本当は、今から、24時間前に、総タイトルを変更したいと思って居ました。以前は、【レオスカラックス監督の映画TOKYO第二部と、それが、ひどい映画だと、正直に語った文化功労賞受賞者・佐藤忠男】としていたものです。4日の午前4時に上のものへと変更をします。 今書いて居るものは、最近の投稿をすべて網羅して、投網をかけるほど、大きいものです。で、疲労困憊をしていて、なかなか、一章を完成できませんでした。しかし、7月4日(土)には、完成をさせましょう。
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副題1、『佐藤忠男氏だけだ。この映画がひどい映画だと、言った人は』
で、レオスカラックス監督の映画、TOKYO第二部を、ほめそやした映画評論家が多い中で、佐藤忠男氏だけが「ひどい映画だ」と、日経新聞の文化往来という小さなコラムで書いて居ます。 本当にひどい映画なのです。しかし、日本では、ほとんどの人が、観客として、これを見ていないので、批判をしている人がいません。 佐藤忠男氏を頼りたいところですが、氏が、2019年文化功労章をもらったと、言うニュースを聞いて、・・・・・何だ、もうだめですね。接触しても・・・・・と思い当たり接触をやめています。
私は・・・・・名前を挙げると相手に迷惑になるかも・・・・・とか、・・・・・あいてが、出世した、それは、私を捨てる様な取引でしたね・・・・・と、思い当たる人が多いので、有名人の名前を使う事を、ほとんどしないのですが、 佐藤忠男氏が、この映画をひどい映画だと、言ったのは、日経新聞の縮刷版に残っていることですので、語ります。 本日2010-7-3に、氏のwikipediaを、初めて開いてみましたが、1930年生まれの氏は、旧制高等小学校を、卒業しただけで、働きに出て、働きながら、夜間学校で学び、かつ、投稿という形で、文筆、主に映画評論についての腕を磨き、鶴見俊輔氏に絶賛をされたので、表舞台に出ることができた人だと、わかりました。長い苦労の時期があったので、気骨ができた人だったのです。
今、朝ドラ【エール】で、福島三羽烏というのが、出てきています。実際に、存在した人たちをモデルとして使っているらしいのですが、その中で、作詞家だけは、父親が、ばくちに手を出したので、破産をした家の子供だと出てきますね。で、苦労をしながら、詩を書き、古関ゆうじとタッグを組む様になります。その人物も旧制高等小学校卒で、働きに出たと、思いますが、その人物よりも、さらに、大きくなった人物が佐藤忠男氏です。奥様が、才媛で、佐藤氏を仕事上も支えた模様です。 で、その映画をまっさらの、心と頭脳を持ってみたら、ひどい映画だと、誰だって、言うでしょう。
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副題2、『佐藤忠男氏以外の、有名人、たとえば、稲田朋美氏は、この映画について、何故、何も発言をしないのか? 橋本徹氏も何故、沈黙をしている。また、アパホテルの社長も何故、沈黙を。そうだ百田尚樹も、どうして黙っている。櫻井よし子さんは、なぜ? 小林よしのりは、なぜ黙っている。花田編集長は、なぜ黙っている』
稲田朋美さんは、映画【靖国】に対してひどい映画だと、発言をした模様ですが、こちらについては、何も発言をして居ません。この映画は、まっさらの心で見たら、本当にひどい映画だと、即座にわかります。 ではなぜ、誰も何も言わないのか? 一つには・・・・・レオスカラックス監督の名声を利用しているので、批判をすると、自分の方が、無教養であるか、または、馬鹿だと、誤解をされる・・・・・ことを恐れている。そういう可能性は、あります。 しかも、CIAエージェント達は、巧妙にこれらの人の発言を抑える仕組みを作って居ます。田原総一郎が、有名文化人を糾合して、13人の会を作り上げました。そこに小林よしのりも、櫻井よし子さんも入って居るのです。
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副題3、『櫻井よし子さんに、私が書いた、・・・・・第二次大戦の、いきさつは石油である。リットン調査団が何を何して・・・・・と、言うエッセイを、そっくり剽窃をされて、どこかに投稿をされてしまった。しかも、それが、私のパソコンに紹介されると、言う二重の悪意を示す人間たちがいた。誰だ?』
私は、2007年から、2009年の間は、政治的真実はメルマガの方で書いて、ブログでは、温和な芸術論的なものを書いて居ました。 で、メルマガは当時は、システムが、違い独自の方式で運営をされていたAOLを使って居たので、パソコンが壊れると、同時に情報が失われるという形式でした。で、上の櫻井よしこさんの剽窃も、こちらに、証拠が残って居ません。そこを狙われています。櫻井よしこさんは、有名人です。で、戦ったら、こっちが負けるでしょうね。だから泣き寝入りです。
しかし、櫻井よしこさんの化けの皮ははがれたと、思っている次第です。権力者をも、批判をしている模様です。アメリカの政策を批判している模様です。しかし、実態はずぶずぶに、CIAエージェントたちと仲良しなのです。だから、右翼的傾向の強い発言者なのに、テレビの世界にも出られるし、週刊新潮に連載もできるわけです。
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副題4、『二日前に、千葉景子さんが、私の六歳下の後輩であることが、急に判明したのだが、それはラッキーだった』
でも、この章の読者に、「あなたは、頭が悪いのよ」と言われるといけないので、ここで、千葉景子さんが、私の六歳下の後輩だったと、言う事実を、出します。それを、2020年7月1日に初めて知ったのですが、その意義は大きいです。 前報(後注1)で、それを書いて居ますが、中央大学法学部卒の、彼女は、大学同窓の五歳年上の、伊藤玄二郎の言うなりに動いて、レオスカラックス監督を支持、サポートするために、死刑反対論者であるのにもかかわらず、死刑場を公開したわけです。その死刑場公開は、私が、その映画の問題点を、インターネットエッセイだけではなくて、紙の本に、直そうとしていて、いよいよ、工業的印刷に回すべく、見本の本をオンデマンド方式で、五冊程度、作った段階でした。これは、本の出版というのは、8の倍数で、頁を納めるとか、奇数頁で、新しい章が始まるとか、色々な決まりごとがあるので、それを満たしているかどうかを確認するための、見本の本です。 で、私はマイクロソフトワードを、6種類ぐらいのシリアルナンバーで使って居るのですが、すべて把握をされているので、外で、自分のノートパソコンと使ってもダメだし、貸しパソコンを使っても、ファイルの、特徴的語彙、(ここでは、レオスカラックス監督)で、探られてしまって、自由が全くないのです。 で、その本の工業的出版を抑えるための脅かし策として、千葉景子さんが、死刑場を公開しました。
レオスカラックス監督の映画には、嘘・場面がたくさんあるのです。裁判の場面も、下水道の場面も、日本人が見たら、これは、嘘って、すぐわかります。 ところが死刑場の場面は、装置が、ものすごく、立派でした。レオスカラックス監督は、たった、二週間で、しかも北野武監督が、芸大教授として使って居る横浜バンクアートを、利用して撮影をしたそうで、まあ、 『プラスチックで作って居ますね。芯は発砲スチロールでしょう』と、言う様な、ちゃちなセットが多いのですが、死刑場だけは、周辺のガラスと言い、金属の柱と言い、床が開く仕組みと言い、何か、しっかりとしているのです。それで、パリで、撮影をしたのかなあと、思って居ました。まさか、日本の本当の死刑場を使って居るなどとは、夢にも思いませんでしたから。
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副題5、『娯楽映画に、本物の死刑場を使っていいと誰が許可をしたのだろうか。具体的には、文化庁長官だろうが、文化庁長官は、私のパソコンでは出てこないので、歴代総理大臣の責任を問うという形で、この映画が、制作をされた当時の、歴代総理大臣を挙げておこう』
千葉景子さんが、死刑場を公開した日時は、2010年度以降です。しかし、映画の公開は、2009年で、製作は、もっと前でしょうから、その当時の首相を上げると、以下の様になります。
第1次安倍内閣
改造内閣 2006年9月26日 - 2007年9月26日
福田康夫内閣
改造内閣 2007年9月26日 - 2008年9月24日
麻生内閣 2008年9月24日
- 2009年9月16日
ですから、この三人の総理大臣の内の、誰か?、の責任に帰するわけです。恐ろしい、恐ろしい仕組みですが、実際には誰も、正確な内容を知らず、ただ、ただ、レオスカラックス監督の名声に負けて、許可をしたと、見えます。特に総理大臣にまで上がってこない可能性もありました。
娯楽映画ですよ。それに、実際の死刑場を使わせたとなると、それを許可した、担当者の責任は問わないといけないでしょう。すごい話が裏に隠れている映画ですが、真実の目的は、伊藤玄二郎と、井上ひさしが発案をして、私をからかうのが目的の映画でした。 その前に、二人は【天国の本屋】というのを出版し、それを映画化もしたのですが、その裏側の真実を次から次へと書いて行く私を、やっつけるために同工異曲のものとして、このレオスカラックス監督の映画TOKYOは、作られたのです。
だから、井上ひさしと、伊藤玄二郎が、どれ程に、大物なのかをうかがわせるのですが、と、同時に、彼等に、そういう目的で、レオスカラックス監督を使役させる、大本の原因となった私も、如何に大物であるかをご想像くださいませ。それを、口外し始めたのは、ごく最近ですが、千葉景子さんの死刑場公開あたりから、私はそれをはっきりと、自覚をしていたのだと、言わせてくださいませ。
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副題6、『私は長らく、千葉景子さんは、南区あたりで育った貧しい家庭のお嬢さんだと、誤解をしていた。それは、法務大臣であり、長い間死刑反対論者であった彼女が、たとえ、大学の先輩伊藤玄二郎の教唆命令だとしても、単純に従うのはバカの極みだと、思ったからだ。
・・・・・成り上がりもの・特有の、権力者には弱いと、言う側面が表に出ましたね・・・・・と、考えて居た。それに、同じ、伊藤玄二郎達に教唆命令して、私を威圧するために、横須賀線先頭、車両に現れたこともあって、更に軽蔑を深めた。彼女は私より10cmぐらい背が低い。しかも、彼女の方は、無名の、専業主婦である、私の顔を知っていて、こっちをしっかりと見つめてくるので、・・・・・あら、いやだ。あなたって劇団四季で、ライオンキングにでも、出演しているつもりですか。その脂ぎった、ファンデーションって、舞台俳優のドーランそのものですよ。・・・・・と、感じていたのだった。長らく、そう思っていた。
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副題7、『同窓会名簿を見てみると、住所は、戦後すぐ開発された、又は、戦前に開発をされた、駅近い、高台の模様で、相鉄などが、開発した分譲地だと、わかって来る。まあ、あっさりと言ってしまうと、横須賀線保土谷を、最寄り駅とする一帯である。地価は高い筈の地域だ。同窓会名簿によると、千葉景子さんは、結婚をしてない。したがって、実家に住み続けて居るはずだ。驚いた。実家はお金持ちですよ。で、お嬢様だから、無防備の、極致として、左翼になったという例であるらしい』
今回後輩だと、わかって、同窓会名簿で、住所を見てみると、戦後すぐに開発をされた1950年代、もしくは、1930年代の、新興住宅街に住んでいる模様であると、わかった。そこで、生まれて、70年以上同じ、土地に住んで居ると、言うお嬢様らしい。
親は、神奈川県庁、又は、税関、とか、横浜市役所勤務。または、郵船、三菱重工、日産自動車、キリンビールなどの大企業サラリーマンだった可能性が高いです。また、google mapで、見ると同じ番地に、ひときわ大きな敷地の家があるので、親が、分譲地を三区画買った千葉景子さんの実家かもしれません。つまり、千葉景子さんは、実家が、貧しくて、苦労をしたから戦う人になったのではなくて、お嬢様だから、無防備な人であって、それで、戦う左翼になったのだと、思います。
しかし、死刑場を公開したり、高価なお洋服を着て、おしゃれをして威圧するために私の目の前に現れるなどという事は、両方とも、伊藤玄二郎(CIAエージェント)の教唆命令で、行っていることでしょうから、ふにゃふにゃ左翼ですね。まあ、中央大学の先輩である、伊藤玄二郎の教唆命令で、行っているのではなくて、横浜国立大学付属中学校の先輩である、成岡康司君の命令で、行っているとしても、どちらにしろ、CIAエージェントのいう事を聞いたわけですから、左翼といってもねエ。おかしな左翼ですね。絵にかいた餅としての左翼か?
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副題8、『しかし長らく、千葉景子さんは、南区で育った少女だと、思いこんでいた。それは、そこで、育った少年たちが、大変な事件を1982年に、山下公園で起こしたからだった』
今は、ホームレス狩りというのは、頻繁に起きている模様です。世間の耳目も集めていない模様です。この1982年に起きた事件と、匹敵する驚きを与えたのは、1988年に起きた少女コンクリート詰め殺人事件です。しかし、そちらは、40日間も苛め抜かれて死に至った、陰惨極まりない事件です。ただ、舞台が、共産党員の薬剤師と、看護婦が、両親である家だったのと、余りにも陰惨な事件なので、朝日新聞は、一切報道をしませんでした。一方その前、1982年に起きたこちらの事件は、ほとんどのメディアで、丁寧に報道をされました。
一晩の出来事です。一種のいたずらだと言え、抵抗できない弱い老人をゴミ籠に入れて、ロープをつけて、走って引っ張りまわし、被害者の、首の骨か何かが折れて、亡くなったのです。場所がなんと、戦前から有名な山下公園です。道路一本隔てるとホテルニューグランドがあって、みなとみらいができる前は、横浜において、もっとも、きれいな観光地の一つだったでしょう。
これに関して佐江衆一が、『横浜ストリートライフ』新潮文庫(現在購買可能なのは、それ)というるぽるたーじゅを発刊して居ます。これは、40年後の今でも、感想がたくさん、ネットで、見られますので、名著、傑作の一つだと、思います。いろいろな紹介記事がありますが、ちょっとタイトルが、コピーできなかった書物紹介頁から、コピペします。biblio何とか、という頁だったと記憶して居ますが・・・・・
内容説明
目次
- 第1章 ヒトは路上に眠る
- 第2章 横浜放浪
- 第3章 中学生たちの夜
- 第4章 地を這って見よ
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他の紹介頁でも、こぞって、著者をほめているのは、著者が、寿町のドヤ街へ住み込んで、フィールドワークをした事です。しかし、私は違うポイントで、感銘を受けました。佐江衆一が、南区の加害少年たちの住んでいる地域のフィールドワークをした部分です。
そ地らの地域に、現在読むことが出居る、ネット紹介記事で、言及がないのは、今、其の一帯に住んでいる人が、迷惑をこうむるからでしょう。佐江衆一は、そこが、環境が悪いと言って居るからです。特に、今は、そこに地下鉄が通りましたので、便利になって地価も上がり、中流階級が住む一帯になったかもしれないからです。
しかし、事件が起きた当時は、貧しい人達の住む一帯でした。大岡川流域の低地で、丘が多い横浜では、地価が、安くて、貧乏な人が住む一帯だったのです。そして、そう言う家庭では、今の言葉でいうネグレクトが、既に、始まって居て、子供を育てる能力がなくて、襲撃少年たちは、人間としては、育っていなかったのでした。
(ここから蛇足1へ、つながる)
今、私が心配しているのは、日本が独立国家ではなくて、被・植民地国家であるので、子育ての側面でも、ほとんどの地域で、この1982年の、横浜、南区と、似た様な家庭崩壊、家族崩壊が起きているという事です。それがどうしてそうなるか。その一端を同窓会名簿から、語っていきたいです。
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副題9、『千葉景子さんと、同じ組の、15期B組卒業生の中に、乙武〇子という名前があった。有名な乙武君の母ではないかと、思い当たったりする。彼女の同窓会名簿上の、住所を見て、乙武君の出生地を見ると、新宿区で同じだからだ。どうしてここで、乙武君を取り上げるかというと、彼もまともな発言をする人間で、したがって、弾圧を受けている。その弾圧は、私ほど隠微ではないものの、不倫騒動が、大きく報道をされるなどという形で、やはり、好意を受けてはいないと感じる。ただし、あれ程、ひどい障害を持っている乙武君が、他の側面で、自分は優れていると、誇るのも当然で、したがって、乙武君の、女性アサリを、とやかく言うのは、意地悪である。そういう報道を傍で、見ている若いライターとか、若い、ライター志願者は、自然と自主規制をするだろう。というわけで、この日本には、本当のことを言う人がますます、少なくなるのだった』
この横浜国立大学付属中学校というのは、統一的な同窓会はないのです。だから、ここから先は、例の見て来た様なうそを言いの一つであって、誰かから、聞いた話ではなくて、唯、ひたすら、私の想像でしかないですが、その乙武君の母であろうと、私が考えて居る女性も、千葉景子さんと同じく、あたまがよくて、早稲田へ、入学して居るはずです。だから、同じ早稲田大学出身の男性と結婚をしていて、専業主婦をしていたか、それとも、お勤めに出ていたかは知りませんが、頭脳を駆使する生活をしていたでしょう。想像を駆使して語りますが、小説家になりたくて、芥川賞でも取るつもりだったかもしれません。でも、結婚をしているわけですから、朝は起きないといけません。でも、専業主婦ではなくて、出版社等へ、お勤めをしていて、夜の10時から、午前一時ごろまで、習作に取り組んでいたと仮定をします。となると、午前一時頃には頭が、ビンビンに冴えています。眠たくありません。だから、睡眠薬を飲むこととなります。サリドマイドが、医師の処方箋が、必要な薬だったのか、そうではなかったのかは知りませんが、まあ、ともかく、薬の副作用があれほど、強いものだとは、夢にも思わず、服用を続けていたと、考えられます。ただ、乙武君は、あれ程の障害が現れるたのに、よくぞ大人になりましたと、親も乙武君自身もほめてあげないといけません。やまゆり園事件を思い出してください。あの事件には、嘘が大いに含まれていますが、それでも、尾野剛志さんの持ち上げられよう。それに比較をすると乙武君の不倫をあれこれ、言うのは、どれ程に、意地悪で、汚い心の持ち主かがわかります。
それが言論弾圧の一典型なのです。
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副題10、『実は、私自身が、そういう汚い心で、責め抜かれている。4日前に、泥棒が又入った。前報で、お化粧品や、食料品が盗まれていると書いて居るのにもかかわらず、そして、私が、寝室で、寝ているのにもかかわらず、居間に入って狼藉をして帰った。主人が朝早く、北久里浜へ出かけて行ったからで、こういう日は必ず狙われる。食料品を盗んでいったが、それらは、すべて、居間で、主人と二人で、語り合った食料品だった。「イカの塩辛は、カツオの塩辛を食べきるまで、開封をしないでね」と言っておいたり、大船へ出かける彼に向かって、「今日はね。豚の味噌漬けを冷凍から、冷蔵に直しているから、お魚を大船では、買ってこないでね」と言ったりしたものが盗まれている。
しかし、脅かし策としての、傑作ちゅうの傑作としては奥まったところに置いてある、名刺入れから、不動産屋のスタッフの名刺だけを抜き出して、床や、そのほかにばらまいていることだった。電話機のそばに、2013年に熱海市、下曽我の600万円の土地を買おうとしたときのスタッフの名刺が置いてあったので、どうして、こんなものが今ここに?と思った。ここね、たくさんの字数を使って、真実を書いたのですが、まだ、三万字に達していないのに、突然に「字数が多すぎて、公開できない」と言われたので、将来、別章で、詳細に書きます。
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副題11、『ボルトン補佐官の、内幕暴露本 What Happend in White House の紹介をNHKがした時に、トランプ大統領は、日本に、軍事協力金(思いやり予算というもの)を、20億ドルから、80億ドルに増やす様にせよと、ボルトン氏に命令をしたらしい。私は3.11のころ、日本が思いやり予算というものを支払って居る事を初めて知った。その時は、いくらだったか、既に記憶がないが、このボルトン補佐官の、内幕本の紹介によると、2000億円らしい。
それを8000億円にしないと、日本を防衛してやらないと脅かせと、命令されたと、ボルトン氏は言う。私はこういう情報が出てくるので、トランプ大統領の出現を意義あるものとしてとらえている。
トランプ大統領は、アメリカの既存勢力の中枢とは関係がない。成りたがり精神が旺盛な人物であり、不動産業者なので、ロックフェラー四世などの、軍産共同体からは、弾圧を受けている。だけど、それなりに、真実を語る人物だ。この思いやり予算の真実とは、トランプ大統領の発言とは正反対であり、日本国内において、日本人が反乱をしてくるのを威圧する役目を果たしている。そういう事を語る機会を与えてくれるので、トランプ大統領の存在はありがたい。
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副題12、『私が横浜国立大学付属中学校9期卒で、千葉景子さんが15期卒だと、言う事は、担任がそっくりそのまま同じである可能性が高い。彼女がB組であるという事は、私としては、なかなかに評価が高くなるポイントだ。彼女が、小学校の六年間を過ごした一帯(事実上、保土谷駅を最寄とする)は、A組の担任、通称【鬼面冠者】が、私塾を開いているという事で、有名な地域だった。だから、その地域から付属へ入学できた子供は、その先生の私塾出身者が多いと、聞いている。もし千葉景子さんが、そういうお嬢さんの一人だったと仮定をすると、普通ならA組の生徒として、卒業する筈なのだ。鬼面冠者は、将来有名になりそうな子供を自分のクラスにしたいと願う人だったから。
それに、私もそうだったのだが、横浜国立大学付属中学を卒業したのちに、東京にある別の国立大学の付属高校に進学する生徒は、トップテンに在籍している成績優秀者だから、そういう将来性のある子は、鬼面冠者は、自分のクラスに置いておくはずなのだ。私も断トツの成績で、入試が一番であり、入学式総代だから、当然、一年時は、A組だった。で、1952年の、六月ごろから、1953年の、3月まで、地獄の苦しみを味わった。鬼面冠者に、自分がいじめられているのではない。別のバイオリンが上手な男の子・本間輝夫君がいじめられていたのだった。本当につらい一年間だった。それは、下の、二つのリンク先に書いて居るのだが、
皆様がお読みにならないケースがあるだろうと、思って、その部分だけをコピペして、ここに置いておきたい。
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副題13、『鬼面冠者と、言うあだ名の先生が、自分の受け持ちの生徒をいじめる話・・・・抜粋』
*イ)、さて、三番目は、私が実際に目撃したケースで、被害者の男の子が、亡くなっていると、聞いているので、書いていきたい話です。いじめた方の先生も、無論なくなっていると、推察しています。私は、1955年に、当時は、本牧に在った、横浜国立大学の付属中学に入学しました。当時のその学校は、横浜切っての名門校でした。上にもちらっと書いていますが、
その一年に在学していた時に、担任の先生が、最前列に座っていた、背の小さい男の子、(但し、ヴァイオリンは、上手で、小学校で、既に、何らかのコンクールに入賞していた)を、ちびり、ちびりと、いじめるのです。それも、ホームルームの、一時間の間中、苛め抜くのでした。
これは、ある特殊な条件が、加味して起きたことでした。その教室は、大きくて、古風な、コンクリート製ビルの一階に在って、ほかの教室からは、100メートルぐらい離れていて、孤立していました。そのビルは、今は取り壊されていて、存在して、いないのですが、旧制女子師範の、校舎だったのです。1950年代は、横浜国立大学学芸学部の、校舎となっていました。その西側の翼の、一階の最も奥まった一部屋を、付属中学の、一年、A組が使って居たのです。だから、そこの中で、起きていることは、ほかの誰も知らないことだったのです。ほかの先生も知らないし、ほかの生徒も、誰も知らない、密室の出来事でした。いじめを目撃している子は、全体で、50人はいたと思いますが、誰も、その教室内で、起きていることを、親とか、ほかの友人や、先輩に話すことはなかった模様です。
先生のいじめ方は、こうです。・・・・・この前さあ、【とんま】の母ちゃんがやって来てさあ・・・・・で、始まります。【とんま】君とは、本名は、本間君といいます。しかし、先生は、いつも、とんまという、バカの、一種類を指す、言葉を使って、彼の、お母さんの、悪口を言い始めるのでした。
私は、子供ながらに、何でもわかる人ですから、そのいじめが、どうして起きるのかを(たぶんですが)正しく把握をして居ました。其れを、語らせていただきたいです。先生は理科を教える男の先生であって、温室を管理されていました。授業ではなくて、放課後、遊びという形で、四、五人の女の子が温室に入って行ったのです。珍しい植物を見せてもらえるという事で。その中に先生の靴下が、あらって干してありました。グループの中に、お家で、かわいがられているらしいので、何の屈託もない、女の子がいて、先生に「先生、どうして、靴下が干してあるの?」と、質問をしました。すると、先生が、「奥さんが、洗ってくれないのよ」といいました。その先生は、アブラ症でした。で、それでなくても、男性の靴下は、臭いのですが、先生の場合、特別に臭かったと、推察しています。ただ、それを聞いた、その瞬間に、先生が、何故、本間君をいじめるのかが、はっきりと、わかりました。先生は、見かけは強い人でしたが、女の人をどう扱ってよいかが、正しい形ではわかっていない人でした。そして、夫婦喧嘩ができない人でした。たぶんですが、女の人(=奥さん)へのうっぷんが、大量にたまっていたのです。
その陰に、音楽というものが、非常に悪い作用をしていたのです。普通なら、音楽とは、美しい心を生むものですが、このケースでは、先生と、奥様、先生と、本間君のお母さん、また、本間君とお母さんの、人間関係のすべてに音楽が介在していて、しかも、それが、非常に悪い形で、作用をしていたのです。
先生は、声がよくて、歌が上手で、NHKのど自慢で、鐘を、三つ以上、鳴らしました。それが、魅力となって、同僚の音楽の先生と、結婚をされました。奥様は、芸大卒だと、聞いています。付属中学の音楽の先生は、代々芸大卒の方が、赴任します。先生は、この靴下の件を、私達が、温室で、聞いてしまう時点より、ずっと前に、既に、奥様の悪口を生徒に聞かせることがありました。「(退職をして)専業主婦として、子育て中の奥様が、化粧品を買うのだが、それが、高くて困る」と、既に、おっしゃっていました。それも、ホームルームだったかもしれません。
私は、その二つのエピソードとも、聞くのが嫌でした。何か、権威がないと、言う感じがしました。学校の先生とは、そういうものではないと、いう思いがありました。私は母方の祖父が、旧制柳井商業の校長だし、父の兄は、旧制萩中学の校長でした。だから、学校の先生の、表も裏も知っていたのですが、公の場所での先生の、ふるまいは、かくあるべしという、思いを持っていたのです。
そして、そういう風に夫を仕立て上げてしまう、奥様というのが、未熟で、わがままな女性であろうとも、推察しました。先生が、生徒(特に小柄で、子供っぽい男の子)を、いじめる初因は、奥様に在るのだ、とも思いました。芸大に、入学するのは、小学校時代から、まず、ピアノは、習わないと、いけません。戦時中です。食料もない様な時代に、ピアノを習う事が出来た女性です。上流階級の出か、富裕層の、生まれでしょう。先生の方は、そうではないのです。だから、負けていると、いう感覚があって、しかも、それを改善できないで、居る夫婦関係なのだと、思いました。
後に、この鎌倉の雪ノ下の、ご近所の画家、大原光孝さんから、あれこれの攻撃を受けた時に、防衛のための文章を書くのですが、「あの夫婦は、夫婦間の感情の交流がない。全くスケスケの家庭だ」と分析していきます。そして、「その結果、100%の他人である私に対して、甘えてくる」と、書いています。彼が、あれこれ、攻撃をしてくるのは、今は、どうなのか、わかりませんが、最初期は甘えの変形でした。
こちらの理科の先生も同じです。先生は、家庭という内側の世界で、甘えることができません。普通の男性なら、家庭で、ストレスを発散してきて、職場では、ちゃんとした、表むきの姿勢を保つはずです。だけど、それが、できていない先生でした。で、教室という職場で、生徒という他者50人に対して、甘えて来ておられるのです。私は、その時、13歳でした。だけど、『参っちゃうなあ』と、思って居ました。で、私は、すぐ顔に出るのです。で、先生から、追放をされて、唯一人だったかな? 二年の時に、別のクラスに、組み替えになりました。其れは、損でもありました。ただでさえ、した(付属小学校)からエスカレーター形式で、上がってくる子たちで、出来上がっているグループ内に入っていくのが大変なのに、また、一からやり直しですからね。でも、そういう損があっても、こっちの方がよかったと、思いました。そして、本当に、ほっとしました。あのホームルームを体験するのは、一種の地獄できたから。
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*ロ)、『もちろん、本間君のお母さんの、方も悪い点があった』
もちろん、本間君のお母さんも悪いのですよ。小柄で、年取った人でした。でもね。武蔵野音楽大学、または、国立音大、または、フェリスぐらい出ているのかもしれません。でないと、インターネットもない時代(1950年代)に、日本には、どういうコンクールがあって、そのどれに応募すれば、本間君が優勝、もしくは入賞できるか? などという事は、うちの母なんかは、知らない情報ですから。
で、担任の脂性の男の先生がのど自慢で、鐘を鳴らしたなどという事も、彼女は、全然評価できなくて、「あら、いやだ。それって、クラシックの世界では、マイナスになると思いますよ。だから、あんまり、外に向かっては、お話にならない方が、いいんではないですか」ぐらいのことを、言って居るのではないかしら。
先生としては、自分は、音楽が好きですが、専攻は、音楽ではありません。国立大学の学芸学部と、私立の音大では学費が違います。だから、本間君のお母さんは、上に出たと思いますよ。『私の方が、実家は、上ですよ。婚家先も上ですよ』と、いう態度で、ものを言ったと思います。それが、先生には、カチンと来て居たのでしょう。
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*ハ)、『しかし、私が、ここに書きたかったことは、例の、いじめを行った先生のことである。脂性が強くて、芸大卒の奥様に、靴下を洗ってもらえなかった、先生のことである』
あの学校には、面白い数え歌がありました。一(イチ-)は、石井のがんもどき、二(ニー)は、西川馬っつら、三(サン)は佐藤の禿げ頭、四(シー)は白井の白井権八、五つ(イツツ)、△△△△、鬼面冠者、(又は、間者)・・・・・六、以下は、忘れていますが、最後は、九(キュー)は、雲居の天平美人というので、終わるのでした。とても、面白い歌で、先輩から降りてきたのですが、級友はすべてが知っていました。本間君をいじめる先生は、どうしてか、いつも真っ赤な肌の色だったのです。そういうてかてかした皮膚だったのです。だから、鬼面冠者と、呼ばれていました。
友達が、別の友達をいじめるなどと、いう事は、あまり目立たない時代で、先生をからかう数え歌をひそかに作って、楽しんでいるのです。丘を一つ隔てた、別の丘に、フェリスがありました。フェリスのお嬢さん方は、元街の、商店街で、いたずらをしたそうです。10人ぐらいでカフェに入って、サンドイッチ一皿だけを頼むとか。みんな、元気で自由自在な時代でした。
ところで、ある日のことです。二年生になっていたと、思います。例のおもっ苦しい、離れ屋敷のコンクリート製の教室ではなくて、急遽建設された、木造、校舎の二階でのことでした。新制中学用の教室は、旧制女子師範学校には、ついていなかったのです。で、親切された二階建ての木造校舎の、二階でした。そこは、理科室で、その日は、蛙の解剖の後でした。私は前の年は、その鬼面冠者の、受け持ちだったわけですが、その時は、既に、離れていました。前報で、言って居る通り、それは、いじめの場面を見ないで、済むので、ほっとしていました。或る意味で、損だが、ある意味で、得をしたと考えていました。
が、先生の方では、今なお、私を気にしておられる様でした。自分を批判する、または、批判した生徒としてです。私の顔は、それほどに、表情が豊かなのでした。自分では、言葉に出しているわけではないから、先生を批判はしていないと、思いこんでいるのに、先生の方は、既に、意識しておられるのでした。
それで、突然に、私ではなくて、ある男の子を呼び止めて、「XYZー、お前、サポーターしているのか-?」と、大声で、問い合わせになりました。呼び止められた少年は、付属中学には珍しいタイプで、「僕の希望は、将来プロの、スポーツ選手になる事だ」と、宣言している子でした。背はあまり高くはないが、がっしりとした体で、友達の中でも、目立つ子で、輪の中心になる子でした。だから、先生からは、いじめられないタイプだったのです。私がなぜ、このエピソードをここで、語るかというと、本間君という子は、非常に子供っぽくて、体格も小さく、心の在り方も、未発達だったと、いう事を語りたいからなのです。でも、それは、彼の罪ではなくて、お母さんが、バイオリン漬けで、外で、自由に遊ばせなかったので、体が発達しなかったのです。本間君のお母さんは、一種の美空ひばりの母タイプだったという事です。美空ひばりは、上手に、プロの歌手になりました。しかし、本間君は、立派なクラシック系・バイオリニストになる前に、世の中から、消えてしまったと、いう形です。いじめた方の先生は、ご自分は音楽好きな方なのに、ある少年の将来と、言うか、一生を、つぶしてしまったのです。
よく登校拒否にならなかったと、思うほどのいじめでしたが、本間君は、登校拒否を、することもできないほど、子供だったのでしょう。
さて、先生は、スポーツ好きな男の子の方を向きながら、と、同時に、私の方を見て、にやりと、笑われました。ほんの少しですが、私は、感じるところがありました。私は口では、何も表現をしないものの、先生がサポーターと、いう単語をお出しになったのは、その少年が「すでに、男なのか? お前、あそこ、大きいのか?」と、いうお問い合わせであることは、わかったのです。1950年代です。サポーターというものは、売って居るところさえ普通にはなくて、当時は、横浜一の繁華街だった伊勢佐木町だけだったでしょう。そこにも置いてあるかどうか? でも、私には、わかったのです。そのやりとりの、本当の意味が、まだ、14歳ですが、わかったのです。【蛇足1】へ。
で、さらっとしていて、できるだけ、わからないふりをしました。あたりを見回すと、女の子で、残っているのは、私一人だけでした。私は絵をかくのが好きだし、蛙の内臓には、きれいで、きれいで、びっくりしたので、丁寧に、丁寧に絵をかいていて、ただ、一人、誰も、居なくなった時点でも、残っていたのでした。赤い肺、黄いろい脂肪、緑色の胆のう、などなど、こんな原色が、蛙の体の中に在るなんてと、ただ、ただ、びっくりし続けていたのです。男の子も、おんなの子も、含めて、ただ一人、残っていたのでした。
私は、そういう会話(=先生と、先生のお気に入りの生徒との)が内包している、工夫を理解できるのですよ。しかし、『自分は、本間君の方に近いなあ。不器用な、わからん人だと、思われているだろう。でも、それでいいのだ』と、思いました。普通に近いとか、できるだけ他人と同じになろうとは、思いませんでした。私は、今、鎌倉雪ノ下でも、ほかの人が何を考えて、どういう攻撃をしてきているか、すべて、わかっていますが、できるだけ、わからないふりをしているのです。
それは、あの、14歳の時の、理科の先生と、スポーツ好きの少年の会話で、まるで、鉄仮面のごとく、知らんぷりをした日と同じです。
でもね。自分の子供に対しては、特に男の子に対しては、家にピアノがあるのに、習わせられなかったのですよ。どうしてもあの、本間君に対するいじめを思い出すので、クラシック音楽を習わせるよりも、近所のお子さんと遊んで、それで、養われる男の子らしさを、優先したのでした。ピアノを男の子の方に、習わせなかったのは、残念だったと、思います。
【蛇足1】 私が、なんとなくわかったことを後で、考えてみると、「お前、教室内で、勃起することがあるのか?」と、先生が、スポーツ選手に将来なりたいと言って居る男の子に、質問をなさっていたと、感じます。その質問は、私の方に、すでに、セックスの経験が、あるのか?とか、勃起とか挿入という事を知っているのか?と、言う質問だったでしょう。その子は、そのご両親が、割と、放任しているだろうなあと、言う感じのお子さんだったので、先生としては、その種の質問を、してもいいと感じるタイプだったのだと思います。一方で、本間君という男の子は、色白で小柄で、目がぱっちりとしていてお人形さんみたいでした。マトリューシュカというロシアのお人形さんがあるでしょう。あれみたい。反対に、サポーターをつけているという男の子の方は午後になると、もう、ひげがうっすらと生えてくるというほどに、各種の腺からの分泌物が、多そうな男の子でした。つまり大人としての男性ホルモンがむんむん出ていると言う感じ。
ところで、後日、別のケースでどっきりとするものを目撃しました。・・・・・この場面に、もし男の子が居たら、男の子は勃起するのではないか?・・・・と思う様なケースがありました。其れは真鶴半島へ遠足へ行った時のことです。対抗方向から来た人間の中に、ものを考えないおバカさんが居て、銛の刃の部分をむき出しのまま、しかも、水平に持って歩いていたのです。それが、お友達の足に突き刺さってしまったのです。柄がね。持ち主が手を放しても、水平に立っているほどだから、2~4cmの深さだったのではないかしら。血が出ませんでした。それほど、モリの刃って太いのです。
その道は、一列で歩かないと、いけないほど、細かったので、周りには男の子はいませんでした。でも、もし、男の子があの場面にいたら、色々なことを想像して勃起するのではないかしら?
私が最も驚いたのは、彼女が声を一切上げなかったことです。きゃーっという様な発声もないし、痛ーいという様な声も上げないのです。彼女は小柄でした。華族出身だと、言われている女優・久我美子系の、美女でした。そして、その全身で、「毅然」という言葉を表現していました。私はね。『この子の祖先には、江戸幕府末期の悲劇の、人、小栗上野ノ介・忠順が、居たのではないかしら?』と、思ったほどです。忘れられない光景ですが、その日の、その後、先生がたがどう動いたか?とか、救急車が呼ばれたとか、どういう処理が行われたかとか、等については、何も覚えておりません。彼女の怪我が数週間後に治ったことは、確実に、覚えているのですが!!!!!!
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副題14、『その当時、今の言葉でいう偏差値、70以上の一流大学へ、卒業生の20%が入学する中学だだった。如何に優秀だったかをご銘記いただきたい。そういう学校を入学式総代、卒業式総代で、卒業した私が、鎌倉雪ノ下での、ご近所様のいじめ行動を見ていて、・・・・・なんだろう。この人達って、まるで、中学生並みですねエ。本当にどうしようもない・・・・・と、判断するのは、仕方がない事だと、思ってください』
ちなみに100人の内、東大へ6(もしくは7)人、慶応へ4(もしくは5)人、早稲田へ4人、当時はとても人気が高かった国際基督教大学へ3人、当時は、国立二期校として、入学が非常に難しかった横浜国大へ、3人(もしくは4人)、芸大へ、1人、入学をしています。ほかにも、たくさんいい大学へ進学していると思いますが、私は、情報通ではないので、これだけしか知りません。
2020-6-30~7-1 雨宮舜 (本名、 川崎千恵子)
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あと注1、
1955年・中一の受け持ち男子を苛め抜いた男性教師 VS 1951年受け持ちの小三=私に、生涯忘れられない忠告をくれた担任(女性)
19-11-14に何度目かとして語る、笹井芳樹氏・他殺・説・・・+・・・先生が生徒を苛め抜く話ー2