たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

伊富岐神社

2021-09-12 15:33:44 | 神社


行ってきました。



もう何度も訪問しています。



でも、きちんとした時代背景を知った上で訪問するのは一味違いますね。


本殿



右が境内社との説明がある神社です。摂社と呼んでよいと思います。


こちら向かって左側の摂社


巨木も素晴らしいですね。
でも、これって合体木かもしれない。
信長の時代にすでに大木だったようなので、そうでないかもしれない・・・
巨木が枯れた後に合体木を植えたとか・・・いかん、分からなくなってきた・・・


入り口にも境内社が

近づいて


残念ながら、本殿、摂社ともに近くには行くことが出来ませんでした。


帰りには、昼飯大塚古墳に立ち寄りました


そこから見た、金生山。削られている山がそうです。

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丹後半島のレイライン その 13 丹波竹野媛(タニハノタカノヒメ)

2021-09-11 04:54:33 | レイライン
さて、前回「迦邇米雷王」の妻高材比売(たかきひめ)の父親である丹波之遠津臣(たにはのとほつおみ)

は、若都保命ではないかと推測しました。ということは、サタヒコと同世代になります。

すると、下のようになります

一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命
七御子・建諸隅命    丹波竹野媛  と同世代  
八御子・倭得玉彦命   彦坐王    と同世代                        
九御子・若都保命    サタヒコ   と同世代  
     高材比売ー 迦邇米雷王


丹波竹野媛の父親と言われる、由碁理は、「建田背命」と言うことになりますね。

勘注系図では建諸隅命になっています。1世代違いますね。

試しに、1世代20年として生まれた年をあてはめましょうか。

サタヒコの生まれた年を265年とします。

185(年)  五御子・建斗米命
205     六御子・建田背命  子が丹波竹野媛
225     七御子・建諸隅命    
245     八御子・倭得玉彦命                          
265     九御子・若都保命  

話が少し脱線しますけど、「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記しています。
亡くなったのは248年と言うことはかなり信ぴょう性があります。

すると、生まれは200年ぐらいでしょうか。
とすると、建田背命と同世代ですね。

ちなみに、建田背命の兄弟を調べると、


建田背命 (たけたせのみこと)
建宇那比命 (たけうなひのみこと)
建多乎利命 (たけたおりのみこと)
建弥阿久良命 (たけみあくらのみこと)
建麻利尼命 (たけまりねのみこと)
建手和邇命 (たけたわにのみこと)
宇那比姫命 (うなひひめのみこと)


一番下の、宇那比姫命を調べると・・・

びっくりした~!  たくさん出てきました・・・宇那比姫命=卑弥呼 と言う説が!

ややこしいので、卑弥呼についてはこれ以上調べません。

でも、年代的にこの表は良いところ行ってるんじゃないかなぁ←自画自賛!







   









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丹後半島のレイライン その 12  天香語山命

2021-09-10 06:51:02 | レイライン
前回に引き続きます。  どう検証しようか?  

やはり、よくわかっているサタヒコの時代からさかのぼるのが一番かな?

とりあえず、もう一度、伊富岐神社に伝わるという天香語山命の家系を見てみましょう。

伊富岐神社の祭神が多多美彦命ですけど、=天火明命と解釈します。子が「天香語山命」なので

次のように書かれているのでしょう。


一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命
七御子・建諸隅命
八御子・倭得玉彦命                              
九御子・若都保命

まず、誰がこの系図を持ち込んだのか?

サタヒコ=山代之大筒木真若王の時代には、伊富岐神社は、おそらくまだありません。

地理的にも、白髭神社、南宮御旅神社のさらに西になります。

さらに、サタヒコの時代には、他にこのような系図がありません。


この系図を持ち込んだのは、サタヒコの子の、迦邇米雷王(かこめいかづちのみこ)もしくは、孫の 息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)

どちらかでしょう。

迦邇米雷王を調べると、古事記には、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣
生子息長宿禰王
此王娶葛城之高額比賣 生子息長帶比賣命 次虛空津比賣命


この王、丹波之遠津臣(たにはのとほつおみ)の娘、名は高材比売(たかきひめ)をめとる。
生れた子は息長宿祢王(おきながのすくねのみこ)です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

迦邇米雷王の子である、息長宿禰王の妻は、河俣稲依毘売と葛城之高額比売

河俣稲依毘売は、何処の人かは分かりません。

葛城之高額比売は、アメノヒボコの子孫.

丹波地方とは関係がなさそうです。

すると、伊富岐神社は、迦邇米雷王の時代に創建と考えていいでしょう。

高材比売 本人か、その時代に丹波からやって来た人が、伊富岐神社に先祖を祀ったことになります・



さて、丹波之遠津臣(たにはのとほつおみ)とは誰でしょうか

九御子・若都保命のことかな?  「遠津」とは、港から遠いという意味かもしれない。

若都保命の「都保」は、「とほ」→「とお」で、同人物かも? とするのは、少し乱暴でしょうか?

まだこの時代、漢字はありませんからそういうことにしておきましょう・・・


若都保命は、伊富利部神社 (愛知県一宮市木曽川町) の祭神です。


訪問したことはあるのですけど、画像がどこかに・・・

すぐ近くを国道22号線が通っているのですけど、神社は静かな良い所です。


伊富利部神社の「いぶりべ」は伊福部氏(いおきべうじ/いふくべうじ)と同じでしょう。

彦坐王の時に丹波から一緒にやって来たのも伊福部氏です。

次回は、さらに踏み込んでいこうと思います。





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丹後半島のレイライン その 11 彦坐王は誰?

2021-09-08 13:14:12 | レイライン
前回の続きになります。あれこれ調べましたけど、諸説あります。当然ですけどもね。

彦坐王は丹波竹野媛の子と考えると四道将軍として丹波に行ったことも理解できます。
(彦坐王=丹波道主命として考えていきます)

前にも書きましたけど、大筒木垂根王=山代之大筒木真若王=朝廷別王=サタヒコ=猿田彦

で間違いないと思います。(今までの流れでご理解ください)

まず、丹波竹野媛の父親はと言うと、丹波の大縣主由碁理(ゆごり)とされます。

これは誰かと調べると、建諸隅命=由碁理のようです。

建諸隅命が祀ってある神社を探すと 

矢田神社    京都府京丹後市久美浜町海士
矢田八幡神社 京都府京丹後市久美浜町佐野

サタヒコの母親の故郷ですね。

もう一か所、建諸隅命が祀ってある神社があります。意外ですよ!

なんと、伊富岐神社の境内社に祭られている天火明命(尾張氏の祖神)の後裔(
子孫)の資料があるそうです。
ps  祭神が多多美彦命ですけど、=天火明命と解釈します。子が「天香語山命」

伊富岐神社




一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命
七御子・建諸隅命
八御子・倭得玉彦命                              
九御子・若都保命

丹波竹野媛の父親は、丹波の大縣主由碁理=建諸隅命と書きましたけど、どうも年代が合わない。

彦坐王=丹波道主命ではなく親子として考えているための混乱かもしれません。

次回に詳しく検証してみたいと思います。


伊富岐神社は、もう何度も訪問しています。最初は、
伊富岐神社の大杉を見に行っています。だいぶ前ですね。

画像が一枚だけしかないようですね。大杉の写真が載っていませんね。

今度行ってみようかな。
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丹後半島のレイライン その 10 竹野神社

2021-09-04 12:50:01 | レイライン




御祭神
天照皇大神
斎宮神社 竹野媛命 建豊波豆羅和氣命 日子坐王命


社伝によると、
丹波大県主由碁理の娘で、開化天皇の妃であった
竹野媛が年老いて後、天照大神を祀ったのが当社の起源。

竹野神社については丹後半島のレイライン その4 丹後半島の前方後円墳でも紹介しています。

なぜ、サタヒコの父親の彦坐王=丹波道主=が、四道将軍として、丹波の地に来たのか?

これも調べ始めたら一筋縄ではいかないようです・・・

そうは言っても、何か決定的な理由がないかなと探しました。

まあ、推測でしかありませんけど少し書いてみます


彦坐王は、『日本書紀』開化天皇紀によると、開化天皇と、姥津媛(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子

ただし丹波道主命は彦湯産隅王の子という異伝も併記されているそうです。

彦湯産隅王 ,比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト),とは誰?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト)は開化天皇(9代)の子供。
異母兄弟に崇神天皇(10代)がいる。

開化天皇

丹波竹野媛
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


さらにその子は「大筒木垂根王」(オオツツキタリネ王)とのこと
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
開化天皇(9代)の孫。
崇神天皇(10代)から見れば甥っ子。
父親は比古由牟須美王(ヒコユムスミ王)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「大筒木」と言う所が気になります。これは、竹のことを表すそうです。

山代之大筒木真若王=サタヒコ=朝廷別王と考えていますので、大筒木垂根王=山代之大筒木真若王

とすると、父親の「比古由牟須美命」は、彦坐王と同人物になります。

つまり、彦坐王の母親は「丹波竹野媛」と言うことになり、四道将軍として、丹波の地に来て

その侵略者である「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)」を退治したという話も納得できます。

竹野神社の祭神は天照大神ですけど、

摂社の斎宮神社には「竹野媛命」「日子坐王命」「建豊波豆羅和気命」が祀られています。


「建豊波豆羅和気命」についてはよくわかりませんけど、=「日子坐王命」(彦坐王)とも。

竹野媛の父・建諸隅命は又の名を「彦由麻須命」と言うそうです。「ひこゆます」?

「彦坐王」(ひこいます)  さらに、「川上麻須」と麻須の読みが同じ・・・

ややこしくなったので、ここで終わりにしましょうか。









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  丹後半島のレイライン その9 途中ヶ丘遺跡、扇谷遺跡

2021-09-03 14:01:26 | レイライン
驚きましたね。比沼麻奈為神社から見た夏至の日の出が途中ヶ丘遺跡にピタリとヒットするとは。。。

もう一度、場所を確認しましょうか。






比沼麻奈為神社から途中ヶ丘遺跡までの直線距離は、3.1km それぞれが非常に近いですね。

ここは関係がありませんと書いてある所は、お昼ご飯を買ったスーパーです・・・←わざわざ書くな!


途中ヶ丘遺跡と、扇谷遺跡は距離も近く関連があると言われます。

その扇谷遺跡の出土に「鉄滓」があります。これは、製鉄をしたときに出る不純物なのだそうです。

それがこの場所にあるということは、ここで製鉄が行われていたと言って良いようです。

以下、「古代の鉄と神々」真弓常忠 著 と言う本から引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この鉄滓は弥生時代前期末から中期初めの土器片とともに出土し
たもので、大きさは長径六携、短径四、厚さ三芳のこぶし大のもので、分析の結果、木炭で還元
する砂鉄精錬に特有なファイヤライト(鋼)と酸化鉄の混合組織で、表面も鍛冶滓にみられる凸凹が
多く、砂鉄で作った地金を鍛造する際に生じた鉄滓と判明したという。これによって近畿地方に弥
生時代に製鉄の行われていたことが明らかになった。扇谷遺跡からはほかにガラス小塊・管玉・紡
錘車・ナイフ型石器、石包丁、鉄斧などが出土しているところから当時の最先端技術が集結してい
たものとみられる。
・・・・・・・・・・・・・・・


この付近には、ほかにもたくさん遺跡があります。それぞれの関係を調べるなどはおいらには

無理ですので、こちらの方の報告を参考になさってください。

ここで製鉄をやっていた人たちは誰?

そう考えて、ふと思ったのが、「徐福」又は「徐巿」←こちらが本名

本人でなくとも、その技術者集団の一部かもしれない。

そして、サタヒコと行動を共にしているレイラインの測量集団もその人たちの仲間かもしれない。

サタヒコの母親と一緒に美濃、尾張にやって来たのではないでしょうか。


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 丹後半島のレイライン その8 比沼麻奈為神社

2021-09-02 13:10:34 | レイライン


船岡神社の近くです。
白石が敷き詰めてあり、すごくきれいです。

突き当りの右側が本殿の位置です

京丹後市の説明から引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主祭神は元伊勢宮・豊受大神です。社殿は伊勢神宮と同じ神明づくり。磯砂山に天降られた天女神が豊受媛神とされてます。豊受大神は、五穀豊穣を願う最高神とされており、伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大神も元々はこの地から移転したと伝えられています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

周りが山に囲まれているせいでしょうか、非常に静かです。


このような雰囲気の神社は初めてです。すばらしい。。。


なるほど、社殿は伊勢神宮と同じ神明づくりですね。


前回、伊勢神宮外宮の故地(元伊勢外宮)として船岡神社を紹介しましたけど、この比沼麻奈為神社と

他に、もう一か所「藤社神社」が候補に挙げられています。

残念ながら藤社神社には今回訪問していません。



こちらの、比沼麻奈為神社は、最初は何処とどういう関係なのかよく分かりませんでした。

あれこれ探していると、まず崇神天皇39年創祀と言う所に出会いました。


その他を調べますけどあまり情報が無いようです。

ウィキペディアによると、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
境内社に、稲荷神社と佐田神社があり、いずれも由緒は不明であるが、稲荷神社は倉稲魂命を祀り、佐田神社は猿田彦命を祀る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なんと、佐田神社があります。しかも、伊勢神宮と同じ神明づくりとなると、倭姫が滞在した場所?

崇神天皇39年創祀と言う時期が気になります。当時の年の数え方は、今の1年で2回年を取るのです。

春と秋に一つ年をとるようです。


とりあえず、そうするとすると、39年割る2で、19.5年

崇神天皇即位は、256年頃なので275年頃、サタヒコはまだ8歳ぐらいなので当てはまらない。

ひょっとすると、39年そのままをプラスするのかな?   すると、295年。

崇神天皇は290年頃に亡くなっているので、こちらもおかしいですね。

でも、倭姫が奈良を出た年と同じ頃です。

こちらの数字が正しいとすると、倭姫が滞在した場所と言うことが現実味を帯びてきます。

でも、なんで垂仁?年とならないのか?・・・わからん!


そして、何気なく比沼麻奈為神社のレイラインを調べたら








これをどう解釈しましょうか?



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丹後半島のレイライン その7  船岡神社

2021-09-01 07:13:45 | レイライン

京都府京丹後市峰山町二箇24−1



小高い丘の上にあります。



画像が良くありませんね。次のように書いてあります。以下、「水石の美を求めて」から引用させてもらいます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

船岡神社境内のこの岡を、昔から船岡と呼んでいます。
ここは、四道将軍、丹波道主命の館であったので「府の岡」と呼ばれていたのが、後に「船岡」に変わってきたのであろうといわれています。
丹波道主命は丹波比古多々須美知能宇斯王命(たにはのひこたたすみちのうしのみこと)いい、彦坐王(崇神天皇の弟)の子であつて、崇神天皇即位十年に四道将軍に任ぜられ、山陰道に下り、丹波の小見(こみ)、比治(ひじ)の真名井原(まないはら)に館をつくりました。
ここで、食物の神の豊受大神をまつって、八乙女(やおとめ)に奉仕させるとともに、里ごとにも、豊受大神を祭らせて、善政を行いましたので、人々はその徳を慕い丹波道主命を尊称していたといわれています。
この付近一帯から横穴が発見され、須恵器、土師器、金環、鉄刀、鉄鏃等が出土しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

水石さんも訂正されていますけれど、「丹波道主命」=「彦坐王」として考えてください。

そして、伊勢神宮外宮の最初の地と言うことになりますけど、今回はそのことには踏み込みません。

ひとつわからないことは、サタヒコの父親である「彦坐王」と

母親の「川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)」の接点が分からない。

あれこれ探したら、船岡神社の東を流れる川の名前が「鱒留川」

摩須はこの川の「マスドメ」のマスかも知れないと書いてある資料に出会いました。

こちらです「鱒留(ますどめ)
京丹後市峰山町鱒留」


元々は、こちらに住んでいたのが、誰かに追われて衆良神社のあるところに逃げたのかもしれない。

彦坐王が、この地に来て、「玖賀耳之御笠(くがみみみかさ)」を退治したという話があります。

もしかすると、その玖賀耳之御笠に追われて、鱒留から衆良神社のあるところに逃げたのかもしれない

近くに、途中ヶ丘遺跡(とちゅうがおかいせき)と言う所があります

弥生時代前期~後期のもので、鉄鏃二点(後期)、鉄斧一点(時期不明)の出土があります。

そこから2kmほど北には、扇谷遺跡があり、

そこからは、弥生前期末の砂鉄鋳造の鉄斧、鉄滓が発見されているそうです。

それがこの地で製造されたものかどうかはわからないそうですけど、このあたりは砂鉄の産地なのです。

ps 「鉄滓」(てっさい)とは、 鉄を製錬する際に出る不純物とのことです。
そのような物が、よその地域からわざわざ運ばれてくるとは思えないですね。


そして、この、扇谷遺跡には、延長は約八百五十㍍。

ⅤやU字形の幅四-五㍍、深さ三-四㍍の濠が二重にめぐらされていたそうです。

そして、それは、厳重な防御態勢を備えた要塞(さい)だったとのこと。

やはり、外敵がいたようです。

彦坐王がやってきて、玖賀耳之御笠を退治して、(殺したようです)船岡神社に滞在してからは

落ち着いたみたいですね。

この藤岡神社で奉仕していた八乙女の一人が彦坐王の妻、つまりサタヒコの母親だろうか?









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