オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

夏が来た・・・

2012-07-11 | Weblog

7/11(水) 今週に入り本格的な夏がきたような天候だ。我が社の六階に居るメンバーは、電力節電だエコだとかと言ってエアコンを入れようとしない。私は「電気使わないと東電が潰れるぞ」と電力消費に積極的なのだが・・・。梅雨間の晴天でこれでは、本格的な夏が思いやられる。

今朝の散歩は、碑文谷公園とお手軽・短時間コースでお茶を濁した。朝から暑いのだ。公園に少しだけ在るバラの花がきれいだ。六時半のラジオ体操の時間が近づくと人出が多くなる。その前に退散し、今朝も弁当を作りとなった。

                

弁当の方は、長女が不要とのことで二人前となる。作る数が少ないと、力の入れようがない・・・。簡単に済ませることとした。

今朝のメニューは、「鶏肉と大根・人参の旨煮風」「エビとアスパラ・ピーマン炒め」「焼き鮭」と、至って簡略だった。お弁当が二つでは、こんなものか。K用のごはんの上に載せたのは「昆布とジャコの煮付」だが、昨日の朝に出汁を採った昆布を刻み、ジャコと佃煮風に炒め煮したお手製。Oyajiは、食材を無駄にしないのだ。

           

 

 「訃 報・・・・岩淵さん逝く」

一昨日、OB会のメールで「岩淵 清」さんの訃報を知った。春先に電話を貰い「奈加野で会いたいと、EIKO ママが言ってる。今度一杯やろうよ」そんな話をしていた。何時でもいいので連絡をください、と云ってそのままになっていた。まさか、岩淵さんが亡くなるとは思ってもいなかった。

岩淵さんとのご縁の始まりは、東京駅八重洲口のスナック「グリン」だった。大手町に在った資材局に勤務するようになった後、先輩に連れられて行った店がグリンだった。先輩が顔を出さなくなってからも、私はちょくちょくと行っていた。その店の、KIMIKOママや常連のママの友人中村さん達とすっかり仲良くなった。一番年下の私はやんちゃ盛り、三十数年も前のことである。

その店で、岩淵さんとも知りあった。同じ会社ではあったが、岩淵さんは当時、東京通信局業務管理部調査役だった。そして、EIKOママは、KIMIKOママの姉で赤坂で「トムの店」というスナックをやっていた。八重洲から赤坂へと流れて飲むことも多かった。何時しか、竹林の七賢人を倣った「竹林の五賢人、六賢人」とか称して、一緒に飲む機会が増えていった。私が幹事役でセッチングする店は、渋谷・奈加野が多かった。

私が通信局の係長として転勤した先が、岩淵さんがいた業管部だった。転勤前に、岩淵さんが「ここ(業管部)だけはないだろう」と言っていた部であったが・・・。労務担当調査役であった岩淵さんに、同じ課の新米係長として随分とお世話になることとなった。ひょんなことから、酒場で知り合った仲が長い付き合いを頂くこととなった。

葬儀などは済んだと記された訃報を前に、ご自宅に連絡をすべきか迷っていた。死因は記されてなかった。処が昨夕、郷里の先輩で東京OB会の会長をされているUさんが、人形町に見えた。隣の蕎麦屋「高松」で酌み交わしながら、岩淵さんのことを話した。岩淵さんは、第二の職場を退職された後、日比谷や港地区のOB会事務局に勤めていた。

『彼は立派だったよ、ガンで入院し、出た後は最後まで日常を変えたくないと普通に事務所に出てたよ。潔く往生された』と、話してくれた。これを聞き、岩淵さんらしいなと、納得した。春先に電話を貰った時には、ご自分の病気は分かっていたのかもしれない。連絡を待ったばかりに、永の別離となった。

今頃は、十三年前に逝ったKIMIKOママと出会って「アリさんも、そろそろ来るころだね」と、話しているだろうか・・・。岩淵さんのご冥福を祈る。

 

 

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