銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

画面が、左側4分の1の位置へ全移動しているぜ・・・桐村茜、竹屋蕎麦、渡辺幸子△

2012-09-26 00:36:50 | Weblog
 今は、27日の午後7時です。2万字を越したので、最後のところで、「強引ですが、終わりとさせていただきます」と、書きました。今から越した部分を推敲で減らします。

副題ゼロ、『27日に挿入する前書き』

 ずっとパソコンの修復をしていました。

 そのパソコンの修復ですが、外付けの液晶画面を買うことで、復帰しました。ところで、最近では非常に小さいサイズで携行できるものがあります。ところが、それを喫茶店で使用しようとすると、なんと、画面の左上,4分の1のところへ画面全体が移動をしているのです。
 私はね。画面のプロパティをあけて、どうにかすると、どうにかなるのではないかと思って、それは、やったのです。それは、後でヨドバシカメラへ行ったときにもサポート担当者が、そうやろうとしたから、正しいのですが、その画面のタブ類も全部左上の、その隠れている部分に移動をしてしまって、どうしようもありません。
 だが、器具そのものが壊れているわけではなくて、外で、シゴトをやらせないという目的で、こういうことをやられるわけです。
 で、ヨドバシカメラで、お話している最中に直るのです。(笑)

 ともかく、私が重要な文章を書くと必ず、足を引っ張る目的で、すったもんだが、パソコンの機能的な世界の破壊として起こって、私はその修復に大エネルギーをとられるという事になります。
 でも嘆きばかりでもないのよ。その手の攻撃を受ければ受けるほど、『ア、そうか、この文章は相当に正しいことを言っているのだ』と言う確信を得て、元気いっぱいと成ります。
 無論、体のほうはめろめろですが、心が元気いっぱいになるのです。

 26日は、寝不足の状態で書いているのでみなおすとラフきわまりない文章でした。
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 ところで、最初の前書きですが、
 これは、前報、『瀬木慎一(手紙)では、無事だったPCが、開発ちえ(メール)を守るためには、壊れた(政治もの)△』2012-09-22 20:15:38発信の続きです。

 それで、副題を、18からはじめます。ところで、これも『社会の窓が開いているよ』の一環なので、その4とさせていただきます。今日は、渡辺幸子さんと警察の密接な結びつき、および渡辺幸子さんの青木繁大賞・受賞がどれほど、大きく政治に左右されたものであったかを語りたいと思います。このシリーズのハイライトですが、書くのに、相当苦労するはずで、あしかけ4日ぐらいかかるかもしれません。それは、どうか、ご容赦くださいませ。途中でタイトルもばんばん、変えていくでしょう。恐れ入ります。ただし、判りやすくするために、随時、進行状況を前書きとして入れます。そして、その進行状況に応じたタイトルをつけておきます。

副題ゼロ、『27日に挿入する前書き』
副題18、『立花隆、VS 田中角栄』
副題19、『美術界のプロトコールとは』
副題20、『院展に挑戦する、障害者と、その先生へ言いたいこと』
副題21、『美大を卒業していないのに、画家になるのが、才能ある人だが、美術の世界のことは何も知らない。それで、発表するときに、不安にもなる』
副題22、『美術評論家と金銭感覚』
副題23、『夢見る夢子さん(私)と、リアリスト(桐村茜)との、落差について』
副題24、『竹屋画廊(竹屋蕎麦)の叔母ちゃんの暴力に、傷つくが?』
副題25、『額縁屋の名前を、教えてくれない渡辺さん』
副題26、『中退だった渡辺幸子さんが、今では卒業資格を持っている。不思議だ』

副題27、『親には、愛されてこなかったと、推察される渡辺幸子さん』
副題28、『秋葉原のワシントンホテルに、8000円で泊まることが出来ました』
副題29、『渡辺さんは、中退。だが、同じく破産した父を持つ別の令嬢は中退しなかった。変だ』
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副題18、『立花隆、VS 田中角栄』

 どんな業界にもそれ特有の儀礼とか定めとか、慣習があります。外交官のそれは、プロトコールと呼ばれ、特に重要視されています。田中角栄元首相が、小学校しか出ておらず(ただし、建築の専門学校は出ている)外務官僚に意地悪をされると、困るので、大金を使ったと言われています。その気持ちは、よくわかります。
 そして、外務省だけを優遇するのもあれだから、官僚の世界全体に対して、盆暮れに高級なネクタイを贈ったとか。
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 ここで、スピンオフとしての挿入ですが、銀座に十一房という高級な喫茶店があります。そこに最初に誘ってくださったのは東大の大学院を出た人(女性)だったのですが、その後、一人で入ったときにも、いかにも東大卒と言う人たちが入って、歓談をしているのに出会いました。ある日、私より、10歳ぐらい年上の人たちが、三次会をそこでやっていました。一人、元官僚みたいな人がいて、しきりに、「僕は田中角栄だけは、大っ嫌いだ」と、力説していました。
 私はそのときに、『東大卒も、だめだなあ』と思いました。ごめんなさい。あなたが東大卒だったら。でも、東大卒も視野が狭い時もあります。そしてその十一房でお茶を飲んでいた紳士は極めて狭量でした。『プライドが高くて挫折を知らないだけに、困ったものです』と成ります。

 ただし、そのジェントルマンの作法や、プロトコールから見たら、田中角栄氏が、めちゃくちゃな人間と見えたのも判ります。
 そして、真紀子さんです。普通は二代目は、器が小さくなり、その代わり上品になるものなのに、まったく下品なままだから、びっくりです。困ったものです。御茶ノ水女子大付属高校卒なのに、どうしちゃったのだろう。それほど、角栄氏への弾圧が激しくて、苦しみが大きい余り、ああなってしまったのだろうか?
 挿入から元へ戻ります。
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 私は、政治家としてのカクエイ氏は、大変な大物だったと思っています。立花隆氏と、偶然にもトルコのエフェソスの、誰も居ない十字路で、二人だけで出会って、10分ぐらい話したことがあるのですが、立花隆氏は、角栄氏に比べれば、はるかに小物だと思います。その小物が大物を訴追して、抹殺をしてしまったわけですが、

 それが、現代日本の真の支配者・・・・・(国際的軍産共同体、=具体的な固有名詞はロックフェラー一族などで、主にアメリカに住んでいる大富豪たち・・・・・だから、国家としてはアメリカとなる)・・・・・
 には都合がよかったので、小物である方の立花隆氏が、大物の方をペンの力で撃ち殺してしまったのです。

 なんともいえないが、日本という国家にとっては損失でした。まあ、こんなことを言っちゃうと、敵を作りすぎる嫌いはあるが、明日死ぬかもしれないので、ここで、そう言いきっておきましょう。
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副題19、『美術界のプロトコールとは』

 ところで、その業界のルールやマナーが一番知れ渡っているのはサラリーマンの世界でしょう。テレビや映画でも繰り返し出てきます。昔は、小林圭樹とか、が主演したおっとりしたものがあったのですが。最近はシヴィアで、小池徹平主演の、『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』などには、非常につらくて厳しいサラリーマン生活が描き出されていました。いじめや過重労働の連続がある世界。

 でも、ともかく、何とかなる世界でもあります。誰か、助けてくれる人がいる世界でもあります。親戚のおじさんや叔母さん、または、年上のいとこなどに、『こういう際はどうやって切り抜けたらいいでしょうか?』と質問をして教えてもらうことが出来ます。また、学校時代のサークルの先輩などがいろいろ教えてくれたり愚痴を聞いたりしてくれるでしょう。

 そして、礼儀そのものが、技術であるお茶の世界などでは、それを教えてくれるしステムが、構築されているので、お金を出せば獲得することが出来ます。しかし、美術界のプロトコールについては微妙なところはわからないことが多いのです。
 月刊ギャラリーを出している会社が、『公募団体展に応募しよう』と、『個展の開き方』と言う本を出したはずで、それは、親切だったと思います。ただし、私は読んでいないので、どの程度深く、かつ正しく書いてあるかどうかがわかりません。どうして読んでいないかと言うとそれが、出版されたころには、その二つは深く経験済みであり、とくに公募団体展は、すれ違いでやめようとしていたときなので、それを買って読む必要がなかったのです。
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副題20、『院展に挑戦する、障害者と、その先生へ言いたいこと』

 ここで、27日に入れる挿入です。NHKの午前11時代の地方ニュースで、50年間も知的障害者に美術教育を行っている女性の方が出てきました。埼玉県でです。
 生徒さんの中に、とても絵がうまくて、すでに、個展を六回とか、7回やっている男性が含まれて居ます。彼の迫力のある絵は、65万円でうれたこともあるとか。

 その男の子を先生が院展に応募させようとしています。私はね。先生が院展の会員だったら、それもいいが、そうでなかったら、院展に、今から応募するのはやめたほうがいいと思います。

 せっかくの才能が、生かされなくなります。院展の中の様子など、その女性の先生そのものが知らないと思われますし、(と言うのは、入選か落選かを上野の都美館まで見に行っていたから、そう感じます。中の人なら、電話連絡で教えてもらえるでしょう)

 院展も、その他の公募団体展も、その実質を知らないで、今は、憧れを持っている段階でしょうが、実際には入ってみると大変です。
 個展でおやりなさい。それで、何にも問題がないと思います。どうしてもお墨付きが欲しかったら、上村家にでもお手紙を書いて、一度見てください』とおっしゃればいいです。そして、一回だけ、注意と言うか、ほめてもらいなさい。
 後は今の先生と、ずっと、描き続ければいいです。院展挑戦は、先生の方が名誉欲を出している雰囲気が見えますが、院展だけが、天国ではないし、そこに関与することがステップアップでもありませんよ。せっかく素直な気持ちで、まい進している青年ですから、そのまま進んだほうがいいと思います。
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 元へ戻ります。

副題21、『美大を卒業していないのに、画家になるのが、才能ある人だが、美術の世界のことは何も知らない。それで、発表するときに、不安にもなる』

 もちろん、美大を卒業していたら、わかりますよ。だけど、中学生のときや、高校生のときにクラスで、五番以内の成績であり、親が普通の収入だと美大には進学しないものなのです。どういう進路をとってもよいだろうと言う学部、男の子なら、法学部や経済学部(商学部)、女の子なら英文科という様な学科のある大学へ進むのが普通のケースです。特殊な技能や才能に目覚めると言うことが、それほど、推奨されていない日本は特にそうなのです。

 ただし、音楽はピアノのレッスンなどを、小さいときから受けている子が多くて、その延長で、音大へすすむということもあるだ労使、スポーツも水泳にしろ野球にしろ、サッカーにしろ、最近では、テニスまで、小学生からクラブがあって、そこで学ぶ子も多いので、そちらのプロになって行ったり、大学も運動学部へ進む子もおおいのでしょうが、美術だけは、それほど、ポピュラーではないのです。

 でも、突然に、40にして立つと言うか、目覚める人もあって、そう言う人には必然性があるので、さすがに才能があった、と言うケースも多いのです。デ、本格的なプロの道へ進んでいくのですが、主に発表の場(特に個展)に関するプロトコールの中に、わからないことが多いのです。デ、不安になります。だから、依存をしたくなって、寄らば大樹の陰となって、日展、院展、二科展などの、庶民にも名前が通っている団体展に挑戦することとなります。

 それこそ、渡辺幸子さんの最初の出発点でしたが、そう言う世界がとても古いことを知り、実際には、その後、出現した在野と呼ばれる団体の公募展の方が、よりモダンな雰囲気を持っていて、そちらの方が会うし、実際には美術界でもプロへは、そう言う在野の団体展に所属している方が、尊敬されると言う事に気がつきます。

 ただ、私がここで、言わんとしていることは、「在野でもだめなんですよ。そこもまた、すでに古い」ということなのです。(笑)進みすぎかな?
 いや、真実を追究しすぎか?
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副題22、『美術評論家と金銭感覚』

 私が人に教えてもらって、最も感謝していることは、「美術評論家に文章を書いてもらったら、金銭的なお礼をしなければいけない」ということと、その相場についての知識です。

 そう言う知識をどうやってもらうかと言うと、私は作品をみる目があります。よい作品について、見事にポイントをついた言葉で語ることが出来ます。そう言うことを一人の画家について三回ぐらい、一年おきに続けて、五年間ぐらい続ければ、相当に信頼されます。そうして、いい人だと思われたから得られた知識です。

 ところで、私のやっているそういうことは一種の美術評論ですが、一切のお金はいただいておりません。だから、素人です。でも、実質的に、人々に感謝をされています。だから、美術評論家たちからねたまれたと感じています。昨日チラッと言っている瀬木慎一さんとの葛藤とか、トラブルなど多少以上にそう言う傾向があったでしょう。無論のこと、裏から瀬木さんは教唆をされて、ああいうことをしたという側面もあるのですが。

 exihibit Live and Moris と言う画廊のオーナー森さんとは、一時期仲良くしていて、そのころ、「川崎さん、2006年度いっぱいだけで、2000万円は稼いだでしょう」と言われたことがありますが、全然です。一銭も稼いでいません。

 ただし、ここが微妙・極まりないところなのですが、「お金を取りません」と言って威張っているだけが、偉いのではなさそうです。お金を取ることがプロとみなされ、どんどん、その人間を強化して行って、それが、プロの世界だと言う事になりそうです。

 だけど、私にはそれが出来ません。たぶんその原因は、過保護でそだったからです。中学生ごろから、金銭的にはひどく甘やかされて育ってきています。で、どうしてもお金を取るとか、もらうと言う点で、びびるのです。と言うか、面倒にも億劫にも感じます。

 それは、直感に基づいた感覚ですが、不自由になるだろうという点では正しいと思います。プロの美術評論家になったらなったで、まず、テーマに制限がかかります。この手の政治論には首を突っ込めません。
 また、本の著者としても出版人(出版社の社長)としても素人です。形だけです。すでに、6冊も印刷所で、印刷製本をしてもらった本を作っていて、そのうちの三種類の本に対しては、公的な書評さえ出ているのに、いまだに売る方面での努力をしていません。

 一冊の本を作り上げるまでに、すごい量の労働時間とお金をかけています。それで、丁寧にかつ誠実におよみいただいた方は皆さん内容の濃さに、びっくりしてほめてくださるが、それでも、出版人として、大きくなる方向へ進みません。
 これが私の一大特徴であり、それが、別の人種(=お金にシヴィアな人)ともめる原因となります。ともかくお互いに、同じ事を語るにしてもコインの表と裏と言うほど、受け止め方やら解釈が違うのです。

 たとえばパリ滞在中の桐村茜さんとの思い出を語りましょう。
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副題23、『夢見る夢子さん(私)と、リアリスト(桐村茜)との、落差について』

 桐村茜さんは、ほぼ、パリに定住済みの作家(美術系)です。ただビジネス的には相当なやり手みたいで、それゆえに、性格については悪口を言われるケースが多くて、「だれそれを、真似している」とか言われていることもありますが、莫大な売り上げを抽象系の作品であげることが出来る明瞭なプロです。そして作品は上品です。

 私は、彼女が鎌倉の竹屋画廊で、個展をしていたときに、惹かれて尊敬し、なついていって、パリの版画・工房・事情について教えてもらいました。鎌倉でご馳走しながら語り合ったのです。

 で、その後1998年の秋にパリについてから、電話で連絡を取ったら、一夕「夕食でも一緒にしましょう。その前に、シテデザール内の、工房を見せてあげる」と言われました。
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 シテ島とは、ノートルダム寺院のあるそばの中島で、閑静な高級住宅街(ただし、一戸建てではなくて、いわゆる中世風ビルだけど)です。その中に芸術家だけを住まわせる大マンションがあって、海外から来た芸術家がアトリエつきで、安く住めるようになっています.800人も受け入れる能力があります。そこには5つの画廊と大きな版画工房が付属しています。

 で、一時間ぐらいその明るい工房(実は戦争中に屋根が吹っ飛んだので、屋根がガラスで作られている)について説明をしてくれた後で、二人で、その優雅な街を歩いていました。お店が無いところをです。静かなところです。
 桐村さんはご機嫌で、パリにおける自分の生活を語っていました。一年に一回ほど、パリのある決まった画廊で、個展をするそうです。その画廊は、桐村さんを世界に通用する版画家として、売り出してくれている大切なところだそうです。

 で、私が、「それ、どこ?」って、画廊の固有名詞を聞いたら、桐村さんは突然に怒り出し、「私がいくらお人よしだと言っても、そこの名前をあなたに、教えるほどの、お人よしではないわ」と言って、そのまま、あっという間のスピードで去っていってしまいました。私はあっけに取られまし
た「。 
  どうして彼女の逆鱗に触れたのかが、判りませんでした。で、相当な時間をかけて、考えて、つまり、そこに私が食い込もうとしていると予測したからこそ、彼女が怒ったと言うことが判りました。つまり、私が彼女の大切な位置を奪うライバルになるだろうと、思ったから彼女は怒ったのです。
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 これを書いたのは、9月26日ですが、その5週間後に下に置いてあるような桐村さんからのコメントが届きました。それで、一部の文章をここから削除をいたしました。が、副題23全部を取り去りなさいという要請には、従えません。というのも、それが届いた日に書いた文章が問題だからです。
 しかし、転んでもただでは起きないのが私です。その時間差の意味するところを熟考して、二つの文章に共通項があるのに気が付きました。それは、酒井忠康氏がエージェントの協力者であることを書いていることです。
 で、そちらのタイトルをここに入れておきます。よかったら探してみてください。
 
浄智寺と、匠の会、(瓜南直子、石原慎太郎、松沢茂文、田口広勝、酒井忠康)△
2012-11-04 02:03:28 | Weblog

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 それ以来絶交状態です。
回復が不可能な誤解だったようです。私はすでに、あきらめております。そう言う過去の経験の上での、今般の開発ちえさんとのトラブルです。そちらも誤解が解ける日は、來ないだろうと思っておりますよ。

 私もずいぶんと変わりました。昔はナイーヴでね。誰かと喧嘩したり誤解をしあったりしたら、それを解こうと努力をしたものです。それだけ気にかかり、ストレスを感じる出来事でした。が、今では、『あ、そうお』ってな具合に、ただ、右から左へながすだけです。放っておきます。気にもかかりません。ただその現象がもつ、政治的な意味合いを考え、ここで、語るだけです。

 で、桐村さんのほうは、竹屋画廊の叔母ちゃんが、彼女のニ度目の鎌倉でのオープニングで、私の胸倉を引っつかんで入れないようにしたと言う驚くべき作法を示したことぐらいが、政治的な意味合いを持つが・・・・・
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副題24、『竹屋画廊(竹屋蕎麦)の叔母ちゃんの暴力に、傷つくが?』

(いえ、そのポイントに関して、もっとはっきり言えば、鎌倉の美術評論家=酒井忠康氏とその仲間が、この画廊に関与していて、私に関する相当なる悪口が、そちらからも入っているから、桐村さんの誤解だけではない、あれほど乱暴な、暴力を振るわれたのだろうとは判っているのですが、女からの暴力、しかも、私より、体格の小さい人からの暴力だったので、本当に驚きました)・・・・・
 
 私が酒井忠康氏のエージェント性を語るのも、竹屋画廊の叔母ちゃんの暴力、の、おかげでもあるのです。小町通りを大勢の人が通っているのに、その目の前で、胸倉つかんで、放り出された屈辱は、絶対に忘れません。死ぬまで忘れません。私はね。江戸時代は、萩藩では、相当な家柄だったし、ICUや、お茶大の付属高校や、1950年代の横浜国立大学付属中学なんて、早々、簡単に入れるところではないから、表面には出さないけれど、内面では、ひどく誇りが高いのです。

 竹屋画廊の叔母ちゃんとは、普段は竹屋蕎麦にいるのでしょうけれど、私は竹屋蕎麦まで、追いかけて、行って、『どうして、あなたは、あんなにひどいことをやったのですか? 誰から、何を聞いたから、ああいうことをやったのですか?』と質問をしに行きたいほどです。無論、まだやったことはありませんが。(笑)

 ただ、その失礼極まりない感じって、見事に、後日に起きた、北鎌倉の、わび助の叔母ちゃんの、失礼極まりない行動と、そっくりでした。あれ、二人は同一人物なの? もしかしたら、両方同じ経営者?って、思ったほどです。だからこそ、酒井忠康氏、もしくは伊藤玄二郎の関与を、こちらは、疑っているわけです。と言うのも二つともお客商売です。しかも私は普段ほとんど出入りせず、トラブルの起こりようのないお店です。

 それなのに、あれほどの、乱暴を大勢の目のある前で、やることが出来るのは、よほどの悪口を聞いているということの証明になるので、どういう言葉で、どういう判断が下せるような言葉だったかは、知りたいと思っております。侘び助をたずねたのは、叔母ちゃんに逢いたくて、それを質問したかったからです。ただ、竹屋蕎麦はまだ、叔母ちゃんまでは訪ねていません。竹屋画廊のそばの甘味どころで、「どういうひとなのか?」とは、質問をしたことがありますが、竹屋蕎麦は、駅までの私の通り道には面していないので、忙しい私には食べに行っている暇がないのです。だけど、死ぬまでには、因果関係をぜひとも、探索をしたい出来事でした。

 私ね。その場では騒がないのですよ。ただ、黙って引き下がります。デモ、追及の手は休めません。だって、これこそ、政治なんですから。そこが最近のかれらの手なのです。いやな思いをさせてノイローゼにさせようと言う手なのです。

 昨、開発さんの、ののしりのメールも復活しましたが、その中で、「精神病院にいけ」と何度も言われています。単に、「フェイスブックが出来ませんから、そちらを通じては、お答えが出来ません』と、弟さんに告げただけで、そこまで言われる。
 無論、弟さんを使用人と間違えた事に激怒したことはわかりますが、そこまで、言われる筋合いはないです。

 それは、開発さんが、そのメールを書く前に、すでに、いろいろ悪口を聞かされていることを示唆しています。そこも彼女に聞いて(笑・・・・・無論答えてくれるはずが無いが)、確かめたいところです。
が、遠いので(笑)、
 鎌倉の方で、侘び助と、竹屋画廊(今はやめているので、竹屋蕎麦に行かないとだめだけど)探索をしたいと思っています。

 ずいぶん、古い話を蒸し返すみたいですが、開発さんのメールを読んでいると、その悪口を回して、人、特に私のような原発反対派を、貶めて欠かせないようにさせるという手法が連綿として続いていることが察せられるので、終わりのない戦いを続けないといけないのです。

 ともかく、酒井忠康氏とだって、竹屋画廊の叔母ちゃんに、失礼極まりないことをやられたとき以前には、正面切って争いごとを起こしたことはないのです。
 だから、不思議極まりないので、考え抜くわけですね。そうすると、伊藤玄二郎、および石塚雅彦氏等と、全部ひっくるめた、エージェント性と、彼らの間にある、連帯と、連絡を感じてしまいます。ただ、それも今は証拠が少なくて、ただ、感じていると言うぐらいですから、それも、真実かどうかを、探索せざるを得ないです。

 『桐村茜さんが、叔母ちゃんに何かを言って、それで、あの叔母ちゃんがああいう反応を示したか?』と言う可能性ですが、それほど、桐村さんは馬鹿じゃあないでしょう。絵描き同士の横の連絡がたくさんあることを知っているはずですよ。春陽会(五月の連休の国画会と同じ時期に開かれる有名な展覧会)にも出品をしていたのですから。

 そんな、間柄で、ちゃらちゃら、悪口を言っていたら、自分で、自分の首を絞めるということと成ります。そのくらいは、彼女ならわかっているはず。竹屋画廊の叔母ちゃんの、超がつくほどの、失礼な態度は、酒井忠康氏ラインで生まれたものだと推察しています。

 さて、この章も、この一文のメインではなくて、無論のこと渡辺幸子さんがメインです。桐村さんのエピソードは、渡辺幸子さんと、私がどれほど、違った価値観とルールで生きていたかを語るための導入でしかありません。
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副題25、『額縁屋の名前を、教えてくれない渡辺さん』

 前報で言った湘南信金の会議室で、彼女が秘密裡に開いた、花がテーマの個展ですが、彼岸花を描いた小品が傑作なので、私が5万円で買ったと申し上げております。

 それを、私が本作りのために銀座、新橋で徹夜をしていた最中に留守宅への電話で「返してくれ」と彼女が言い、どうもそれが、酒井忠康氏宅へ行ったらしいことが、この一文のハイライトなのですが・・・・・、時制を、買った時点に戻せば、それはずいぶんと上等な額へ入っていました。で、私が、「いい額ね。どこのものなの?」って聞いたら、「これ、既製品ではないの」と彼女は答えました。で、「ああ、そうか、世界堂や、三吉(横浜)では、売っていないのね。だけど、どこ?」って再度聞いたのです。

 とても気軽にね。と言うのも、私はすでに、業界で、最大・最高の評判を取っている額縁やサンを知っていました。それは、祐天寺にある小林額縁さんです。ただ、版画額が専門です。紙の作品を入れる額が専門です。でも、そこの額は、どの商店でも売っていません。ただ私の版画界での友人たちは、渡辺さんみたいにけちではありません。よい仕事をする人を教えあい、それで、小林額縁さんがますます繁栄をしていくことを願っています。
 で、渡辺さんが、けちではないということを確認したくて、余計何度も聞いたのです。すると、「埼玉県のほうなの」とは答えてくれるものの、その先にある固有名詞を教えてくれません。

 私は内心で、『ああ、そこは知っている。北側順一郎さんが、言っていたギャラリーアーチストスペースのオーナーでしょう』と思いました。そして、その話が出た2002年ごろは、私への弾圧は始まっておらず、私は銀座中にたくさんの友人を持っていましたから、十分に銀座で、誰かから、教えてもらえるはずでした。だが、教えてもらっても、油絵の額に高いお金を出すつもりは無くて、そこに特注をするわけも無く、三吉で既製品を買い続けたでしょう。
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 ここで、初めてこの世界へ入ってきた方へ簡略に『弾圧とは何か』を説明をさせていただくと、私の住まいの近所に石川和子と言う元伊藤玄二郎(鎌倉春秋社・社長)の愛人が居てわがまま至極な生活をしています。彼女が私の猫を気に入ってしまい、そのことで我が家は、二年以上苦しめられきっていました。が、とうとう彼らが警官を呼ぶ大騒ぎに発展をしてしまいました。
 また、そのときにやってきた警官たちが、だめな人間で、とんでもない法的な違反を犯すと言う大失敗をしたので、私はそれを鎌倉警察署長に抗議をしています。

 ところが、正当なるその行為が、「警察が面子をつぶされた」ということになっているらしくて、警察が私を追い回しているのです。しかも月刊ギャラリーの連載が終わったとたんに、大弾圧が始まったので、ああいう小さな雑誌でも、公的な世界を持っていることは力なのですね。それが判りました。
 だが、今ではひとりぽっちなので、仕方がないから、ひとりぽっちで、ひたすら戦っています。だけど、弾圧が厳しければ厳しいほど、伊藤玄二郎が持つとんでもない特権が明瞭になり、したがって、エージェント化していることも明瞭になり、したがって、日本が、被・植民地国家であることも明瞭になり、私は今では美術界の人間であると言うよりは、政治評論家と言った方が当たっているでしょう。

 で、すさまじい被害があるからこそ、正当防衛の一種として、画家の固有名詞を出してもいいと思っています。だって、彼らは弾圧のための鉄砲玉として使われているのが、明瞭だからです。では、元に戻ります。
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 埼玉県にある額屋の名前を聞いて教えてもらっても、実際にはそこには、注文をしないだろうと言うのは、私は油絵は抽象画を描いているからです。

 それは、具象画(特に売ることを目的とした絵)みたいに、高くて凝った額を装着するべき絵でもないのです。彼岸花の額は、表面に銀粉が浮いていました。そう言う額は、私の絵に合いません。ただ、ただ、しつこく聞いたわけは、渡辺さんが、けちであることを知りたくないし、それを、確認したくなかったからです。

 すでに「渡辺さんが悪女だ」と言う評判は耳に入っていて、付き合わないように勧めてくれている人も居ました。だけど、桜井陽子さんと、私は子供が中学で同期ですし、鎌倉人(びと)としての縁は、二重三重にあり、しかも、大学同窓会が縁ともなっています。彼女は中退をしているので、キャンパスで出会ったことはないのですが、年齢的には一歳年上なのですから、話題も共通するはずですしね。
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副題26、『中退だった渡辺幸子さんが、今では卒業資格を持っている。不思議だ』

 このキャンパスでもみかけたことがないということは後で、卒業資格がどうして与えられたかの問題と、結びついて重要なこととなってきます。出来るだけ覚えておいてくださるとありがたいです。

 だって、昨日、山手学院(現在は、中央大学の付属中学となっている)で、2640人応募して、160人合格すると言うところ、情実合格が一人あったと言う件で、理事長以下、記者会見を開いて謝罪をしましたでしょう。国際基督教大学の授業と研究体制って、ものすごく厳しいのです。打から、渡辺さんみたいに、夜の10時まで絵を描いていたイ人が、どうして、卒業資格を得るほどの、勉強時間を生み出すことが出来たかが不明で、不審極まりないのです。もしかして、情実(?)。

 となると、国際基督教大学は、せっかくの特色を失うことと成りますね。非常にまじめな運営で厳しい授業体制だと言うことで、有名なのに?
 本当に変だ。

 だから袂を分かつことが出来ない縁のひとつなのです。が、以前から種々さまざまな疑問を、女に対して抱いて來ました。それが、このけちぶりを、目撃したときに、一気に解けたのです。それを今から書きます。
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副題27、『親には愛されてこなかった可能性のある渡辺さん』

 まず第一に、1950年代にフェリスに入学することが出来て、しかも1960年にICUに入学することが出来たと言うのは、すこぶるつきで頭脳が優秀だったと推察されます。それなのに、田沢茂先生ごときに、やすやすと従っていて、むしろ振り回されいじめられきっていて、悩み抜いています。主体性があるのなら、とっくに逃げ出すべきです。それが逃げ出せません。

 同じアマゾネス軍団に所属している桜井陽子さんのほうは、しつけのよく出来たお嬢様ですが、余り頭がいいとは思えません。武蔵野美大卒ですが、絵を描くこと以外の分野では、「彼女は切れている」とか、「さえている」と言うほうではないのです。だが、主体性は見事にあります。で、田沢先生も彼女の方を、いじめたりいじくり回したりはしないので、お互いにうまくいきます。

 ここで、桜井陽子さんの両親は親として、普通であったと仮定します。が、私とか、渡辺さんの親は偏愛の人であったと仮定しましょう。愛が少ない親だったと仮定しましょう。

 私自身は他人から見るとすさまじいまでに過保護だったそうです。妹と七つ離れていて、弟とは、13歳離れていて、人間形成が出来る時期にほとんど一人っ子として育ちました。両親は二人とも、中学(高女)時代までは、級長かな、副級長かなというタイプで、やや神経質です。そして、子供が成功をしてくれることを信じていて、かつ願っています。

 そのためには、かしずいてくれていると言うほどの、気遣いで保護してくれるのです。小さいときから、自室の掃除などしたこともなかったのです。お手伝いさんも居るし。だけど、その真綿でくるむような措置が、本当の愛情だったかどうかが疑わしいと思うときもあります。
 で、私自身が主体性のないほうで、桜井陽子さんの稲村ガ崎の家へ上げてもらったころには、桜井さんに押されっぱなしでした。だから、渡辺幸子さんが桜井さんに押されっぱなしで、圧迫感を感じてしまうのもよくわかります。

 だが、私と渡辺さんの違いは哲学的なテーマで考えることがすきか、嫌いかの違いにあります。彼女は好きも嫌いも無く、大体そう言うテーマではモノを考えません。リアリストそのもの。
 現実の課題である。新制作協会の会員になることしか考えていません。だから、人間性の分野で、彼女が抱えている問題点が解決されていません。

 鎌倉で育ったお嬢様で、フェリスからICUへ進学して、夫は外資系企業の社長さんで、お子さんは有名私立一貫教育の学園を卒業して、そのあとで、有名大学へ進学して、これも外資系企業へ勤めています。社会体制的には申し分のないエリートです。

 ところが、これを言うと、また、私の方が、それこそ、悪人だと言われてしまうと思いますが、肝心のところがエリートではないのです。つまり、ノブレスオブリッジの発想がない。先ほどの、額屋の名前を教えてくれないところにも、それが、よく現れていますが、私が過去になかよく付き合った人のなかで、こういうタイプは居なかったなあと思うほど、ふくよかな雰囲気がないのです。エリートほどふくよかでり、他者へ与えないといけないんですが、彼女には、そう言う観点での潤沢さがありません。なんだか、梅干の種とか、桃の種を思わせる彼女の性格です。

 自分にとって、得になる人に対して愛嬌を振りまいて、かわいらしい人だと思わせる技術はある人です。
 だが、本当のエリートとは、誰に対しても平等であり、特に弱い人とか、目下の人に対する心遣いが出来る人です。自分がエリートだから、目下の人と付き合うと時間が損だとか、思う人は、なりあがりものでしかない。その育ちが本当は悪かったと言うことの証明になります。

 桜井陽子さんが、ずっと、単身赴任家庭として、(ただし、絵描きとしてはそれはだんなに振り回されないと言う意味で、好都合なのですが)子育てをして、坊ちゃんは結婚式を無事に挙げるところへこぎつけました。それほど、しっかりと成長したのです。「それをご主人が、式の最後の挨拶の際に、感謝してくれたので、思わず泣いてしまった」と言うエピソードを画塾で聞いたときに、それを形だけでも祝福することが渡辺幸子さんには出来ないのです。いえ、桜井さんに面と向かってはよかったわねといったでしょう。だけど、私に向かって、変だ。変だと言うのも本心だったでしょうからね。私に対しては、形も整えなかったわけです。

 嫉妬心の塊です。ご自分の、ご次男の恋愛に関する優柔不断(結婚式も挙げないし、かといって,別れることも出来ない)には、母親らしい危惧は抱いているが、それでなにかどうか、いずれにしろ、他人の坊ちゃんの成功を喜べないのは、彼女の子供っぽさの現れです。
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副題28、『秋葉原のワシントンホテルに、8000円で泊まることが出来ました』

・・・・・休憩を取ることへのお断り・・・・・
 ここで、24時間程度休憩を取らせてくださいませ。昨日は家を午後零時に出て、壊れたパソコンを修復するために秋葉原のヨドバシに、午後の10時の閉店まで居て、つかれきったので、秋葉原のワシントンホテルに宿泊をしています。ありがたい事に、突然に入ったのですが、8000円で泊まることが出来ました。11階のワンフロアー、ほとんど他のお客は居ないと思われます。音でわかります。シャワーを使っている気配が他の部屋ではないから。
 でね、昨日は一切自分のパソコンを開くことが出来なかったので、読者様に申し訳が無いので、昨夜の11時から午前二時半まで、この一部を書きました。で、うとうとが始まったので、午前三時から、四時半まで、ベッドに横になっていたのですが、ベッドにきちんと入ると目が覚めてしまう問い悪い癖があります(笑)。いすに座っているときは睡魔が襲っているのにベッドに入ると眠たくなくなり、ほとんど眠られず、またおきてこれを書いています。こういうモノ(---他人への悪口と見えるものーーー)を書くときは責任感が強くなり、一応の起承転結がつくまでは眠くも成らないのです。体を壊すでしょうが、ともかく、書き終えようと努力をしています。ただ、何かは、食べないとだめなので、朝食をとりに下へ下りて行きます。恐れ入ります。
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 ここから先は、27日に新しく書く部分になります。
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副題29、『渡辺さんは、中退。だが、同じく破産した父を持つ別の令嬢は中退しなかった。変だ』

 私が不思議極まりないのは、フェリスへ子供を進学させるようなお宅とは、お金持ちのはずで、資産があるはずなのです。家はご自分のものでしょう.たいていの借金は家を売れば、あがないきれるはずです。それで、あがなえないほどの借金だったら、自己破産で、借金をチャラにしてもらえるはずですよね。父親が破産をしたから大学を中退せねばならなくなったというのが不思議で、極まりないのは、ご自分の家を売れば、充分に学費ぐらいは出せるはずだからです。

 不動産は、ずっと、高かったはずです。1950年代から1960年代にかけても、値上がりをしていたはずです。で、ご自宅を売って、ちょっとだけの期間でも、横浜に借家でも借りれば、そのお金で、子供の学費ぐらい出せるはずなのです。と言うのも当時でICUの学費は、一年間で、4万円だったはずで、それは、普通の私学の授業料の四分の一でした。

 で、渡辺さんは、親の偏愛に会っていた人ではないかという推察が可能になってきます。だから、あれほど、けちなのだとか、子供っぽいのだと言うことがいえる様になります。だから、田沢先生にも突っ込まれてしまうのだと言う事になります。
 
 この一文だけは悪口ではないのですよ。救いの文章です。私は常に、そう言う風に考えている人間です。自分なりのバランスポイントとか、落着点を見つけておこうとしている人間です。

と言うのも、私の友達に、やはり、『父が破産をしました』と言う人が居たのですが、本当に品がよいのです。そして、お小遣い帖をきちんとつけるとかそのほかで、少し、私と違うところがありましたが、それ以外は、自主性も主体性も、しっかりとあるひとなのです。お宅に招かれたことがあって、ご両親にもあっているが、ご両親がお子さんを愛していることをびんびんと感じました。

 我が家ですが、大学時代には、たった一人だけ、友達が訪問をしてくれています。その友達の感想は、「あなたの、お母さまって、聡明な方ね」でした。まあ、それは余談で、破産とか、お金とか、と、両親の愛情は関係が無いのです。両親の愛情が、豊かな家庭に育った人は、柔らかな雰囲気と上品さを持っています。自分のことは棚に上げて言えば、渡辺さんの持っている矛盾は、ご両親が、偏愛の人で、お姉さんをかわいがり、幸子さんを看過したとすれば、わかりやすくなってきます。
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副題30、『シロタ画廊での、オープニングパーティで』

 ところで、渡辺幸子さんが、鎌倉の信用金庫の会議室を三室ぶち抜いて、売るための花の個展をした後で、2003年の五月に、初めて銀座へ進出し、個展を開きました。その準備には私は一切関与していないと思いますが、画廊の格とか、評判についてはお話をしてあるかもしれません。

 と言うのも個展と言うのが、仲間に祝福をされているように見えて意外にも、祝福を受けないものなのです。特に初個展の際には、いろいろ難しいことがあります。

 普通だと「先生がお勧めになって、開きました」と言う事になると思います。が、アマゾネス軍団の中の、力関係とか、そのほかを考えると、田沢先生がお勧めになってとは、考えられないのです。

 私が余りに悩んでいる彼女に、できるだけ、独立心を持つように、気にしないようにと、勧めていたから、ひとつの独立心の表れとして、初個展に挑戦をしたとすれば、シロタ画廊の名前を教えてあげたのは、私だったかもしれないのです。

 と言うのも、シロタ画廊が、新制作の人が、常連でやっている画廊とも思えません。お互いに引き合ったり、紹介し合ったりして、ある会派の作家を、ここでよくやりますよという画廊が出来てくるのですが、新制作がシロタ画廊と密接に結びついているとも思えないのです。シロタ画廊は満遍なく偏りもなく、作家を扱うところでしょう。
 だから、彼女はこの個展を、ご自分の交渉力で、開くことへ到達したと思います。

 となると、アマゾネス軍団が祝福して、「全面的にお手伝いしますね」と言うことにもなってはいないと思います。
 私が手伝ってあげる?・・・・・それが出来ないのです。私はね。1998年の暮れから、2001年の春まで、逗子のアトリエで、一人暮らしをしています。2001年の三月に鎌倉の自宅に帰ったのですが、その三年間を子供が正面切ってではないが、心の中では、怒っています。

 で、そう言うことをお母さんが、するのは、美術と言うものがあるからだと思っていますから、美術に関して、何かがあって、夜遅く帰ってくるということができなかったのです。

 個展のオープニングパーティと言うのは、画廊が7時に終わるとしても、楽しんでいるお客を追い出すわけにも行かないので、主催者側は、だいたい7時半ごろまで、開いているものです。それから、料理を片付け、部屋を掃除する。または、二次会が開かれるとなると、夜の9時までは開放されません。

 特に主催者側のお手伝いさんとなると、余計自由が利きません。だから、出来ないのですが、なんとなく気にかかって、「どうなさるの?」と質問をすると、「どうしていいか?、まだ、そこまで考えていないわ」とのことでした。それは判ります。初個展って、非常に忙しいものですから。

 で、私はこういいました。「あのね、おやりになった方がいい。シロタ画廊を目指してくるお客さんの中には、オープニングパーティがあるものだろうと、思ってくる方もあるだろうから」
 (ここで、彼女には説明をしませんでしたが、公募団体展に所属している作家が個展をする際にはたいてい、オープニングパーティを開くものなのです。だから、シロタ画廊でもしょっちゅうオープニングパーティが開かれているのを見ます。特にこの個展のひらかれた2003年はまだ、日本中は、今ほど、経済的に落ち込んでいなくてね。むろん、3.11みたいなことはおきるはずがないとみなされていましたから、パーティは毎週ぐらい開かれていました。私はほとんど、毎週、銀座を回っていますが、渡辺さんは、それをやっていませんので、そういう雰囲気についてはしらないのです)

 さらに、「大ベテランになってね。自分が画廊には、つめていないほどの画家になったら、やらなくてもいい。だけど、今の段階ならおやりになった方がいい。でもね、はがき(案内状)には、それを書かないほうがいい。余り、大げさに見えない方がいいから」と。
 これも、「あっ」というほどのムードで喜んでもらっているのを感じました。この時点では、青木繁大賞をもらっていない渡辺さんは、無論新制作の会員でもありません。となると、スペースの広い大画廊、シロタ画廊で、個展を開くこと自体が、生意気だとみなされる可能性があるのです。出来るだけ控えめにした方がいいというのもあたりです。
 もしそう言うことを一切気遣いしないでいいほど、新制作が、本当にモダンで、近代化しているのなら、渡辺さんは、その2003年の個展から、ガレリアグラフィカで、三回か、四回、シロタでも、もう一回、開いているのですから、2011年の前に、会員になっていて、おかしくはないけれど、2011年までは、会員になっていないです。

 ここで、名前を挙げたガレリアグラフィカとは、シロタ画廊より、『自分のところの方が上です』と、思っているだろうとみなせるほどの有名な画廊です。だから、ここに私が書いていることなど、蚊が刺した程の影響力もないですよ』と彼女は思っていると思いますし、私もこういう文章を書きながら、彼女の足を引っ張るのが目的ではないと言いたいです。目的はずっと、別のところにあります。

 でもここで、パーティの準備についての話に戻ります。さらに、続けて、「お手伝いさんを用意した方がいい。そう言う人はね。美術界の人ではなくて、昔からの友達で、気の置けない人で、あなたの頼みどおりに動いてくれる人がいい。
 そう言う人にお料理を自宅から作ってもらってきてもいいし、デパ地下へ買い物に行ってもらってもいい」とも言いました。パーティのお料理と言うのは定番で決まっています。その手のお料理を作るのは鎌倉夫人、または、フェリス時代、または、JALのスチュワーデス時代の彼女の友人だったら、お茶の子さいさいで、作ることが出来るでしょう。

 その日、五時ごろ顔を出すと、彼女はとても楽しそうでした。パーティは順調に用意されていて、お酒が足りないとか、お料理が足りないと言うこともなさそうでした。

 皆さん、『あなたって、とてもつまらない話をしているわね』とおっしゃいますか? でも、こういう部分もまた、大切な部分であって、悪くすると、自分が浅野匠の守になってしまうのです。もし彼女が、『自分は、初個展だし、えらそうにしていると思われるといけないから、オープニングをいたしますとは、はがきには書かない。だから、パーティもしない』と自分だけで考えて、用意をしていなかったら、後で、後悔する事になったでしょう。そして、そう言う部分ほど、主催者側が一番疲れる部分なのです。
 そして、その時点では、その手の借りを作る相手として、私こそ最適だったでしょう。

 今、大急ぎで具愚って見ましたが、画家・桜井陽子と言う記録がないのです。不思議な事に、美術家連盟にも入っていないし、ホーム頁も持っていません。ずいぶんと早くに、神奈川女流の会員にもなっているし、新制作の会員にもなっているはずですが、絵を売ると言う必要はない人であり、また有名人にもなる必要のない人なのでしょう。それは、ご主人の職業柄からも察せられることです。
 ご主人は有名人を作り出していくほうの側の人ですが、そう言う人こそ、現代のエリートです。有名になることだけがエリートでもありません。

 ただし、画家というものは、名前を世間に通らせた方がいいのです。デで渡辺さんの活動形態が間違っているわけでもないです。
 うーん、2万字を超えました。今日はここで、終わりとさせていただきます。強引ですが、 雨宮舜 (本名、川崎千恵子)
コメント (4)
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