黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
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ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.15

2021-07-10 | 日記
 6人の女たちがいた。
  彼女たちがゴーギャンの子供を産み育てたかどうか・・・

ジュリエット・ユエ。 1890年、ゴッホが没した前後のパリでモデルとして
              雇ったお針子と深い関係になる。
  *ゴーギャンがタヒチへ旅立った1891年、女児を出産していた。
   この娘は、ゴーギャンに認知されなかったものお、運命の巡り合わせか、
   のちに画家になった。その名はジュルメーヌ・ユエ。
   1980年に89歳で没したところまではわかった。が、彼女に子供…
   ゴーギャンの孫…がいたかどうかは、手元の文献上では確認できなかった。
   対象としてリストに入れる

◆テハマナ、通称テフラ。1891年、初めて渡航したタヒチで出合った13歳の少女       
              をゴーギャンは現地妻にした。
              彼女から霊感を得たゴーギャンは、第1次タヒチ時代
              におけるみずみずしい作品の数々を生み出した。

  *テフラは、自伝的タヒチ滞在記「ノア・ノア」の中に登場。   
  *「ノアノア」(かぐわしき香り)
     シャルル・モリスが編纂して、とても脚色したのものになってる。
   
    「日本版  ちくま文庫  ノアノア」
              
 
    ゴーギャンが初めてタヒチに渡った直後に、たまたま立ち寄った家で
   その家の中年の女に尋ねられた。「お前は何処へ、何をしに行くんだ」
    ゴーギャンは正直に答えた。「女をひとり見つけに行く」と、すると、
    女は意外なことを申し出る。「お望みなら、私の娘をお前にあげよう」

    ゴーギャンはこう書いている。
  (ひどく透き通るバラ色の寒冷紗の下から、肩や腕の金色の肌が見えていた。
    そして、二つの乳房がその胸にぷっくりふくれ上がって見えた)
       
 二人が仲睦まじく暮らした期間は長くはなかったが、ゴ―ギャンは
 この少女と心から愛しあい、幸せだった。
        
    <チ・メラヒ・メトア・ノ・テハーナ>
                           最初の妻
  

 彫刻の作品も  <テフラ>
           

が、タヒチに渡って1年後に大喀血 。
経済的にも追い詰められて、帰国を決意。
同じ頃、テフラの妊娠が分かったが、ゴーギャンは自分の子供の誕生を望まなかった。結局、子供は死産だった。
彼女はゴーギャンが去って後、現地人の男と結婚する。
                       リストから消える。
   
 この時期に描かれた作品の数々~
いかにゴーギャンの創作のエネルギーが充実しているかが分かる。
 
  タヒチについた初期の作品は、現地女性住民が日々 タスクを行う
 姿を描いていた~その中の1枚
     <タヒチの女たち>


     <ヴァヒネ・ノ・テ・ヴイ(マンゴーを持つ女)> 
           

    <テ・ナヴェ・ナヴェ・フェヌア(かぐわしき大地)> 
       


       <マナオ・トッパパウ(死霊が見ている)>  
 
 
     <イア・オラナ・マリア(マリア礼賛)>     

    
◆アンナ。        1893年、タヒチからパリへ戻ったゴーギャンは、ジャワ人                 
             女性を愛人にした。しかし彼女はゴーギャンの留守中に金
             目のものを持ち出して姿をくらます。
              リストから外す。
  
              <ジャワの女 アンナ>
            
      
◆ズーリー。       1895年、娼婦通いは日常的だったが、中でも懇意にして
             いた女がいた。ゴーギャンはこの娼婦を愛人にすることは
             なかった、梅毒をうつされて終わった。
                       リストから外す。

◆パウッウラ・ア・タイ、通称パウラ
             1896年、第2次タヒチ滞在が始まったころに知り合い、
             同棲した13歳の少女。病気と経済苦でもっとも困難な時期
             だった。せっかく再びタヒチへ渡ったのに、しばらくの
             あいだ、ゴーギャンは絵を描くこともままならなかった。

  *パリからタヒチに戻っての新しい愛人としてのパウラだったが、彼女は
    テフラに比べて怠惰でだらしなく、ゴーギャンに純粋な愛情を注ぐと言う
    訳ではなかった。
    1896年ノクリスマス間近、パウラは女児を出産する。
   
    ゴーギャンは記念に
   <テ・タマリ・ノ・アトゥア(神の子の誕生)>
 
    が、数日後に死んでしまう。
    それからの1年は最悪だった。 
    体調と経済状況が日増しに悪くなる中、最愛の娘アリーヌの訃報を受ける。
    襲い来る絶望。まさにどん底状態。
    それでも絵筆をとってあの大作に向かう。

 作品  <我々は何処から来たのか? 我々は何者なのか?
           我々は何処へ行くのか?>

 

 この作品は 縦140㎝ 横375㎝ 巨大な1枚です。
      ボストン美術館所蔵で、以前、ボストンを訪れた際に、実際に見て来ました。
 
  翌年、パウラはふいにゴーギャンのもとを去った。
  彼女はみごもっていたが、ゴーギャンに堕胎を迫られ、「いやだ」と実家に
  帰ってしまう。1899年4月19日、パウラひとりで出産した。男の子だった。
  ゴーギャンはその子を認知しなかったが、エミリーと名付けて、ポリネシア
  の領事館に出生届を提出した。
  (妻メットとの間に生まれた長男と同じ名前)…ゴーギャンの切なさ?

 成長したエミリーは、有名な画家の息子ということで欲深い連中に利用され散々な
 目に遭った…タヒチを逃避し、妻を娶って、大勢の子供と孫に囲まれて平穏に
 暮らした~ということだった。
 大勢の子供と孫、つまりゴーギャンの孫と曽孫である。
 彼らの中には存命している者もいるかも知れない。 ということは
 彼らを一気にリストに入れるべきだろうか‥‥
  現時点では、彼らの名前も居場所も特定できないし、
 そもそもエミールは「娘」ではない。 
 とりあえず欄外においておくことにした。

◆マリー=ローズ・ヴァエホ。
           1901年、ゴーギャンはタヒチを離れてマルキーズ諸島の
            ヒヴァ=オハ島へ移住する。そこでカトリック寄宿舎にいた
            14歳の少女を口説き、愛人にした。
            平穏な暮らしを送った期間は短かった。ヴァエホと出会った
            2年後、病菌と貧困に苦しみながら、ゴーギャンは孤独の
            うちに絶命する。
  マルキーズ諸島
  

*ゴーギャンは53歳になっていた。新天地で息を吹き返したゴーギャンは人生最後の人
ヴァエホを彼女はフランス語もそれなりに話せる少女。
静かで平和な時間がようやく訪れた…とても短い期間であったが。

 この島で住んでいた <メゾン・デコ・ジュイール(快楽の家)」
          

  ここでの作品に  
           「扇を持った若い女」 
        

  このモデルはトホタウアという女性。
 彼女は現地の医者の妻だったが、まだ若く、魅力的な赤毛をしていた
 ゴーギャンの気をそそった。この女性を妻にはできなかったが、モデルに採用
 することで、いささかの満足を得た。
               (画家ってのは~本当に「女」が好きなようですね)

 また、この絵を描く際に、ゴーギャンは彼女の姿を一旦写真に撮り
 それをもとにこれを描いたのです。

 残されていた彼女の写真。
      

    <赤いケープをまとったマルキーズの男>
        

     <未開の物語>
        

 そんな折、ヴァエホの懐妊がわかった。
 ヴァエホはゴーギャンの元を去った。
 1902年9月14日、ヴァエホは実家で出産。

文献上で確認できるゴーギャンの最期の子供は、女の子だった
    娘が生まれていた‥‥とわかったとき、冴の胸がとくんと波打った。

 ゴーギャンは、ヴァエホと別れたあと、新しい恋人を見つけることなく
 たたてひとりで最期を迎えるのです。

     ゴーギャン最期の自画像
                (眼鏡をかけている)
        

1903年5月8日 彼を訪ねてきた現地人の大工が、ベッドの外に片腕をたらして
こと切れているゴーギャンを発見した。享年54歳。
遺骸は母国の家族のもとに還されることなく、ヒヴァ=オア島の教会墓地に
埋葬された。
       

  リストの最後に~冴は、
 ヴァエホの娘、タヒアティカッオマタ、通称 タウッアヌイを加えた。

 母から娘へ伝えられた~という「第2の秘密」の条件に合致するのは
 この二人になった。
    ジュルメーヌ・ユエ  そしてタウッツヌイ
 彼女たちに娘がいたとしたら、そのうちの誰かが「X」(イクス)だ。

  閲覧室の利用時間まで もう時間がない 急がなければ~

  そのとき、 見知らぬ番号からショートメール。

 <リボルバーの件で、ふたりきりで話せませんか。
         あなただけに伝えたいことがあります>

       サラ・ジラールからのメッセージだった。
    
 

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。