4/16(土)大澤さんの墓参を終えた後、奥様とM氏の三人で昼食を摂りながら往時のこと、最近の様子などを語り合った。その中で一つ、とても嬉しい言葉が奥様から出た。
午後の予定に話が及び、M氏の案内で和倉へ向かうこと、それが情報誌の取材対象の予備調査であること等を伝えた。情報誌の内容を話すと、その情報誌「ライフアシスト」が奥様にも届いており「とてもいい内容で、デザイン・紙もよく。愉しく読んでおります」と云って下さった。
その言葉を聞き、嬉しいこと限りなし・・・。実は、情報誌の発案者でクライアントであるLA社の副社長W氏も大澤さんの元部下。一緒に仕事をしたメンバーであり、27年前の葬儀にも参列している・・・。
午前中の雨も上がり、青空が見え始めた頃、M氏の車で和倉温泉駅前へと向かった。大よそ二時間弱のドライブとなった。
車中、昨夜一献傾けながらの話の続きとなった。M氏の出身は富山・立山町である。昨年から立山町の実家に戻り、母親との二人暮しを始め、金沢市内の会社まで通勤している。
彼が東京住まいの頃から、田舎で一人暮らしの母親を気に掛けていることは再三聞かされていた。また母親も「何時になったら戻るんだ」と心待ちにしていた。
東京に自宅を構え、仕事を持ち、家族を養う身にとっては選択に迷う事、著しい。彼れは長いこと、その選択に悩み・躊躇し、苦しんでいた。
その彼が、とうとう決断に至った小さな出来事。或は大きな出来事を話してくれた。
多分、一昨年の夏のことではないだろうか。彼は家族と帰省したそうな。何故か、何時も下りる駅の一つ手前、小さな駅に降り立ったと云う。
見知らぬ一人のオバサンが駅前を掃除しており、その方が、帰省者らしい彼に言ったそうな。
「ずう~っと向うの畑にいるお婆さんが、息子が東京から帰って来るって喜んでいたよ」と。
勿論、彼はそのオバサンのことも、向うに居るというお婆さんのことも知る由もない。
処が歩いて行くと、畑にいるお婆さんというのは、彼の母親だった。その時、母親がどれだけ自分を待っているのか、見知らぬオバサンにまで息子の帰省を話、首を長くしていることが痛いほど分かったと云う。
そのことがきっかけで踏ん切りがつき、とうとう収入や地位よりも、老いた母と暮らし安心させる人生を選択できたと云う。
「まあ、一緒に暮らすと、それはそれで腹立つこともあるけど」と屈託がない。これからの彼は、田舎暮らしの充実と「かっこいい熟年・老人」になることだと云う。私などは真似ようもない生き方をしている。
そんな話のあれこれの内に、和倉温泉駅前に着いた。目指す店は、駅前の「はいだるい」と云うカフェ&洋食店である。小さな駅、西部劇の洋画に出てくるような街並み・・・。
店には折りよく店主が(ご本人は手伝いですよと、仰る)居られた。コーヒーを飲みながら暫く話を伺った。処で、店名の意味分かりますか?友人も金沢住まいの方も分からなかった。
何でも「下らない、だらしない」と云うような意味の中能登地方の方言だそうです。店名の由来を訊ねると、他所にない名前にしたかったと応えられた。
店を辞し、折角此処まで来たからと「能登島大橋」を見て帰ることとした。駅前から車で3~4分程で着いた。橋を渡り、直ぐにUターンした。思った以上に大きな島、水族館があるそうだが、其処まで12Kmと表示があった。
帰路は富山湾沿いと云うか、能登半島の東側を七尾、寒ブリで有名な氷見と海を眺めながら高岡へと至った。既に夕刻となっていた。