迫真に迫る!
ギローの推理は続く。
1890年7月27日早朝。
株式仲買人時代に護身用に買っていたリボルバーに一発だけ
弾丸を装填した。

鈍く光る銀色の拳銃を、着古した上着の内ポケットに入れて、
ゴーギャンは汽車に乗った。
目指すはオーヴェール・シュル・オワーズ。
小さな村だ。
日中どこかでゴッホがスケッチしているか、ゴーギャンはわかっている。
彼が好んで出かけるのは、麦畑か、


川のほとりか、

糸杉のような大きな木のある並木道か。

美しい風景が見渡せる場所のはずだ。
はたしてゴッホは、オワーズ川のポプラ並木でスケッチ中だった。

並木道の彼方に人影をみつけて、ゴッホは、動かしていた筆を止めた。
次第に近づいてくる人影が、彼がいまなお尊敬してやまない朋友だと
知ったとき、ゴッホに喜びが爆発した。
~ ポール!
彼は一声叫んで、」駆け寄ろうとした。
その瞬間、ゴーギャンは

素早く内ポケットからリボルバーを抜き、片耳がちぎれた憐れな友に
向かって引き金を引いた。
パン、と乾いた音が響き渡った。

その瞬間、
ポプラ並木のすべての枝葉をざあっと鳴らして一陣の風が通り過ぎた。
ゴッホは両手で脇腹を押さえた。
その指の間から 鮮血が噴き出した。

何が起こったのかわからず、ゴッホは笑いをこらえるような、
泣き出す前のような顔をしてゴーギャンを見た。
ゴーギャンは肩で息ををつきながら、苦しそうに言葉を絞り出した。
「~テオを自由にしてやってくれ。
そのためには、こうするしかなかったんだ・・・」
「~テオを・・・自由に・・・?」
「そうだ。君が彼の足を引っ張り続ける限り、彼は自由になれない。
私も、そうだ。
私は、君の存在がうとましい。
君がテオを踏み台にして、 君だけの世界へ、はるか彼方へ
行ってしまうのを、もうこれ以上見ていられなくなったんだ。
フィンセント。
私は、テオを自由にしてやりたかった。
そして、君を楽に・・・自由にしてやりたかた。
許してくれ・・・。
ゴーギャンはリボルバーを内ポケットに入れると、友に背を向けた。
どさりと身体が地面に頽れる音がした。
けれど、ゴーギャンは振り向かなかった。
オワーズ川は滔々と流れ、太陽がゆっくりと西に傾いてゆく。

テオが暮らすパリは、天国よりも遠いところにあったーー。
「すっご!」 フィリップが叫んだ。「話が完璧にできている!」
「ま、作り話だがな。完璧な」 得意げにギローが言った。
冴は、「ちょっとちょっと、やめてくださいよ!」
作り話もたいがいにしてくださいよ、
社長。
それやっていいのは小説家くらいですから」
*(ちゃんと、原田マハさん、上手に、史実の中へ、小説家として
「ゆるされる」創作を挿入したってこと…)
でも この話、よく書いたものだなぁ~と、
私(ブログ編集者)も, さすが、小説家だなぁ~と大いに感心!
ギローは仕方ないというように肩をすくめて~
「しかしなぁ、冴。
ゴーギャンがあいつを殺したってことにすれば、つじつまが合うんだよ」
「だからどのつじつまですか?」 と冴。
「ペータースが言っていた
『謎の人物・Xの秘密』さ」
振り返ってみましょう。
1.自分はゴーギャンの孫である。
2.ゴーギャンが所有していたリボルバーが祖母・母・自分の三代に
伝えられた。
3.そのリボルバーはゴッホにまつわる貴重なものである。
4.リボルバーと共に、史実を覆す重要な真実が口伝されている。
「『X』がゴーギャンの孫で、あのリボルバーのもともとの持ち主が
ゴーギャンであるという、第1と第2の秘密が真実であることが
前提だが…ファン・ゴッホはピストル自殺で死んだんじゃなくて、
実はゴーギャンに撃たれて殺されたーーーという仮説ならば、
第3と第4の秘密との整合性が出てくるだろう?」
冴は、きっぱりと否定した。
「残念ながら、ゴーギャンがファン・ゴッホを殺したなんて、
セ-ヌ河が逆流するくらい絶対にあり得ませんから」
ゴッホとゴーギャンは表面的に反目しあうことは合っても、底の底では深い友情で結ばれていた… 冴はそう信じていた。
もちろん、それだって当人たちに確かめたわけではないから想像でしかないのだが、幸い、美術史上もっとも筆まめな画家のひとりだったゴッホが遺した幾多のゴーギャンへの手紙には、彼への深い友情と敬愛が溢れている。
テオへ書き送った手紙の端々にも、
ゴーギャンはどうしているか、ゴーギャンを支援してほしいと
繰り返し書いている。
冴は、ゴッホの手紙を信頼できる資料として拠りどころにしていた。
『いまでは、多くの研究者が、「ゴッホは狂人だった」という本人の存命中から
すでに形成されていたゴッホ像は間違っていると理解している。
彼は、ずば抜けた語学能力が備わっており、母国語以外に、フランス語、英語、
ラテン語を操ったことはよく知られている。
弟への手紙すら正確なフランス語で書き綴り、その破綻のない構成と文章力は彼が
狂人どころかまとも以上、つまり天才的だったことを裏付けている。』
膨大な量の手紙は類まれな芸術的遺産として保存・研究され、
後世の人々に愛読されることになった。
そうなるためには、この手紙の資料的価値と文学的ポテンシャルに着目し、
世に出そうと努力した人物の存在が必要だったわけだが、テオの未亡人、
ヨー・ファン・ゴッホ・ボンゲルがこの偉業を成し遂げた。

*ゴッホの「手紙」については、NO.6 で紹介していますが。


「ファン・ゴッホは「耳切り事件」の直後は、茫然自失だったようですが、
事件の10日後には入院先のアルル市立病院からテオへ手紙を送っています。
心配で狂わんばかりになっているだろう弟を安心させようとして。
その手紙の中で、ゴーギャンについても触れているんです。
『手紙を送ってくれとゴーギャンに伝えておくれ。
僕は彼のことをずっと考え続けている ということも』
ファン・ゴッホ美術館所蔵・整理番号728・テオ宛のフランス語の手紙
その手紙は「君とゴーギャンに固い握手を送る」との一文で締めくくっていたのだ。
珍しいのも~「アルルの病院でゴッホの手術担当した「レイ医師」が書き残した
ゴッホの耳の絵

ゴーギャンは、筆まめだったのか?
そう、同じくらい筆まめでした。
当時、手紙を書くことは生きていく上で必要な作業でした。
愛を告白するにも、お金を借りるにも、無心するにも~
手紙で訴えるしかほかはなかった。
ゴッホもゴーギャンも生活に困っていたので
家族に窮状を切々と手紙に綴りました。
ゴッホから弟テオへの手紙の多くは
『五十フラン札を送ってくれてありがとう』から始まっています」
ゴーギャンも十分文章力はありましたが、
フィンセントにとってのテオのような、心の通った相手がいなかった~。
結構な手紙はあるし、書簡集も後年出版されているが、
ゴッホンのそれにくらべると存在感が薄い。
彼の死後、十五年以上経ってから、まったく赤の他人、イギリス人作家
サマセット・モームが彼をモデルにして書いた『月と六ペンス』によって
広く知られるようになったのだった。


ゴッホが夢描いていた「芸術家たちの共同体」は、たった二ヶ月で破綻してしまうのだが…ゴーギャンは「『前後録』に記している。
「まるで自分の素質を完全に見抜いたかのように、そこから太陽の光にあふれた、あの太陽また太陽の作品群が生まれていった」と。
ゴーギャンもまた、ゴッホの示唆に満ちた言葉に感化され、その後の進路を決めたと言えなくもない。
オーヴェールのファン・ゴッホはゴーギャンに宛てて手紙を送りました。
最後の手紙を
1890年7月。
その手紙にはこう書いてあったと、ゴーギャンは『前後録』に記している。
<ーー親愛なる我が師、あなたを知り、あなたに迷惑をかけてから
というもの、悪い状態でなく、よい精神状態のときに死にたいと
思うようになりました>
それきり手紙はこなかった。
ほどなくして、一通の電報が届けられた。
ゴッホがピストル自殺したという訃報が。
それを受けて、ゴーギャンは、 

共通の親しい友人、エミール・ベルナールへ手紙を送っている。

<ーーこの死は実に悲しむべきだが、私はそれほど悲嘆に暮れている
わけではない。私はこのことを予想していたし、あの可哀そうな男が
凶気と戦う苦しみをよく知っていた。
この時期に死ぬのは、彼にとっては一種の幸福なのだ。
それは彼の苦しみに終わりを告げさせたーーー>