銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

藤田真央と、リッカルドシャイーの縁、そして、井口愛子 → 野島稔 → 藤田真央の・・・愛の連携劇

2023-08-07 00:08:09 | 音楽
 今は、8日の、午前9時から、12時まで、補筆をしました。どうか、よろしく。
 
副題1、『藤田真央と、リッカルド・シャイーの縁』
 
 今、ルツェルン音楽祭2022年8月13日にKKLホールで、行われたリッカルドシャイー指揮、藤田真央演奏のラフマニノフピアノ協奏曲第二番をNHK ETVで聞いています。
 藤田真央とシャイーは、その五か月前の三月に初めて顔合わせをして、シャイーが、真央にほれ込んで、シャイーの方からルツェルン音楽祭への招待が、おこなわれ、たった五か月の準備で、この演奏会が、実現をしました。それが、二重三重に、劇的な裏話を含んでいるのでした。シャイーは、単純に、ゲォルギエフの代役を務めて、その日に初めて真央と出会ったそうです。その代役ですが、ゲオルギエフが病気にでもなったのかしら?と、いぶかしく思った私は、ゲオルギエフの項目を引きました。ググりました。
 すると、病気が原因ではなくて、ウクライナ侵攻と関係があるのでした。ゲオルギエフは、昔からプーチンと仲が良かったそうです。で、2月にウクライナ侵攻が始まっても、プーチンに対して批判的な発言をしないのだそうです。それを嫌がった、有名な劇場での予約がほとんどキャンセルになったそうです。藤田真央は、したがって、ウクライナ侵攻のおかげで、シャイーに認められたという結果になったのでした。
 
 NHKは、そのゲォルギエフの、急な交代劇が、政治によるものだとは、言いませんでした。だから、病気による休演だと思っていた私は、google 検索の結果にひどく驚いたのです。しかし、ゲオルギエフが、沈黙しているのは、仕方がない事でしょう。ロシアと、プーチンは、秘密警察を握っています。ゲォルギエフは、有名人であり、影響力が強いだけに、何かを発言して、プーチンににらまれたら、命も危ない状況があるのだと、思います。
 
 藤田真央は、2022年の、初めに恩師、野島稔を失っています。私は子供のいなかった野島稔が、真央ちゃんを見守っていて、彼に、いろいろな祝福を天から、送っていると考えて居ます。(蛇足1へ)今日聞いたその演奏会と同じ2022年に、ヴェルビエ音楽祭での、5夜の、モーツァルトのソナタ演奏会を始め、カーネギーホールでの、ホール側主催の演奏会、そして、ルツェルン音楽祭での、2023年9月4日の独奏会と、目白押しです。
 
 野島稔は、同じく子供のいなかった井口愛子に、深く、深く、愛されていました。そして、井口愛子・野島稔・藤田真央と、日本のピアノ演奏の、良き潮流が、今、花開いているのです。(蛇足2へ)ああ、奇縁、.でも、天の采配の必然だったのでしょう。
 
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副題2,『ラフマニノフのピアノ協奏曲、第二番は、私にとって、人生すべての段階において、二番目の愛・聴・曲である。雲居佐和子先生(芸大出身)の夏休みの宿題が、始まりだった』
 
 私は、1955年四月に、横浜国立大学付属中学に入学します。本牧・立野の丘に、校舎があったそのころは、横浜一有名な、中学でした。でね、音楽は、芸大卒の先生が、連続して教えていらっしゃったのでした。
 
 そのころの中学生って結構大人であり、かつ、民主主義教育の結果、先生方をからかう、数え歌を作っていました。私は今、80歳で、1955年には、12歳か、13歳でした。で、最も若い先生も大学卒業後に、就職なさっておられるわけで、22歳以上ですから、現在、90歳を超えておられると思います。
 で、皆さん、亡くなっていると思うので、それを公開させてくださいませ。
 いちー、は、石井のがんもどき(先生は、ニキビの跡が、40歳でも残っている様な皮膚をした方だったからです)
に-は、西川うまっつら(西川先生は、教育大学≒筑波大学の卒業生で、中学の教師になるのは、もったいない方だったそうです。でも、原弘道・校長先生が、三顧の礼を尽くして、お迎えしていた優秀な数学教師でした。うまっつらなどと、呼ぶのは失礼極まりないのですが、清潔な性格の方だったので、生徒たちは、おそれを知らなかったのでした。この先生が、1955年に入試に、二進法を出されたので、私だけが解くことが出来て、入学式総代を務めることになりました。感謝してもしきれない先生です。のちに神奈川県立広陵高校へ転職されました。尚、英語の先生、小丸先生も感謝しています。大変充実した授業をなさる方で、私が今でも外人に、発音がきれいですねと、言われるのは小丸先生のおかげです。
 で、三(さん)は、佐藤の禿げ頭 (年齢が、高かったのです。でも、国語の先生で、私の作文をガリ版で摺ってみんな=100人に読む様に勧めてくださいました。恩は深いです。
 四(しー)は、白井の白井権八・・・・いや、白井という名字の先生に、歌舞伎の色悪で、有名な、白井権八を充てるなどと歌舞伎通の生徒が居たのですね。原三渓のお孫さんなども、通学していたと思いますので、今の中学生とは、比較にならないほど、教養は深かったのです。
 五つ、井田倉、鬼面冠者・・・・いたくら先生は、赤い皮膚をしておられて、かつ脂性だったのです。それに生徒の親が気に入らないと、ホームルームで、その子だけをとりあげてを、ねっちこねっちこ、いじめられるという、怖いところもありました。だから、鬼面冠者などと、言う恐ろしいあだ名がついていたのです。いやあ、先輩方の感性おそるべし・・・・
 で、数え歌の6~8は、抜かします。
 そして、そして、音楽の先生、雲居先生です。
 九つ、雲居の天平美人で、・・・・・その数え歌は終わるのでした。
 雲居先生は肌の色が真っ白でした。そして、ふっくらとした、お顔でした。だから、日本史の教科書に出て来る天平美人にそっくりだったのです。
 そして、体格が性格に通じるのか、とてもやさしい方でした。
 
 この先生が、夏休みの宿題として、クラシック音楽を聴いて、好きな曲を選び、感想文を書いて居らっしゃいと、言うのを出されました。1955年って、映画ジャイアンツもまだできていないころで、ロックとか、カントリーなどというのは、音楽の中には入らないと思われていた時代です。また、歌唱にかんしては、まだ、よいレコードが手に入らなかったのか? NHKは、クラシック音楽の放送に関して器楽曲を専門に流していました。
 で、実は、雲居先生は、「古典派の作曲家の作品を聴いて」という制限をかけておられたそうです。
 でもまだ、13歳だった私は、古典派が、誰を意味するのかを知りませんでした。バッハとか、ハイドンを指すのですが、それを頭に入れていませんでした。
 
 でね。・・・・・ものすごい長時間がかかる宿題だわ。でも、難しい課題をこなしてこそ、自分の勉強になるし、私は、、そういう難しい課題が好きなのです・・・・・と、考えて、取り組み始めました。1950年代のNHKラジオは、AKとBKがあってBKに主にクラシック音楽番組があって、一日に、四時間は、クラシック音楽を聴いて過ごしました。聴けば聴くほど、楽になるし、明瞭に好きな曲と、嫌いな曲が分かれて来て、その宿題は、大変楽しいものとなりました。全部で、1500時間以上は、聴いたと思います。
 
 そして二曲選びました。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番と、シューベルトの即興曲、142番の第三曲アンダンテを、選びました。シューベルトの即興曲とはだいたい8曲があり、それは、結構独立していて、私は、その後、全八曲を好きになるのです。だが、全八曲の感想文は書けません。かといって、142の三アンダンテは、ちょっと、聞きには単純なのです。で、感想文が「とてもやさしい感じで、心が洗われます」と、言う風に単純になるのでした。で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番の方を宿題の課題曲として選びました。
 
 それを提出するときに、新堀真知子さんが、近づいて来て、『何を書いたの?』と、いう感じでのぞき込んできました。そして、大きな声で、「ああら、いやだ。この子ったら、ロマン派を選んでいるわ」と、言いました。
 
 新堀真知子さんは、当時、日吉に住んでいて、毎日私の家に迎えに来てくれて、一緒に一時間かけて、東横線、市電と乗り継いで、学校へ通う仲でした。しかも、木曜日には、ファミリエルコーラスというのがそちらのお宅で、夜に、開催されていて、私は、そこにも、参加をしていました。だから、学校一深い、友人だと思っているのに、そんな、からかいを受けて、ショックでした。
 
 しかし、彼女は、のちに芸大楽理科を卒業して、ヨーロッパで、フライブルク大学(ドイツ)の音楽大学の教授になりました。
 だから、中学一年生にして、音楽の知識は、抜群に豊富だったのです。
 
 そして、実は、彼女は、一方で、大変恵まれた、幸福な人でありながら、一方で、不幸な人だったのでした。母親がおばさんだったからです。で、その母親=おばさんという人は、意地悪ではありません。ただ、ものすごく強い意志を持って、長女である真知子さんを、クラシック界の有名なピアニストにしようと思っていました。
 日吉あたりの一戸建てに住んでいる人は、どこの家でも、子供が一流の人物になる事を願っています。
 でも、新堀さんのお母さん(のちに新堀智朝という天台宗のお坊さんにもなる方だが)は、
 大きな信念をもって、敗戦国日本で、一流の人物になるのには、これからは、芸術の世界であり、クラシック音楽でなら、ヨーロッパに伍していかれると、思っていた人でした。
 先祖に陸奥宗光か、小村寿太郎級の外交官がいるのではないかと思います。だから、長女に託す希望も遠大だったのです。
 
 それはいいのですが、お母さんには、「芸大が、一番」という思いがあったのです。しかし、桐朋学園を創始した井口基成に真知子さんは、一時期、習っていたので、芸大付属高校に入学するのが不利だと、言う事が噂として、判ってきたのでした。そのころが、中一だったのではないかしら。芸大付属高校を受験するつもりだなどとは、友達であるはずの私にも言えないでしょう。でも、クラシック音楽の世界にある、汚いものにすでに、触れてしまって、真知子さンは、相当に、傷ついていたのでしt。
 
 もちろん、お母さんは、本当のお子さんである7歳年下の妹さんの時代には、考えを変えて、都立高校に通わせて、その後、直接にヨーロッパの音大に入れます。そして、お姉さんよりもずっと楽に、こちらもヨーロッパの有名音大の教授になりました。二人のお父さんは、東大卒です。だから、二人とも頭は抜群にいいのでした。
 
 今ね、この桐朋と、芸大の確執を書いた部分を読みたくて、読みかけの本を探したら、見つかりません。
 
 いろいろなものが盗まれていますが、データが必要なものが盗まれるのは、しょっちゅうです。深い怒りに、狩られています。それなのに、本日6日も二階の裸電球(オレンジ色)を、カーテンを開けて、見せつけて、威圧してきた平木伸明さんと、同じくオレンジ色の玄関灯をつけて脅かしてきた、前田清子さんは、こういう泥棒ちゃんと、仲良しの一味なのです。でも、私のブログを丁寧には、読んでいないらしくて、泥棒ちゃんの、見方をして、脅かし続けてきているのでした。
 
今、読みかけの本とは、
『鍵盤の天皇 井口基成とその血族』(中丸美繪、中央公論新社)です。それを、30分もかけて、探したらありませんでした。で、7日、横浜駅西口の、有隣堂で探したら、「売価は3000円で、今は、在庫がない」と、言う話でした。困るねえ。泥棒は、私のライター生活を邪魔するために、これから、これを利用するはずだと、思う資料を盗んでいくのです。何冊も書物が盗まれています。
 
 鍵を持って居る泥棒は、四種類います。警察が、二種類いて、ご近所様が二軒います。ただ、この書物が盗まれたのがいつだったかは、気が付いたのが、本日(2023年8月7日)ですが、その前の三か月、頁を開いて居ないので、特定ができません。
 
 ともかく、新堀真知子さんは、30歳ごろまで、散々な苦労をします。桐朋と芸大の対立があった時代だからです。そして、「お母さん、私もう、努力をするのはいやよ」と言えない立場だから、大変だったのでしょう。
 
 亡くなってしまった、真知子さんの実の母の妹だったのです。戦時中、と、戦後は、女性も大勢亡くなったのですよ。栄養状態が悪かったり、まだ、抗生物質などが、流通していなかったからです。男性は、むろん多数戦死しました。だから、残されたパートナーが、亡くなったパートナーのきょうだいと、結婚するケースは、多かったのでした。
 
 ただ、ただ、お母さんの、固い決意が、重荷として、真知子さんにのしかかっていたのでしょう。
それが、こと音楽に関しては、自分より弱い立場の、私に向かって、爆発したのでした。
 楽しそうに見えた、ファミリエルコーラスも、すべて、真知子さんの、音楽性を涵養するためだったのです。しかし、その準備のために伴奏用楽譜を、見なければならない真知子さんは、本当は、「お母さん、あれ、もう、やめて。負担だから」と、言いたかったのかもしれません。
 
 私自身が完璧な親だったとは言えません。また、私の親が完璧な親だったとも言えません。ただ、完璧なお母さまみたいに見えた。新堀智朝さんが、思いがけずもでしょうが、長期にわたって、真知子さんにストレスを与えていたのでした。優しくて、上品な方でしたよ。でも、真知子さんにとっては、反抗ができない母だったのです。「井口先生を見つけてきたのも、・・おかあちゃま・・(時にはおかあたまと、幼児語で、呼んでいた・・・・・。エリートで、優秀そのものだったお母さん。に、その次は、井口先生と別れて、芸大系の先生につきなさいと、命令されたのでしょう。真知子さんは、おかあ・たま・の、希望通り、動いていたのです。
 
 私は、「わーい、間違えている。ロマン派の作曲家なんて選んじゃって」という真知子さんに、ひどく傷つきながらも、あまりに長時間かけた、レポートを引っ込めるのが、つらくてたまりませんでした。1500時間以上かけて選んだラフマニノフの、ピアノ協奏曲二番です。で、その騒ぎの五分後ぐらいに、入室していらっしゃった、雲居先生に、恐る恐るレポートを提出し、「先生、古典派が、なんであるかを知らなかったので、間違えちゃいました」と、言いました。すると先生は、表題の、『ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番』というものをちらっとご覧になった後で、「ああ、いいわよ」とおっしゃいました。にっこりと笑いながら。
 
 そうです。ふっくらとして色白な、天平美人そのものの笑顔で、にっこりと笑ってくださったのです。
 その時に、私は雲居先生の、愛のバリアーに包まれたと思いました。前から知っていました。雲居先生が、目立たない形ですが、かわいがってくださっているのを、以前からひそかに知っていました。だが、本当に明瞭に愛されていると、感じたのは1955年の9月の第一週の、間違えた宿題を、提出した日です。
 
 母からも与えられた事のない、深い、深い愛というもの・・・・・それを、その日も、空気の様に感じました。実は恥ずかしがって、人前では一人では、歌えないものの、天与の美声を持って居ると、私は、いろいろな人から、言われていて、それは、集団の中では、発揮され、先生には届いていたのです。「ああ、いいわよ」という短いお答えの中に、「本当にかわいがられている」と言う事を感じました。ありがたいことでした。
 
 新堀真知子さんには、このこと以外で、いじめられたことは、有りません。そして、彼女とは忘れがたい思い出がほかにもあります。
 
 真知子さんが、本当のお母さん(もう、なくなっていて、リアルな世界では、絶対に会えないのに、)に、抽象的な世界では、会いたがっていた事を、証明するエピソードです。
 
 ある日、真知子さんと、二人だけで、彼女の勉強部屋(四畳半の洋室だった)にいた時に、真知子さんが、机の引き出しから、白い紙に包まれたルビーを取り出しました。色は薄かったです。しかし大きさは、10カラット以上はありました。豪華な大きさでした。彼女は、私に声を潜めて、「これ、お母さんにもらったの」と言いました。その時に、『なんで声を潜めるのかしら?』と思いました。お母さんは、4mぐらい離れた居間にいました。間にドアがありました。ただ、『なんで、これを私に見せることを、秘密にしないといけないの?』とは思いました。
 
 今、思うと、当時の、私は、まだ鈍感な人でした。真知子さんには、お母さんが二人いて、今のお母さんは、本当のお母さんの妹であると、知ったのは、50歳を過ぎてからだったと思います。ドイツとの、航空便(薄いレターペーパーに手書きで、文字を書いた時代だった手紙)のやり取りで、初めて知ったのです。
 
 それほどに、真知子さんのお母さんとは、完璧な人でした。育児の上での、一大方針として、姉から、預かった娘を、ヨーロッパ人に伍していかれる一流の演奏家にするのだという強い意志が、ある人でした。そして、それが真知子さんに、言うに言われぬストレスを与えていたのでした。
 
 戦時中の、金属類供出・命令によってでしょう。ルビーは、裸でした。指輪としてのわっか(周りの金属)がない、裸の石でした。「これねえ。亡くなった方の、母からの形見なの」と、でも、私に、言ってくれれば、事情は、正しく分かったでしょう。彼女は、ただ「母からもらったの」といった以外は、何も説明をしなかったのです。ドアがあり、絶対に聞こえないはずの、今のおかあ・たま・に、遠慮をしているのでした。
 
(蛇足1へ)
 私は、一人のスターとして、藤田真央が、現れる以前から、野島稔が大好きでした。TVではない、生の演奏会も、4回は、行っています。桐朋高校在学中に、日本音楽コンクールに一位になった野島稔は、日曜日のN響アワーで、1970年代には、ベートーヴェンなどをよく弾いていたのです。当時は太っていて、汗を前後左右に飛び散らせながら、熱演をしていました。私より三歳か四歳年下です。東京音大の学長になるなどと、言う人生が、野島稔の最終局面だなんて、とても不思議なこと・・・・・というほどに、純粋な音楽の使途です。政治的な野心など無い人です。たまたま、東京音大の前学長に、学生から「弓の販売に関して先生には疑惑がある」と、言う訴えが起きて、新聞沙汰にまで、いたって辞任となり、次期学長を選挙で決めることになって、野島稔が選ばれたのです。が、不思議なことに野島学長の時代に、東京音大は大発展をします。結果、名学長となったのでした。不思議、不思議。無欲の人への天からの贈り物だったでしょう。
 新堀真知子さんのお母さんは、芸大一辺倒でしたが、4歳年下の野島稔の両親は、井口愛子先生を、離れず、従って、野島は、大学は桐朋を卒業しています。
 井口家で、ピアノを習い始めた真知子さんは、結局、芸大高校が不合格だったうえに、芸大の方も、二度不合格になっています。桐朋と芸大の確執の結果でしょう。でも、1950年代の新堀智朝(お母さま)さんにとっては、国立でも武蔵野でも桐朋でも、駄目だったのです。絶対に芸大でなければならないと、言う思いがあったのです。
 だから、芸大に、三度挑戦しています。一方野島稔は、大学入学に関して、すなおなコースを選んでいます。真知子さんのお母さんが、実際には、叔母だったので、長女を育てるにあたって、気張りすぎていたのです。真知子さんは、フライブルクで、実質婚をしていたのですが、それを、公開することはありませんでした。それも智朝さんに対する遠慮だった様な気がします。
 
 我が家からは、5分ぐらい日吉駅から遠いところに真知子さん住んでいて、迎えに来た彼女と、毎朝、一緒に東横線と、横浜市電を使って登校していました。しかし、「遠いところにレッスンに行くので」と先生に断って、真知子さんは毎日早退していたので、下校時は、私は、一人でした。その頃の話は、聞いたことがないので(毎週木曜日の夜、コーラスを彼女の家で、行っていたが、ピアノレッスンの感想は、その雑談時にも、聞いたことがありません)、あまり楽しくなったのではないかと、推察しています。一方、野島稔は、帰宅時に、たくさんの頂き物の菓子折りを「持って帰りなさい」と、言われて、かわいがられていたのでした。京浜急行新大津駅から、横須賀線鎌倉駅までは、小学生では、大変な遠路だったと思いますが、同じころ、真知子さんは、東京へ通っていたのです。
 
(蛇足2へ)
本日藤田真央に関する、ねっと情報を見ていて、野島先生との出会いに、ついて、藤田真央自身が語っている部分が、文字化としては、あまりでてきていないので、記憶に基づいて語りたいと思います。
 
詳しく言うと、小学校時代から、藤田真央と、野島稔は、知り合っているのです。各種コンクールの審査員として。
で、東京音大のエクサレント(特別奨学生)として選ばれたのですが、入学後、どの先生につくかを決める、演奏会で、真央は、失敗してしまったそうです。
 
 これって、楽天家の藤田真央が、時には、タカを、くくってしまう、そういう現象のあらわれでしょう。そうなのです。あまり、苦労をしていない彼は、「なんとか、なるさ。僕って、すでに、有名人だもの。小学生時代から演奏会をしているのだからね」と、言う心理があったと、思います。そういう油断とか、なめてしまう点を含めて、こせこせとは、評価しなかった、野島稔は、全教授がしかめっ面をする中で、「僕が引き受けます」とおっしゃったそうです。ほかの先生は、「うわ、この子、調子に乗って、天狗になっている。これは、指導が難しいですね」と、考えた中で、野島さんだけは、『確かに、指導は、難しいかもしれないけれど、この子には、よいところがある』と、信じて、「引き受けます」とおっしゃったのです。それ以来の愛ある、師弟関係です。

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