たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

伊勢津彦は誰?

2019-08-22 10:15:43 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
ようやくここまでたどり着くことができました。。。

伊勢津彦について、ウィキペディアはこちら

おいらのブログではこちら

さらにこちら

天日別命と倭姫命伊勢に向かうシリーズで、その場所を探っています。

ざんねんながら、天日別命が大和王権として、最初に伊勢に行った人物ではなく

しかも、天日別命は、彦坐王の子でもないです



でも、彦坐王の子の一人が伊勢の辰砂を求めて出かけているのは確かと思います


おそらく、彦坐王もその子といっしょに大垣付近から船で伊勢まで行ってるでしょう。

その人物が、伊勢津彦のようです


さて、本題の伊勢津彦は誰?ですが、彦坐王の子を調べていくと、あれ?という人物がいました。

ずばり、「沙本毘古王」または、「狭穂彦王」とも書きます。(さほひこのみこ)

沙本毘古王を調べると、「沙本毘古の謀反」ということが出てきますけど、

これは、まったくの作り話です。

さて、沙本毘古王の足跡をたどってみましょうか


彦坐王の年表を見てみましょう



沙本毘古王の生まれは250年ごろと思われます

彦坐王の最後の子である朝廷別王の生まれは268年頃と推測します。

それから、伊勢に出かけたとすると、沙本毘古王は18歳。彦坐王は、38歳。

一番脂ののった年齢ですね。

話は少し脱線しますけど、武埴安彦の反乱という出来事があります。

時代は、四道将軍の時です。

この時負けた武埴安彦の兵士を彦坐王が、引き取り自分の支配下に置いたという話があります。

そこで、ふと思いついたのが、「移田神社」です。

天日別命と倭姫命伊勢に向かうその3、移田神社で書いていますけど、移田神社の本来の祭神は 「埴安姫神」

もしかすると、武埴安彦の兵士たちはここに移住したのかもしれませんね。

そして、それが出来たということは、彦坐王が、その場所に居た可能性が高いと思うのです。

岐阜の大垣から伊勢までおおよそ20kmごとに中継基地があります。

画像があったはずなんでさがしてみます



こんな感じです。  大垣の出発地点が書き込んでありませんね。

大垣と地図に書かれているやや岐阜よりと思ってください。

これらの場所は、一か所ずつきちんと開拓しながら進んでいったことでしょう。

数年という時間がかかったと思います

ですから、今でもちゃんと神社として残っているのでしょう。

伊勢に渡ったのは、沙本毘古王と彦坐王、そして丹波から来た伊福部氏の兵と技術者たちと思います

レイラインの技術者も伊勢まで同行しているようです。←間違いかもしれません
(PS この時点では、まだレイラインは測量していないようです
測量したのは、倭姫が伊勢に行った時のように思います。訂正です。)

そして、飯野高宮神山神社から内宮のレイラインをこの時すでに測量していたと考えます
                       ↑
              (測量したのは、倭姫が伊勢に行った時です。訂正です。)

その後彦坐王は伊勢にとどまらないで、岐阜に戻っています。







日本書紀には、「崇神48年1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、

一種の夢占いをして、4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた」

とあります。

活目命とは、後の垂仁天皇です。

豊城命は、垂仁天皇(第11代)の異母兄で、豊鍬入姫命の同母兄です。

この豊城命が、伊勢津彦を追放した天日別命ではないでしょうか


豊城命の年齢を推測すると、大俣王とおなじくらいと思うので、248年ぐらいの生まれかな?

すると、崇神48年は、西暦にすると280年、豊城命の年齢は32歳

沙本毘古王もそれほど離れていないでしょう。仮に30歳としておきましょうか。

その時、彦坐王は、50歳ぐらい。

当時では、もう高齢者ですね。このころに亡くなったかもしれません。

だから、崇神天皇は、この時がチャンスとばかり、

伊勢の辰砂を手に入れようと武力をもって伊勢津彦を追い出したのではないでしょうか?


「沙本毘古の謀反」は、実は朝廷側の伊勢への侵略であり、それを隠すための作り話と思います。

その後の伊勢津彦の足跡はこちらこちらに書いてあります

伊勢津彦が去った伊勢はどうなったのか?

次回、推理したいと思います






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彦坐王の年齢と出来事と西暦

2019-08-16 07:01:58 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
およその数字ですけど、推測してみました

こちらを基本にした数字です。

彦坐王=丹波道主としています






たったこれだけのものを作るのに、かなり時間がかかってしまいました

しかもきちんとした裏付けがあるわけでもないしね

以前、倭姫は何歳では、282年生まれと書いていますけど、もう少し遅いと思われます

286年と変更しました。そうすると、16~17歳ぐらいに伊勢に行ったことになります。

まあ、大きな外れはないと考えます


でも、この中で一つだけ矛盾するものがあります

それは、「沙本毘売命 第11代垂仁天皇の后となる 292年」と言う所です

記紀では、垂仁天皇2年2月9日立后とあります

でも、彦坐王の子たちの年代から考えると、年齢が合わないのです

 沙本毘売命は、垂仁天皇5年10月に亡くなっています。

その後、比婆須比売命が、垂仁天皇の后になっていることからも時代がおかしいのです。

おそらく、「沙本毘売命」という人物は架空の人と思います。


「沙本毘古王 謀反を起こす」と書きましたけど、こちらの方の説明がよくわかると思います

物語の内容を考えても、明らかに事実ではないなと皆さん思われるのではないでしょうか

したがって、「誉津別命」という人物も、架空の人でしょう。


それから、矛盾ではないのですけど、袁祁都比売命(オケツヒメノミコト)の足跡が全く分からないのです

しかも、彦坐王の母親の妹なんですよ?ほんとうかよ?

神功皇后の血筋なので、それに関係すると思われますけど、ここでは取り上げません。あしからず・・・



彦坐王の最初の妻である、「山代之荏名津比売」の「山代」は、

「山城」ではないかという説があり、その場所は「山城国」とすると



赤いところがその場所です。京都ですね


そして、次の妻の沙本之大闇見戸売の親は、大和盆地北部の豪族です

その次の息長水依比賣(おきながのみずよりひめ)の父親は、天之御影命(天目一箇神)

御上神社の祭神です



最後は、丹波之河上之摩須郎女(たにわのかわかみのますのいらつめ)

倭姫のおばあちゃんです。



衆良神社 おいら、ここへは、まだ行っていません。

祭神は、父親の河上摩須

彦坐王が、四道将軍として丹波に遠征に来た時、妻になっています

水石亭主さんのブログにはその時の彦坐王の館の場所まで特定されています。

その場所が、元伊勢与佐宮つまり外宮の故郷ですね。

一般には、籠神社が、元伊勢与佐宮と言われていますけど・・・

まあ、ここではそれには触れません


さて、これまでの中で、息長水依比賣(おきながのみずよりひめ)の父親が祭神の

御神神社のレイラインを調べたら、驚きましたね。

最初は、偶然なのかと思い取り上げもしなかったのですけど、

では、見てみましょうか



夏至の日没





数10mぐらいの誤差はありましたけれど、そもそも、

どこを起点にしたかもわからないので問題ないでしょう。

距離を測ったら、115km。


これが偶然でなければ、息長水依比賣と丹波之河上之摩須郎女は、姉妹もしくは、従妹の可能性が出てきます。

そうなると、今までわからなかったことがスッキリします。

たとえば、奈良で鏡を作っていた人たちの一部は、息長水依比賣と一緒にやってきた製鉄の技術者

もしかすると、丹波に居た伊福部氏の可能性があると思います

そして、丹波之河上之摩須郎女の居た丹波に玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)という集団が

侵略してきたので、奈良の伊福部に助けを求めた。それが、彦坐王の四道将軍としての

丹波への遠征かもしれない・・・何の証拠もないですけどね。

もう一つ、妄想をすると、彦坐王の集団は、奈良には、山代之荏名津比売とその子が残り

沙本之大闇見戸売、息長水依比賣、丹波之河上之摩須郎女とその子たちと、一緒に居た兵

技術者などが、琵琶湖周辺、大垣の金生山周辺、そして岐阜に移動しています。

御上神社は、その移動の途中に出来たのかもしれません。

移動部隊の中には、レイラインの技術者がいたということは確実と思います。

次は、誰が伊勢に行ったのかを推理します。










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