オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

久々の横須賀

2012-07-08 | Weblog

7/8(日) 週末、久し振りに横須賀を訪れた。生命農法研究会でお会いしたSeiさんに会うことと、もう一つ、横須賀時代にお世話になった横塚さん(元関東自動車・横須賀工業クラブ事務局長)の墓参であった。

横塚さんは、八年前のこの月に亡くなられた。そのことを知ったのは、半年も過ぎてからのことであった・・・。この時も久し振りに横須賀を訪れ、何度か連れていってもらった小さな店から、ご自宅に電話を入れて亡くなられたことを知らされたのである・・・。

坂道にある花屋で小さな花を求め、横須賀中央駅の直ぐ前の高台というよりは崖の上と云うべき場所に在る、日蓮宗「龍本寺」に参った。墓参は一年ぶりであろうか、久方の無礼を詫び頭を垂れた。

                           

墓参の後、待ち合わせたHIROさんとその店を覗いた。なんと未だやっていた。7~8人も入れば満席となるカウンターだけの鄙びたと云うよりは萎びた店である。店主の婆さんは、誰ぞとカウンターに腰を据えて飯を喰っていた。

「なんだい、未だ潰れてなかったか?、生きてるじゃあねえか」と伝法な口を利いて、後で顔出すよと一先ず去った。横塚さんに連れられ、或る時は仲間を連れてこの萎び果てた店で何度飲んだことか。

瀬井さんが仕事を切り上げて来てくれ、三人で焼き鳥をつつきながら飲み始めた。最近の様子や、これからの計画、ブルガリアのバラの谷から日本にやってきたバラの話、と尽きない。

婆さんの店に行こうと、河岸を変える。駅前の裏通り、人通りはまばらだが居酒屋・スナックと飲み屋が軒を並べる様は、昭和も30年代の趣である。その通りから更に路地を入った処が「かすみ」だ。何だか乙女のようなイメージがする店の名だが、戸口を引けばビックラコ、いきなり玉手箱を開けたようなものさ。

相も変らぬ佇まい、この店は30年代を更に遡った昭和の20年代がこんな風か?残念ながら映画の中でしかしらない、その頃はまだお乳しか飲んでないし、酒場も知らない。

『それじゃ待ってるからネ』とか、さっきは調子のいい返事をした婆さんだが、私のことが暫くは分からなかった。それでもいいさ、私には分かっている。いろな思いでもある。

ちょくちょく顔を出したのは十数年も前のこと、それに今日はスーツじゃなくてアロハを着て口髭まで生やしたオッサンである。簡単に分かっちゃ、直ぐに御用にならぁな。それじゃ、オウムの高橋だ・・・。と、訳の分からんことを腹の内で呟いた。

飲む内に昔話に花が咲き、横塚さんが何時も飲んでたウオッカのこと、この店から横塚さんの自宅に電話して、奥さんから亡くなったことを知らされた時のこと・・・漸く思い出したようだ。

究極は、後輩で部下だったkatutaが、婆さんにやり手婆あ宜しく、近所のロシアンクラブやフィリピンパブに2500円だか3000円にしろと交渉させ、一緒に飲みに行ったことまで思い出していた。(僕は一緒じゃないよ、断っとくけど)

すっかり気分が良くなり、松山にいるkatutaにまで電話し、大笑いとなった。滅多にやらないカラオケまでガナル、そんな一夜であったが・・・善い供養となったろうか?

婆さんの歳を訊けば八十五とか、家庭のこと家族のことは前から聴いている。それでも胡瓜やトマトを作り、幸せだそうだ。この夜、客は他に来なかったが、婆さんは元気だった。

俺達も元気に暮らしたいものだ。外に出ると、また雨が降り出していた・・・。

 

 

コメント
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