最初に置いた写真を説明させてくださいませ。これは、Hotel Chelsea というニューヨークの画廊街の近くに在るホテルの、一人のお客の写真です。
アーサーミラー、ウッディアレン、ボンジョビなど、多くの有名アーチストが、宿泊したこと、及び、宿賃代わりに残して行った美術作品で、有名なこのホテルの、2000年に発行されたらしい、一種のオマージュ本の中の、61頁をスキャンしたものです。で、私は、最も写真として美しいのは、これだと、思って選びました。これは、三脚を用いた自撮り写真らしくて、考え抜かれた構図が、ホテルの特徴をよく表しているので、選んだのです。そうです。階段ホールがとても素敵なホテルなのです。主役は、Neil Poken と言って、キャプションによると、
ここで、猛烈な睡魔に襲われて、彼女が書いたキャプションをここに移すこともできなかったし、それを翻訳することもできませんでした。それは、30日の午前1時ごろで、今、同じ30日の16:15分です。が、続きの処理をする、時間を生み出せず、後で、致します。後半の加筆も後で、致します。
副題1、『私が、今書いて居る、三井物産が舞台の、お話は、これ程、きついものはないと、言うほどに、私を傷つけるものでもある。しかし、私が、娘一家の陰に、中谷家の次男を、中心とする敵側がいて、娘一家と、ふつうの交流をできないと、言う最大の、嘘と騙しが、堤防が決壊するがごとく、2020-7-6に決壊をしたのだった。
その騙しや、うそに、付き合って、なんと嫌な事だろうと、思いながらも、それを、10年以上我慢をしてきたことが、敵さん達を、過剰に増長をさせ、余りにも、ばかげた、策謀を、次から次へと、仕掛けて来た。
それで、私が白内障手術を受けるにあたって、娘一家が、内心では、いやいやながらも、まあ、手伝うよ、という形で、表す、不親切さを、こちらから、指摘して、「もう、付き合わないでいいです。あなたには、何も頼まない」と、3日後の、9日に宣言をしたのだった。それは、私には苦しい。しかし、後ろにいる、彼等敵さん達(無論、鎌倉エージェントも大きくかかわっている。それで、勝ったと、思いこんでいる。そういう、おバカさん達が、かかわっているのだった)のバカげた策略を、さらに、しっかりと、書き表す自由は、えた。物事は、すべて、フィフティフィフティだ。失うものもあれば、得るものもある。
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副題2、『ここで、大原光孝という人物の、悪辣さを、またもや述べないと、いけない。娘の結婚相手が、三井物産の社員であると、中谷氏の遺児、もしくは、妻恵美子さんに告げたのは、大原光孝だからだ。そのころは、あそこのお嬢さんもまだ、結婚をしておらず、したがって、妻の恵美子さんも家に同居をしていた。夫は、中谷家の遺児二人と、交流をしているが、もう一つ別のラインもあって、そちらでは、柄沢斉、水沢勉、酒井忠康氏と、つながっている。柄沢斉と、創形美術学校で、同窓だからである。しかも単純に同窓というだけではなくて、私を攻撃する道具として、柄沢斉が、「僕の弟子にならないか」と、声をかけた模様だ。
そして、美術評論家の、私の、力を、からかって、そぐために、中島千波さんを抱き込んで、大原光孝の粗雑極まりない作品が、春の院展に、入選する様に計らった。どうして粗雑極まりないというかというと、彼は、べニアの土台に、アクリル絵の具で、それを描き、手製の、額縁をつけていたからだ。これが現代、アートの世界であったら、許される。しかし、院展の、三越を会場とする、春季展は、小さいサイズの作品が多いだけに、売ることを想定して、出品される日本画が主だから、大原光孝の絵は、会場で、あく私がそのマチエールに驚愕をして、一文を書いた、画家の剽窃の絵をである。〇〇和博という画家で、ある個展では、都会の中の小学校の校庭で遊ぶ子供たちを、四階から、俯瞰した様な、構図の絵を書いて居た。小品では、あるが独特で、しっかりとした、材料を使い、丁寧に、時間を掛けて、描いたもの。
この事案で、大原光孝が何をもらったかというと、たぶんだが、個展を、借り賃なしで、開くというご褒美だろう。しかし、こういう事を企画して、もっていく方は、自分達が、金持ちであるから、貧乏人の、生活様式とか、感覚を正しくは知らないのだ。で、気が付かないところがある。この大原光かかの一件は、2001年から、2004年までの間に起きたと、覚えているが、その後、2011年には、瓜南直子さんを相手に、同じ連中が、同じ様な事を、企画した。
個展や、グループ展を計画して、どうぞと、言った。また、テレビ出演や、その他、各種のイベントも、用意してあげて、その存在感を、大きくしてあげた。しかし、その種の援助をされると、直子さんの方に、交通費、材料費、衣装代などを用意する為の、資金がいる。それを事前に渡すという気配りが、無い。彼女は、亡くなる二か月前に、・・・・・芸術家、特有の手元不如意という問題があって・・・・と、投稿をしている。亡くなった半年後で、それを読んだ。ところで、2015年ごろ、彼女の全投稿を詳細に読んだ。すると、私が問題としているサブリミナル効果として、私を攻撃する部分は全削除されていた。代わりに、ファンからの哀悼を示す言葉が大量に投稿をされていたのだが、私に言わせると、どの人の投稿も、直子さんに対する正確な、認識は、ないし、愛情もないと、感じた。特に伴誠一郎と、言う人物がひどい。ただ、どうして、そう感じるかの理由は、ここでは述べない。脇にそれすぎるから。
シリアのアレッポで、シリアに入国直後に、殺害された、山本美香さんは、事前に仕組まれていた劇場型犯罪の犠牲者になるべく、派手な演出で、テレビ露出を行い、テレビ画面内で、とうとうと、自分の仕事の意義を述べていた。すべてのテレビ局に違ったドレスを着て、出演をしていた。ポリエステル製だとは、感じたが、一着、2万円から、5万円までのものだと思う。その衣装代だけで、30万円がかかる。彼女には、現役のサラリーマンである父親(都留文科大学の教授、元朝日新聞社勤務)がいる。親元で、暮らしていたと、思われるし、収入もカメラマンの方が画家よりは、高い筈で、それで、いいのだけれど、瓜南直子さんには、収入を分けてくれる相棒は、いなかったのだ。同じく、2018年ごろ、ほかの人のブログの中で、書いてあったので、それを知ったのだが、直子さんが、日暮文庫(酒場)で、伴さんに、たばこをせびって居て、一本分けてもらっていたと、書いてあった。そう言う結びつきである事は、2011年の夏から、私にはわかっていた。
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副題3、『ある夜に、私は、関本夫人が、三井物産勤務であると知ったのだった』
或る夜に、私と、関本夫人が安野家の下で、立ち話をしていたことがある。内容は、町内会のあれこれを教えてほしいと、言う点で、3度目の物だった。特に以前、町内会の仕事について、聞かれたので、私が、・・・・・〇月に、貴方に、お当番が来るはずだから、その時に、前のお当番である富沢夫人に、帳簿をもっていって、書き方を教えてもらいなさい。今、二人の前に、その帳簿が、無いので、抽象的な教え方になるので、結局のところ、よくわからないと、思います・・・・・と、答えて置いた。私は自分が教えてあげても、無論構わないと、思って居る。しかし、二人の会話を聞きつけた、安野夫人が、また、何らかの忌まわしい事を仕掛けて来るはずなので、それを避けたくて、「富沢夫人に聞きなさい」と、忠告をしたのだった。
この時、私は、関本夫人をいとおしく思ったし、判断力も明晰だと、思い、高く評価をした。なぜ、いとおしく思ったかというと、当時は、まだ、幼稚園生だった、幼い男の子が二人いる。そして、自分はフルタイムの仕事を持っている。夫は在宅で、仕事をしているが、ライターか、翻訳などの、頭を使う仕事をしているし、フランス人なので、ご近所づきあいには、不安がある。で、ご近所にお世話になる事もあるだろう。そういう際にだれにどういう態度を取ったらいいかは、町内会お当番などをすると、自然に、住民の人となりがわかる。だから、それを、しっかりとやりたいと、考えて居る。お子さんの為だった。かわいい、いいお母さんだと、思った。
ところで、私自身の事へ入る。北久里浜でも、そうだったが、本当に困った人は、私に、電話で、しかも、夜に、相談を仕掛けてきていたのだった。そして、私は最も適切な、アドバイスを与えて、よいほうこうへ落着をさせてあげていた。だから、どういう場所でも結局は私は、真のリーダーとなる。
それは、ご近所の、お葬式(50人以上が参列する)の初七日用の、お料理をご近所主婦三人が、作るという突然の義務が、落ちてきたときにも証明をされた。ポテトサラダに入れるハムだけを、40年前にすでに、大型冷蔵庫を二つも、持っていた、原夫人が買い忘れていたと、言いだしたのだ。お刺身も50人前準備して居たし、てんぷらの材料も万全だったのだがサラダに入れるハムだけ、余りに小さな素材だったので、忘れたという事らしい。で、私は、山の上の、ハムは、あまり売れていない小型スーパーへ、買い物に行った。買っては、来たものの、袋の中に、水が溜まって居る様な状態で、私は、本当は、使いたくなかった。それに、今は、ほとんど見当たらなくなったくず肉を集合して圧力をかけて作るプレスハムだったし。40年前というのは、そういう時代だった。でも、買ってきた直後に、「これを刻んで、ポテトサラダに、混ぜましょうね」と二人の年上主婦が言う。私は、びっくりして、「いいえ、大皿に、サラダをもって、周辺に散らしましょう」と主張をした。ところが、後で、現場に行ってみると、脚付きの箱膳が、ずらっと、50人前、並んでいる様な会場(個人の家だが、和室が、大広間になる様なつくりになっている)だったので、大皿を、置く形式ではなくて、小皿に一人前ずつ、取り分ける、盛り付けだから、二人の主婦は、私の、言う事なんか聞く耳も持たなかった。
しかし、私はスケルトンがある人だ。今、シリーズで、国際基督教大学の、卒論(卒験ともいう)の担当だった、湊宏先生の、助手になる話を断った、エピソードを書いて居る。湊先生は、陸軍兵学校の、出身だと聞いているので、上下関係が、厳しくて、私が、反応や、構造の、ことについて触れ始めると、「それは、私の考えることで、貴方の考える事ではない」と、どなられたのだった。それで、私は湊先生の助手になるという、お約束を破棄したのだった。そして、日本化学会の、会員には無論なれなかった。
この点を次の章、東大での経験を、かいておきたい前段階として、書いて居る。東大での、上司様も湊先生以上の権力者だった。みんな怖がっていた。しかし、先生の定年まで、四年しか時間がないという事で、「生意気な女め」と、お思いだったであろうが、先生の方が我慢をなさった。ポスドクで、助手待遇の人が四人、それから、助教授、研究生と、二人東大へ残すとしても、他の四人をどこかの大学へ、押し込めないといけなかった。だから、大量に論文を学術誌に載せる必要があったのだ。
で、私は仕事上の意見を述べるときは、上下関係など、気にしなかった。それから、先生の、機嫌を悪くすることも、恐れなかった。今度は英語だから、私としても理解することができるし、その教室では抜群に英語力が高かったからだ。やがて先生は、そういう私の、真実の誠実さというものを理解される様になった。
しかし、それには長い時間がかかった。比較すると、そのお葬式用のお膳料理を作ることは、まだ、4時間ぐらいしかたっていなかった。暑い暑い六月の事だったが、午前10時に始めて、サラダまで、行きついたのが、午後二時頃だったと思う。後天ぷらと、お刺身を、残している段階だった。で、とうとう、私は、「食中毒が問題だから、混ぜたくないのです。このハムって、古い。で、お肉の食中毒は怖いでしょう。人が死ぬ場合もある。そして、今日は特別厚いでしょう」と、言った。すると、二人の主婦は、ぎょっとした顔で、私を見た。二人は、食中毒の予想など、これっきりも、持っていなかった模様だった。確かにすべての材料は、上等で、新鮮で、お台所も広くて明るかった。二人には、食中毒なんて、頭の片隅にさえ、無かったと思う。でも、そういう目で、改めてハムを見てみると、確かに降るそうだ。その上、火葬場から、みんなが帰って来て、お膳につくのは、五時過ぎで、三時間も後だった。しかし、人間関係としては最悪だった。あたりの気配は凍り付き、私は、いたたまれなくなって、自宅へ帰った。
しかし、30分後、二人の年上の主婦は、私を、呼び戻しに来てくれたのだった。そして、三人で仲良く50人分の箱膳を作り上げた。そういうわけで、前の住所北久里浜で、私は、既に、陰のリーダーになっていたのだった。その上、幼稚園のPTA会長もしてきていたのだったから、私が主婦を見る目は、完ぺきだった。性格、人格、心構え、時には教養とか学歴さえも、判断ができる。で、そういう目から見ると、仕事を持つ主婦として、関本夫人は、上等である。その関本夫人が、私を相談相手に選んだという事も適切である
と、判断をしていた。関本夫人が、ちよこれーと遊びを、夜に行ったり、お子さんに、・・・・・私に向かって「逮捕するぞ」と言いなさい・・・・・と、教える前までは。今では、すっかり評価を下げている。『駄目だわ。まあだ、考えが浅いぞ』と、思って居る。
でも時計を前に戻そう。私が関本夫人に、「あなたのお当番は、〇月ですよ」と教えたのにもかかわらず、「その当番が、が回ってこないのです」と心配げに、打ち明けてくれた夜に戻そう。
結局何かがあって、関本夫人は抜かされたのだった。それで、関本夫人は隣の平木夫人を過剰に、意識することとなった。わけがわからないので、平木夫人が意地悪をして、富沢夫人に抜かす様に頼んだのかしらと、誤解をしたのだろうと、思う。
そして、知らず知らずのうちに、ライバル心を醸成していったのだろう。私にも、それを質問をされた夜には、何故、関本夫人が抜かされたのかが、わからなかったし。そういう話を二人で、していると、大原光孝が、飛んできて、間に入って、関本夫人を奪って行った。私には、もうかかわるなという感じて、彼は、自分の体を、二人の間に入れて来た。
私は、しばらく、二人の後ろで、大原光孝の、言い分を聞いていた。すると、「僕が変わってあげたんです。だって、関本さん、この間も、海外出張があったじゃあないですか? 忙しいでしょう」といった。それだけを聞いただけで『ああ、大原光孝って、相変わらず、何にも深い思考がないのですね。あなたって、会社勤めをした事がないでしょう。だから、束縛のある母親の気持ちなんて、さっぱりわからないわけね。彼女は忙しいけれど、お子さんのためにやりたいのですよ。そういう大切な、目的を推察することもできないなんて、本当にどうしようもないおバカさんですね』と思った。で、そばを離れた。しかし、『そういう事だったのか』と、関本夫人が三井物産勤務であることに思いが至ったのだ。
だって、大原光孝とは、今の所、奥さんが家出をしている、独身の男だ。そういう立場の男性に、海外出張に行くとか、行ったとか、言ってはいけない。私生活の内情を告げてはいけない。不用心に過ぎる。今回のシリーズで、私は、関本夫人には隙があると、言って居る。これも、そういう隙の一つだった。
しかし、なのだ。もし、関本夫人が、三井物産勤務であり、中谷共二氏の遺児二人、特に、下の方の、三井物産勤務の男性と、既に、知遇があるのなら、そういう隙を、大原光孝に見せるのもありだと、思う。というのも、大原光孝は、中谷氏の遺児二人とは、いまだに、親密に付き合っていると、見ているから。そちらから、「大原を信頼をする様に」と言われたら、あなたも、文句なしに信頼するだろう。で、私生活のスケデュールも打ち明けることとなるのだろう。だけどねえ。あなたは知らないのでしょう。大原光孝って、会社勤務をした事がないので、少しの我慢もできない人物で、しかも、とても軽いのですよ。あなたの代わりに引き受けたといっても、会計処理の頁は、空欄でしたよ。私は、慌てて、次をめくって、大原光孝の頁も見ましたが、それも空欄でした。もし、このブログを読んだ後に、そのノートを廃棄に回して、別のノートを作ったとしたら、それも、一種の公文書偽造ですが、あえて、白紙の頁に、数字を並べたらさらに、罪が深くなりますね。だけど、この山の人って、相当なうそをつく人が多いので、そういう事もやりかねないです。というのも、植木鉢の怪と、言うのを後注1に置いておきますが、鶴岡八幡宮の龍村さん、それを、きちんと、お読みくださいね。この鶯が啼くという山の上の町内会って、そういう魑魅魍魎の世界なのですよ。
この様にして、調査も何もしなくても、そうです。探偵を雇わなくても、関本夫人の勤務先がわかって来ることになります。
ただし、どうして、大原光孝が、現れたのかは、ここで推察をして、それを、特記をして置かないといけません。私は直観で、この山は、静かなので、安野家に、関本夫人と私との会話が、聞こえたのだろうと、思って居ます。で、大原光孝は、例のぺちゃくちゃと、軽さ120%の生き方、方式で、安野夫人にあれこれ、告げていたのでしょう。そで、内容も彼女には聞こえたうえで、大原光孝の、落ち度が、わかったわけです。わかって、大急ぎで、大原光孝を呼んだのでしょう。
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副題4、『この山の人は、本当に嘘をつくのが好きですね』
副題5、この章の結論、
ところで、午前五時になったので、28日に書き始めた、ブログの結論を、ここで、書いてしまいます。アヤソフィアのモスク化は、こういう処々を書いてほしくないので、起こされた事でしょう。雪ノ下の諸種を書いてほしくないので、私にだけわかる方式で、海外ニュースを用いて、脅かしてきたのです。
どうしてそう言えるかというと、1999年の、ヴェニスビエンナーレに、森万里子さんが出ている事。しかし、私のパソコンには、それに関する情報が一切入ってきていない事。森万里子さんは、その年では、私の美術上のライバルとして規定をされていた事。それは、森万里子さんの作品が、大金をかけたからこそ、出来上がる種類の作品で会って、私が、その情報を知ったら、はっきり批判をすることを恐れたと、思われる。
森万里子さんは、森ビル(銛コンツェルン)創業者の孫の筈で、大金を、受け取れる立場になっていると、思われる。パリにいる日本人が、「ものすごい、有名な人よ。どうしてあなたはしらないの?」と言われたが、私には、新聞テレビ、ネットのすべてを通じて、1999年には、何も入ってこなかった。
それから、森ビル(又は、銛コンツェルン)が、ホテルチェルシーを買収した事。ホテル・マリオットの名前で、買収した事。
ホテルチェルシーは、私の【黄色いさくらんぼ】に出てくる重要な場面なので、だから、大改装をされてしまったと、感じている。日本でいう国宝、とか、文化遺産級の扱いを受けている、一種の美術館であって、経営者、二人の教養の深さは、相当なものだった。けれど、すでに、100歳は超えて居るはずで、亡くなっているかな? だから、買収をされてしまったのか?
それから、ホテルチェルシーに関する書物(勿論英文)を、買って来てあるはずなのに、今、本箱には、無い。泥棒が盗んだらしい。これも、ホテルチェルシーの買収が私狙いだと、言う由縁だ。
これが、この2020年に入って、急に私にわかった現象なのだけれど、その把握の、きっかけは、上記の私の五冊目の書物【黄色い さくらんぼ】の、タイトルとなっている、黄色いサクランボを買った、スーパーの、名前を確認したいと思って、ぐぐったら、それが、消えていて、レストランになっていた事。
私が感じているのは、そのスーパーは、ヨーロッパの市場(マルシェ)をほうふつとさせるインテリア(店内のつくり)になって居て、サクランボも、数十キロ麻袋に入ったまま、入り口近くに置いてあった。自分で、12粒ほど、拾い上げて、小さなパックに入れて帰る。だから、日本の佐藤錦などとは正反対。5月か、6月に収穫したものを、ぎっしりと、言う状態で、麻袋に詰めて、冷蔵庫にでも、保存をして置くのかな? だから、皮はしわしわ。だけど、大粒だし、そういう意味で、一粒に食べがいがあり、驚くほど、おいしかった。
このサクランボは、自分用に買った。しかしホテルチェルシーに滞在している、先生(黒人の版画家=既に、パーキンソン氏病に、かかって、身動きができない)、ロバート・ブラックバーン氏に、2001年の、午前中に、買って来てと頼まれていた、全粒パンを、時間が遅くなって買う事が出来ず、仕方がなくて、それをお土産にもっていって、お別れのあいさつをした。
その時、私は、それを、すでに、4粒食べていて、たった、8粒しか残って居なかった。ところが、ブラックバーン氏は、6粒ほど、残ったそれを、長年、付き添ってきたお手伝いさんにあげようと、いう。実は、午前中にも訪問をしていて、その時は、上等なクッキーをもっていった。個展に来てくれた日本人の人が選んでくれたもので、最高においしかったが、既に、数が、少なくなっていた。四枚ぐらいしか残っていないのに、それを、お手伝いさんにあげようという。その時には、お手伝いさんではなくて、若い、看護師風の人が付いていたが、先生のパンツに穴が開いているのを発見して、
私は、悲しくて、悲しくて、早々に辞去したのだった。先生は、黒人ながら、パリ留学をするほどに優秀で、教養が高かった。だけど、それだからこそ、結婚をされなかった。釣り合う相手が、いなかったのだと、思う。教養は高いがお金は、それほどにない。版画工房の経営者だったが、版画工房など、もうかるものでもないし。
それで、最初は、ワンルームマンションとして、建築されたホテルチェルシーにずっと、滞在していた。で、そのパンツの穴だけれど、貧乏だから、古いものを穿いていたわけではないと、音で、わかって来る。体がもう動かないので、ペニスが、容易に出せる様に、着せた後で、ペニスのそばをハサミで、ギザギザに切れ目を入れたのだった。
@@@@@ここが書きかけ中です。後で、充実させます。
ブラックバーン氏から作品コレクションを渡したいと、言われたらしいのに、取りに行けなかったこと。
ブラックバーン氏と正反対の、露悪家のホアレスさんの、孤独死と、極貧の生活だったことを後で知る事。毎日、毎日サツマイモ入りの蒸しパンを食べて、暮らしていた事。それは、一時期、同姓をしていた日本人女性が、彼に作り方を教えたものだったらしい事。
杉本博司には、言及したモルガン先生が、森万里子に触れなかったのはなぜか?
私が、1999年に、現代美術の講義を受けていたモルガン教授が、その秋、抗議を、一階や済んで、ベニスビエンナーレに行って居るのに森万里子さんには、一切触れていない事。
モルガン教授は、ベニスから足を延ばして、アヤソフィアを訪れ、それを見た感動を学生たちに語ったこと。私と主人は、トルコには、1980年、教授より、20年前に言って居て、二週間の個人旅行をしている事。
他、他、たくさん書かないと、いけませんが、
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トルコ ”モスク化”のアヤソフィアで86年ぶりに金曜礼拝
トルコのエルドアン大統領が世界遺産のアヤソフィアを博物館からイスラム教の礼拝所であるモスクに変更したことを受けて、86年ぶりとなる金曜日の集団礼拝が行われました。今回のトルコの措置にはキリスト教圏から失望の声があがっていて、今後、欧米との溝が深まることも予想されます。

こうした中、イスラム教の価値観を重んじるトルコのエルドアン大統領は今月10日、アヤソフィアを再びモスクに戻すと決定しました。
この決定を受けてアヤソフィアでは24日、エルドアン大統領も参加して86年ぶりとなる金曜日の集団礼拝が行われました。
礼拝は新型コロナウイルス対策としてマスクを着用し、互いに距離をとって行われましたが、アヤソフィアの周りの広場にも建物に入れなかった人たちが大勢集まって、祈りをささげていました。
エルドアン大統領は礼拝の間に限ってキリスト教を題材にしたモザイク画などを布で覆うもののふだんはこれまでどおり公開するとしています。
ただ、近代トルコの政教分離の象徴とも見られてきたアヤソフィアをイスラム教のモスクに戻した今回の決定にキリスト教圏からは失望の声が相次いでいて今後、欧米との溝が深まることも予想されます。
エルドアン大統領のねらい

以前は禁じられていた公の場でのスカーフの着用を解禁したほか、アヤソフィアをモスクに戻すことにもたびたび言及し、意欲を見せていました。
ただ、このタイミングでモスク化に踏み切った背景には政治的な動機も指摘されています。
エルドアン大統領が率いる政権与党は、去年、首都アンカラやイスタンブールの市長選挙で相次いで敗れ、このところ人気にかげりも見えています。
新型コロナウイルスの影響で国内経済が大きな打撃を受け、国民の不満も高まる中、エルドアン大統領にはアヤソフィアをモスクに戻すことで、保守的な支持層をつなぎとめるねらいがあったのではないかとみられています。
エルドアン大統領は、キリスト教圏から失望の声があがっていることに対し、「アヤソフィアをどう使用するかはトルコの主権にかかわることだ。アヤソフィアには引き続き、誰もが訪問できるようにする」と述べ、理解を求めています。
アヤソフィアの変遷
アヤソフィアはビザンツ帝国時代の537年、当時のコンスタンチノープル、現在のイスタンブールにキリスト教の大聖堂として創建されました。
それから1000年近く、ギリシャ正教の総本山となっていましたが、1453年にオスマン帝国が町を征服すると、オスマン帝国のスルタンはアヤソフィアをイスラム教のモスクに改修しました。この時、建物の外にはミナレットと呼ばれる塔が4つ立てられるとともに、内部には「預言者ムハンマド」などと書かれた円盤状の飾りが設置されました。
そして第1次世界大戦後に近代トルコが建国されると、アタチュルク初代大統領は1934年、アヤソフィアを宗教施設ではない博物館に変更すると決定しました。
この決定には、トルコの近代化と西欧との融和を進める意図があったとされ、アヤソフィアは異なる宗教と文化の共存の象徴とも呼ばれてきました。
しかし、この歴史的な決定から80年余り。今月10日、トルコの最高行政裁判所はモスクを博物館に変えた決定を無効だとする判断を示し、トルコのエルドアン大統領はその日に大統領令を出してアヤソフィアをモスクに戻しました。
これに対し、EU=ヨーロッパ連合のボレル上級代表は「アヤソフィアを博物館にするという、近代トルコが行った画期的な決断の1つを裁判所がひっくり返し、それを宗教を担当する省庁の管理下に移すとエルドアン大統領が決定したことは残念だ」とする声明を発表するとともに、トルコ政府に対し、考え直すよう呼びかけました。
また、アメリカ国務省のオータガス報道官が「われわれは落胆している」という声明を発表したほか、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇も「アヤソフィアのことを考えると私はとても心が痛む」と述べるなど、キリスト教圏からは失望の声があがっています。