6人の女たちがいた。
彼女たちがゴーギャンの子供を産み育てたかどうか・・・
◆ジュリエット・ユエ。 1890年、ゴッホが没した前後のパリでモデルとして
雇ったお針子と深い関係になる。
*ゴーギャンがタヒチへ旅立った1891年、女児を出産していた。
この娘は、ゴーギャンに認知されなかったものお、運命の巡り合わせか、
のちに画家になった。その名はジュルメーヌ・ユエ。
1980年に89歳で没したところまではわかった。が、彼女に子供…
ゴーギャンの孫…がいたかどうかは、手元の文献上では確認できなかった。
対象としてリストに入れる。
◆テハマナ、通称テフラ。1891年、初めて渡航したタヒチで出合った13歳の少女
をゴーギャンは現地妻にした。
彼女から霊感を得たゴーギャンは、第1次タヒチ時代
におけるみずみずしい作品の数々を生み出した。
*テフラは、自伝的タヒチ滞在記「ノア・ノア」の中に登場。
*「ノアノア」(かぐわしき香り)
シャルル・モリスが編纂して、とても脚色したのものになってる。
「日本版 ちくま文庫 ノアノア」

ゴーギャンが初めてタヒチに渡った直後に、たまたま立ち寄った家で
その家の中年の女に尋ねられた。「お前は何処へ、何をしに行くんだ」
ゴーギャンは正直に答えた。「女をひとり見つけに行く」と、すると、
女は意外なことを申し出る。「お望みなら、私の娘をお前にあげよう」
ゴーギャンはこう書いている。
(ひどく透き通るバラ色の寒冷紗の下から、肩や腕の金色の肌が見えていた。
そして、二つの乳房がその胸にぷっくりふくれ上がって見えた)
二人が仲睦まじく暮らした期間は長くはなかったが、ゴ―ギャンは
この少女と心から愛しあい、幸せだった。
<チ・メラヒ・メトア・ノ・テハーナ>
最初の妻

彫刻の作品も <テフラ>

が、タヒチに渡って1年後に大喀血 。
経済的にも追い詰められて、帰国を決意。
同じ頃、テフラの妊娠が分かったが、ゴーギャンは自分の子供の誕生を望まなかった。結局、子供は死産だった。
彼女はゴーギャンが去って後、現地人の男と結婚する。
リストから消える。
この時期に描かれた作品の数々~
いかにゴーギャンの創作のエネルギーが充実しているかが分かる。
タヒチについた初期の作品は、現地女性住民が日々 タスクを行う
姿を描いていた~その中の1枚
<タヒチの女たち>

<ヴァヒネ・ノ・テ・ヴイ(マンゴーを持つ女)>

<テ・ナヴェ・ナヴェ・フェヌア(かぐわしき大地)>

<マナオ・トッパパウ(死霊が見ている)>

<イア・オラナ・マリア(マリア礼賛)>

◆アンナ。 1893年、タヒチからパリへ戻ったゴーギャンは、ジャワ人
女性を愛人にした。しかし彼女はゴーギャンの留守中に金
目のものを持ち出して姿をくらます。
リストから外す。
<ジャワの女 アンナ>

◆ズーリー。 1895年、娼婦通いは日常的だったが、中でも懇意にして
いた女がいた。ゴーギャンはこの娼婦を愛人にすることは
なかった、梅毒をうつされて終わった。
リストから外す。
◆パウッウラ・ア・タイ、通称パウラ
1896年、第2次タヒチ滞在が始まったころに知り合い、
同棲した13歳の少女。病気と経済苦でもっとも困難な時期
だった。せっかく再びタヒチへ渡ったのに、しばらくの
あいだ、ゴーギャンは絵を描くこともままならなかった。
*パリからタヒチに戻っての新しい愛人としてのパウラだったが、彼女は
テフラに比べて怠惰でだらしなく、ゴーギャンに純粋な愛情を注ぐと言う
訳ではなかった。
1896年ノクリスマス間近、パウラは女児を出産する。
ゴーギャンは記念に
<テ・タマリ・ノ・アトゥア(神の子の誕生)>

が、数日後に死んでしまう。
それからの1年は最悪だった。
体調と経済状況が日増しに悪くなる中、最愛の娘アリーヌの訃報を受ける。
襲い来る絶望。まさにどん底状態。
それでも絵筆をとってあの大作に向かう。
作品 <我々は何処から来たのか? 我々は何者なのか?
我々は何処へ行くのか?>

この作品は 縦140㎝ 横375㎝ 巨大な1枚です。
ボストン美術館所蔵で、以前、ボストンを訪れた際に、実際に見て来ました。
翌年、パウラはふいにゴーギャンのもとを去った。
彼女はみごもっていたが、ゴーギャンに堕胎を迫られ、「いやだ」と実家に
帰ってしまう。1899年4月19日、パウラひとりで出産した。男の子だった。
ゴーギャンはその子を認知しなかったが、エミリーと名付けて、ポリネシア
の領事館に出生届を提出した。
(妻メットとの間に生まれた長男と同じ名前)…ゴーギャンの切なさ?
成長したエミリーは、有名な画家の息子ということで欲深い連中に利用され散々な
目に遭った…タヒチを逃避し、妻を娶って、大勢の子供と孫に囲まれて平穏に
暮らした~ということだった。
大勢の子供と孫、つまりゴーギャンの孫と曽孫である。
彼らの中には存命している者もいるかも知れない。 ということは
彼らを一気にリストに入れるべきだろうか‥‥
現時点では、彼らの名前も居場所も特定できないし、
そもそもエミールは「娘」ではない。
とりあえず欄外においておくことにした。
◆マリー=ローズ・ヴァエホ。
1901年、ゴーギャンはタヒチを離れてマルキーズ諸島の
ヒヴァ=オハ島へ移住する。そこでカトリック寄宿舎にいた
14歳の少女を口説き、愛人にした。
平穏な暮らしを送った期間は短かった。ヴァエホと出会った
2年後、病菌と貧困に苦しみながら、ゴーギャンは孤独の
うちに絶命する。
マルキーズ諸島

*ゴーギャンは53歳になっていた。新天地で息を吹き返したゴーギャンは人生最後の人
ヴァエホを彼女はフランス語もそれなりに話せる少女。
静かで平和な時間がようやく訪れた…とても短い期間であったが。
この島で住んでいた <メゾン・デコ・ジュイール(快楽の家)」

ここでの作品に
「扇を持った若い女」

このモデルはトホタウアという女性。
彼女は現地の医者の妻だったが、まだ若く、魅力的な赤毛をしていた
ゴーギャンの気をそそった。この女性を妻にはできなかったが、モデルに採用
することで、いささかの満足を得た。
(画家ってのは~本当に「女」が好きなようですね)
また、この絵を描く際に、ゴーギャンは彼女の姿を一旦写真に撮り
それをもとにこれを描いたのです。
残されていた彼女の写真。

<赤いケープをまとったマルキーズの男>

<未開の物語>

そんな折、ヴァエホの懐妊がわかった。
ヴァエホはゴーギャンの元を去った。
1902年9月14日、ヴァエホは実家で出産。
文献上で確認できるゴーギャンの最期の子供は、女の子だった。
娘が生まれていた‥‥とわかったとき、冴の胸がとくんと波打った。
ゴーギャンは、ヴァエホと別れたあと、新しい恋人を見つけることなく
たたてひとりで最期を迎えるのです。
ゴーギャン最期の自画像
(眼鏡をかけている)

1903年5月8日 彼を訪ねてきた現地人の大工が、ベッドの外に片腕をたらして
こと切れているゴーギャンを発見した。享年54歳。
遺骸は母国の家族のもとに還されることなく、ヒヴァ=オア島の教会墓地に
埋葬された。

リストの最後に~冴は、
ヴァエホの娘、タヒアティカッオマタ、通称 タウッアヌイを加えた。
母から娘へ伝えられた~という「第2の秘密」の条件に合致するのは
この二人になった。
ジュルメーヌ・ユエ そしてタウッツヌイ
彼女たちに娘がいたとしたら、そのうちの誰かが「X」(イクス)だ。
閲覧室の利用時間まで もう時間がない 急がなければ~
そのとき、 見知らぬ番号からショートメール。
<リボルバーの件で、ふたりきりで話せませんか。
あなただけに伝えたいことがあります>
サラ・ジラールからのメッセージだった。
