前報を、膨らませるよりは、こちらで、別章を起こします。
副題1、『英語の学術論文を精査し続けたことが、現在のブログ文の、根底にある。私は、自分の文章を、常に、中学生並みの文体でと書いて居るが、卑下して居るつもりは全くない。そして、このブログ文は、読解が、結構難しいものであると、言う事も自負している』
私は、東大教授の秘書として、雇われたのです。最初は、今でいう派遣社員というか、教授のポケットマネーで、雇われていて、教授は、私の存在を表に出すつもりもないという感じでした。
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副題2、『東大に勤務したのは、窮余の策だったから、どう扱われても仕方がないとは、思っていた。で、本当は、もっとしっかりした会社、小さくてもいいから技術を磨ける会社に勤務したかったと、思ったほどだった』
私はいわゆる就活では、母校の化学科。の助手になる事が決まっていました。ところが、卒業実験で、任された課題が、余りにも困難なもので、それで、体を大変、いためました。芳香族炭化水素(不良少年があんパンと言って、酩酊用に使う、いわゆるシンナー類)で、毎日激しく突沸をするので大量に吸ったのです。で、からだ中の血管の弁が、普通のひと並みのスピードでは、もう、閉まらないそうです。
だから、1980年のトルコ旅行ではイスタンブールのシェラトンホテル内で、4時間も気絶して居て、蘇生術を施されたほどです。
大学四年時は、
学生運動華やかなりしころで、ハンストが行われて、友達関係で、それに加わったのですが、次の日には、もうドクターストップがかかるほどに、弱かったのです。一番最初、それもほかの人には理解できない速さで、脱落したので、いわゆるスト破りとして、嫌われたと、思います。でも、血圧が、異様に下がったので、15年後のイスタンブールと似た様子になりかねなかったと、思います。
それで、介護の方は、私の自宅の両親に任せた方がいいという事になって、普段は寮に暮らしていたのですが、その後の数日間、自宅療養をすることになり、見守るために、友達が付いてきてくださったのです。国際キリスト教大学の友達で我が家を見た人は、この人だけですが、「あなたのおうちって、何てきれいなの」と言ってもらえました。
私のお友達って、銀のさじを咥えてきた人が多いから、おおきなお屋敷に、住んでいる人も多いのです。私の実家は、敷地100坪(実際には、99坪らしいが)、で、建坪35坪ぐらいです。しかも、1950年建築ですから、木造家屋です。隣は、竹中工務店・設計・施行の豪邸(屋根が最初はジュラルミンで葺いてあったので、後ろの人がまぶしくて困ったらしい)ですが、うちは、構造用の、材木だけは木曽の営林署から、買ってきたヒノキだけど、それ以外は、本当に普通の材料の家です。ただ、父が若くて、こういう家にしたいと、言う主張があって、それが、センスがよかったので、他人には、きれいに見えたのでしょう。その主張のもっとも、強いポイントは、部屋にものを置かせないという主義なのですね。タンスも、置かせない主義だったから、困ったと、後で、母が言って居ました。
でね、父がどこのお屋敷を見て、ああいう家にしたかがわからないのです。テレビで、桂離宮の内部を見たけれど、似ていません。それから、料亭には、出入りしていたので、そのインテリアをまねしたのかというと、そうでもないのです。ほら、直木賞、芥川賞の審査が行われるところが、テレビ画面に映るでしょう。でも、全く違います。我が家は和室でさえ白いのです。
ふすまの桟は、白木(一般の家は、漆を塗ってあるものが多い)、ふすま紙も、厚手の鳥の子を使って居て、地紋はあるが、色は真っ白です。友達はアート部の人だから、美的センスの高い人で、その人に、「きれいなおうちね」と言われたのは。うれしかったです。ただ父が亡くなると、母は、暮らしやすいように、色々な、家具を、あっち、こっちの部屋に置くようになったので、全く普通のおうちになってしまいましたけれど。でも、その実家を、とうとう売ってしまった。それは、鎌倉エージェントのいじめが原因だから、本当に悔しいです。大谷石の崖は、3.11にもびくともしなかったのに、横浜市条例によると、大谷石の崖でできている敷地だから、新築ができないそうで、それを嫌がって、売ってしまいました。しかし、西隣の人は、同じ大谷石の崖でも、建築制限がないそうですよ。で、三区画に分けて、一区画5000万円で売っています。なんという偏波か? おかしい。おかしい事です。
まあ、私の文章は何を書いても鎌倉エージェントから、すさまじいいじめ(弾圧)、しかも理不尽極まりないもの・・・・を受けていることの報告になってしまうのですが・・・・・
まあ、元に戻れば、非常に体が、弱いのは、事実だと、言う事です。
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副題3、『今般、7月6日に娘と、別離しようと、決意したのは、娘が、「どうしてホテルに泊まるの。お父さんが、心配じゃあないの。一人で置いて居たら急変が起きた時に危ないでしょう。ホテルに泊まるのなんかやめなさい。今ね。キャンセルは簡単にできるのよ」と、何度も、電話内で、言ったので、それに、私が、激怒したからだった。娘は、私のブログを一切読んでいない。それで、私が常々書いて居る、こういう・・・・・私は、特別に、体が弱い・・・・・という状況を全く理解して居なかった。彼女の頭には、父親が、2016年に、心筋梗塞で、二か月程度、入院した事しか、入って、いなかったのだ』
私が、今、白内障の手術を受けようとしているお医者さんは名医として、大変評判の高い方です。東横線沿線の、知る人ぞ知ると、言う感じで、武蔵小杉の、グランツリーの中でも目立たない、目立たない迷路の奥みたいな場所にクリニックが、在るのです。それは、後で、娘との喧嘩の第二ポイントになるのですが、紹介された患者だけ受け入れたいとか、自分の高い評判を、誰かから、聞いた人にしか、来てほしくないと、言うお気持ちがあるからでしょう。
最初の診察を受けた時に、その評判は確かなのだと、理解をしました。まず、先生をサポートするスタッフが多いです。それから、機械類も多いです。それに白内障手術が、日帰りでできるそうですから。
しかし、それは、初日には、余り、進んだ部分を、丁寧な説明として聞いていない段階での話であって、手術の全貌をお聞きすると、白内障手術とは、絶対に次の日に、手術した眼を先生に見せないといけないので、入院するのと同じくらいの注意深さが、患者の方に求められているのでした。でね、付き添いの人が必要だし、その人が、車で、自宅まで、送ってくれるのが、当然のシステムらしいのです。私は、それを聞いて大いに戸惑いました。一人で、来ていいと考えて居たからです。それに、保護が必要で、できれば電車ではなくて、車で帰った方がいいそうですし。
ただ、自宅には、車もないですから、戸惑いました。私の夫は元日産自動車の研究所・所員ですから、北久里浜では、車を持っていました。しかし、鎌倉の家は、石段を、130段上がるほどですから、駐車場がないので、今は、車を、持っていません。
看護師さんは、「車を持っていますか?」とは、質問をしないで「タクシーで帰りますか?」と、質問をしてくれました。で、私は頭の中で計算して、『それならホテルに泊まった方が、おかね、時間、体力の、ありとあらゆる意味で、楽ですね』と、判断をしたわけです。
ところが、娘は、私のブログを一切読んでいません。それは、これを読んだら、大変な状況になるからです。もし読んだら、深い良心の呵責にとらわれるでしょう。というのも、娘は、既に、私を、裏切っているわけです。それはお婿さんからの教唆ですが、お婿さんの裏には、鎌倉エージェントが居ます。それは、お婿さんが、三井物産勤務で、鎌倉二階堂に住む、中谷共二氏の次男が、三井物産勤務なので、そういう事になっているわけです。で、それは、ずっと、気が付かないふりをして、我慢をして居ました。
そして、ブログを読まないだけではなくて、直接に電話をさせない様にも、手配されているのです。その事にも気が付いていました。そちらの方はとても嫌な事で、今般も、彼女宅の、固定電話、および、携帯の使い方に、大いに私は、怒ったのです。昔からそれは、わかっていました。だが、もう、我慢がならないと、成りました。
というわけで、最近の娘は、絶対に、携帯も、固定電話も、自分では取らないのです。子供に取らせます。そして、お婿さんがいるときに、しかも、私が外出して居て、私の主人だけが鎌倉の自宅にいる時を狙って、電話をかけてくるのです。私の意見を聞くことなく、それを決定事項としてしまいます。私は、この7月21日に娘の携帯に二回、又、固定電話に一回電話をしましたが、それは、仲直りをしたいからではなくて、ふと、直観が閃いて、主人(=娘の父)と、彼女が、デートをしているのではないかと、思ったので、居所を知りたかったのです。
その前に、主人が、本日はそこへ行くと言った大船の共済病院の歯科へ、電話をかけました。ところが、来たか、来ていないかわからないと、言われました。今は、すべてパソコンで処理しますので、一瞬でわかるはずなのです。でも、不明ですといわれると、心配がさらに募って、仲直りの電話らしいと、誤解を受けることを招致で、娘に電話をかけたのでした。すると案の定、仲直りの電話だと、言う事にさせられて、彼女が応じますと、言う返事をくれて、白内障の付き添いをしますと、言ってくれました。しかし、留守中に。
鎌倉エージェントは、ソフトバンクの携帯を、一か月ぐらい前に盗んでいます。で、その手当の為に、私は何回も外出しないといけなくて、その日も当然に外出する予定でした。う、それを狙われましたねと、思いました。仲直りをした事にした方が、鎌倉エージェントにとっては、有利なのです。だって、本当の娘との間を、切るなんて、やって居る人間がどれほどに、残酷なのか、皆様だって、ご理解をいただけるでしょう。
そういうわけで、私とは、絶対に個人的な、かつ直接の接触を取らない様に、諮られているのです。それが、もう我慢がならないのです。「直しなさい」と、言っても直せないでしょう。だから別離をすることといたしました。
これは、富沢夫人が、「うちの主人が、ゴルフの打ちっぱなしをするのですが、それが、ご迷惑だと思いますが、申し訳ございません」という電話を、私の留守に、かけてきたときから、『ああ、鎌倉エージェントは、こういう風に、策謀を仕掛けてくるのですね。これが、彼等の、いじめの手法の一つですね。しかも、重要なものなのでしょう。まさしく娘が其れを使いますからと、成っているのです。娘も同じいじめ策謀を、使うように、命令を、されているのですね』と、肝に銘じてわかっていることでした。
ここらあたりは、話がぐんぐん伸びていくところなのですが、本日の話題、・・・・・イコール・・・・・東大での、学術論文(英語)を、チェックする話・・・・・から、余りに、それるので、ここで、無理にでも中断して、私が、留守の間に、電話がかかってくるのが、大問題なのだという件は、別章で、書くこととして、ここは、私が・・・・・体が、弱い・・・・・というにとどめておきます。それほどに、弱くなったのは卒業実験のテーマが無理だったわけで、・・・・・芳香族炭化水素の重合実験は通産省の、大阪実験所(又は、研究所)で、高温、高圧下で、やっとできるものだとどこかで、発見したが、・・・・・其れが体を大きく蝕んだのでした。
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副題4、『ベンゼン、トルエン、キシレン、とは石油からできる物質なので、揮発性が高くて、普通だと、加熱してはいけない。普通の化学実験では、反応を早めるためにアルコールランプを液体の入ったフラスコの下に置くのだが、こういう芳香族炭化水素の、実験では、アルコールランプではなくて、マントルピースというものを使う。それは、ニクロム線をガラス繊維で囲ったものであって、真っ白であった。それが突沸という現象で茶色に汚れる。それは、収量を不正確にするもので、実験の失敗を意味する。それが、非常に切なくて、真夜中に、そのマントルピースの製造元を探して、荻窪をさまよったこともあった』
これから先、ちょっと化学専門の説明に入ります。ただ、現役のケミスト=化学者にとっては、おおざっぱすぎる説明だと、成ると思うし、素人さんにとっては、難しすぎるとなると、思いますが、どうか、暫時お付き合いくださいませ。目的は、どれ程に、私が、困ってしまったか、とか、苦労をさせられたかという説明に入るので、ちょっと我慢をしてお付き合いください。
ここで、一モルの液体は、気化すると、22.4リットルになると、言う法則を持ち出さないといけません。そういう法則があるのです。定理です。高校の化学でも出てくると思うので、思い出してください。
で、トルエンの一モルは、何CCかという設問が次に来ます。それへの答えですが、トルエンの分子量が、92.14g/mol です。そして、比重が、0.866です。で、毎晩何リットルの、トルエンを吸ったかを、計算をしていきましょう。私は毎晩、500㏄を、実験に使ったので、それは、4.76モルになります。一モルが、22.4リットルですが、比重を入れた計算後では、気化したトルエンは、106.4リットルになります。これは、106400㏄です。
あんパンと言って、不良少年が酩酊する量は、大体、50㏄ぐらいを、ビニール袋に入れて、鼻から、かぐのでしょう。だから、この105400ccを50㏄で割ると、2108倍となります。それを、毎晩、吸ったのです。それに、トルエンだけではなくて、似ている物質、(=亀の甲という構造を持っている芳香族炭化水素)の重合物(一種のプラスチック)を作ろうとして、最初にトルエンで実験してもできなかったので、ベンゼン、ナフサのなども実験してみて、三種類を、同じ物質で、二回か、三回繰り返し実験を行ったから、どれ程の長期間にわたって、しかも大量に吸った事になったかをご理解くださいませ。
ところで、念のために申し上げますが、重合というのは、一単位の、物質(炭化水素)の中に、炭素と、炭素の間に、二重結合というのがあった場合、その一本を切って、開いて残りを一重にして、先程の、間を切った一本を、隣の同じ単位物質への腕として使って、隣と、繋げていくという化学反応です。霊としては、ポリエチレンを上げましょう。エチレンという単位物質の二重結合を開いて、繋げていくと、ポリエチレンになります。すごく有名な物質で、日常的に、私達は使って居ます。
先生は、この1965年の次期、ポリ・トルエンとかポリ・ナフサを作ろうとされていたわけです。
しかも、この同じ夜に、床から、水銀も拾わなくてはいけなかったのです。これは、無機水銀という形なので、例の、いたいいたい病などに、私が、成ったわけではないのですよ。だけど、小さな粒に分かれてしまって、しかも、床の凸凹の溝のできた木材の間に挟まった100個以上の水銀を、箸、もしくは、スプーン、もしくは、ピンセット類で、ひろうのは、ひどい苦労でした。
で、ここで、何故、水銀が出てくるかというと、水銀シールというものを使ったからです。特殊な、ふたとして其れを使うのです。化学やさんなら、その道具の名前を知っていると、思います。ただ、中学、高校の段階では使わないでしょう。大学の、理工学部でも、使う教室と、使わない教室があると、思います。国際基督教大学でも、私以外は、使って居なかったと、思います。で、又、面倒ですが、どういうものかを説明をさせてくださいませ。
三つ口フラスコは、1960年代では、とても高かったであろう、パイレックス製でした。その中央の口に、ぴったりとはまる様に、足が、まるくて、三センチぐらい伸びている。全体で、さかずきみたいな形のもので、真ん中に、8ミリぐらいの穴が開いています。そこに、鉄の、羽が付いた、鉄の芯棒を通します。その芯棒を、スタンドで支えて、装置全体の真上に置いたモーターに差し込みます。その上で、みつ口フラスコの別の口から、主材料のトルエンと、触媒アルミナを入れます。そして、アルミナから、塩酸ガスが出るので、それを、別の口を時々開けて逃がしなさいと、言われていました。
でね。どうして、芯棒を入れてモーターで回すかというと、化学反応を促すためです。そのために、下には、お座布団というかお布団の役目をする丸い、マントルピースというのを置きます。マントルピースは装置全体を温めて、これまた、反応速度を上げるために置きます。
今のマントルピースは、改良をされていて、温度設定が、回転スィッチによって変えられるはずです。昔は、それは無くて、単純に、40度ぐらいになるものでした。
普通の化学実験ですと、温めるというと、アルコールランプを使うのですが、トルエンは、石油からできた製品なので、引火性です。で、炎なんかが、そばに在ると、危険ですから、マントルピースを使います。この道具が、私にとって、嘆きの対象となるのですが、それは後の話として、水銀に戻ります。
突沸という現象が起きて、水銀をあたり一面にまき散らすのです。つまり、10000リットルの期待は、水銀シールに入った100グラム程度の水銀など、吹っ飛ばしてしまうのです。で、何故、突沸が起きるかというと、トルエンは、この程度と環境では、重合をしないので、唯、唯、温められて、気化するだけだったからです。亀の甲の、二重結合というのはエチレンや、スチレンの重合よりはるかに、難しいものでした。高圧で、かつ高音出ないと、できないのです。
ここで、徹夜明けですが、既に午前八時になったので、寝ます。続きは、25日の深夜書きます。
ただ、記憶するためにメモを置いておきます。
突沸のせいで、マントルピースの真っ白な、ガラス繊維が、汚れてしまうのもひどく悲しかった。突沸は、私が考える限り、無理ない現象なのだけれど、先生が、その無理を、知っておられない限り、私の責任になると、推定した。そして、収量などにも誤差ができるので、(と言っても、触媒の、アルミナのカスだけしか残らなかったのだが)本当に、本当に悲しかった。それで、ある晩など、夜八時に学校を出てマントルピースの製造元を、電話番号簿で、調べておいて、荻窪の町中をさまよったほどだ。勿論、見つからなかったし真夜中なので、電気が点いているわけでもなくて、どこにも、番地や、製造会社(小さな民家だろうと、思う。手作業で、作っていた時代だろうから)聞く家がなかった。で、ぎりぎりの終電で、帰ったけれど、悲しくて、悲しくて仕方がなかった。で、次の日にとうとう、茶色に汚れた、マントルピースを先生に見せて、突沸が避けられないことを、申し上げた。すると、先生は、そんなに無理をしないで、よかったのに」とおっしゃって、本当にやさしい笑顔を見せられた。そして、この実験は、終わりにしてよいと、おっしゃった。
マントルピースが焦げ茶色になるのは、触媒アルミナの色が、つくからだった。マントルピースは、いくつも保管してあって、既に、他の人が使って、茶色に変色しているのもあった。しかし、私は新品をもらって居て使っていたので、責任をつよく感じて、ひどく参ったのだった。
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副題5、『私は湊宏先生のことを、本当によくわかっているつもりがある。しかし、しかし、助手になる事をお断りをした。そのいきさつは下記の如くなる』
先生は、第二次大戦までは、軍国少年だったと、聞いています。陸軍幼年学校か、海軍兵学校に学ばれたのです。で、その名残は、この1965年あたりまで、残って居ました。姿勢がびしっとして居て、お顔もとても整った美形で、かつ厳しいお顔でした。それに戦後は方針転換をされ、東大へ進学し、卒業をしてフルブライト資金で、留学し、ハーバードか、MIT化、スタンフォードで、学ばれて、博士号を取って帰国をされ、日本化学会のスターでした。そして、当時は、NHKの三チャンネル(=教育テレビ)で、放映をされていた、高校化学の、講師でもありました。
もう大スターでした。今の福岡伸一さんどころではないです。その湊先生が、やさしさに満ちた笑顔で、もう、終わりにしていいです。そして、そんな我慢をしなくて、僕に言ってくれたらよかったのに」とおっしゃってくださったのは、本当にうれしかったです。
で、その後、実験をやめ、二週間ぐらいかかって、論文をまとめ上げ、先生の、部屋へもっていきました。とても明るいきれいなお部屋です。当時の東大とか、その後、テレビに出てくるどの教授の部屋よりも素敵でした。ただ山中先生が、開いている実験室は、とても、広いですね。あれには負けます。
ともかく、先生のデスク、それから当時先生の下で働いていた二人の助手のデスク。実験設備、そして書棚。私は、大きな先生のデスクの横にまるで、医者と患者みたいに座りました。実験が失敗だったことは、大変申し訳なく思って居ました。しかし、私は、こういう際には、非常に楽天的になるところもあって、夢みたいなことを語り始めました。
私は後に画家になるくらいですから、化学もイメージとしてとらえる人間なのです。数式や定理として、とらえる人もいるでしょうが、私には、今、テレビで、紹介される人体の、番組の、CG画像の様に、化学結合も、トルエンの分子が暗黒の宇宙に浮かぶ、はっきりとしたイメージとして浮かぶのでした。それを語り始めました。私はぶっちゃけた会話というのは苦手です。先生にもっと早く、できませんとか、この実験には無理がありますと、言えばよかったのですが、そういう会話はできないのです。
だけど、起承転結がすでに完結している文章としての夢を語るのはできるのです。そして、・・・・・トルエンが、もし、結合できるのなら、こういう風に二重結合が切れることになるはずです。もし、結合が切れないのなら・・・・・と、スムーズに楽しく語り始めました。
すると先生が激怒なさって、「それは、私が考えることで、貴方が考える事ではない」とおっしゃったのでした。私は、びっくりして、すごすごというか、飛んで、外へ出ました。そして、・・・・・湊先生の助手はできない・・・・・と判断をしたのでした。私は実家では、とても大切にされていました。父は明治生まれの人間としては、珍しいほどのフェミニストで、女性を大切にする人でした。パーキンソン氏病にかかった後で、リハビリの為にダンス教室へ通って居ましたが、 母を絶対にほかのだんせいと踊らせなかったそうで、その点で、有名なおじいちゃんとおばあちゃんだったそうです。
ともかく、私は、おとなしい人です。臨機応変の会話とかは苦手です。しかし、常に、自分を相手と対等に、もっていって、一緒にものを考えようとする人です。
で、湊先生の下についたら、一年に何度も「失敗を、しました。また、越権行為を、してしまったみたいです」と言う事になると、思いました。
で、助手になる事をお断りをしました。
なお、この文章は、まだ、まだ、ずっと続きます。この後に加筆をするか、別章を立てるかは、まだ決めておりませんが、ともかく、23時間、起き続けていて寝ていないので、ここで、寝ますね。
ただ、ここでもメモを置きます。
湊先生は、若くして、脚立が倒れるという事故で、数十日間、意識が戻らない状態のまま、お亡くなりになりました。で、ICU教会で、お葬式が開かれて、私は無論、行きました。
で、社会的地位のある人が弔辞を述べました。湊先生は、ある意味で、嫉妬をされていました。一杯嫉妬をされていました。その上、あの爆発が、私以外の相手に炸裂することもあった模様です。だから、超簡単に言うと、嫌われている人でもあったのです。で、弔辞が、よくないと、私は、思いました。で、私は左側の前から二列目に座っていたので、演台まで、かけていって、登ろうかと思いました。目測をすると、12メートルでした。で、マイクを握って、「どうか、私に三分間をください。私から見た、湊先生の、別の面を語らせてください」と、言いたかったのです。
湊先生は、或るポイントで、嫌われていたけれど、悪人ではなかったです。素直な方でした。それに、私が、助手を引き受けなかったことで、ICUで、他の教授からいじめに出会われたそうです。で、他の大学へ転職なさいました。しかし、そこで出会った学生たちが、思わしくなくて、最近しぼんでおられたとも聞きました。私は申し訳ないと、思いました。私は、助手就任をお断りをしたけれど、湊先生を恨んではいないので、先生の新しい、大学に出向いて、結婚式に出てくださいと、頼みました。先生は、来てくださったのです。それは、本当に、キリスト者としての許しの交換の席でした。
そのお葬式に行きました。
