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オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

弁当にも進化を

2009-01-11 | Weblog
1/13(火) 昨年春から、弁当作りに興じて足掛け二年となる。

そろそろ、進化を遂げなくてはなるまい。

其処で、オヤジ弁当の基本に立ち返り、コスト・コスト・コストこれに挑戦する。

安くて、美味い弁当。更に、早いが加わればベストだろうが、そんなことは考えない。
何しろ、時間つぶしが目的でもある。

これからのテーマは、安くて美味い、なのだ。

ついては、毎日の食材を含めた費用概算をUPします!(光熱水料と労務費は省略、僕の人件費を加算するとバカ高い弁当は必定)

さて、今日の弁当は、幾ら?

今日のメニューは、豚肉がメイン。これを煮物と炒め物にする。添えるのは、大根・人参・インゲン・マイタケ・蒟蒻。味付けに、あの取って置き、青ヶ島マツヨおばちゃんの秘伝・島たれを使う。食材は、冷蔵庫の半端物を使用、効率化に勤める。

これに、胡瓜と若布の酢の物を加える。

概ね、5人分のおかずが完成。

食材費・ご飯〆て、1000円と目算する。弁当換算で200円~250円となった。
買うより安いか・・・・。大したものだ。
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墓参 その2

2009-01-11 | Weblog
その年、4月から6月にかけ墓参した人々。

既に記した、吉田さん、大澤さんの他。新和プランニングの社長だった佐々木さん。
私の大先輩、書斎人だった若山先生。
三島のBAR「リラ」のオーナー田村勝利さん。

そして、郷里の墳墓の地で祖先を。若い頃お世話になった寺尾先生(元郵政大臣)、郵便局に勤めていた佐々木さん。38歳で逝った従兄弟で弟のような武本章。

新和プラニングの佐々木社長とは、広報課長時代に知り合い知遇を得た。
バブル前夜の景気が沸き立っていた時代。ゴールデンウィーク直前で納期まで10日程しかないポスター制作を、急遽せざるを得なくなった。

大手の代理店を含め、それまで取引のあった会社からは全て断られた。その時、知人の紹介で面識を得ていた佐々木さんに相談した。即断で引き受けてくれた。
良いアイディアのポスターができ、面目を施した。それ以来、お付き合いを頂くようになった。
私が、その職を離れて何年か後、病で逝かれたが葬儀に参列できなかった。厚木市の郊外に眠る墓前には、会社の後を継がれたIさんのご案内で訪れることが出来た。


若山先生とは、26~7歳の頃に友人のフリージャーナリストK君の紹介で知り合い、出入りを許された。
大学の先輩でもあり、以来、家族を含めた長い付き合いをさせてもらうこととなった。

仕事のストレスで、酔って深夜に伺い大騒ぎをしたこともあったが、受け止めてくれた。
先生は、本名「若山幸男」ペンネームを若山嘉成と名乗っていた。
趣味が嵩じて、星生占いもされた。私の4人の子供の名付けも、若山先生にお願いした。

晩年の10年ほどは、伊豆大川に蟄居された。何度か訪ね、一緒に散歩し、岸壁に釣り糸を垂れた。

かの地で逝かれたが、奥様からの連絡は、一切を終えて、落ち着かれてからであった。
大島を望む、山の中腹にある墓前に立ったのは、うららかな陽光が注ぐ日であった。



三島のBAR「リラ」のマスター田村勝利さんとは、私が19歳の春、三島・中央通の店に偶然入ったことから交流が始まった。

田舎出の生意気な小僧だった僕が、下宿の同級生H君と、初めてBARなるものを探訪すべく入った店がリラだった。店では、サントリー白が一番安く、シングルで100円。

ママは、田村さんの奥さんだった。初心なH君は、すっかり美人のママに一目ぼれ。何と、100円を握り締めて一人飲みに行ったことがる。勇敢・無謀、何と世間知らずか!

そんな世間知らずの若者を笑って迎えてくれる人柄だった。(当然僕は、H君に馬鹿だねお前は、と説教したが・・・。そのHも、今やある会社の役員に納まり、世の中の裏表、森羅万象全て呑みこんだような事を云う)

三島の地を離れてからも懐かしく、年に何度か訪ねた。サラリーマンとなった後も、思い立つと新幹線に乗り通った。

自宅に泊めて貰い、二日酔いの頭を抱えながら牛伏の海水浴場に行くご一家に付き合ったこともあった。

その後、店はパブに改装され、カラオケができる若者向けとなった。新しく出来た大型ショッピングセンターに軽食喫茶も出して、時代を読んだ商売をされていた。

私の部屋の書棚に、「リラより愛をこめて」田村勝利、裕治と署名されたボールがある。そのボールには、1976年1月17日の日付。

33年前になるのか。その年の秋、結婚することなった僕が、彼女を連れて行った時に寄せ書きをしてくれた記念のボール。裕治と云うのはバーテンダー。気持ちのいい男だったが、早世した。僕も、この町を離れる前、二月ほどを、この店のカウンターの中で過した。

マスターは群馬の出、生まれ故郷を偲んでか、二日町の駅前に「榛名」と云う喫茶店も出していた。詳しい生い立ちは聞いたことがないが、三島の人になりきっていたように思う。

三島の飲食業組合の理事長になり、20周年だかの記念行事があった。TVの世界に入っていたH君の伝で、名前が売れていた歌手を格安で仕込み、記念パーティで唄って貰った。
Hも若気の至りで、100円で飲ませた貰った借りが少しは返せたか。

その後、伊豆に遊ぶ途中、喫茶店に顔を出したこともあったが、マスターに会えなかった。

暫くして、ママから手紙が届いた。声を失い、闘病の末に逝ったとあった。

優男だった。筋を通さなければ許せない、激しい気性も持っていた。酒場のマスターを続けながら色んな夢を描いていたに違いない。

三島の外れにある「竹林寺」そこに田村さんのお墓が立っていた。

小雨の降る日だった。随分と遅くなってしまったが、漸く墓参が叶った。
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