たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

丹後半島のレイライン その 17  丹波能阿治佐波毘売

2021-09-22 06:37:22 | レイライン
伊勢神宮外宮について、神宮のHPより引用です

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雄略天皇の御代に、天照大御神が天皇の夢に現れてお告げをされたことによります。その内容は、「一所のみ坐せば甚苦し」ということと、「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神、等由気大神を、我許もが」と教え諭されたことでした。天皇は夢から目覚められて、等由気大神を丹波国からお呼びになり、度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始められました。これが「御饌殿の創設」、「日別朝夕大御饌祭の創祀」を始めとする御鎮座の由来です。
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このような説明がありますけど、倭姫が伊勢に行かれた時代から「御饌殿」の前身はありました。


まず、伊勢の外宮にある御食殿から見た春分の日の出の位置に倭姫の御陵があります。

これだけでも、その証拠になりますね。


外宮と倭姫御陵のレイラインで紹介しています。



斎宮の場所もレイラインに沿っています。

そして伊勢の内宮の場所は 伊勢神宮内宮のレイラインに書いています。

飯野高宮神山神社から見た、冬至の日の出のレイラインの上です。

 今まで、飯野高宮神山神社は、サホヒコが建てたものだと思っていましたけど

そうではなく、サタヒコが建てたものと考えを改めます。

よく考えたら、御祭神は、猿田彦命,そして天鈿女命ですもんね。

ですから、天鈿女命は、伊勢神宮にとって非常に重要な立場にいるわけです。

ただし、天鈿女命が、伊勢に来たことがあるのかは分かりません。

おそらく、来ていないと思います。

そのことについては、次回から書いていきたいと思います。

 それから、伊勢津彦=サホヒコ=大国主(たぶん)が居たのは、おそらく斎宮の場所と思います。

当時の海岸線は今の海面を5mほど上げたものと似ていると思います。(この図)
海面は今と変わりませんけど、土砂の堆積で陸地が増えたということです。

流れを簡単に説明します。

伊勢津彦が居た場所は、斎宮の場所で、丹生水銀鉱から水銀を運ぶのに、櫛田川と祓川に沿って

移動します。ところが、天日別命に追い出され砥鹿神社に行きます。

その後、サタヒコが伊勢にやってきて、飯野高宮神山神社を建てます。

辰砂の加工を、久具都比賣神社で行うようになったので、そのルートは宮川を使うようになります。

その先にあるのは、外宮です。最初は、港の役割が主だったのでしょう。

そこに、倭姫が滞在したようです。外宮にある御食殿は、倭姫、サタヒコにとっても重要な場所なのでしょう。


PS 外宮から内宮への移動は、船で簡単に行けるようです。猿田彦神社がその位置(内宮の入り口)

にあるのもその理由からだと思います。









コメント
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