銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

逢魔が辻を創出した渡辺幸子(10年前の望月画廊)と、 開発ちえ(現在のメールの世界で)△

2012-09-28 03:45:48 | Weblog
 今は初稿を書いてから、12時間後です。文末に加筆を(5千字以上)をしています。全体で、19998字です。推敲も終えましたので、タイトル横に△印を入れておきます。

 ところで、これは、続き物『社会の窓が開いている』の#5に当たります。それで、副題が30から始まります。
 
副題30、『なぜ、このシリーズが大切なのか?』
副題31、『サエグサ画廊の、興亡を、今にして思う』
副題32、『渡辺さんが、どうしてか、激しくおカンムリだ』
副題33、『芳名帖の、コピーがもらえない』
副題34、『そこへ、対する、尊敬度が、二人の間では違ったのだった』
副題35、『あなたが先に裏切ったのだから、こっちだって裏切るわ・・・・・ と言うのが渡辺さんの考えだった、と、今ではわかる』
副題36、『たった12人でも派閥の論理(=数の支配)が、成立する』
副題37、『親切すぎるパソコンの先生は、その奥様をいらいらさせるのだった』
副題38、『二転三転する、心理の綾』
副題39、『それは、東京裁判の仕組みとそっくり同じです』
副題40、『それは、今に続いている・・・・・開発ちえさんのメールで、パソコンが壊れた』
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副題30、『なぜ、このシリーズが大切なのか?』

 このシリーズ:渡辺幸子論、『社会の窓が開いていますよ』は、

#1)政治評論・「社会の窓が開いていますよ」・・・#1 (なぜ、反日デモが、ピタッとおさまったのか?)2012-09-20 02:13:41
#2)習近平副主席、パネッタ長官と会う(尖閣デモの行方は?)+新国立美術館、衰亡への予測 2012-09-21 11:47:23
#3)瀬木慎一(手紙)では、無事だったPCが、開発ちえ(メール)を守るためには、壊れた(政治もの)△2012-09-22 20:15:38
#4)瀬木慎一(手紙)では、無事だったPCが、開発ちえ(メール)を守るためには、壊れた(政治もの)△2012-09-22 20:15:38
 
               と、続いているのです。

 私を弾圧している手合いたちは、これを書かせないがために、次々とニュースを作り出しています。中国の大反抗(または、大攻撃と言うべきか?)も、実はこれを書かせないがために、起こされていると私は見ています。しかし、私はそれらのニュースを起こされても左右をされず、すでに、7万字を超える文章を書いているわけで、
 今度は国内に、私を脅かすことが出来ると敵が思っているニュースが、次から次へと起こされています。

 読者の皆様におかれましては、そう言う方について論じた方が、興味がわくとお考えだとも、充分にわかって居ますが、それに触れていると、いつの間にか、本論がうやむやになってしまいます。それは、この3月18日から書き始めている、フェイスブック遮断の文章でもおきたことですし、

 去年、の3月12日から書き始めている原発論についてもおきたことです。去年は菅総理に対する、足を引っ張る、総理大臣不信任案と、松本龍大臣を辞めさせた宮城県庁の、引っ掛け用NHKニュースについて論じているうちに、『どうして、放射能が、体に悪影響を与えるか』について入れないうちに、その論考が、終わってしまったのです。
 ああいうものも、頭を相当に集中させないとかけないので、今、続きを書きましょうと思っても、すでに不可能なことです。2011年3月から5月にかけて、すさまじい集中をしていたからこそ、書くことのできるものでした。

 フェイスブック遮断のシリーズでも、石塚雅彦氏のエージェント説を証明できたはずでしたが、途中で、終わってしまっています。それは、現代日本社会が、被・植民地と化していて、ほとんどの国民は、貧窮にあえぐ方向へ追い込まれているのに、一部の選ばれた(というか、国際的軍産共同体に属するセレブと、交流がある日本人のこと)は、光を浴び、お金を儲けることが出来ると言うことを、さらすことが出来るはずでした。
 ので、今度はしつこく、ここにこだわり続けます。

 このシリーズは一見すると、個人の悪口の羅列みたいに見えるでしょう。それでも、相当に有効なのは、鎌倉と、銀座の両方が舞台となっているお話だからです。鎌倉の銀行二つがこれに関連して動いているし、
 鎌倉の婦人子供会館が関与してきます。
 また、銀座では、ガレリアグラフィカと言う画廊と、シロタ画廊と言う大画廊が、渡辺幸子さんの個展をやっています。

 また、昨日初めて知ったのですが、国際キリスト教大学同窓会が諸手をあげて支援しています。中退の彼女に卒業資格を与えているのは、この2012年に鎌倉婦人子供会館で知りましたが、それ以上の公的な支援を与えています。卒業生代表で,高村薫に匹敵する地位を与えています。

 これらは、表向きの姿ですが、裏側では、彼女を支援するべく、警察まで総動員をされています。で、そこから追求していって、現代日本社会が抱えている闇を解き明かそうとしているのです。
 もちろんのこと、これを書くのは、私にとって大損な事です。ただし、すでに、命を懸けて、一字一字を書いていますので、損失は限りなくあり、そこに顧慮している暇もないのです。
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副題31『サエグサ画廊の、興亡を今にして思う』

 ここは、1990年代に渡辺さんより上の地位にいた桜井陽子さんについて語るために、銀座で有名な大画廊として、屹立していたサエグサ画廊について語っていますが、全体が二万字を超えたので、スクロールすると出てくる下方へ移動をさせました。
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副題32、『渡辺さんが、どうしてか、激しくおカンムリだ』

 さて、これが、2012年現在の渡辺幸子さんの現状ですが、時制を戻して、2004(または、2003年の秋だったか、パソコンを壊されているので、AOLのメールが取り出せず正しい期日が明らかになりませんが)年の望月画廊へ入って行きましょう。

 そこでは、メンバーが、3,4人、つめています。お当番二人と、そのほかがお客を待って詰めています。お当番である私が入室して、30分ぐらい経つと、渡辺さんが入ってきて、激しい口調で、「あなた、こんなに散らかしたら、だめじゃあないの」と言って私の荷物をソファーから落とし始めました。

 私は本作りを常にしているので、当時はA4サイズだったパソコンを持ち歩いています。それに完成した本も、10冊程度。で、荷物が多いですが、すべて大切なものです。他人からバーッと床に振り落とされて、それでいいと思える荷物ではありません。

 驚いたし、こちらも無論のこと怒りました。が、表面にはそれを出さないのが私の常です。
 じっと静かに、『何が怒りの原因?』と探ると、本を出版したことはずっと前から、言ってあるし、差し上げてもいるので、それが原因ではありません。

 と、同時に彼女の激しい怒りの根本にあるのが、嫉妬だと言うことは女の直感でわかります。

 『何を彼女は急に嫉妬しはじめたのか?』と、言えば、絵のサイズだったのです。彼女がその週に望月画廊で展示したのは、F30号、私が展示したのは、S100号と言って、比較すると大変大きいものです。

 だけどね。自分より大きな作品を出した私の方が、目立つから、憎らしくて爆発的に怒るという、そう言う行動様式が、私には理解が出来なかったです。こどもっぽすぎるので。唖然茫然として、彼女を見つめて、そのまま、喧嘩もしないで、お当番をやって家に帰りましたが、

 なんとは無く、別の件(後で述べる芳名帖のコピーが来ないこと)も、彼女の意地悪で変更になったのだと言うことがわかりました。
 で、次の日の昼間、電話で、そちらの交渉を始めました。グループの世話人は、5歳以上、上の元大企業の、偉い人だった紳士です。毎回芳名帖のコピーはもらっていました。

 一人頭五万円のグループ展です。12人で60万円の費用で行います。準備段階と打ち上げのお料理とお酒もそこから出すので、そのコピー代はその方のサービスだったとは感じています。だけど、社会制度上は、超・エリートさんです。だから、それ以前の会で、その「コピー代を払いましょう」とか、「切手代を出しましょう」と言う話は出たことがありません。
 それに私の方は、毎週一回ほど、エッセイをコピーしたものを送っていました。そちら様は当時パソコンを使わない方だったので、そうしていたのです。大会社勤務の男性は、そう言う部分は補助事務の女性にやらせるのだといって、パソコンを使わない人が多かった時代です。
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副題33、『芳名帖の、コピーがもらえない』

 前回までは親切だったその世話役さんが、今回だけは、驚くほど硬くて、コピーは出来ないと強調するのです。

 ここで、どうして、私にはコピーが必要で、他の人にはそれほど、必要でないかの区別について、事情を説明します。
 私は何度も言うように、三年ほど、逗子のアトリエで一人暮らしをしています。海外修行がしたかったからですが、それは、それ以前に家族から美術のシゴトをするのを嫌われていて、『はい、今からニューヨークへ美術のシゴト(研修)に行きますよ』と言って、スーツケースをもって自宅を出発することなど不可能だと感じたからでした。

 だが、修行に余りに無理を重ねたので、背中全体に激痛が走る病気になってしまって、それをなんと、主人が治してくれたのです。エンジニアだった主人は、当時国家試験を通って、東洋医学をマスターしていました。で、主人のところに、毎週三回通って、治療を受けたら、三ヵ月後快癒したのです。

 治るとは思わなかったので、驚いて、『これは、天からの・さ・と・し・であろう』と感じました。で、大画家に成るのをあきらめて、家庭に帰ったわけです。
 私は余りにも深く集中するので、家族と一緒ではなかなか、芸術の創作が出来ません。特に美術方面はそうなのです。文章はパソコンで、書くと分離・分断してシゴトが出来ますが、美術、特に版画は、分離・分散した時間では出来ないのです。
 でも、私の場合のよさは、家族に自由に批判をさせることでしょう。こちら側に、弱さとか、負ける気持ちがあるところです。母親だから、子供から批判をされたくないなどとも思っていないのです。だから、子供たちは、きちんと大人になりました。

 恋愛もした模様です。だが、その途中でも、慎重によく考えて行動をした模様です。誰かを傷つけて、妊娠させたとか、堕胎をさせたとかは、無論のこと無くて、反対に、こちらが、ストーカーに追われたというようなこともなかったです。ごめんなさい。はっきりいって自慢げに成ってしまいますが、立派な結婚式を二人とも、自分たちだけの力であげて、その後、子供も育てています。私は今では孫の4人も居るおばあちゃんです。

 一粒の麦、もし、地に落ちて死なずんば、と言う言葉があるように、親に成った限り、自分の方があきらめるほかはないのです。だから、できることは限られるようですね。制限下で、暮らすのも仕方がないのです。で、この2003年の秋か、4年当時は、息子の方が、最も私に対して、厳しい頃でした。娘はすでに結婚をして家を出ていましたが。

 主人が治療院を休む、月曜日と木曜日は何とか、外出が出来ます。だが、土曜日は息子は休みです。家に居ます。銀座に行くのに、朝起きた時の普段着ではいかれないので、着替えるでしょう。すると、「どうしたの? どこへ行くの?」と聞かれるでしょう。「今から、高島屋に買い物に行くのよ」なんていう嘘がつけないタイプなので、困り果てます。それに土曜日の夕方、望月画廊まで行ってしまったら、片付けと、あれこれで、夜の八時ごろ絵を持って鎌倉に帰る事になるし、絶対にだめです。

 で、業者さんに頼んで、運んでもらう事にしていました。100号正方形というのは電車に乗せるべきサイズでもないほど大きいから、これは、おかしいことでもありません。普通のことです。

 だけど、最終日の土曜日に行かないと、芳名帖を最後の頁まで見られないので、どなたがいらしたかがわかりません。
 私はこのころ、ちょうど、公募団体展(女流展と、国展の二つ)をやめようとしていました。だから、そこに変わる場所として、この望月画廊の大学同窓会展を考えており、プロの画家としてのお友達や知人を招いていました。

 参加して三回目となるから、中の様子もわかっている上で、そこを、一種の発表の場とさせていただいたのです。他の人にとっても発表の場なんですよ。だけど、「趣味で描いた小さいサイズの作品を、お友達に見せましょうね」と言う雰囲気です。ただ、渡辺さんと、私だけがプロの画家といってよかったと思います。
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副題34、『そこへ、対する、尊敬度が、二人の間では違ったのだった』

 ところで、時間を、元へ戻します。私は、田沢先生に対する愚痴を渡辺さんから聞いていても、お返しとしては、同情もせず、同調もしませんでした。自分自身の方は、『こういう世界には合わない』とすでに判断をしていて、早晩身を引くつもりでした。

 が、それを、渡辺さんに言ったことはありません。彼女は美術界、いわゆる画壇内での、出世に懸命にまい進している時期だから、何を言っても、「あら、いやだ。それって負けじゃあない」と言うだけでしょう。
 
 でも、国展などの上野での、公募団体展をやめる予定なのだから、たとえ五万円だけの出費のグループ展(それは、飾る壁の面積が横幅2.5メートルぐらいもらえる形)でも、真剣に取り組むつもりで、当時描いていたもっとも素敵な絵を出したのです。
 
 それは、出来具合といい、大きさと言い、確かに渡辺さんの30号を上回っていました。これが、今の私だったら、『ああら、いやだ。渡辺さん、私って、今回は、あなたを、上回っちゃったみたいよ? へら、へら、へら』とか、笑って軽口をいえると思います。

 そう言う風にこちらが、軽く出れば、渡辺さんも、救われてね。「そうね」で終わりだったと思いますよ。だけど、私もあのころは、上品なままの硬いだけの時代だったし、渡辺さんも、まったく余裕がない時代だったのね。お互いにぎっち、ぎちの時代だったのです。

 特に、彼女のほうは、前の週の土曜日の段階で、怒りが始まったのですが、トップのK氏に根回しして、芳名帖のコピーを今回は郵送では、送らないと言うことが決めた後だったので、勝利感に酔っていて、ついあれほどの、乱暴狼藉を銀座の画廊ないで、やったわけです。
 このサイズの件ですが、これが単にサイズの問題だけではなかった事に、今は気がついている私です。
 で、最近の解釈を、以下の副題35に述べます。
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副題35、『あなたが先に裏切ったのだから、こっちだって裏切るわ・・・・・ と言うのが渡辺さんの考えだったと今ではわかる』

 渡辺さんにしてみれば、土曜日に、S100号と言うサイズを見たとたんに、私に『裏切られた』、とか、『出し抜かれた』と感じたのだ、と、今ではわかります。だから激怒したのです。無論、私にはそんなつもりは無いけれど、彼女の心の中の不安や不満が、そう言う誤解を生んだのです。

 どうしてかと言うと、二人はしょっちゅう電話を交わしいて、その中には、田沢先生の悪口も含まれていましたが、同時に彼女の予定表もふくまれていました。冬は、鎌倉美術家協会展に出す30号と50号を作る。その後、神奈川県展に出すか、新制作のどちらにでも通用する、150号を三枚か、四枚程度描く(このサイズ規定は、2000年当時までのもの。今は不況なので、変化している可能性がある)。その後、各種のコンクールを目指すので、それに合致したサイズのものを作る。それは、コンクールの規模によって、30号、50号、100号等の差がある。それらを全部制作し、かつ、アマゾネス軍団とか、田沢先生関連のお付き合いがあるので、非常に忙しい。

 「だからあの、大学同窓会展なんて、本当はどっちでもいいのよ。面倒くさいぐらい」・・・・・と、語られました。

 一方の私ですが、1997年までは、ほとんど同じです。違う所は、出品する団体名が違うだけです。春が、女流展と、国展、夏は神奈川県展、秋は神奈川女流展、(昔は毎日展というのがあったが、それがなくなったので)、上野の森大賞展などに出す。私の場合はほとんどを、100号で制作し、だいたい年に7枚描いていました。
 しかし、ちょうど、渡辺さんと付き合いだしたころ、すれ違いに、油絵より版画、または、文章へ傾斜していくのです。そちらの方へ興味も意欲も移動をしていきます。
 
 無論彼女にもそれを語りたいのですが、彼女は、他人には興味がない人です。自己愛の人で、他人がただ、そこにいるだけでは、大切な存在だとは思えないタイプです。
 自分に役に立つ人間に対しては、最高の笑顔と愛嬌を見せるでしょう。たとえば、後日彼女が付き合うことと成る、シロタ画廊の人々、酒井忠康氏、栗田玲子さん、江見絹子さん、などには最高の忠誠心と尊敬を示すでしょう。  
 が、私のように、対等か、対等以下(?。画家としての行動は、上野の公募団体展への入選も、銀座での個展も、すべて、私の方が先鞭をつけているが、彼女がそれを認めていたかどうかは疑わしい)の存在には、興味も敬意もないのです。

 それは、前にも言ったとおり、毎週一回プリントアウトをした私のエッセイを郵送で送っていても、全然読んでいなくて、「どうして、こんな無駄なお金を使うのよ」と叱ってくるぐらいですから、私にはよくわかっていたのでした。それに、私は、2003年には厚手の表紙の、美しい本を400冊作り上げ、それが、好評だったので、すっかり、そちらへ興味が移っていたのです。でも、平行して油絵も描いているから、それを、望月画廊の大学同窓会展に出したわけです。そこを「素人の展覧会よ」と馬鹿にしては、いないからこそ、堂々たる100号を出したわけです。

 それは、こっちの事情であって、別に渡辺さんを打ち負かそうとして気張ったわけではないのです。だけど、彼女はそうとって、「そっちが先に裏切ったのだから、こっちだって裏切っていいわね。当たり前よ」ともなって、幹事のK氏にとんでもないことを告げ口したのでした。そのとんでもないことが、本当にとんでもないので、

 今まで、この件が、書けませんでした。すでに、8年も経っていて、その間、ここで、成功した事例が他の友達にも次から次へと当てはめられていくので、『早く書いた方がいい。そうしないと友達はすべて失うだろう』と判っていながら、書けなかった挿話なのです。

 つまり、私と喧嘩をした人に賞を与える。それによって、私を苦しめる。そう言う例の端緒だったのです。が、分析した文章をアップできないで居るうちに、すさまじい数の友達が似たような措置を取られて別れていったのでした。

 ここで、くどいぐらいに強調をしておきますが、もし、渡辺さんを打ち負かしたいと思っているのなら、その大学同窓会展を、やめないです。または、国展に出品するのもやめないです。女流展に出品するのもやめないでしょうし、神奈川女流展に出品するのもやめなかったでしょう。画家としての成功をもたらすはずの道はすべて、キープし続けたはずです。

 私は、上下関係には興味がなく、勝負を誰に挑むのも興味が無いのです。勝敗も気にしません。そう言うものにこだわっていたら、この様な長くて、複雑な文章は書けません。

 常に心を透明にしておく。何もかも、きれいに払い流しておく。それでこそ、文章が書けるのです。大きな時間的な流れを俯瞰しながら書くことが出来るのです。
 しかし、渡辺幸子さんは、何事も自分流の物差しではかる人でした。だから、他人は他人であり、違う様式と違う考えで生きているのだと言うことが推察できないし、許容もできない模様です。
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副題36、『たった12人でも派閥の論理(=数の支配)が、成立する』

 ところで、その後、この会は、会員数が増えてきたみたいですが、この挿話の前後は、そこは12人だけの会で、和気藹々で、家族みたいな間柄でした。例の外人記者クラブで会食する日に、私は自分が作った本を持参して皆さんに差し上げながら、「これは、表紙の装丁は、専門のデザイナーにお願いをしたの。作品の図柄は自分の版画を使っているのですが、パソコンでデザインすることが、まだうまく出来ないのです。はがき程度ならできるのだけど、表紙となると複雑で」と言ったのです。

 すると、B子さんが「アラ、それなら、内の主人が教えてあげられるわ。うちに習いに來なさい」と仰ったのです。

 これから先のエピソードが語るに語れない、難しさがあるのです。それで、少しそこから離れて、数の論理と言う事に入らせてくださいませ。永田町ではないが、たった12人の中にも派閥があるのです。

 B子さんは、実は世話役トップのK氏と、同学年です。ICUは、学生数が、一学年200人以内で、その中で、外人も多く含まれているので、日本人同士は、非常に仲良しです。しかも、C子さん、やD子さんという、女性の仲間(同期)も居ます。で、一大勢力をなしています。特に重要なのは、B子さんが、結婚の関係で、C子さんと、義兄弟(本当は姉妹だが)に成っているということですが、それも力として、加えないといけません。

 そして、もうひとつ、もっと大きな派閥があって、それが、渡辺さんのグループです。彼女は、これも同期生の、Fさん(男性)と言う仲良しが居ます。その上ご主人がICU卒です。そこで、すでに三人になります。その上、4人目として、石塚雅彦夫人が居ます。この人が渡辺さんと同期で、その夫、石塚さんは、渡辺幸子さんのご主人と同期です。そして、石塚さんは、もう一人、お医者さんになった男性を引き込んで、いざとなったら、その人と同盟を組むでしょう。

 ああ、なんということだろう。私は、非常に弱い立場です。

 結局のところ、渡辺さんは外縁部も含めれば、合計6人の大グループを形成しているのでした。・・・・・うーん。負けている。はっきり言って負けている。・・・・・戦っても勝ち目はない。

 だけど、もっと問題なのは、非常に感覚が違うことでした。私は渡辺さんを微塵も裏切っていないのに、裏切ったと取られている。そして、さらに困ったことは、渡辺幸子さんが、明瞭に復讐をしてくる人だったことです。
 でね、芳名帖のコピーをもらえないことは、そちらの二つの派閥が合体をしたことであり、総計10人以上の大グループを一人で相手にすることとなります。で、私にはどうしようもない切ない場面が展開するだろうと思いながらも、念のために、K氏に電話をかけたのです。

 一応銀座で、すでに、相当な存在感も示している人として、プロの画家のうち、誰が來てくれたのかは知っておきたいと思いましたから。

 それらが、全部盗聴をされていて、研究され尽くすのですが、この2003年とか、2005年にはまだ、それには私の方が、気がついてはおりません。
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副題37、『親切すぎるパソコンの先生は、その奥様をいらいらさせるのだった』

 さて、とんでもない話と言うのにいよいよ入ります。
 親切なB子さんと連絡を取ってご自宅に訪問をしました。鎌倉でもっとも大きな和菓子店である豊島屋の和菓子をいろいろセットにしたものを、5千円ぐらい買って。
 ところが、アドビ・イラストレーターって、教えるのが大変です。時間がかかります。その間なのですが、奥様のB子さんがそわそわし始めたのです。
 なんとなく理由が判りました。当時で、私が60過ぎ、先生(=ご主人)は、65歳以上のはずです。色事なんか遠い世界ですが、言葉の色事の気配があるのです。

 先生が私をほめすぎます。それが、子供っぽい言葉で、かわいがると言う調子です。それが奥様にはイヤでたまらない。だけど、上品なセレブのご家庭だから、奥様がさばけた調子で、『ちょっとあなた、目に余るわよ。もうちょっと抑えなさい』とは言えないのです。
 
 私のほうも言えません。今ならね。さばけた下町のおばちゃん風に、「ねえ、B子さん、ごめんなさい。今日だけ、ご主人様、貸して。何か、調子よくて、まるで、私の恋愛相手みたいよ」とか、言ってしまえたかもしれません。それで三人で笑いあって・お・し・ま・い・。

 ご主人が大企業の社長一族の出で、お坊ちゃま過ぎるのです。一方で、奥様はさそり座さんだから、こういう事に、目端が利いてしまうほうです。気になって仕方がなくなる方です。普段とは違う経験に、はしゃいでおられるだけです。

 私って、実は全然違うのよ。誰からも、「かわいい人だ」とは言われます。無論天然でそうなのです.演技ではないです。それと、容貌ではないです。(笑)性格の方面です。
 だけど、一方で、こんなに硬くて長い文章を書く人だから、常に冷静で、物事を全体像で見つめる人だから、安心して欲しいです。B子様。

 だけど、無論、その当時のそのお宅と言う現場では、そんなことは、いえず、まるで、針の筵に座ったも同然で、非常に苦しみました。そして、その日以来、その件が気にかかり始めました。問題はB子さんです。大学同窓会展は準備段階では、作品を運んだりするパートナーは来なくて、正メンバーだけです。たった12人が、お食事を一緒にする。そして、B子さんには、義兄弟の、C子さんが居て、同級生のD子さんが居る。となると、私以外の女性のメンバーは、渡辺幸子さんただ一人でした。で、ものすごく難しい関係になりそうでした。

 無論、渡辺さんに相談する前に、B子さんと腹を割って話し合いたいと思いました。が、すでに、そう言う段階ではなくて、彼女は硬化していました。あのころの私は若かったです。今ならひどい経験が重なっているので、無視しておいたでしょう。もし、B子さんや、彼女のお友達が、意地悪な態度を取ったら、『ふん、ご主人が、エッチなのに』とか腹の中だけで、思っていればいいのです。

 だけど、この2007年から始まった、パソコンの破壊行動、それから、偽装した警官らしい人からの追尾や、脅かしなどの、種々さまざまな弾圧に出会う前は、私は「ねんね、ねえ」と別のお友達から言われてしまうほど、純粋で不器用でした。自らの根幹に高いルールがあって、それから外れないで生きたいと願っていました。

 だから、B子さんと真に打ち溶け合って、一種の流すこととか、許しあしが起きて、二人ともに心が開放されることが願いでした。
 この件で、大学グループ展を引いてしまうのは、かえって事を荒立てます。表面では、何事も無かったようにしておくのが、ベターです。

 しかし、思いがけない方向から破綻が起きたのです。それが、渡辺幸子さんの嫉妬心でした。
 彼女は私をやっつけたいと切実に願い、深く考えて『彼女を困らせるためには、芳名帖のコピーを今回から出さない事にすればいい』と気がつき、それを、幹事のK氏に伝えて、変更をさせたと思います。

 そう言う変更をK氏に納得をさせるために、B子さんの件を使ったと推察されます。K氏の態度の硬化ぶりがそれを暗示していました。
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副題38、『二転三転する、心理の綾』

 新制協会会が、戦後、どれほど、その評価の高さを誇っていても、団体展って、変貌するものです。で、1980年代の終わりごろ、私が見るに、国画会の方が面白いと思いました。より自由度があると思いました。そして、私は先生の引きが無いのに国展に入選しました。だから、私は渡辺さんと私との間に、上下関係は無いと思っています。それに、従来から誰に関しても、芸術家には上下関係は無いと思っている人間が私です。

 ただ上記のエピソード以降は渡辺さんは、例の敵さんたち(この場合は、特に酒井忠康氏と、石塚雅彦氏)に、非常にかわいがられる存在になっていくので、青木繁大賞の受賞ほか、大きな差がついてくるのですが、あの2003年、または、2004年に、望月画廊で、渡辺さんが、私の荷物をいすから払い落とした日には、それほどの差はなかったはずです。
 
 それなのに、事前に、『自分は上だ』と言う思い込みがあったので、渡辺さんは、私の100号の絵を見て度を失ったのです。感情を抑え切れなくて、テンパー(この場合はヒステリー)の爆発が見られたのでした。でもね、冷静な私はむしろ、このエピソードで、自分の才能を確信しました。

 『渡辺幸子に、あれほど、嫉妬されるなんて、大物だねえ。私は』と内心で思っています。(笑)

 ただそれは、ここまではっきりと文章で書ける今だから言えることで、私の苦しみは相当長く続き、かつ、大きなものでした。
 この文章は例の30%ルールからは外れていて、60%程度の深さで真実に迫っています。

 で、客間に飾ってある彼女の彼岸花の絵を見ると、激しい魔力にさらされる感じがして、つらくなりました。
 で、花言葉を調べてみました。別離、喧嘩、争い、死などマイナスのイメージが多いのです。「うわー、これって、キープしていたくない」と思いました。だが、さすがに渡辺さん自身へ返すことには思いもよらず、しかも、捨てることも思いもよらないことで、困り抜きました。

 ここで、突然、その適任者として、平野和子さんが浮かぶのです。この人がまた、私にとっては、『逢魔が人』であり、大変な難物なので、本日は詳細について書くのをやめておきたいと感じます。だが、元日本航空の地上勤務で渡辺さんとは親しいのです。
で、平野さんにいったん預けた絵が、平野さんが画廊を引っ越す事になって、「整理に困るので預かることが出来ない」となって、我が家へ帰ってきていたのです。

 それが、警官に追尾されて、敵が、私が銀座で、本作りのために徹夜をしていると、敵様が知っている日に、たぶん私の健康を害してやろうと、願ってでしょうが、渡辺さんに、『あの絵を、近々に返してもらうように、今日電話しなさいよ』と言う電話(またはメール)が、夜、8時過ぎに、栗田さんから、彼女宅へ送られてきたと推察しています。

 特に今思い出したけれど、渡辺さんの坊ちゃんたち二人が上智大学の出身です。それもあって、井上ひさしにとっては、すこぶる大切にしたい弾丸ですね。だから、この真夜中の、追尾と脅かしと、それを利用して、渡辺さんに、私の健康を阻害させようとする企みは、井上ひさしが考え出したことでしょう。特に、彼はその頃はまだ、ぴんぴんして生きていましたし。

 私と喧嘩しているということで、すばらしい名誉とお金が続々と彼女には舞い込みます。
 そして、時間を置けば置くほど、彼女がエホバの塔の信者さえ利用され、浜銀さえ利用されて、保護されまくり、ほめまくられ、光を当てられまくられているのが判ってきます。

 じゃあね。それに比較して、あなたは、不幸ですね。参っているでしょうと、言われるかなあ? うーん。負け惜しみではなくて、私には私の幸福点というのがあるのですが、どうか、それは、語らないで置かせてくださいませ。それを語るとたちまちに奪われ、汚されるからです。

 中国が日本を攻めていますね。繰り返しますが、この渡辺幸子さんのエピソードを私に書かせないがために、起こされたと思います。
 大相撲をめちゃくちゃにした二年前の時から、発想のパターンがすべて同じなのです。日本人の気分を暗くさせるのが川崎千恵子にモノを書かせない方法であると彼らは思い込んでいるから。
 本当は、違うのですけれどね。私は攻撃されればやめると言うタイプではないのです。彼らみたいに、卑怯で弱い人間ではないのです。彼らとは、まったく手法が反対なのですけれど、それは、わかっていないみたいです。
 はっきり言って、悪魔と天使は手法が違うのですが。
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副題39、『それは、東京裁判の仕組みとそっくり同じです』

 今は、初稿を書いた次の日に入っています。それで、10日前のこのパソコンが壊れる前に、書いていたメモ(それは、保存がしっかりとできていなかったので失われてしまっているが、)に書いたことで、上には書いていないことを思い出しました。

 それは、一時期ですが、彼女が、一種の目覚めを私に対して得たということを証明していますので、書きましょう。

 彼女にしてみれば、私がそこから身を引いてしまうことは予想外の出来事だったようです。慰留をされたのは、彼女からではないけれど、彼女が、『あの人には、ここから出て欲しい』と本当に思っていたのなら、K氏からも慰留はされないと思います。
 じゃあ、なぜ、あれほどの乱暴なことをしたかというと、他人(特に私)をひどく弱いと見て見くびる発想があって、何をやっても反発をされないと思っていたからでしょう。でも、自分に電話をかけて責めてくるというような直接的な方法ではないが、やめると言う形で、間接的に、批判を受けてみると、やはり、『あれ、人間って、誰でも、心があるのだ。誰もが同じなのだ』と言う事に初めて気がついたとは思われます。

 そうです。心の問題では、すべての人間は平等です。時々、ヒットラーのような特別な存在が出てきて、特別な権利があるように錯覚をします。だが、死後、その享受した特権に見合うだけの批判を受けます。だから、総体を通じるとすべての人間は平等なのです。

 しかも、ガレリアグラフィカのオーナー栗田玲子さんから、私は直接に、「渡辺さんが、あなたって、怖い人だといっていたわよ」と、鎌倉駅のトイレで聞いているのです。しかも夜の10時半に。このエピソードも神様がいらっしゃることを証明するすばらしいものなので、後で、書き直しますが、

 その言葉を聞いて、渡辺さんが、私を「怖い人だ」という事に驚き、また、それを考え直してみることと成りました。

 すると、判ったことは、彼女の成育歴と私のそれとはまったく違うと言うことです。彼女はお姉さんが居ます。その人と、二歳ぐらいの違いだったら、次女として、きょうだい喧嘩等をしながら育ちあがったと推定されます。私はたまたま、ご近所がまったくない環境で育っています。満鉄の社宅では、私のような小さい子は居なかったのです。日本に帰ってから、一時期寄宿したおじの家にも中学生以上の年齢の子供しか居ないし、その後引っ越した船橋の郊外(塚田)の家は、まるで隣のととろ状態で、誰もご近所が居なかったのでした。それは、東京にしか親戚が居ない人が戦時中に、疎開先として、開拓した場所なので、駅には近いもののご近所などまるでない場所だったのです。同じような家が三軒だけありましたが、そちらも坪数が、千坪を越えるうちで、歩けば五分もかかるような遠さにありました。我が家も周りを松林、畑、田んぼに囲まれて、しかも300坪はあったので、ご近所を意識することは一切無かったのです。

 小学校に入っても、学卒の両親を持っている子供なんか、クラスに居なかったので、まるで、浮き上がっている存在で、・・・・小学校の三年になってやっと、引っ越していった先の横浜の日吉で、友達と、遊ぶことを覚えたのです。だから、57歳のニューヨーク滞在時での経験までは、喧嘩ひとつしたことがない人間で、渡辺さんのほうでは、単なるじゃれあい程度だと思っていても、こちらには、衝撃的な出来事でした。10年後の今でもあの望月画廊での乱暴狼藉は、忘れられません。

 でもね、彼女の方にとっては、それは、単なる、一過性のもので、そのまま、すっと空気の中を通り過ぎる話であるはずだと、タカをくくっていたと思います。
 それなのに、やめると言う反応が出てきたわけですし、後に、彼岸花の絵を返すと言う反応が出てきたわけですから、ひどく驚いたらしいです。

 特に彼女の心を揺さぶったのは、B子さんのエピソードのお互いの取り扱いの違いです。昨日はそこを書いていませんが、私が悲しみ、苦難としてそれを感じたのは、B子さんが親切にしてくれたのに、思いがけない流れになって、苦痛を感じておられることを、私は感じ取り、自分の方では、彼女の心を解き放ちたいと思っているのに、それが、出来ないと言うポイントでした。
 ところが同じエピソードを、渡辺幸子さんは、私を貶めるために使ったのです。「こんな変な人なのよ。あの人って、ご親切にしてもらっているのに、あちら様のご主人を、エッチな人だといっているわけですもの」と言う形でつかったということです。
 それを私がきちんとわかっているということ、それに驚いたのだと思います。驚かないでくださいねと言いたいです。私は何でもわかっています。ただ、口には出さないだけです。(笑)
 
 同じ挿話でも、語り方とか、使い方がまるで違うのです。私は人を救いたいと思って、そのエピソードを渡辺さんに語っているのに、渡辺さんのほうでは、他人を攻撃するために、それを女友達でもない人へ向けて使っています。ここが、非常に大切なところです。私が今まで守られて来たのは、常に大所高所から、モノを考えるように務めてきたわけですが、その大所高所とは、神様を指します。

 ところでね。ここで、それを書いてしまったら、あなたも同罪ではない?と、読者様に言われるかな?
 それは、仮名にしてあると言うことで、ご本人までは、追求できないとさせてください。しかし、ご本人が、指摘をされたり同定をされたりしたら、それこそ、敵の存在を証明することとなります。
 そのグループ展の12人のうちに、石塚雅彦さんが含まれていて、彼は明瞭に敵となっているのを感じますから、そこから外部に出てくる可能性も、そのひとつのルートとして、ここで、書いておきましょう。

 しかし、問題はさらに続きます。その問題の彼岸花の絵を返してくださいと言って、受け取りに来た渡辺さんは鬼のような人でした。すさまじく強くなっていて、さらに深くも強い攻撃意欲を示していました。

 それって、東京裁判をマネージしたアメリカ側が日本を恐れているのととても似ています。流れがそっくり同じです。東京裁判に関して、アメリカ側に心理的な負い目があるからこそ、日本を、常に軍事国家が残っていると攻め立てているのです。
~~~~~

副題40、『それは、今に続いている・・・・・開発ちえさんのメールで、パソコンが壊れた』

 ところで、そのエピソードが引っかかっているから何も書けなかったのですが、それでも、最近の攻撃がすさまじくて、自分を守る最低線として、渡辺さんについて、きちんと書かないといけないと考えていると、見事に使者が、たって、それを阻止されました。

 それが、開発さんから来た一連の文章です。

 それは、14日から始まっていて、私が五月に書いた文章に噛み付く、このブログの世界へのコメントとして始まっています。
 私は、この件に関しては、真っ向勝負をしたくなかったのです。

 どうしてかと言うと、
*1)、だいたいの方針として、最近は、極く直近の攻撃については書かない事にしていますから。その理由は、書くと事実を変更される向きがあり、こちらの文章が、タイミングから読めば正しくても、グーグル等で、タイトルだけで、惹かれて読む人には、『あれ、間違っている。この記述』となる可能性が出てきたからです。

*2)、フェイスブックでの開発さんの投稿を読んでいると、彼女は、それほど、強い人ではないと思われるから、年上の人間としては守る義務があると考えました。

*3)、
 また、ここで、彼女について書きたくないと思うのは、書くと、彼女は、これから、どんどんどんどん、推奨されることとなって、渡辺さんと、二人して、一種のうっとおしさを、私に感じさせ続ける事になるでしょう。だから、ここでは、相手がどんなに激しい攻撃をしてきても、こちらは応じないと言う大人の対応をした方がいいと感じました。

 ところがね。パソコンが壊れました。これは徹底的に、敵が関与している事を示しています。彼女は個人で、私にかかわってきているわけではないのです。となると応戦しておかないとだめです。敵は開発産という人知というか、一里塚を立ててみて、そこで勝ったと感じて、さらに攻撃を強めてくるからです。

 ただね。五月に発信したブログへ反応すると言う形で始まった今回の攻撃ですが、そこから今へのタイムラグについては、単にパソコン上の操作でも可能です。つまり、最近、急に開発さんの目に、私の文章が派手な形で、とまる様に操作して置けばいいのです。それは、私も何度もやられたのです。2007年度いっぱいは、昔もらった本多隆彦氏からのメールが背景をピンクにしたりして、何度もパソコンを立ち上げたとたんに、開くと言う様な手配をされ、私のパソコンへの異常な破壊は、まるで、本多氏がやっているかの様に偽装をされていたのでした。それには、2007年の4月から12月まで乗せられ、騙されていました。

 だから、「彼女との、この戦端が開いたのが、誰か、個人の教唆であるかと言えば、そうではなかったという可能性もあります」と、ここで、付記しておきましょう。丁寧に、丁寧に、対処しておく必要があります。

 で、彼女のメールを最初の予定とは離れて、飾り罫線÷⇋¤⇋÷以下にさらす事にいたします。ただし一部です。

⇋¤⇋÷⇋¤⇋÷⇋¤⇋÷⇋¤⇋÷⇋¤⇋÷⇋¤⇋÷
あまり威張りたくはないのですが、皇室関係者にも知り合いはおります。
無論、弁護士さんも警察のお偉い方とも親しくさせておりますので、
こういう言い方は失礼ですが、貴女様程度の方でしたら、
余裕で握り潰すことは難しくはあり泙擦鵝実匸碵雹実匸何でしたら、お住まいの神奈川の県知事さんや、鎌倉の市長さんを通して、
貴女様を「攻撃」することも可能です。
敢えて控えさせて頂きますが。

対抗措置としては、最初にFacebookに登録されたメールアドレスとは違うメールアドレスを使って、
もう一度Facebookに登録すれば、新しい「川崎千恵子」様のアカウントが取れます。
それで、私めのページをご覧になって下さい。
貴女様のブログと、最初に頂いたメールを、そのまま転載させて頂きました。
私めのお友達の反応は、やはり貴女様は「狂っている」というようなも里任瓦兇い泙靴拭実匸碵雹実匸お願いですから、一度精神科に行って下さい。
親切心からそう申し上げます。
狂ったままの老後というのは、大変哀れに思われて仕方ありません。
それなりの治療を受けられれば、「世の中の全員に攻撃を受けている」というような妄想も、
無くなると思われますよ。

 上は、2012年9月15日着信のメールです。

 私が、渡辺幸子さんについて、本格的に書き始めたのが、20日です。が、その前に、この開発さんが噛み付いてきたブログでも簡単に触れているし、12日に発信した外人記者クラブのメールでも石塚雅彦と言う名前には触れています。石塚雅彦と言う名前に触れるのなら、この渡辺幸子さんについては触れるだろうと、敵は完全に予測をしています。
 だから、開発チエさんは、それを書くための防波堤として、準備された攻撃用の弾なのです。

 でもね。私は、そう言う政治的な意図がわかっているので、斜め読みで、熱心には読んでいませんでした。が、パソコンが壊れました。

 AOLは、初期に開発されたメール優先ソフトと言うか、プロヴァイダーです。You got a Mail と言う映画も出来たほどで、アメリカ人(万事にラフでもある)が楽にメールができる様に設定をされていて、マイクロソフトのアウトルック機能を通しておりません。

 で、パソコンが壊れると、もう読めないのです。私は、無論防衛上、最初期の部分はワードへ移動をしてありました。だが、彼女が本当の猛攻をかけてきた14日と15日の夜は、外の貸しパソコンを使って、徹夜で、オンデマンド方式で本を作っていたので、
 疲労困憊していて、彼女にかかわりたくありませんでした。それに、なんと、最後のメールなど、私には読めなかったのですよ。16日の時点では、外のパソコンでは、来信の痕跡はあるが、読めないという形でした。で、私はブログで、慶応大学と、共立薬科大学の合併の問題を取り上げてやんわりと彼女をけん制しているつもりです。幸いに、引き続いては来ていません。
 そのことには、いささか以上にほっとしています。
 ところで、味方をしてくださいとまでは言いませんが、

 私の文章と彼女の文章をぜひ比較してみてくださいませ。
私は必ず、政治の問題として書いていて、相手を攻め立てたり脅迫する言葉は書いていません。しかも哲学的考察でしかないので、相手に書いたということも知らせません。また、「自分の損失が莫大になるので仮名では、書けなくなったのだ」と、いつも説明をしているつもりです。

 でも、コピペするに当たって、今日初めて、きちんと読んでみると、想像通り、すでに、欠席裁判を、フェイスブックの世界でやっていると書いてあります。そこに、私からのメールもブログもコピペして使ってあると書いてあります。フェイスブックには彼女の言う方法を、すでに四月に試していますが、入れません。ので、本当に欠席裁判です。

 そして、開発さんへ対しても、それほど、恨んでも居ないのです。でも、欠席裁判がすでに行われていて、フェイスブックの中では、600人以上の人が開発さんの味方だそうですから、こちらも彼女の文章を、
 コピペして使ってもいいでしょうね。その時点から、すでに、2週間は、たっています。それだけ、待てばいいでしょう。

 ただ、もしこのブログが閉鎖されたら、彼女の行動の結果だとは、皆様もおぼえておいてくださいませ。
~~~~~

副題41、『やりたい放題の、乱暴狼藉をやっても守られる、エージェント側のかわい子チャン』

 ところで、開発さんからのメールを注意深く見てくださいませ。最も重要な攻撃の言葉が文字化けしています。もしコピペされたときに、それが、世間の目にさらされると、お嬢様育ちの彼女のイメージが壊れるとの危惧からそうなっていると思います。その考察は、彼女にも書き送ってあります。
 その上に、さらに、人のパソコンを壊してまで、彼女は守られるのです。

 そして、私がここにその名前をさらしたので、将来そうとうによいご褒美が与えられるでしょう。未婚の彼女には、レベルの高い男性とのお見合いが、セッティングをされていくでしょう。

 それは、パリで知り合った上智大学卒の画家、山内ゆり子さんのケースですでに、見られたことですが、開発さんにもそれが当てはまるはずです。または、著作の出版とか、美術手帖への再登場が用意されるでしょう。

 車で小松空港まで行き、そこから、羽田、銀座へ入り、一週間に一泊する形で東京に入れば、充分に美術評論はやっていかれます。そして、開花亭には、しっかりした長弟さんが、社長をしているそうですから(それは、私は知らなくて、彼女は社長業に疲れているとみなしていました)そこをあけてもかまわないと成れば、東京でずっと住んでもいいですしね。

 それって、実は、渡辺さんのケースとそっくりです。渡辺さんの方はパソコンを使いません。だから現実の世界で、青木繁大賞と言うのをもらって、輝かせてもらっています。私を激しく傷つけた過去のある人だから、
 その人を、持ち上げれば、彼女(=雨宮舜)は悲しむとみなされているからです。確かに、私は相当に、傷口をえぐられました。ただね。大切なことは、こういう受賞が、すべて、原発を押し付けている国際的軍産共同体のさじ加減ひとつで決まると言うことです。

 それは、次の章で、警察と渡辺幸子さんとの関連を語れば、皆様も納得をいただけるでしょう。おまちください。
   2012年9月28日初稿を書き、29日に推敲を終える。
           雨宮舜 (本名川崎千恵子)
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上の記事から、抜き取った部分

2012-09-28 02:30:29 | Weblog
 上においてある記事が長くなったので、抜き取ったものがあります。それが下の文章です。

副題31、『サエグサ画廊の、興亡を、今にして思う』

 さて、上は、ある種の決意表明でありました。今から、本文に入ります。が、昨日までの文章で途中になっている桜井陽子さんのことが気にかかります。
 1990年代までには、桜井陽子さんは、圧倒的なレベルで、鎌倉でも、銀座でも、渡辺幸子さんより上でした。
 まあ、この上という言い方も、私は嫌いで、だれが上か、下かとは、芸術の世界では問うべきではないと思っていますが、

 昨日、国際基督教大学の同窓会の経営しているウエブ頁に入って、渡辺幸子さんが大優遇をされていることを知り、『ふーん。世間と言うものの解釈では、私はそれより、だいぶ、下で、三階級ぐらい下なのだから、何を書いても、ふん、蚊が刺したわと、関係者は思うだけでしょうね』と、感じた次第です。

 それをわきまえながら、書き進むのですが、当面は、その世間的な評価と言う部分も顧慮しながら、書き進めましょう。

 階級と言うものがありとあらゆる世界に設定をされており、それによって、上に立つ人間が得をするという仕組みがこの世界にはあるのです。デ、新制作協会は、1960~1980年代は、日本でトップの展覧会だと自他共に認められていたと思います。
 その団体が、お正月に受賞者記念展を開くのがサエグサ画廊でした。その次の週が、国画会が、受賞者記念展をやっていました。

 だから、とても有名な画廊ですが、画廊を運営している本体が、ややデクラインで、画廊も移転しました。そのことが、強い印象として、今残ります。サエグサ画廊は、本体は洋品店で、銀座に二つのお店がありました。今でも7丁目の子供服の方はきちんと運営されているみたいですが、大人用のお洋服のほうをやめてしまったのです。それは、人々の購買の傾向が推移していったからです。海外ブランドが、簡単に買える様になったので、銀座のブティックの価値がおちてしまったのです。

 私ね。wikipedia 等で、どういう画家がどういう個展をそこでやったかを残したほうがいいと思います。が、今は、それほどのきちんとした資料がありません。
 で、桜井陽子さんが過去にどこで個展をしたかがわからなくなったのですが、ここか、みゆき画廊か、スルガ台画廊か、ギャラリーオカベかで、見たことがあるような気がするのです。が、ウエブ上では記録が無いのです。驚きました。反対に、渡辺幸子さんの記録はガレリアグラフィカと、シロタ画廊の中で、立派に残っています。

 となると、1990~2003年ごろまでの、二人の立場は見事に逆転をしたことになるます。ただ、ウエブサイトに無いからだめな画家とはいえません。たとえば、ちょっと年上の芸大出身者で、国画会会員の藤岡怜子さんなど、大変熱心に個展をなさっていたが、ウエブサイト上では記録が無いからです。
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