銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

立花隆の恥を、曝していると、米軍のジェット機が、頭上を威嚇演習して通ったが、なるほどと、納得する△

2015-11-25 12:30:48 | 政治

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これは、エフェソスから、発掘されたアルテミス女神像です。地元に昔からあった、豊ぎょうの女神と、ギリシャローマ文化が合体した、女神像です。 

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 ところで、本日は、何故、長谷川智恵子とか、栗田玲子を、呼び捨て(敬称無し)で、文章を書いたかと言う事に、こだわっていきたいのですが、その話をする前に、立花隆と、トルコの遺跡で出会った話をさせてくださいませ。これは、政治的に言えば、小さい話題です。しかし、私がモノを書く場合は、小さい話題に、こだわった方がいいのです。たとえば、今ニュースの焦点となっているロシア機のトルコ(?)による爆撃なんていう話題に触れてごらんなさい。大変な方向へ進んでしまいかねません。だから、判っていることがあっても、触れません。で、小さい話(=プチ有名人に敬称を付けるかどうか)に、こだわって、以下の一文を書いていきます。なお、この文章も、総タイトルを変形させていきます。24日の午前二時から、夜の11時半までは、『私は立花隆に、エフェソスで1980年に出会ったが、その頃、彼は贖罪の旅に出て居たのだろうか?』としておりました。しかし、25日の夜11時半に、上記のものと変更いたしました。

副題1、『私は、実は、非常に体が弱いのだが、それには、しかとした原因があって』

 私は、24日は、朝9時台から外出をして、夜の7時まで、ほぼ、10時間外へいました。さすがに、73歳です。疲労が激しくて、7時半から10時半まで夕食も食べずに爆睡をしました。40歳代は、油絵の大作(公募団体展や、コンクールに出すためのモノで、100号から150号まで)を激しく描いていたので、疲労困憊していて、夜の8時にばタンキューっと寝たりしたものです。この油絵ですが、描き方によって、疲労をするか疲労をしないかの差は大きいです。たとえば野見山暁じ氏の作風だと、あまり疲労をしないと思いますよ。

 油絵を描いていない友達が「あり得ない」と言って笑いました。確かに、私は、極端に体が弱いところがあるのです。それは、若い時に、メチル基のついたベンゼン核を材料として、実験を続けているので、体がすでに、ボロボロだからです。 これは、トルエンの喫煙で、有名な毒物扱いのものですが、1965年当時は、その事実があまり知られていなかったのでした。

 で、日本のある医師が説明をしてくれたのですが、私は体中いたるところの血管の弁が、すでに、閉まりにくい(瞬時に閉まるのが普通の人だが、私は瞬時には閉まらないタイプ)事となっているそうです。だから、やせの大食いで、相当に食べているのですが、栄養が総身に回りかねているのか、いつもエネルギー不足で、普通の人の、三分の二、もしくは、二分の一の体力しかありません。で、グループで、一泊旅行をしたりすると、次の日は、眠りながら道を歩くという始末です。

 トルコのイスタンブールで、シェラトンと言う、当時は、最高急のホテルに泊まっていた時に、4時間も気絶をしていて、救命措置で、生き返ったことがあります。それは、1970年代で、まだ、輸液システムが完成していなかったので、気が付いた時に、脇には、4,5本の太い注射器が置いてありました。種々の大型アンプルで、医者が蘇生をしてくれたのです。意識が戻った時に質問をしたのですが、血圧が、4~6だそうです。これはあり得ない数値なので、多分、ゼロを取って、数えるのが、トルコの医師のシステムなのでしょう。だから、生き返った時の血圧が、40から60だったという事です。これは行く前の準備(猫をどこに預けるかとか、)で相当な苦労をしたせいで、こう成りました。

 たまたま、ルームサービスを取っていて、ボーイが持ってきたときに、イエスと答えたまま、ドアを開けなかったので、救われることと成りました。ほかのケースだったら、あそこで死んでいたと思います。主人は義弟夫婦とロビーで話をしていたので、私が、生き返ってから帰室しました。私はだから、危うく、二人の小学生の子供と、猫一匹を残して、死ぬところでした。30年前に、すでに、死んでいたかもしれないところを、救われたので、シェラトン・ホテル様には、深く、感謝しています。

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副題2、『立花隆と、私は、1980年にトルコエフェソスで、出会っているのだが・・・・・それが、彼の、<エーゲ 永遠回帰の海』書籍情報社 2005、須田慎太郎(写真)>へ結びついて行った』

 この時に、実は義弟家族と一緒に車で、トルコを回る予定でしたが、この日、私が、瀕死状態になったので、私達夫婦は、義弟一家と、車でトルコ一周をするという企画をお断りをして、のんびりと、余裕を持ったスケデュールで、トルコを、特に好きなところだけを、回ることにしたのです。で、トルコへ入って、9日目ぐらいに、エフェソスの遺跡へ入ったのでした。 

 今、シリアのパルミラ遺跡を、IS国が破壊することで大問題になっていますが、世界に残っているギリシャローマ遺跡のうち、4大遺跡と言っていいほど、エフェソスは、大規模なものです。エフェソスには、昔、川があり、その川の土砂が堆積して、埋まっていたので、無事に残っていたのでした。広さは、鎌倉の山の中(市街地)に匹敵するでしょう。ただ、高低差があります。発掘は、その1970年代は、イギリスがやっていました。

 隣に、クシャダスと言うヨーロッパ人向けの、リゾート地がありますが、エフェソス近辺には、しっかりしたホテル等はありません。ただ、街道と、エフェソス入口への道の交差点に、当時は、モーテルが一軒だけ、在りました。オーナーが、帝国ホテルで、料理修行をしたという話で、ローストビーフを出してくれましたが、量は、信じられないくらいに少ないものの、ソースがおいしかったこと、さすが、東京、日比谷の帝国ホテル仕込みだと、感嘆した思い出があります。イスタンブールのシェラトンよりも、イズミールの高級ホテルのモノよりも、クシャダスのヨーロッパ人向け料理よりも、圧倒的においしかったです。ただし、量は、それらの、5分の一程度でしたが。

 当時は、それ以外は、向日葵畑が、広がっているだけです。で、そこへ行くのには、大変なお金をかけて、行っているのですが、たいていの観光客はバスで午前中にやって来ます。で、午後は、しーんとしています。

 で、午後の、誰もいないエフェソスの中心部で、私は立花隆と出会うのでした。その時のことを、『シルバーのブラウスは、私を導く』と言う未発表の小説の中の一章として、書いていますが、パソコンが、15台以上壊されてきていますので、簡単に再現ができません。

 2015年11月25日検索の、wikipedia からコピペしますと、彼は、1974年(昭和49年) 『文藝春秋』に「田中角栄研究~その金脈と人脈」を発表し、続いて、1976年(昭和51年)には『文藝春秋』に『日本共産党の研究』を連載しています。『諸君!』時代に書いていたサイエンス関係のテーマにも手を広げ、1981年には『中央公論』に「宇宙からの帰還」を発表。平凡社アニマ』に連載された「サル学の現在」、ノーベル賞受賞者利根川進との対談『精神と物質』、『科学朝日』に連載された「サイエンス・ナウ」「電脳進化論」「脳を究める」、などのテーマとなっているので、1977~80年ごろまで、静かにしていた事が推察されます。その頃、彼は、トルコへ来ていたのです。

  でね、私の小説は外部へは未発表です。しかし、電話が盗聴をされておりパソコンがハッキングをされています。で、どういう経路でか( いや、本当のところは、、成岡庸司 →秋山豊寛 →立花隆だと思うのですが)  私の文章のコピーが彼の手元へ入ったのだと、思います。この小説は、五人~十人の人へプリントアウトの形で、献呈してありますので、『面白い』と言う感想をいただいたりしていて、電話での、応対がありました。その上、今思うと、パソコンは、ハッキングされっぱなしだったわけですから、やすやすと、それが、できたのです。それが、2004年だったでしょう。

 それで、立花隆は、急きょカメラマンを伴って、昔、旅した地中海を、もう一回、へ廻って、遺跡を撮影させ、一冊の本を仕上げました。大変な強行軍だったらしいです。レンタカーで回ったと推察されます。飛行機はビジネスクラスで、ホテルは、一流ホテルを使ったことでしょう。何回にも分けて行き、時には、自分は、行かないで、カメラマンに、行くべき場所だけを指示したとも、書いてありました。で、圧倒的な素早さで、一冊の本を上梓しました。

『エーゲ 永遠回帰の海』書籍情報社 2005、須田慎太郎(写真)』です。この書物は、見開き、二頁にカラーの遺跡の写真、その次の見開き二頁に、白黒で、文章が、印刷されているので、ある人が書評で驚いていました。「定価が安い」と言って、「これが、オンデマンド方式の、すごさか?」とも言って。

 それがですね。違うのです。ひとり出版社を、運営している私から見ると、これは、別にオンデマンド方式で、できている本ではないのです。ご本人が、その書評家に、「オンデマンド方式で作ったのです」と、言ったのなら、編集から、頁設定などの、データ処理だけは、パソコンで、オフィスたちばなで、秘書が作ったのかもしれませんが、印刷製本は、違うと思います。

 私から見ると、オンデマンド方式とは、一冊につき製作費が、4000円から5000円かかるので、市販本で、オンデマンド方式で作っている本はない筈です。自分の原稿を私費出版しようとした場合、20部までだったら、オンデマンド方式の方が安いが、300部を超えると、オフセット印刷(普通の本の制作方式)の方が安いのです。

 その書評家は、ただ、ミミから聞きかじった語彙である、オンデマンド方式をここで、勝手に転用をしたにすぎないと思います。

 ただ、立花隆の本としては、珍しく、出版社が、有名なところではありませんね。私が想像をするに、その出版社は、急きょ、立花隆が作った可能性があるのです。そして、印刷用、デジタルデータについては、ある種の部分は、立花事務所が作ったのかもしれません。

 だが、それから先は、面付けと言う作業を印刷所で、致します。そして、その作業で、あの一見豪華で、お金がかかっているみたいに見える頁配分が、でき上るのです。だが、しくみは、非常に簡単なことで、A全版、または、B全版、または、菊版と言う印刷用紙に、隅数頁から始まる二頁が、白黒印刷の文章になる様に、面付けし、次の隅数頁から始める二頁に、カラー写真を配置すれば、ああいう本が出来上がるのです。つまり、大判の紙の表は、白黒印刷で、裏は、カラー印刷で、仕上げればいいのです。白黒印刷は、ローラーの下を、紙が、一階通るだけですが、カラー印刷の場合は、四回、くぐらないといけません。だから、文章だけの本は、大判の紙を売らおもて、二回だけ、ローラーをくぐらせればいいのですが、こういう本を作る場合には、合計、五回ほど、くぐらせる必要があり、その分、印刷代が高くなりますが、製本上は、口絵写真付きのお高い本よりも、安く出来上がるのです。そういう風にして、印刷した大判の紙を、まず折り上げていき、その後、裁断して、製本をすると、ああいう本が自動的に出来上がるのですよ。

 しかし、残念ながら、単価、を抑える為でしょう。使用されている紙が薄いです。で、両面印刷のカラー部分が文章部分にしみ出しています。ので、批評で、褒めてあるほどの、豪華な本ではありません。ただし、定価は、1500円前後でした。普通カラー印刷が、10頁程度、口絵などで採用をされている本は、みんな、2000円を超す定価で売られているので、比較してカラー頁のおおさ(全体の半分である)に、びっくりして、ほめまくったのでしょう。

 これはね。上にあげてある、私の未発表の小説、『シルバーのブラウスは、私を導く』を凌駕し、それが、後日、出版をされた際に、一般購買層が、絶対に買わない様に、仕向ける為に、急きょ制作された本だから、ともかく、大衆的な値段ではないといけなかったわけです。ただし、彼の目論見は外れたのですよ。私は、6種類の本を作りましたが、すべて、流通をさせず、献呈するだけですから、彼と、読者層が重なるわけもないし、また、その小説自体を、未刊なので、競合するわけもないのです。結果としては、『買いかぶっていただいて、ありがとうございました』と、なるのでした。

 しかし、今アマゾンで、念のためにチェックしてみたところ、お高かったです。変ですね。????? 

商品の詳細 

エーゲ―永遠回帰の海

2005/10
立花 隆  単行本   ¥ 1,620プライム ポイント:16 pt (1%)
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 副題3、『1980年の、トルコ旅行は、立花隆にとっては、一種の贖罪の旅だったと、思われる。が、そこで、私と出会っているのだ』

 私が、はっきりと、政治に目覚めたのは、2007年です。激しくパソコンのシステムが壊れ始めて、それの、積み重なりによって、無理がかかり、パソコンそのものも壊れるという事態に陥りました。で、原因を探り続けているわけです。で、「今、壮大なミステリーを書きつつあります」と、皆様には、申しあげております。しかし、書いても書いても、やまない時期もありました。

 だが、とうとう、大学時代の同級生、古村浩三君の名前を出し、かつ、・・・・・彼が原因で、なりすまし疑惑が起こされた』と書いてやっと、被害が少なくなり始めました。古村君が、自分がやったことから、逃げるために、片山祐輔君と言う、青年を身代わりに建てて、なりすまし疑惑と言うのが起こされた・・・・・と、書いたあたりから、やっと、パソコン自体が壊れるほど、激しいシステム異常は生起しなくなったのです。でも、ちょっと、内容を変えたシステム異常は、引き続き起きて居ますよ。で、それが起きると、すでに、彼がやっているのではないかもしれませんが、古村浩三君の名前を、上げて、片山祐輔君の悲劇を語り続けることと成ります。すると、控えめな攻撃へと変わって行きます。

 でも、1980年、または、それ以前には、私は、政治には全く関心がありませんでした。それで、立花隆の顔を知りませんでした。

 それは、今から35年前の事であり、立花隆は、一種のマネーロンダリングの旅を、していた頃だと、思われます。つまり、今の私が推察するに、彼は、贖罪の旅に出て居たという事。

 田中角栄は、戦後の、日本にとって、相当に大切な人間であったという事が、言えるでしょう。つまり、田中角栄の時代より、今は、さらに被・植民地化が進んでいると見えます。そういう悲惨な国、日本が、あたかも独立国家であるかのごとく、振舞える様な、外交を展開したりしたので、角栄さんは、アメリカから、『生意気だ、刺せ』となって、撃沈をさせられてしまいました。その口火を切ったのが、立花隆です。だから、はっきり言うと、立花隆も、例の鎌倉エージェントの中の一人であると考えた方がいいのです。だが、美術の世界に居る私にとっては、彼は、同じ世界の人ではないので、直接いじめられたことは有りません。

 ただし、田中角栄も、別の一面を取り上げれば、土建優勢の政治を敷いたとか、いろいろ欠点はありますよ。それを、撃墜させたのですから、立花隆にとっては、大いなる成功と言える仕事なのでしょう。しかしですね。どんなにそれが、大いなる仕事であったとしても、彼の、潜在意識の中では、自分を責める感覚もあったと、思いますよ。別の言葉でいえば、重い感覚、または、寝ざめが悪いと言う様なものですね。

 だから、彼自身は、それについて、言及していないものの、そのトルコ旅行は、潜在意識の中での、贖罪の旅だったと、私は、推察しています。で、貧乏旅行を自分に強いていました。ただし、それを外部に表明をしてしまうと、自分の過去の仕事が、ゼロ、または、マイナスのものとなるので、彼本人は、一切そういう事を言っては、おりません。

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副題4、『当日のエフェソスは、雲一つない晴天で、風が吹き、両側の小高い丘の上に生えている松が風に揺れる音が、谷の真ん中にまで届いてきた』

 エフェソスと言うのは、広さは、大体、鎌倉市(頼朝の幕府時代)程度は、有るでしょう。しかし、平たんではなくて、傾斜が、在ります。建設当時は、大理石なので、真っ白で、つやつやしていたと、みなされますが、2000年近く、土砂に埋まっていたので、今では、ベージュ色の濃淡で、すべてが、彩られています。そして、つや消しとなっています。しかし、東西南北、雲一つない晴天で両側にある小高い丘の上に生えている松が、風に揺れて、久しぶりに、松風の音を聞くことと成りました。最近はサッシの窓が全盛で、気密性が高く、しかも、鎌倉の家の近辺には、松が無いので、子供のころを思い出して、非常に懐かしかったです。

 ところで、もし、エフェソスに、自動販売機があったら、どんなに仕事が弾んだでしょうか?クシャダスのホテルで、作ってくれたランチは、ぱさぱさのパンの中に、チーズが挟んであるだけなので、私は写生をしながら、苦しくてたまりませんでした。今でいう、熱中症で、ばててしまう直前だったと、思います。しかし、現代でも、自動販売機と言うのは、海外では、壊されてしまうので、設置をされていないそうです。

 それでも、こんな、ありがたい機会はないのだから、と、渇きを我慢をして、ただ、ひとり、鎌倉市内みたいに広い場所に居てすけっちをしていると、下の方から、米粒みたいな黒い点が坂を上ってくるのが見えました。300m程度に近くなると、髪が黒いのが、はっきりと見えました。たった一人で、外国を歩くのは、1970年代では、珍しい事であり、『日本人ではないかもしれない』と、思いました。 100mぐらいの近さになると、その人物は、男性であって、上に紺のシャツを着て、下は紫色のズボンを穿いているということが判りました。私の本業は画家と言ってよいでしょう。で、色のセンスは抜群にいいです。その私からすると、紫色のパンツをはいているだけで、バカにするに足る人物です。だって、紺と紫色の組み合わせなんて、美をどこにも発見できない色合わせでしたから。

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 副題5、『その男性一人観光客には、トルコについて、悪口三昧だった。で、服装で、軽蔑し始めていた私は、更にその意識を強めた・・・・・しかし、彼の方は、彼で、<この、俺様を知らないのか。田中角栄をぶっ潰した、この有名な俺様を>と言う怒りに燃えていたみたいだった』

  私は何度もこの世界で述べている様に、リアルな世界では、喧嘩をしない主義です。で、実際に考えていることを口に出すことは有りません。しかし、頭の中では、数千項目を一気に、同時に考えていたりするのです。で、おズボンが近づいてくるにつれて、観察をさらに激しくしました。すると、サマーウールでできているとは、理解ができました。これは、ジーンズなどより、肌触りはいいのです。しかし、染色が、やわだったらしくて、日差しに焼けて、色あせたのだと、判ってきました。で、いくら強烈なトルコの日差しだとはいえ、一週間やそこらで、ここまで、褪色するとも思われず、相当な長期間、すでにトルコを歩いていると、思われました。で、そこまで、判ってから、初めて、「あなたは、日本人?」と質問をしました。

 この質問だけで、立花隆は、怒ったわけです。『この有名な俺様を、お前は、知らないのか? 日本語を話すのだから、日本人だろう。それなのに、俺の顔を知らないとは、無教養な、おんなめ!』と思って『怒鳴りたいぐらいだった』と言うのが、彼の側の本心だったでしょう。しかし、私は、以下の様に考えておりました。『長期間、おズボンの、色があせるほど、トルコを旅行しているらしい。そうなると、彼は、サラリーマンではないなあ』と。フリーターとか、引きこもりと言う言葉は、その当時にはまだなかったのですが、サラリーマンでないと、日本人として、充分な収入は得られないので、『フーン、この男は貧乏なのだ』と、私は判断をいたしました。(大笑い) 実際は、彼は、すでに大金持ちだったと思われますよ。自由業だけど、フリーターではなくて、首相を追い落とすほどの、大成功したライターなのだから。だけど、『贖罪の旅だから、お金を使わなかったのだ』と、私は、見ています。

 その当時の、私は、ひときわ世間知らずだったのです。中学生のころから、親が裕福になって来て、このトルコ旅行でも援助があって、当時のお金で、夫婦二人で、157万円も使いました。日産自動車のエンジニアをしていた主人の月給が、10万~11万円ぐらいの時期ですから、どれほどに、金銭的な、余裕があったかがわかります。その後、アート修行に自分のお金を使い切ってしまって、お金がない時期などを経験したり、ニューヨークで、極端な貧乏生活を送っているアーチストなどに出会って、私はまるで、変わってくるのです。他人の生活に対する理解が、非常に深くなってくるのですが、1980年当時は、未熟な段階でした。特に貧乏と言うことに対して、まるで、関心がなかった時代です。

 で、私は次の段階の質問として、「トルコをどう思うの」と聞きました。私はその時に、9日目だったわけですが、本当に満足をしていました。ただ、一つ、びっくりして、思いがけなかったことは、地中海は、想像をしていたほどには、青くなく、また空も、それほど、青くはなく、鯵が釣れたりする海は、日本と、まったく、同じだったという事でした。空も同じでした。それ以外は、人の暮らしも、人々の生活も、すべてが面白く、遺跡にも満足しきっていました。ところが、目の前の男性(立花隆)は、非常にぶっきら棒に、「いやな国だ。汚いし。すべてがつまらない」と答えました。

 私はさらに、びっくりして、「どうして、そう思うの?」と聞くと、「のみや、シラミは多いし、汚いし、話も通じないし」といいます。で、「ホテルの人間なら、英語は、できるでしょう?」と言うと、「できない」と、答えます。それで、「いっぱく、幾らの処に泊まっているの?」と聞くと、「600円かな」と彼は答えます。私は、そこまで来て、黙ってしまいました。しかし、今の私だったら、活発にさらに話したと、思いますよ。しゃべり方もさばけて来ていて、前よりもなめらかで、多弁になっていますし、世の中には、いろいろな人がいることも、判ってきていますから。だから、いわゆる木賃宿に、泊まっている彼を、きっと尊敬したと思います。

 だけど、木賃宿に泊まっているからこそ、いいルポルタージュができるはずなのに、文句ばかり言っている彼に、『あれ、この人、第二の、沢木耕太郎を目指して居るのだろうけれど、本当の研究家ではないわね。頭の柔軟性が足りないわね。きっと将来とも、ヒット作は出ないわ。人気は出ないでしょう』と、思いました。すでに、彼本人としては、『自分は、沢木耕太郎をはるかに、超えるレベルで、有名人なのだ』という自負があったでしょうから、私が、内心で、考えていたことを、もし彼が、知れば、今までよりさらに怒る事でしょう。

  もし、私がその当時、彼が立花隆であることを察知して居たら、上で、言っている様に、贖罪の旅に出て居たのだと推察するので、だからこそ、『今は、自分に苦役を課している』と、見るでしょう。そうなると、あれでいいのですよ。

 ただね。あまりにも激しいトルコへの、悪口を聞いていると、トルコを好きな私は、何とも言いようが無くなって、黙りました。で、その時、私の頭を去来していたのは、冒頭に写真を置いて長編小説『The Apostle 』でした。日本語には翻訳されていないと思います。似たような時代を表した小説として、『クォヴァデス』が、在りますが、二つは違う小説です。ただ、厚さが、4cmありますので、丁寧に、3か月か、半年かけて、読んだので、印象が濃くて、エフェソスは、重要な舞台である事、聖母マリアは、ここで、死んでいることなどは、それこそ、走馬燈の、様に、頭を駆け巡っているのです。

 その時に、頭に浮かべていたのは、上の写真の様な本です。実際には、是ではなくて、似たような装丁n本で、タイトルを、【APOSTLE】と言うものです。ただし、よく読み切っていて、古くて汚いので、主人に捨てられてしまったらしくて、今、見当たりません。こういう感じの本が、立花隆とトルコ・エフェソスで、出会った時の重要なアイテムです。 

 でも、「ここ、エフェソスは、いいと思うでしょう?」と、聞くと、「別に」と言うので、『事前の、準備とか積み重ねが無いと、これほども違うのか』と思い、それを、残念な事だと、思って、「だけど、ここって、マリア様が死んだ土地なのよ。そういう事も知らないの、日本で、旅行案内記でも、買ってきていないの?」と、聞くと、「買ってきていない。僕は物書きだからね、先入観を持ちたくないんだ」と彼は言います。

  私は、そこまで、聞いて、今度は本格的にだまりました。画家にとって、オリジナリティは大切です。だから、物書きとして、そう思うのなら、どうぞと言うしかないのです。しかし、彼が、慌てて出版した、上記の本は、カメラマンによって、多大に助けられている本ですから、彼は、33年後の、新たな取材をしても、トルコに対しては、何の愛情も尊敬も興味も、持っていないということは確かです。

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副題6、『言葉狩りは、立花隆を助けるために、始まったのかな?』

 私は、2004年ごろから、『シルバーのブラウス・・・・・』と言う小説を書き始めていますが、その中で、「日射病を恐れて、早々に、スケッチを止めた」と、書いています。ところで、その日射病と言う言葉ですが、今はないですよね。急に熱中症と言う言葉へ、変換をされています。でね、言葉狩りですが、鎌倉エージェントを中心とする、CIAの日本人代表者が、行っていることは確かであって、この立花隆のエピソードを発表させないために、始まったのかもしれませんよ。

 ところで、この一文は、23日の、夜から書き始めて、24日の、午前、二時から書き始めて、25日の午前11時まで、アップしていたのです。その後、いったん、引き下げました。その時、米軍のジェット演習が頭上でありました。どうも、立花隆の恥をかくということを、米軍様は、嫌っている模様です。その件について、午前、11日時ごろ描いたのが、下の赤字の部分です。 

 先ほど、一時間弱前の事です。また、ジェット機の演習が、鎌倉の空を通過したので、彼が、CIA方の人間であることも、却って、証明されたと思いますよ。今、PC内の時計は、10:14分を指していますが、今も、二回目の演習がありました。しかし、機体は一機の模様です。いつもより、騒音が小さいですから。 

 そちら側にとって、都合の悪い事を私が書くときに、あのジェット機の演習行動が、起こりますので。ただ、田原総一郎よりは、品も、自信もある人の模様です。田原総一郎程、軽く動いてはいませんよね。

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副題7、『副題6の中に、現代政治、特に裏にCIAが絡んでいると、そちらの、恥をさらしたりすると、こっちが大変になるということが判ったが、私は、2005年、その立花隆のエーゲ海に関する本の、批評を読むまでは、彼が、立花隆だとは知らなかったので自分の小説の中で、本当の姿を書いているのだった。で、これから先は、当時のエピソードに戻ろう』

 私は日射病、(今の言葉では、熱中症)を恐れて、炎天下の仕事をたたんで、下へ降りて行きました。遺跡の門のあたりで、迎えに来てくれた主人と出会いました。そこからは、街道へ向かって、幅の狭い道が、両側に、満開の向日葵を従えて、続いています。主人は、後ろの向日葵を振り返りながら、「今、そこで、お前の事を、精いっぱい、ののしっていた男に出会ったよ。生意気だって」と言いました。

 私は、すぐそれが、先ほど、出会った、紫色のズボンをはいた男だと、判りました。で、「、それは、私の家内です>って、あなた、言ったの?」と聞くと、言わないと、答えます。

 主人は、非常に頭がいい人で、口を極めて、私をののしる立花隆の話を聞きながら、「それは、私の家内だと、思うのですが」とは言わないのです。そこがこの話の、超・面白いところでした。つまり、三者が、三様に、お互いを、笑いあい、軽蔑しあったという事です。くるくると輪が回って、最初に戻れば、みんな、平等だったのでした。

 で、非常にそつのない、主人は、彼の気をそらさない様に、かつ、彼の機嫌を直すために、「僕は今、セルチュクの、博物館に行ってきたところです。面白かったですよ」と勧めたそうです。主人の、その他人を気持ちよくさせる、態度に、気分がほだされて、気持ちよくなったのか、そこから、一時間程度歩かないといけないセルチュクの博物館へ、立花隆は行っています。

 そして、上へ上げた本の中で、唯一感動した場所として、セルチュクの博物館を上げています。その博物館には、エフェソスで、発掘された宝物が、展示をされているのです。アルテミス女神像は、乳房が、ブドウの様に表現をされた珍しい様式のものです。

 でもね。ここで、大団円に到達しますが、その書物の、内容的、ハイライトは、主人が居たからこそ、生まれたものであり、その主人の言葉は、立花隆が、私について語った怒りの言葉を聞かなければ、生まれなかったでしょうし、・・・・・となると、私が生んだ様なものです。(大笑い)

 ただし、立花隆は、『先に出版した、自分の方の、価値が高いはずだと信じていて、その高さによって、この私が書いた、トルコを彼が軽蔑しきっているというエピソードが、世に出るのを防いだ筈だ』と、思っている事でしょう。

 しかし、彼が、常に、他者を軽蔑しまくるタイプの人間であって、それこそ、先入観だらけの人であることは、たった、15分程度、一緒にいただけで、しっかりと、私には、判ったのです。しかし、今のところ、彼に対して、法外なほど、世間の評価が高いのです。これもまた、彼が、CIA側の人間だからでしょう。

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副題8、『立花隆が、主役である臨死体験の番組(NHKはBSプレミアム2015年5月3日放映午後一時から)は、多分、上のエピソードをブログで書いたことから、企画をされたと、推察される』 

 さて、このエピソードは、原文が探せないので、今まで、中途半端に書いてきました。それ故に復讐を招いてきました。上の番組ですが、その一つだと、思います。その番組が、制作される三か月~一か月前に、このエピソードに、触れているでしょう。

 なお、そんなことは言わずもがなですが、ジェット機の演習音を聞いて、いったんひっこめたのではありませんよ。たまたま、疲れていて、最後まで、書けないなあと、思ったからでした。

  2015年11月25日  雨宮舜(本名、川崎 千恵子)

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