先を周恩来らの古参幹部に向けた。【ブリタニカ国際大百科事典】
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失脚・死亡した林彪と孔子という奇妙な取り合わせですが、孔子は変革と進歩に反対し復古と退歩に固執した〈頑迷な奴隷制擁護の思想家〉〈反革命のイデオローグ〉というレッテルを貼られて、林彪批判、更には周恩来追い落とし利用されたようです。
孔子・儒教については何も知りませんが、歴史ドラマなどに登場する“儒家”には、確かに伝統や前例に固執し、変革を受け入れないといったイメージがあります。
当時の孔子・儒教の評価は、新たな共産主義革命に抗する封建主義的思想という位置づけでしょう。
しかし、現在は儒教ブームを警戒しつつも、“習は儒教やその他の伝統的文化の復活を進んで容認し、奨励さえしている”というように、評価は変わったようです。中国政府は「孔子学院」なんてものも世界中に広めています。
****中国における儒教のルネッサンス― 共産党の政権強化の切り札となるか ―****
・・・・歴代の王朝は、政権を維持するために、孔子を尊敬し、その教えである儒教を実践することを標榜したが、1919年の「五四運動」(ヴェルサイユ条約の内容に対する不満から発生した反日、反帝国主義を掲げる大衆運動)や70年代前半の文化大革命の最中において、孔子と儒教は封建主義の象徴として厳しく批判された。
しかし、近年、次の一連の出来事を通じて、再び脚光を浴びるようになった。
①孔子学院の設立
2004年以降、中国政府は、世界各国の大学と提携し、語学教育や中国文化を海外で普及させる機関である「孔子学院」を設立している。2010年現在、その数は約280校に上る。「毛沢東」ではなく、「孔子」を担ぎ出したことから、中国の共産主義国としてのイメージを薄めようとする政府の意図が見て取れる。
②孔子生誕記念式典
2005年9月28日に、初めて政府主導の下で大々的に孔子生誕記念式典がその故郷である山東省曲阜市で行われた。中国中央電視台は4時間にも及ぶ実況中継を放送し、式典には共産党幹部、各界の重要人物が数多く出席した。
③映画「孔子」の上映
2010年年初に、国策映画と見られる「孔子」が公開された。同映画の上映から、「孔子」を肯定するという指導部のスタンスがうかがえる。
④天安門の斜め向かいに現れた孔子像
2011年1月11日、天安門広場に隣接する中国国家博物館の改装工事の終了に伴って、その北口に建てられた高さ9.5メートルの孔子像が披露された。毛沢東の肖像画が掲げられている天安門の目と鼻の先に巨大な孔子像が登場したことは、儒教の復活を強く印象付けた。【2011年4月27日 関志雄氏 RIETIhttp://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/110427kaikaku.html 】
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いつのまに、すり替わったのか?
孔子評価の変化の背景には、共産党指導部も従来のイデオロギーの代わる国民が共有できる何らかの精神的支えの必要性を認識していたことがあるようです。
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共産党が孔子と儒教を批判する立場から、その復興を後押しするようになった背景には、次のような内外の環境変化があった。
中国では、「失われた十年」といわれた文化大革命によって、社会が荒廃し、経済が破綻する中で、人々は共産主義に幻滅した。
1990年以降のソ連の崩壊と東欧の激変も加わり、共産党による統治の正当性が厳しく問われるようになった。
近年、経済が急速に発展したが、その一方で、貧富格差の拡大、党幹部の腐敗、環境の悪化などを背景に、国民の不満は高まっている。
社会を安定させるために、共産党は、従来のイデオロギーの代わりに、国民が共有できる何らかの精神的支えが必要だと考えるようになった。
しかし、共産党は無神論を標榜してきただけに、仏教やキリスト教といった既存の宗教を利用するわけにはいかない。宗教ではなく、中国人に理解されやく、しかも由緒ある思想を探したところ、孔子・儒教に辿り着いたのである。
儒教は、正真正銘の中国独自の思想であるだけに、中国国内では納得、支持を得やすく、愛国教育の一環としても推進しやすい。また、海外に向けて、コピー製品ではない本物の「中国ブランド」として正々堂々と「輸出」できるのである。(中略)
2000年6月、江沢民総書記は「中央思想政治工作会議における講話」において、「法律と道徳は上部構造の構成部分として、いずれも社会秩序を維持し、人々の思想と行動を規範化する重要な手段であり、そして相互に関連し補完している。法治はその権威性と強制的手段で社会の成員の行為を規範化している。徳治はその説得力と誘導力で社会成員の思想認識と道徳的自覚を向上させる。道徳規範と法律規範は互いに結合し、統一的に作用を発揮すべきである」と語り、「以徳治国」という方針を打ち出した。(中略)
胡錦涛・温家宝政権になってから、(鄧小平が提唱した)「小康社会」(鄧小平が提唱した中国の現代化の目標で「いくらかゆとりのある社会」を意味する)は「調和の取れた社会」(「和諧社会」)であることが強調されるようになった。
それを実現するための指針として、「人間本位主義(「以人為本」)の立場から社会全体の持続的な均衡発展を目指す」という「科学的発展観」が提示されている。(中略)これらは、まさに儒教の「和」の思想に基づいている。【前出 関志雄氏】
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なお、鄧小平が提唱した中国の現代化の目標で「いくらかゆとりのある社会」を意味する「小康社会」は、儒教の古典「礼記」に登場する概念で、私有制と人々の私欲を前提とし、「礼」(制度)によって治める社会だそうです。
「小康社会」、「以徳治国」、「和諧社会」・・・何やら儒教概念のオンパレードの感もあります。
“米国議会の政策諮問機関「米中経済安保調査委員会」は、中国政府による近年の孔子思想の復活の意図などを分析した報告を発表した。同報告は、中国がかつて共産主義に反するとして排除した、孔子の教えをいま選別的に復活させたのは、共産主義の欠陥が一般国民を失望させた空白を埋めようとするプロパガンダ作戦だと診断した。”【https://okwave.jp/qa/q8534718.html】
【為政者にとっては“諸刃の剣”にも】
ただ、共産党が儒教の復権を認めたのは、あくまでも共産党支配に資する範囲にコントロールできることが大前提ですので、“腐敗した共産党支配への抗議”などは到底容認されません。
イスラム教のモスクや神学校の教えの中から一部に過激思想に走る者が生まれているように、儒教教育の私学から共産党批判に“目覚める”者が出ても不思議ではありません。
“儒教ブーム”が拡大すれば、法輪功弾圧の再現もありそうですが、一方で、上記のように共産党の指導理念のなかに儒教概念がすでに取り込まれていますので、一概の儒教否定もできません。
儒教の私学教育については、しばらくは注意深く観察しながら・・・といったところでしょうか。
日本人は、「漢文」を学校で習ったので論語が立派な道徳であると刷り込まれている節があるようです。
それにしては、最近の中国や朝鮮の理不尽なふるまいを不審に思っていました。
どうも儒教は、いろいろと問題がある考えのようです。