黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.11

2021-07-05 | 日記
 「ポール・ゴーギャン」
   

 1848年、パリに生まれる。父は新聞記者。
 ゴーギャンが1歳の時、一家は母方の叔父を頼ってペルーへ渡ったが、
その途上で父は心臓発作で絶命。
ゴーギャンは叔父の庇護のもと、6歳までペルーの首都、リマで暮らした。

成人した彼は、「船乗り」になり航海を重ね、そののち株式仲買人になって
相当稼ぎ、ビジネスマンとして成功した。

絵を描き始めたのは、妻メット結婚した25歳の頃。

当時彼はパリ九区に住んでおり、周囲には印象派の画家たちが通う
カフェや画廊が点在していた。
 面白そうだからちょっとやってみようかと、ほんの出来心で絵筆を~
彼はアカデミックな美術教育を受けたわけではない。

それが次第に本気になった。
1882年、株の大暴落を機に、画家を生業(なりわい)とすることを
考え始める。
 そんな絵にうつつを抜かす夫に業を煮やした妻メットは、子供たちを
連れて実家のあるコペンハーゲンに帰ってしまう。
 ゴーギャンは家族を追いかけてコペンハーゲンまで行き、心機一転、
・・・・しかし、うまくいかず・・・・
     創作意欲抑え難くなり、結局パリに戻る

その後、田舎で制作に専念しようと、ブルターニュ地方
ポン=タヴァンに移住する。 若い画家たちが集っていた。
 のちに彼らは「ポン=タヴァン派」と呼ばれるようになる。

      
             ( 世界で最も美しい町とも…)
*ポンタヴァン派」
 フランスのポン・タヴァンで活動した芸術家たちのグループを指し、特に
 1880年代末から1890年代にかけてポン・タヴァンにいたポール・ゴーギャンの
 影響を受けた芸術運動である。
 大胆な純色の使用。象徴主義的な主題の選ぶ方などが特徴である。
  ゴーギャンのほか エミール・ベルナールなどの画家が著名
           

ゴーギャンがこの地で描いた作品
  「ポン・タヴァンの水車小屋」    
 
 「説教の後の光景」
       


エミール・ベルナールの作品
 前の、ゴーギャンの「説教の後の光景」からの影響で描いた

「草地のブルターニュの女たち」

 

「ポン・タヴァンの市場」




また、ゴーギャンは、新しいモチーフを求めて、パナマからマルティニク島へと船旅をする、が、パナマ滞在中に破産の憂き目に遭い、さらに赤痢に
かかって生死の境をさまよっが、奇跡的に快癒し、パリへ帰り着く。

 世間にも家族にも見放された…ゴーギャンだったが。
     芸術の神には見放されなかった?

当時、パリで画商として成功していたテオ・ファン・ゴッホ
見出される。            
          

                 


 テオは「すごい画家を見つけた」と狂喜して、同居していた
兄、フィンセントにゴーギャンの存在を教える。
         
             

 この二人の経歴を比較してみましょう~。

ゴーギャンは幼少時に海外経験。
ゴッホは北ヨーロッパから出てない。

ゴーギャンはビジネスマン成功体験を持つが、ゴッホは落伍者。
ゴーギャンは富を手にしたが、
ゴッホはずっとつましい生活を続けた。

ゴーギャンは恋愛し、家庭も持ったが、
ゴッホは想う相手に愛を受け入れられたことがなかった。

ゴーギャンは快楽主義的思想の持主で山っ気があったが、
ゴッホは後ろ向きで落ち込みやすく、生真面目な性格だった。

   まるっきり正反対のように見えるふたり だが、
        実は共通点も少なくなかった。
  
二人とも、アカデミックな美術教育を受けていない。
     画家を目指したのが二十代後半・絵を描くことへの強い執着
     放浪癖 など。

 さて、こんな二人がアルルで共同生活をするきっかけは ?・・・
                         
   

ファン・ゴッホの呼びかけにゴーギャンが応えたんですが…
  そう、単純なことでもなかった。

  それでは、この二人の 共同生活についてお話を始めましょう。
             
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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。