ポートフォリオの話
これは、長い小説の一部です。『黄色いさくらんぼ』で描いたエピソードを更に、深く、深く、追及している話の一つです。で、よくわからないなあと、お考えの方は、読むのを抜かしてください。
*******************
百合子は、美大出ではないので、美術家同士で、お茶のみをしたり、お酒を呑んだりしない。で、美術用語で、知らない語彙がたくさんある。その一つにポートフォリオというのがある。簡単に言ってしまうと版画集だ。パリでは、ヨーロッパじゅうの有名版画家13人を集めて、黒い箱入りの美麗な版画集を、工房長が、おつくりになった。日本だと、高価な日本画は、桐の箱に入っている。で、箱書きとういうのが重要だ。だけど、どうも、パリでは桐というものは使われておらず、したがって、樹木の木目などを隠す為に、黒い紙【ただし、皮革風な物】を張って、そこに金色の留め金や、蝶番をつけた、30cmX30cmx1.5cmぐらいの箱に、有名版画家13人の、28cmx28cmぐらいの版画を収めたものだった。
一人の作家が、7万円位で、20人ぐらいの顧客に売る。すると、ヨーロッパから集まった13人の版画家は、一人が、100万円は、かせげる事となる。
この値段設定は百合子特有の見て来たような嘘を言いの一つだが、大体は、当たっていると考えている。五万円の定価をつけるとしても、一人が、30人の顧客に売れば、150万円で、材料費や、集まる為の旅費などを徐いても、一人100万円の収入になる。ただ、一人ひとりの作家が、同じ版画を、300枚から400枚は、摺らないとならない。
~~~~~~~~~~~~~~~~
百合子がニューヨークへ来た目的は、ヘイター方式というカラフルな銅版画の世界最高峰の、作家や作品を見たい、そして、自分も同じレベルの物を作りたいと言うものだった。ところが、このヘイター方式というのは莫大な材料費を消耗するので、本当のことを言えば、パリでも、東京でも、ニューヨークでも、制作している人がいなかった。日本では、ユマニテという画廊で、一版多色摺りと、言う方式の版画を発表している有名作家がいるが、それは、ヘイター方式ではない。
というわけで、三回も大金をかけて、版画修業に出かけたのに、ヘイター方式を学ぶと言う意味では、無駄だったかもしれない。
しかし、百合子は、全く後悔をしていない。1998年のパリ、1999年の美大・プラットインスティテュート、2000年の、ロバートブラックバーン氏の工房の三つの体験は、百合子の生きる力を増幅させ、本人自体、そこまで生きることはできないであろうと思っていた、82歳を超えさせ、
股関節骨折(=大腿骨骨頭骨折)という大けがをしたのにも関わらず、生きていまの病院を退院するつもりになっている。
そして、子供たちは、エレベーター付きのマンションに引っ越ししなさいと言うのだが、家賃を支払うのを嫌がって、あの、自室までは、石段+階段を、190段上がらないと到達できない、雪の下2-3-7の家に帰るつもりになっている。
この骨折だけど単純に転んだわけではなくて、渡辺マキ夫人という女性の、小さな、だけど、残酷ないじめが原因であるし、それをすでにちゃんと書いているので、帰ったら、半障碍者となったその弱い体を、笑いのめされて、ご近所人間たちから、いろいろ、また、また意地悪をされる可能性がある。実動15軒、動く大人、26人だから、ある一人の女性(=ボス)の支配によって、結束しやすい世界なのである。
百合子は、自分からは他人に近寄って行かない。どうしてかというと、この鎌倉に引っ越してきた時期(=1984年)には、すでに、子供が成長をしていたので、子供のために、ご近所付き合いをする必要がない。で、一直線に、創作の世界に入ろうと思ったからだ。専業主婦でありながら、同時に創作者であると言う生活は無理なのだ。他人が自由自在に訪問をしてくるからだった。で、15軒の住民の中に、友達というものがいない。これが弱みになっている。
しかし、なぜ、パリの版画工房で制作されていた超・高級な版画集の話から、急に鎌倉雪ノ下へ飛んだかというと、
ニューヨークの1999年と2000年の体験こそ、百合子をものすごく強くしたという自覚があるからだ。その上、今回の骨折という、死ぬと、思うほどの痛みの体験、子供たちが実際に、百合子を死ぬだろうと判断した体験、そういうものがさらに強さを増したのだった。
そのニューヨークに知人も住まいもないのに、ぐ、ぐーんと一人で出かけたのはパリの体験による、自信があったからだ。一人で、十分外国で暮らせるという自信を、1998年のパリで得た。フランス語より、英語の方が自由に使える人間だから、ニューヨークなんて、軽いものだと、思って出かけている。
しかし、是だけは、予想外だったのは、最初に日本人と知り合う時に、常に、お互いに自己紹介をする仕組みがあり、その際に、正直に自分の条件を言ってしまう事で、相手からの嫉妬を招き、いじめられ始めることだった。白人は百合子にさしたる関心を示さない。アメリカは、多民族国家であり、日本人だからと言って、パールハーバー時代ほど、いじめられるわけでもない。特に現代アート系・版画家なんて、教養が高い方だから、外人からは、さしていじめられない。
ただ、日本での、1997年までの、経験とは全く違っていたのは、三か月しかビザがないと言う形だったことだ。
で、自分の仕事の邪魔をする、日本人女性とは喧嘩をして、常に勝ってしまう事だった。言葉で、現在の相手と、自分が置かれている状況を説明するだけで、圧倒的に勝ってしまうのだった。
驚いた。本当に驚いた。子供のころから喧嘩などしたことが無かった。妹との間が、8歳離れているので、兄弟げんかなどしたことが無かったし、学校では、一年の時から、とびぬけて勉強の上で一番だったので、喧嘩を売られたことなどなかった。そして、10歳から住んだ日吉という街の、まあ、上品さ、当時は、一流校とみなされていた横浜国立大学附属中学校の同級生の上品さ、次に進学したお茶大付属高校の同級生の上品さ、その次に進学した国際キリスト教大学の友人たちの上品さ、そういうものに囲まれてきていたので、喧嘩などする必要が無かったのだ。
ところが、1999年とか、2000年までに、ニューヨークに来ていた日本人女性たちは、非常に勝気だった。中に一部上場企業(今でいうプライム企業)の社長のお嬢様がいて、その人だけは、勝気ではなく、百合子に嫉妬もしなかったが、他の日本人女性たちは、みんな勝ち気で、百合子に嫉妬をした。そうなのだ。身の上話など、しなければよかったのだ。だが、百合子は、そのころまでは、全くの・ねんね・さん・で・あり、性善説の人であり、他人を警戒する意識がなかった。で、正直に全部を言うのだった。
で、日本在住の友人だと、それほど、嫉妬しない。自分は東大卒で、主人も東大卒です。子供も東大卒です。なんていう人だと、「へえー。百合子ちゃんって、版画家になったんですって。でも、それって、司法試験を通らなくても、なれるわよね」というぐらいだ。
ところが、ニューヨークに来ている二十代から、四十代までの、日本人女性というのは、激しい嫉妬を示す。どうしてかというと彼女たちは、日本で何らかの挫折を経験しているのだった。で、ニューヨークという輝く都会を舞台にして、一発逆転の出世をして、日本にいる、昔自分を軽蔑した人間を見返してやろうと言う強い意志を持って居るのだった。
挫折の内、もっとも大きいのは、失恋だろうと思う。
で、一発逆転で、勝利するためには、日本で、自分を捨てた男より、上等な男と、ニューヨークで結婚することだ。白人で、背が高くて、収入も多い、パイロットをしている男性などと、結婚を出来たら、それが、終点である。
アメリカには、パーティ文化があって、男女交際が自由だと、推察してやって来る。だけど、それが、実際にはそうでもない。パーティだって、優秀な男性が、出席する同じパーティに出席するためには、それなりの階層に入っていないとだめなのだ。招かれないし、出席できない。比較すると、日本で就活で一流企業に入り、社内恋愛で、優秀な男性を捕まえる方が容易だと、思うほどだった。
もう一つの出世の道があって、それが、草間彌生とか、オノヨーコになる事だった。
しかし、彼女たちは、草間を全く知らないで、ニューヨークに来ている。
まず、オノヨーコは、明治期に、華族になった家の出身である。草間は実家が大金持ちだと言う点だ。戦後食糧難時代に、カボチャの種を売って、大儲けをした種苗家が実家にあたる。彼女は、自分は強迫神経症で、精神病院で暮らしているなどとテレビ特番内で言っているが、実際に長電話を交わした、百合子に言わせると、冷静も冷静な普通人で、かつ、大勢の使用人を自由自在に使い切る、ビジネスウーマンでもある。
また、基本的には、美的才能が有って、それを京都芸大時代に、自覚していて、自信満々だったと言う点もある。
それに比較して、百合子が、知り合った1999年の美大在学中や、下宿の日本人女性たちも、2000年のNY一古い版画工房で、しりあった日本人女性たちも、実家がオノヨーコや、草間彌生ほど、裕福だとは見えなかった。
ただ、一人だけ、40代だけど、お顔もきれいで、性格もよくて、日本で美大も卒業をしている筈だと言う女性、仮名・桜子さんがいた。
しかし白人とは結婚をして居らず、貧乏暮らしをしていた。
百合子は彼女を見ながら、「あなたねえ。時代の流行に毒されましたね。日本にいてサラリーマンと結婚をして夫の給料で画家をすることを、恥だと思う、20代を送ったのでしょう。‥…ちなみに2024年の現在、この人、桜子さんは、67歳である。
この2000年にはまだ、その死を百合子の方が、知らなかったが、有名画廊のオーナー、山口みつ子さん(2010年1月死去)も、瓜南直子さん(日本画家、2012年6月死去)も、時代のメディアがもてはやす風潮に毒された人の一人だった。経済的に自立しないといけない。結婚もお見合い結婚などもってのほかです‥・・・というそういう風潮に毒されて、貧乏になった人たちだった。
さて、この桜子さんだが、日本での、失恋等の挫折があったかどうかを知らない。だけど、純真で不器用で、見ていると、かわいそうで、かわいそうで、いたたまれなかった。
ところで、この桜子さんを常に家来として使っていた図太い女性、ミミ【仮名】がいた。ここで、やっとこの章の冒頭に戻る。
いや、長い挿入が入っていて、申し訳なかったが、
2000年の10月に、ロバート・ブラックバーン氏のアトリエで、突然、ミミが、「ポートフォリオ、ポートフォリオ」と言い出し、大騒ぎを始めたのだった。
その語彙は、百合子をいじめる為の語彙だった。版画集を作りたいと突然言い出した。それに百合子を入れないことが、効果的ないじめにあたると思って、言い始めた計画だった。
だが、ミミは、版画工房に来ている時間が短いので、百合子の制作態度も知らず、百合子の作品も見ていないので、百合子の実態を、全く知らないまま、ただ、ただ、遺産で三か月ニューヨークへ版画修業に来ている事。子供は二人いて、すでに、大学を卒業し、社会人である事、夫は日本社会の繁栄を築いていた、自動車会社の研究員である事などを、聞いて、激しく嫉妬をして、自分の方が上であることを示したいと思っていて、
「ポートフォリオ」という語彙を出してきたのだった。
この2000年にはまだそれを知らなかったが、ミミは、貧しいペルー人の版画家ホアレスを死に至らしめた、恐ろしい女性である。これは、小説として書いているニューヨーク物の一部分なので、ミミがホアレスを飢え死にに、至らしめた、すごい女性であることはすでに書いている。
わら半紙でお弁当を包む、貧しい版画家・・・・26年前の彼を今思い出している
さて、本日は、ミミがどうしてあれほど、勝気なのかの分析に入りたい。これから先は、例の百合子特有の見てきた様な嘘を言いの一つだが当たらずとも言えず、遠からずだと思っている。
ミミの父親は、あまり高収入を得られなかったそうである。(つまり、大卒ではない可能性が高い)。しかし、母親が賢明な人で、良く働いたので・・・・・ミミは、四年制大学を卒業している。でも、絶対に卒業大学名を言わないので、関東圏の国立大学である可能性が高い。栃木大学、埼玉大学、群馬大学、茨城大学の順で、入学し卒業した可能性が高い。学部は、教育学部(または、学芸学部で・・・・・美術教師を養成する学部)である可能性もあるし、他の学部である可能性もある。高校卒までは、偏差値的に優等生だった可能性がある。
で、時代の風潮が桜子さんに、不利な人生を強いていると言っているが、ミミも当然、時代の風潮の影響を受けている。
1970年代から、1980年代にかけて、日本は、好景気に沸き、私企業が、強い利益を上げており、一部上場企業に勤務することが、勝ち組になったという証明だった。で、教師という職業が、嫌われていた時代だった。で、・で・も・し・か・先生という言葉が社会を泳いでいた。先生に・で・・もなるか。または、先生に・し・か・なれなかったと言う自嘲を込めた、語彙である。
ミミは社会の風潮に敏感だから、先生は好まない。で、東京の一流企業に努めたい。で、四年制大卒の女性の勤務先職種として、出版社に勤務するのが最も勝ち組とされている。今は、紙の出版が不況なので、変わったかもしれないが、長らくそうだったのだ。で、ミミは出版社を目指したと推察される。
その会社名だが、マガジンハウス社あたりではないだろうか? これも見てきた様な嘘を言いの一つで、ミミの口から、日本での就職先が漏れ出たことはない。
でも、どうしてそう考えるかというと、マガジンハウス社って、ものすごく商売が上手だと、百合子の方が、判断をしているからだ。戦後出発した出版社としては、もうけ額、一番ではないだろうか? 最初は、男性向け雑誌平凡が当たっていたのだが、それの人気が衰えると、アンアンという女性向け雑誌を出した。これは大ヒットをした模様である。
ところで、女性向け雑誌というのは、女性たちに、流行の服や靴、などを買わせることを目的としている。アンアンは、文章が充実している方だと思うけれど、
社会全体の、女性たちを指導する役目を持って居る。それは、家庭画報とか婦人画報という高額商品を宣伝する雑誌と、同じである。どういう方向でと言えば、ものを売る企業が勝つ様に、誘導すると言う役目を持って居る。発行部数を詳細に調べると婦人公論もすでに負けているのではないだろうか?
ともかく、商売上手である。
で、ミミの日本での就職先が、マガジンハウス社ではないかと、なぜ、考えるかというと、彼女が、大変、商売上手だと言えるからだ。
どういうことかというと、2000年の事だが、パリの骨董市で、買ってきた古いタイプの鍵、200個を、そのまま版画用画題としているのだった。
まず、最初に、3cm×6cmぐらいのサイズに切った亜鉛版を数十枚、用意する。その上には、腐食液・硝酸薄溶液に抵抗する被膜がすでに塗ってあり、かつ、乾かしてある。その上にそっと実物のカギを置いて、鉄筆で、周辺をなぞる。頭の部分のデザインは、鉄筆で、手書きで、実物を真似しながら加える。
百合子はそれを見ながら、内心でおかしくてならなかった。「あら、いやだ。幼稚園でやっている学習と同じですね」と思って。または、認知症、や、脳溢血を患ったご老人が、リハビリの一つとして、熱心に取り組んでいる塗り絵学習と似ていた。
しかし、ミミは目ざとく百合子の疑惑と嘲笑の表情を見つけたらしくて、突然に大演説を始めるのだった。「鍵というものは、こういう概念を持って居て、どういう風に重要であり、人間社会の中で、こういう役目を果たしており‥・・・」などと、ずっと、演説が続くのだった。
百合子は内心で、おかしくてたまらないながら、こういう風に考えた。「あら、いやだ。あなたの言っている事って、女性向け雑誌の編集者の根底にあるものと全く同じですね。もしかして、あなたって、日本にいる時に、アンアンの編集者だったりして」と。
東京で働いている女性だって、毎週渋谷や、銀座でショッピングをするわけでもない。ウィンドーショッピングをする余裕もない人も多いだろう。
そういう人たちに向けて、「今のあなたなら、こういう服を買ったらいいのですよ」と、指導をして行く。そういう風に読者を一段と低く見る姿勢。
それが、ミミには横溢しており、ミミは、版画工房を、牛耳っていたのだった。自分以外の人間を桜子さんを含めて、目下とみていた。それが、版画工房がつぶれた原因であり、ホアレスの死を招いた本当の原因だった。
これは、小説のほんの一部です。だが、【黄色いさくらんぼ】をすでにお読みになっている方だと、マガジンハウス社に、ミミが務めていた可能性があるなどと言う話は、初耳の話でしょう。だけど、これは、全く、主人公、百合子の推察の範囲を出て居ません。だから、真実かどうかはわかりません。ただ、ミミが自分以外の、版画工房の会員たちを、バカに仕切っていたのは事実です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます