5/30(金)今日と明日で五月も終わる。時の経つのは早く、梅雨の走りのような愚図ついた天候がつづいている。今日も朝から小雨となり、畑に出ることも叶わず部屋に垂れ込めて過ごす一日か?。
今週は、25日の午後に佐賀入りしてNPO法人「地球市民の会・総会」来ておりに出席してから、佐賀在住の中村さんの迎えで氏の宅で世話になった。既に東京から保谷&松岡の両氏が来ており酒盛り中であった。
中村さんの友人、岩迫氏も加わった五人の酒盛りで賑やかになる。この日と翌日は肌寒く、南国九州のお日様を浴びたのは帰る27日だけであった。
26日は皆早朝から起きだし、鹿児島への出発時刻は一時間早くなり午前七時だった。老人は朝が早い?のか、前夜の酒が程よく効いてぐっすり眠れたのか?。
中村さんの運転する車で四人は鹿児島・鹿屋市へと向かった。鹿屋と串良はへの旅行は私の希望であった。
亡父が大東亜戦争の終戦を迎えたのが、海軍航空隊串良基地と聞いていたので訪ねたいと思っており念願が叶うことになる。
高速道路を延々と四時間程走り、先ずは鹿児島空港に近い「国分航空隊跡」を探して、有志手作りの小さな記念館を探しあてた。この地から飛び立ち特攻で亡くなられた若者の写真等、遺族からの手紙が小さな展示室に飾られていたが、見送った戦友、家族の思いが迫りきて只々頭を垂れるばかり。氏名・写真とともに出撃した日にちが全て記されており、終戦日の八月十五日に三名が出撃している。
ここから串良まで再度自動車専用道路で向かう。順調な車の旅と云いたいが、ちょっとしたアクシデントも・・・、信号待ちから進入を間違えて曲がり、逆走しそうになったのだ。事故になっていたら「高齢者運転で云々・・・」と、ニュースになるのは必定だった。
初めての串良は延々と広がる大パノラマで志布志湾に向かう、戦争がたけなわで沖縄を取られてからの昭和19年に教育・決戦の航空基地として建設、5000名の若者を訓練、教育したそうだが、昭和20年五月で終了とありました。
亡父がこの地に特攻隊員として行ったのは、教育課程が廃止された(機材もなくなり空襲も激しくなって、止むなくの廃止であろう)五月の下旬でなかったかと推測する。
岩国航空隊で飛行教員をしていた亡父たちは、教える生徒も飛行機もなくなり、教員たちは特攻隊に志願して串良航空隊に着任したそうだ。
津川さんが来高したおりに、氏が戦争時代のことを訊いたら「日中は全く飛べる状況でなく、夜間爆撃で沖縄方面に向かうだけだった。命中したかどうかは分からん」と、言ったのを記憶している。
串良航空隊の前、もっと早い時期に隣の鹿屋航空隊に所属していたこともあるようで、その当時に新聞社の鹿児島支局に勤務していた叔父が面会に来てくれたそうだ。
亡父は、甲種飛行訓練性として北浦の予科練で出てから、そのまま飛行教員になったそうだ。戦争がたけなわとなり、飛行操縦の訓練生を大量に必要とされた時代に重なるのではないか。その後、富岡・福岡などに移動し、最後は岩国航空隊が本隊で、そこから串良へと向かっている。その前に岩国まで、祖父が面会に来たというので特攻隊への転身を知らせたのであろう。
そんなことを思い出しながら、二本の長~い直線道路に挟まれた串良平和公園内に建つ、各部隊の慰霊碑を参拝すると、特攻で散った若者の氏名・出身地が刻まれていた。最後に平和の慰霊塔に参拝。

昼となっが、隣ともいえる鹿屋航空基地に向かった。ここは自衛隊の施設もあり、航空記念館は整備されており大戦中の記録などは二階に、一階は自衛隊になってからの記録類が展示されていた。中庭には戦後に使用された飛行機・ヘリが屋外展示されています。

この日、鹿屋市内のビジネスホテルに投宿。夜は、居酒屋(味菜)からスナック(さが)と転戦して、長距離ドライブの疲れを存分に癒した。
帰高する27日、中村さんが霧島神社へと案内してくれた。社殿などは国宝に指定されたとのことながら、参道から本殿へと向かう両側には巨木が並び神苑ならではの厳かな空気に満ちていました。

福岡空港17:15分発の高知便は、なんと一時間十分も遅れての搭乗となりましたが、短いながらも良き旅が出来ました。友人たち、とりわけ長い運転で案内をしてくれた中村さんに深謝です。


























