黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.12

2021-07-06 | 日記
 ゴッホは南仏・アルルを目指して旅立った。
清澄な色彩に溢れてるという南の町で、画家仲間と共同アトリエを
運営するという夢を実現するために。

ゴッホの作風は、パリで劇的な変化を遂げたが、さらなる光を、
明るい色を彼は求めていた。 そのためにももっと南へ行ってみたい!

しかし、経済的余裕もなく~アルル行だって~彼にとっては無謀な計画。
誰がそれを実現させるのか?  
 弟テオにおいて他にない。
 テオも必死だった。 どうにか兄を画家として独り立ちさせたい‥‥
さらには、兄との共同生活を終わりにしたい…このことが
アルル行を実現させた。

アルルに到着したゴッホは、風と光にあふれる景色に目を奪われ、
素朴な土地の人々とのふれあいに励まされて、生まれ変わったように
精力的に創作した。

テオは、兄が本気を出してきたと感じていた。

「仲間が欲しい!」とゴッホの呼びかけに応える誰かがいれば、
その画家のアルルまでの旅費を工面し、生活費を保証するために作品を
買い上げることに決めた。

それでは作品をご紹介しましょう。
この時期に生み出された傑作の数々は枚挙にいとまない。
もう、皆さんもお馴染みの作品ばかりです。

「夜のカフェテラス」 

「アルルの跳ね橋」


「郵便配達人ルーラン」
    

「ひまわり」
    

「ローヌ河の星月夜」



 そこで、テオは、
当時ポン・タヴァンにいたゴーギャンに白羽の矢が立ったのである。

         
 
ゴーギャンは生活に困っていたこともあり、アルルに行けばテオが
必ず作品を買い取ってくれるというのは、魅力的な提案だった。
           
ゴッホも、ゴーギャンに狙いを定めていた。

まず弟テオに手紙を送って彼の窮地を救ってくれと…
    自分と同じように支援してほしいと懇願した。

アルルで一皮剥けるために、ゴッホはどうしても仲間が必要だった

         

 つまり、ゴッホにはゴッホの企みがあり、
 ゴーギャンにはゴーギャンの企みがあった。
  そう、ウイン=ウインの関係になるつもりで共同生活を始めたのです

 一方、企みなど関係なく、自分が見込んだ二人の画家を責任をもって
 支援をしたテオこそが、もっとも純粋だったのだ。

 アルルでの共同生活は、一見順調のようにも~ 時は流れる
         2か月余りか…
    その日    1888年12月23日。  クリスマス間近

     何かの拍子で激しい口論になった。

ゴーギャンは耐えきれなくなって、
     「もうパリへ帰る」と言い放つ

 その間、どんなやり取りががあったのか…
     それは当事者であるふたりにしかわからない。

 激昂したゴッホがナイフを取り出して自らの耳を切り落としたのは、
 このときだった。

  ◆ この辺の件
    私のブログ 「あのゴッホを追いかけてみよう
           (NO.11  2020・10・20)
           (NO.12  2020・10・22)
  原田マハさんの得意なアートフィクションが、満載してあります。

  この「リボルバ―」のブログと併せて読んでいただければ、一層
  面白くなると思いますよ。  どうぞよろしく (^^♪


その日から約1年半後に自殺を図るまで、ゴッホの身にいろいろな事件が
    起こる。
  * ゴッホは「自殺」 これが史実なんですが、作者の発想は? 
             どんな展開をしていくのか~

 この「耳切り事件」の後、ゴッホは、
 サン・レミ・ド・プロヴァンスの療養院に入院し、丸1年、心身の療養を
  しながら創作を続ける。

       事件後の自画像
       


 とまぁ、少し時間を戻しますが、
冴と、ギロー、フイリップ3人
オーヴェールの町を後にして車で帰路に~ 

その車中でギロー
シートベルトし窮屈そうに腕を組んで~

だから、ゴーギャンがファン・ゴッホを殺した、ってことだ
 確信めいた口調で答えた。

この推理の前提として、以外にもきちんと史実を把握していた。

アルルでの共同生活の締めくくりの「耳切り事件」をきっかけに
完全な仲違いをした。
その後、ゴーギャンはいったんパリに戻り、自分にとっての理想郷・
未開の楽園であるポリネシアへ行きたいとの思いを募らせる。
 しかし、日々の糧を得る金にも事欠く現状。
しかたなく、ブルターニュの漁村ル・ブルデュに隠遁。
そのうちなんとかして南の島へ旅立とうと目論む。

さて、ここからは、ギローの推理だ。

 彼の言うには…「ゴッホが小康状態となり、最期を迎えることになる
パリ近郊の村、オーヴェール・シュル・オワーズへ移住したのは
 1890年5月。このとき、ゴーギャンは相変わらずくすぶっていた。

ゴッホはオーヴェールで精力的に創作し、約2か月間で77点もの作品
完成させた。
この間、ゴーギャンはブルターニュで従来通りの作風をなぞっていた。

ギローは推理する
「自分はまだまだこんなもんじゃない。
ゴーギャンの強い自負と自尊心が、己を狂気の淵迄追い込みながら
描き続けるゴッホに対する強い嫉妬心を呼び覚ましたのではないか。 と。

さらに、膨らましていく~

ーー私はフィンセントよりも年上で、彼よりも思慮深く、まともで
新時代の画家はどうあるべきか、自分の表現を見つけるにはどうしたら
いいかよくわかっている。
 作品だって売れていないわけじゃない。
テオも、兄貴の絵よりも私の絵の方が顧客に薦めやすいし…本当は私の作品
に絞ってセールスした方がやりやすいと思っているんじやないか。
そうさ。フィンセントがいなくなれば、テオの負担は一気に減る。
そのぶん、私を売り出すことに力を注げるようになるだろう。
テオは、私はいずれ南の島へ渡航できるよう支援すると、アルルへ行く前から
言ってくれていたんだ。
経済的には、弟に。
私には、思想と技巧の面でよりかかってきた。
私はあの気難しいフィンセントと共同生活するなんてまっぴらごめんだったのだ。
テオに生活費と、いずれタヒチに行くための支援を申し出られたものだから、
とうとう重い腰を上げてアルルへ行ったんだ。
あいつひとりだけだったら何もできなかったはずだ。
なのに、巷では
 「フィンセントがおかしくなったのはゴーギャンのせいだ」と。
私が何をしたというのだ?
彼を助けただけじゃないか。それなのに。
   「フィンセントは行こうとしている。
         たったひとりで。誰も追いつけない高みへと。」

 そんな馬鹿なことがあるか。私よりも先に行くなんて。

 誰も寄せ付けないほどの彼方へ。 行かせるものか。
     どうしても行ってしまうのなら、その時はーーーー。

 世間から見捨てられたような寂しい漁村で悶々と考えを巡らせていた
 ゴーギャンは、とうとう我慢ができなくなってきた。

       ついに「そのとき」がきた。 と彼は悟った。



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ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.11

2021-07-05 | 日記
 「ポール・ゴーギャン」
   

 1848年、パリに生まれる。父は新聞記者。
 ゴーギャンが1歳の時、一家は母方の叔父を頼ってペルーへ渡ったが、
その途上で父は心臓発作で絶命。
ゴーギャンは叔父の庇護のもと、6歳までペルーの首都、リマで暮らした。

成人した彼は、「船乗り」になり航海を重ね、そののち株式仲買人になって
相当稼ぎ、ビジネスマンとして成功した。

絵を描き始めたのは、妻メット結婚した25歳の頃。

当時彼はパリ九区に住んでおり、周囲には印象派の画家たちが通う
カフェや画廊が点在していた。
 面白そうだからちょっとやってみようかと、ほんの出来心で絵筆を~
彼はアカデミックな美術教育を受けたわけではない。

それが次第に本気になった。
1882年、株の大暴落を機に、画家を生業(なりわい)とすることを
考え始める。
 そんな絵にうつつを抜かす夫に業を煮やした妻メットは、子供たちを
連れて実家のあるコペンハーゲンに帰ってしまう。
 ゴーギャンは家族を追いかけてコペンハーゲンまで行き、心機一転、
・・・・しかし、うまくいかず・・・・
     創作意欲抑え難くなり、結局パリに戻る

その後、田舎で制作に専念しようと、ブルターニュ地方
ポン=タヴァンに移住する。 若い画家たちが集っていた。
 のちに彼らは「ポン=タヴァン派」と呼ばれるようになる。

      
             ( 世界で最も美しい町とも…)
*ポンタヴァン派」
 フランスのポン・タヴァンで活動した芸術家たちのグループを指し、特に
 1880年代末から1890年代にかけてポン・タヴァンにいたポール・ゴーギャンの
 影響を受けた芸術運動である。
 大胆な純色の使用。象徴主義的な主題の選ぶ方などが特徴である。
  ゴーギャンのほか エミール・ベルナールなどの画家が著名
           

ゴーギャンがこの地で描いた作品
  「ポン・タヴァンの水車小屋」    
 
 「説教の後の光景」
       


エミール・ベルナールの作品
 前の、ゴーギャンの「説教の後の光景」からの影響で描いた

「草地のブルターニュの女たち」

 

「ポン・タヴァンの市場」




また、ゴーギャンは、新しいモチーフを求めて、パナマからマルティニク島へと船旅をする、が、パナマ滞在中に破産の憂き目に遭い、さらに赤痢に
かかって生死の境をさまよっが、奇跡的に快癒し、パリへ帰り着く。

 世間にも家族にも見放された…ゴーギャンだったが。
     芸術の神には見放されなかった?

当時、パリで画商として成功していたテオ・ファン・ゴッホ
見出される。            
          

                 


 テオは「すごい画家を見つけた」と狂喜して、同居していた
兄、フィンセントにゴーギャンの存在を教える。
         
             

 この二人の経歴を比較してみましょう~。

ゴーギャンは幼少時に海外経験。
ゴッホは北ヨーロッパから出てない。

ゴーギャンはビジネスマン成功体験を持つが、ゴッホは落伍者。
ゴーギャンは富を手にしたが、
ゴッホはずっとつましい生活を続けた。

ゴーギャンは恋愛し、家庭も持ったが、
ゴッホは想う相手に愛を受け入れられたことがなかった。

ゴーギャンは快楽主義的思想の持主で山っ気があったが、
ゴッホは後ろ向きで落ち込みやすく、生真面目な性格だった。

   まるっきり正反対のように見えるふたり だが、
        実は共通点も少なくなかった。
  
二人とも、アカデミックな美術教育を受けていない。
     画家を目指したのが二十代後半・絵を描くことへの強い執着
     放浪癖 など。

 さて、こんな二人がアルルで共同生活をするきっかけは ?・・・
                         
   

ファン・ゴッホの呼びかけにゴーギャンが応えたんですが…
  そう、単純なことでもなかった。

  それでは、この二人の 共同生活についてお話を始めましょう。
             
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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。