オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

訃報

2013-05-09 | Weblog

5/9(木) 一昨日の夕方、ふた昔前に職場を同じくした後輩から電話を貰った。その頃に一緒に仕事をした岡堂君が急逝したとの連絡であった。告別式は翌日の昼、昨日の12時から大阪とのこと。

5月4日にサウナで倒れ、そのまま亡くなったとの連絡であった。大阪在住の彼は、フェイスブックに体調がよくないとか、目が霞むので医者に行くと「老眼だった」などと記した。

私が「いい若者がどうしたんだよ」と書くと『もう五十歳ですよ』と、返ってきたのは昨秋だったか。

今年の春、或る案件で私のビジネスに役立てばと、在京の会社を紹介してくれた。その折に何度か電話で話をしメールのやり取りをした。
「東京に出てきたら一杯やろうぜ」と云うと『行く機会が無いんですよ』と、残念そうだった。

岡堂君と最後に一献交わしたのは、5~6年も前になるか。ドコモ関西に勤務する彼が打ち合わせで上京、帰阪する新幹線の最終電車の前の時間、八重洲地下街で、かつての同僚K氏などと一緒に飲んだのが最後となった。

その時にも話したろうが「お前には参ったよな、交際費支出の決済文書を持ってきたら『クライアントが飲みたいと言うので行きました』としか、書いてなかったもんな」と、大笑いをしたこと。他にもエピソードには事欠かなかった。

繊細で優しい、そんな奴だったが、どこか破天荒な行動や発想をするも、憎め切れない処がある男。近頃には、とんと見かけることがないサラリーマン。愛すべき奴だった。このキャラクターを生かし切れる上司と巡り合っていれば、凄いことをやったろうと思う。

そんな彼の告別式、出るべきだったが参列できなかった。参列した、かつての仲間からメールが届いていた。

「数年前に父親を亡くし、すべて兄が仕切って葬儀をだしました。母親はここ数年、重度の介護が必要な状態で、これも兄がすべて面倒をみていました。援助を申し出ると『かまへん、かまへん』と一人で背負ってました」と、喪主となった弟が涙ながらに挨拶しました。彼らしいと泣けました」と。

死因は、脳溢血だったそうだ。享年五十一歳・独身。二十余年前にグループの広告代理店で職場を同じくし、愛すべきスタッフだった岡堂君は亡くなった。残念、としか言えない。冥福を祈る。

 

 「切開」

昨日、数年前から背中に出来ていた瘤を切除した。最近この腫物が大きくなり、時々不具合を感じるようになっていた。一月前に受診し、この日が切開だった。

午前に病院を訪れ採血する。午後一番に数人のドクターの再検査を受け、14時過ぎにベット載った。上半身を出して、アルコール消毒の後に局所麻酔の注射を何本か打たれた。

痛いよ、と言われていたが痛みなし。ドクター二人と看護師が数人「粉腫かな?脂肪腫か?」などと言っている・・・。最初の時の診断は粉腫だった(私は違うはずだと思っていた)が、開いて脂肪腫だと判明。

これが中々取り出せない、ドクターは苦労していた。幸いにも痛みがないので、私は冗談を飛ばしていた。漸く腫を取り出せて縫う段階では「私も今朝針仕事をしてきたんですよ。とか、嫁入り前なので綺麗に縫ってくださいね、とか」。

ドクターは「それや嫁には行かんでしょう」と言う。だから、ずっと嫁入り前なんですよと応える。

そんなことで40分ほどで切開と縫合が終わった。取り出した我が肉体の一部だった脂肪の塊は、3~4センチ程度。綺麗なものであったが、病理検査に廻された。 

                        

本音は、入院をしてこれまでの医療保険費の回収を少しでもしたかったのだ。

昨夜、酒も風呂も断った。当然か!

今朝のスムージーは、小夏・パイン・トマト・イチゴ・小松菜であった。

                        

 

 

 

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