孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

香港  圧殺された「自由と民主」を求める声

2023-02-19 22:28:20 | 東アジア

(創業者の黎智英氏が香港国家安全維持法違反容疑で逮捕されたと報じる2020年8月11日付の「蘋果日報」朝刊。「蘋果日報はきっと耐えてみせる」と大きな見出しをつけた【1月24日 毎日】

【日本の生卵が香港でブーム】
最近、香港に関してメディアが好んで取り上げているのが、日本から輸入した卵を使った「卵かけご飯」が人気になっているという話題。

“香港では今や、“日本の卵ブーム”になっているといいます。専門店「Tamago-EN たまご園」の1番人気は、香港流にアレンジされた卵かけご飯「究極のTKG(卵かけご飯)」です。(日本円で約660円)白身をメレンゲ状にするのが香港スタイルです。”【2月15日 日テレNEWS】

周知のように、日本国内では“物価の優等生”と言われてきた卵の値段が上昇していることが注目されています。上記のように香港では“円安で相殺”とは言うものの、このままいくとやはり値上がりが懸念されています。

****日本の食材が「だ〜い好き」な香港人、日本での卵の値上がりがニュースに****
(中略)香港メディアの香港01はこのほど、日本における鶏卵価格の上昇を紹介する記事を配信した。

(中略)日本産の鶏卵は、香港で大歓迎されている。日本鶏卵協会によると、2022年の香港への輸出量は前年比30%増の2万8250トンだった。香港への輸出量は過去3年間で4.3倍になったという。香港への卵輸出は個数では約4億個で、日本から輸出される鶏卵の92%が香港向けだった。

日本の農林水産省が発表した22年における農林水産物及び食品の輸出実績によると、日本からの同年における輸出総額は1兆4148円で過去最高だった。国や地域別では、最も多かったのは中国大陸部向けで2783億円、第2位が香港向けで2086億円、第3位は米国向けで1939億円だった。

しかし輸出先で1人当たりの金額を見ると、中国大陸部向けは約197円で、香港向けは約2万8500円だ。香港人は世界の中でも、日本の食材や食品がとりわけ「だ〜い好き」な人々と言える。【2月19日 レコードチャイナ】
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1人当たりの「日本からの農林水産物及び食品輸出金額」が約2万8500円・・・・とんでもなく大きな数字です。
農林水産物及び食品の輸出を増やしていきたい日本としては香港は最上級のお客さまです。

日本国内の卵の値上がりが、この最上級のお客さまの“卵かけご飯ブーム”に水をささないか気がかりなところ。

【圧殺される「自由と民主」】
今は上記のような卵の話題が目立ちますが、香港に関してひと頃連日のように日本メディアも取り上げていたは「自由の民主」を求める香港の人々の抵抗と、中国本土の統制のもとでこの動きを圧殺しようとする当局とのせめぎあいでした。

今はその話題はすっかり影をひそめました。理由は・・・当局の圧殺が成功し、「自由の民主」を求める声がもはや聞こえなくなっているからでしょう。

「自由と民主」を求め、100万人以上の市民のデモが続いていた香港は、力の統治を強める中国が2020年6月に施「香港国家安全維持法」(国家安全法)を施行したことで激変しました。民主派の新聞は業務停止に追い込まれ、教育現場では愛国教育が始まりました。

もちろん、香港にはいわゆる“民主派”だけでなく、“親中派”の人々も存在し、格差など資本主義の負の側面が顕在化していた香港では中国式統治の方が豊かになると考える人たちも少なくないとも言われています。

いずれにしてもこの2年半あまりは、当初から予想されていたことではありますが、「一国二制度」という幻想、その幻想のもとでの「自由と民主」の脆弱さを香港の人々が思い知らされた「変貌」でした。

100万人以上の市民のデモ・・・それで香港当局を追い詰めれば社会が変わると考えたのは香港の人々の錯覚でした。むしろ外部の人間には「そんなことしても、結局は北京の決定次第。「天安門事件」の再現を覚悟するぐらいでなければ「中国主権の香港」という現実は変わらないだろう」というように見えていましたが。

そんな香港の「自由」に関する久しぶりの話題。

****香港ジョニー・トー監督がベルリン映画祭で香港・自由について発言、大陸ではアカウント封殺****
第73回ベルリン国際映画祭で審査員を務める香港の杜●峯(ジョニー・トー)監督(●は王へんに「其」)は16日、同地で臨んだ記者会見で、映画と権力や自由についての考えを披露した。発言の中には「香港」の語もあった。

その後、多くの中国大陸部住人が利用するミニブログ投稿サイトの微博(ウェイボー)で、杜監督の「語録」を紹介するアカウントが閲覧不能になった。杜監督が手掛けた作品は今後、中国大陸部では公開に不能になる可能性があると指摘する報道もある。

杜監督は記者からの質問に答えて「映画は永遠に前衛だと思う」「全体主義が出現して人々が自由を失った時、映画館はいつも、真っ先に影響を受ける。多くの地域でそうだった。(独裁者は)必ず、文化を停止させる」などと述べた。

杜監督は発言の途中で、「香港は」と言いかけてから、微笑みを浮かべて、「いや、申し訳ない。(香港だけではなく)世界において自由を勝ち取ろうとする国と人々は、映画を支持するべきだと思う。映画はあなたのために声を上げるからだ」と述べた。

中国大陸ではその後、多くの人が利用するミニブログ掲載サイトの微博で、杜監督の「語録」を紹介するアカウントが閲覧不能になった。「このアカウントは関連規定に違反しているとの通報があったため、現在は閲覧できません」と表示されたという。

中国大陸では、杜監督が第73回ベルリン国際映画祭に際して不正な発言をしたとして、今後は杜監督の9作品が(中国大陸では)上映されない可能性があると論じる記事も発表された。

同記事は杜監督について「大監督として自分の影響力を知るべきだ。しかも、自らの多くの映画は未公開だ。それらの作品は多くの人が心血を注いだものだ」などと主張した。【2月19日 レコードチャイナ】
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【民主派香港紙、蘋果日報(リンゴ日報)創業者である黎智英氏の裁判が示す香港の現在地】
映画以上に中国による自由の圧殺が進んでいるメディア界。
その象徴が廃刊に追い込まれた民主派香港紙、蘋果日報(リンゴ日報)創業者である黎智英氏の裁判です。

香港最高裁は香港当局の主張を退けイギリスの外国弁護士の参加を認める判断を示していましたが、香港当局は中国本土にお伺いを立て、この最高裁決定を覆してしまいました。

****中国、香港最高裁の判断覆す 国安法、外国弁護士許可巡り****
中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会は30日、香港国家安全維持法(国安法)違反事件の被告の弁護人を外国の弁護士が務めることができるかどうかを巡り、香港政府トップの行政長官の許可が必要だとの解釈を示し、香港最高裁の判断を事実上覆した。許可がない場合は、香港国家安全維持委員会の決定が必要だとした。

同法違反罪に問われた民主派香港紙、蘋果日報(リンゴ日報=廃刊)創業者、黎智英氏の裁判で、香港最高裁が香港当局の主張を退け英国の弁護士の参加を認める判断を示していた。司法の独立性が後退したとの懸念がさらに高まりそうだ。【2022年12月30日 共同】
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中国は、国家安全の問題では香港政府トップの行政長官らの判断の方が最高裁など司法判断より優先されるとの法解釈を示したということです。そして香港政府トップは中国指導部の判断に従います。
この一件の背景等を解説したのが下記記事。

****緊迫する「香港メディア王」裁判 中国が香港政府に与えた絶大な権限****
2020年6月に施行された「香港国家安全維持法」(国家安全法)の影に覆われた香港で、同法最大の「ターゲット」と言われる「メディア王」、黎智英(ジミー・ライ)被告をめぐる動きが白熱化している。
 
同年8月に「国家安全を損ねる海外勢力との共謀」容疑で逮捕された黎被告は、中国に対して批判的な論調で知られた新聞「アップルデイリー」(蘋果日報・りんご日報、廃刊)などを運営する「ネクスト・デジタル」(壱伝媒)の社主だった。

もともとアパレル業で大成功した同被告は熱烈な伝統的民主派支持者でもあり、複数の民主派政党の党外寄付のほとんどを黎被告の献金に頼ってきたといわれる。

逮捕後一時的な保釈期間を経て、21年初めからまた拘束されたままで、逮捕時73歳だった高齢からその健康状態を不安視する声もある中、ようやく昨年12月1日にその黎被告らネクスト・デジタル運営者の裁判が開廷することになっていた。

その直前になって、香港律政司(法務省)が同氏の英国人法廷弁護士ティム・オーウェン氏起用を不服とし、差し止めを求める訴えを起こした。

香港は主権返還以降も英国植民地時代のコモン・ロー制度を維持することが憲法にあたる「香港基本法」でうたわれており、伝統にのっとって、コモン・ロー制度下の国々(主に英連邦)の司法従事者を裁判官及び弁護士として起用することが認められている。

特に国家安全法の「ターゲット」黎氏の場合、その容疑に真っ向から立ち向かい、弁護を展開できる香港人弁護士はほぼいないともいわれ、英国王の法律顧問も務めるオーウェン氏起用は最良の選択肢といえた。

香港律政司はそれに対し、「中国語が理解できない人物や外国人には、国家安全法の制定意図が理解できない」と訴えた。

しかし、1審、最高法院、上訴法院はすべて「雇用は合法」と裁定。香港律政司は11月25日、最高裁判所にあたる終審法院に持ち込んだものの、終審法院も原審を支持してその訴えを棄却した。

4回(あるいは3回半ともいわれる)の敗訴にもかかわらず、どうしてもオーウェン弁護士起用を阻止したい李家超・行政長官は、外国人弁護士の起用に関する規定のない国家安全法の再解釈を、その解釈権を有する全国人民代表大会(全人代)に要請するという手段に出た。

中国に泣きついた香港行政長官
香港ではこれまで5回、香港基本法の法解釈が行われている。同法にはもともと起草委員会の延長で香港基本法委員会という、香港と中国の法律関係者で構成された諮問機関が存在し、そこで法解釈が必要な条文など具体的内容を明らかにした上で全人代(常務委)に解釈を求めるという手順が採られてきた。

だが、国家安全法にはそのような機関が存在せず、また李行政長官も「どの条文を再解釈するのか?」と問われて言葉を濁した。

それでも法解釈に持ち込んだことに、人々は「結局政府は司法で負けて中国政府に泣きついただけ」というイメージを持った。その後、裁判所は法解釈要請中であることを理由に裁判を23年9月まで延期することを決定した。

12月30日、休会中の全体会議に代わって全人代の常務委員会会議が開かれ、再解釈が行われた。結果は国家安全法の一部を書き換え、裁判所は案件が国家安全法に触れるものかどうかの判断をまず行政長官に仰ぎ、同長官が発行する「保証書」に従って裁判を進めるとすることになった。

さらに、もし裁判所がお伺いを立てなかった場合、行政長官ら政府高官と中国政府の香港事務担当者が構成する国家安全法委員会が直接介入し、案件の国家安全法との関連を判断する。加えて、その過程はすべて非公開とし、その決定に対する疑義も一切受け付けない。

これはつまり、中国政府は行政長官に新たな権限を付した上で、「良きに計らえ」と言ったに等しいことになる。「これで行政長官たちはやりたい放題。一旦目をつけられれば、ただの駐車違反が突然国家安全法違反と言われかねない」という不安の声も上がる。

相次ぐ中国政府関係者の司法介入発言
オーウェン弁護士が黎被告の法廷に立つことはもうないだろう。さらに親中派の中から、外国人弁護士だけではなく香港人弁護士も対象にし、「国家安全法案件弁護に立つことができる弁護士リスト」を作るべきだという主張も出はじめた。そして、李行政長官はこれに対して「国家安全法委員会」はこれを支持し、関連法規の改定を進めると述べた。

さらには1月に開かれた中国政府主導の会議で、国務院(内閣に相当)の香港マカオ事務責任者である夏宝竜・香港マカオ弁公室主任が「香港の現行法をすべて国家安全法に合わせて改定すべきだ」と発言。

香港の法体系をひっくり返してしまいかねないこの衝撃的な発言に対しても、香港律政司長官は「前向きに対応していく」と応じた。

こうした中国政府関係者による司法への介入発言は国家安全法施行後ずっと増えており、香港の司法界からは海外に脱出する人たちが激増している。

そんな中、主権返還後英国外務省がずっと続けてきた「香港問題半年報告」の最新報告が、1月12日に同国国会に提出された。その中でクレバリー外相は「中国が香港の自由を弾圧している」とし、李家超・行政長官に対して香港の権利と自由を尊重し、法治を守り、香港の独特性を守ることが中国自らの利益にあたるはずだと呼びかけた。

またこれと同時にその英国に黎被告の三男が姿を現し、国際弁護団とともに「黎被告は英国籍であり、英国はその人身保護を行う義務がある」としてスナク英首相との面談を要求した。【1月24日 ふるまいよしこ・フリーランスライター 毎日】
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【現在の香港の在り様を決めた1984年の英中共同声明】
現在の香港の状況は、1984年12月19日に、中国・イギリスが署名した英中共同声明で決まっていたと思えます。

****香港返還*****
香港返還、あるいは香港主権移譲は、1997年7月1日に、香港の主権がイギリスから中華人民共和国へ返還、移譲された出来事である。

背景
1842年の南京条約(第1次アヘン戦争の講和条約)によって、香港島が清朝からイギリスに割譲され、イギリスの永久領土となった。さらに、1860年の北京条約(第2次アヘン戦争(アロー戦争)の講和条約)によって、九龍半島の南端が割譲された。

その後、イギリス領となった2地域の緩衝地帯として新界が注目され、1898年の展拓香港界址専条によって、99年間の租借が決まった。以後、3地域はイギリスの統治下に置かれることとなった。

1941年に太平洋戦争が勃発し、イギリス植民地軍を放逐した日本軍が香港を占領したが、1945年の日本の降伏によりイギリスの植民地に復帰した。その後1950年にイギリスは前年建国された中華人民共和国を承認した。この後イギリスは中華民国ではなく中華人民共和国を返還、再譲渡先として扱うようになる。

1960年代には香港は水不足危機に陥り、中華人民共和国の東江から香港に送水するパイプライン(東深供水プロジェクト(中国語版))も築かれた。(中略)

二国間交渉
(中略)1982年9月には首相マーガレット・サッチャーが訪中し、ここに英中交渉が開始されることになった。

サッチャーは同年6月にフォークランド紛争でアルゼンチンに勝利して自信を深めていたが、鄧小平中央顧問委員会主任は「香港はフォークランドではないし、中国はアルゼンチンではない」と激しく応酬し、「港人治港」の要求で妥協せず、イギリスが交渉で応じない場合は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうることを示唆した。

当初イギリス側は租借期間が終了する新界のみの返還を検討していたものの、イギリスの永久領土である香港島や九龍半島の返還も求める猛烈な鄧小平に押されてサッチャーは折れた恰好となった。

1984年12月19日に、両国が署名した英中共同声明が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は中華人民共和国の特別行政区となることが明らかにされた。

共産党政府は鄧小平が提示した一国二制度(一国両制)をもとに、社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。

この発表は、中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国の支配を受けることを良しとしない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。【ウィキペディア】
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尻込みする男性閣僚を押し切ってフォークランドに軍隊を派遣した「鉄の女」サッチャーをもってしても・・・というところですが、おそらく当時は香港の経済的価値が問題とされていたのではないでしょうか。香港の人々の「自由と民主」という問題は今のように意識されていなかったのでは。イギリスの一般国民の関心もさほど大きくなかったのでは。
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