たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

神坂神社の祭神

2020-11-28 08:58:27 | レイライン

左側には東山道が通っています

そしてそのすぐ下には川が流れています。




すでに、何度も訪問しています。

巨木も1,000年を越える杉があります。

おすすめですよ。









過去の記事はこちらです

日本武尊腰掛石

(日本武尊が東征の帰路、神坂峠を越えるにあたり、休まれ、腰掛けたと伝わる)




ということは、ヤマトタケル以前にここが出来たということ。

だれが何のために?



祭神については、住吉大社のhpより引用させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、ケガレを受けてしまいます。そのケガレを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が生まれました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大阪に住吉大社があります。そこは、神功皇后 (じんぐうこうごう)との関わりが深いようです。

簡単にそれぞれの関係を書いてみました



彦坐王の子である 山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、神功皇后の祖祖父

名前に「筒」が出てきますけど、何か関係があるのでしょうか?


底筒男命 、中筒男命 、表筒男命について調べていくと、なんと、オリオン座にある3つの星のことらしい・・・

星については詳しくはありません・・・


普通は、人が祭神になるのですけど「星」が神社の祭神になってるということですよね。

なぜ星なのでしょう?  しかも、人の名前のように呼んでいる。

なぜなんだろう?


話を神坂神社に戻します。

まず、星にかなり詳しい人が関係しているということ。

そして、場所のことですけど、わざわざ標高の高い峠を越えて天竜川から木曽川へ移動していること。

極めつけは、神坂神社からのレイラインです。

見てみましょうか



以前にも調べていますけど、意味が分からなかった。

でも、今回はある程度分かります



熱田神宮・・・直撃ですね!

もちろん、このレイラインを作製した時点では熱田神宮はまだ存在しないでしょう。

でも、すでに湊として利用していた可能性があります。



毎度のことですけど、海面を5m上昇させた図です(当時も今も海面の上昇はありませんけど、現在は土砂の堆積によって海が後退しています。乱暴なやり方ですけど、古代の様子に近づけるため海面を3m~5m上昇させます)

五社神社(五社大名神社;彦坐王の居た場所、朝廷別王も頻繁にここに居たと推測します)から、

庄内川を下り伊勢湾を南に行くとすぐに現在の熱田神宮のある場所にたどり着きます。

熱田神宮の前身である氷上姉御神社は、その先にあります。

五社神社(五社大名神社)から熱田神宮まで直線距離で約20km、徒歩でも1日で行けます。

小さな船で、庄内川を下り伊勢湾を岸伝いに行けばかなり早く到着するでしょう。

熱田の湊で大きな船に乗り換えて、伊勢まで行ったのではないでしょうか。

現在は、七里の渡し跡がありますけど、彦座王のころからすでにその機能があったと思われます。


小滝川翡翠峡のレイラインに書きましたけど、朝廷別王と行動を共にしているレイラインを作成する技術者集団は、 伊豆毛神社から見た夏至の日没のレイラインを見ています。

糸魚川から諏訪に帰るときに測量したとすると、伊豆毛神社付近で測量して、そのあと、

諏訪に滞在してから神坂神社まで行き、冬至の日没の観測をし場所を特定、

そして峠越えの道を探して木曽川に行きつき、尾張に戻ります。このように考えます。



もう誰の仕業かわかりますね。

この技術集団が何人か、どのようにしてレイラインを測量するのか、

それには、どれくらいの時間がかかるのか全く分かりません。

以前、星を使って測量しているのではないかと書いたことがありますけど、

この神坂神社の祭神を星にするあたり、やはりそうなのかもしれませんね。

この時、朝廷別王は一緒に行動していたのだろうか?

現在、彼についていろいろ調べていますけど、どうもかなり茶目っ気がある

性格のようです。そして、大胆な行動をとるみたい。

まだこのとき彼は、20歳ぐらいです。

天竜川から木曽川に行くために峠を越えるということを考えたのは、若さ故かもと思います。



この峠越えは、東山道の中で最も険しい場所です。



神坂神社から神坂峠遺跡までは川を遡れば行けます。

そこからは、別の川沿いに下れば、木曽川に出ます。



木曽川を下った方が、尾張、美濃に行く距離がかなり近くなります。

小さな船を使えばさらに早く楽に行けるでしょう。

祭神である「底筒男命 、中筒男命 、表筒男命」は、ここ神坂神社で生まれたのかもしれません。

なぜ「筒」なのか?

妄想をしてみます・・・

「つつ」とは本来「津」(津 - 港、泊地のこと)つまり湊を指すのではないか?

「湊」を調べると次のようです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「奏」とは「ものを差し出す様子」を表す漢字で、「物を差し出す→物が1ヶ所に集まる」と変化。「氵(さんずい)」を組み合わせて「水が集まる場所」の意味になった。

古くは、港湾施設のうち水上部分を「港」、陸上部分を「湊」と呼んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

多くの船が集まる場所と言うことから、「つつ」と表現したのかもしれません。

その場所とは、今の熱田神宮以前にあった湊でしょう。

以上妄想でした。。。


朝廷別王が、この神坂神社にいたとすると、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)

と言う人物は、朝廷別王の可能性が出てきます。

いなかったら、このレイラインを測量した技術者集団が、山代之大筒木真若王と言う可能性があります

どちらにしても、神功皇后が住吉神社にこの三神を祀る理由にはなるでしょう。


さらに、この「筒」という言葉は、「竹」を意味するのではないかと言う説があります。

「竹」かんむりに「同」と書くのもそういう意味なのかな・・・?

かぐや姫の物語と関係があるそうです。やはり、天体つながりですね。

以前に書きましたけど、斎宮のある場所の住所は 三重県多気郡明和町斎宮ですけど、

この多気郡は、昔は「竹郡(たけのこおり)」と呼ばれたそうです。

倭姫を伊勢まで案内したのは、言うまでもなく猿田彦であり、イコール朝廷別王です。

「竹」そして「筒」とも大に関係があるようですね。



この神坂神社と熱田神宮のレイラインを測量したときに朝廷別王は、その場所にいたかどうかは

いろいろな角度から検討しましたけど、分かりません・・・

でも、もしそこを通って尾張に帰ったとしても、再度糸魚川に行っていると思います。

その後も、狭穂彦(狭穂彦=伊勢津彦=大国主と解釈します)と行動を共にしているようです。

狭穂彦(さほひこ)に朝廷別王は、国を治めるためのいろいろなことを指導してもらったと思います。

年の差は15歳ぐらい。



この神坂神社の時からどれくらい年月が経ったかわかりませんけど、朝廷別王は、

日本海→小浜→琵琶湖→美濃(大垣)→伊勢のルートを作ったようです。







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安閑神社の古代文字

2020-11-18 07:30:16 | 神社


白髭神社の近くです。

10年ほど前からここに行きたかった!

古代文字の描かれた石があるとのこと



ついに本物を見ることが出来ました。

文字ではないですね

何だろう?

地図かな?

ふと、今まで訪問した神社や古墳を思い出して、位置関係を調べると

こんな風に当てはまりそうな感じ



どうでしょう?

大きな渦巻は古墳と言うことになるんですけど・・・

この中で一番新しいところは、若狭姫神社です。

養老5年(721年)2月10日に創建。

この推理が正しければ、それ以降の作品と言うことですけど

何かしっくりこない・・・

白石神社、若狭彦神社、若狭姫神社は同年代で、8世紀

下船塚古墳、白髭神社古墳は、6世紀

その他は、4世紀のもの。

時代の幅が広すぎるように感じます。




何はともあれ、10年越しの願いが叶って満足です。

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雪野山古墳

2020-11-16 08:30:24 | 遺跡


雪の山の頂上にある古墳とのことですけど、おいら現在足を負傷しているので、頂上までは行くことが出来ません。

さいわい、ほかにも古墳がたくさんあります。

とりあえず、入り口近くの古墳を見てみましょうか。









東近江市埋蔵文化センターのHPより

左を向くと川が流れています




この一帯は公園として整備されています

少し丘の上の方にも






雪野山古墳は、滋賀県最古(4世紀前半)の前方後円墳とのこと

朝廷別王とほぼ同じ世代ですね。

三角縁神獣鏡が副葬品にあります。前方後円墳から出て来るんですね・・・

どういう人なんだろう?

琵琶湖の南の地図です


御上神社は、天之御影神を祭神としています。

彦座王の妻である「息長水依比売」(おきながみずよりひめ)は、天之御影神の娘と言われています。

でも、御上神社のHPでは、天之御影神は孝霊天皇の時代と書かれています。

時代が少しずれていますね。まあ、孝霊天皇のことはひとまず考えないようにして次に進みましょう。

御神神社から雪野山古墳までの距離は、約11km。

当然、なにか影響があってもおかしくありません。

また、神郷亀塚古墳(じんごうかめづかこふん)は、埋葬部付近から弥生時代後期の土器が検出されたことから、3世紀前半(220年頃)と推定されているとのこと。



あまりよく分かりませんね・・・ご容赦

日本最古級の前方後方墳と言うことです。

ここも、雪の山古墳から直線で11kmぐらい。

両方の影響を受けた人たちと考えたらいいのでしょうか。

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御霊神社 (ごりょうじんじゃ)

2020-11-08 05:26:31 | 神社
御祭神
袁邪本王  狭穂彦王  狭穂比咩命



滋賀県愛知郡愛荘町蚊野外41



以前から気になっていた神社です。

祭神に「狭穂彦王」のある神社は少ないですからね。

でも、狭穂比咩命(サホヒメ)も祭神になっていますね。





おいらが思うには、サホヒメは、架空の人物。『日本書紀』『古事記』に書かれています。

ということは、この神社はそれ以降に出来たと言う事になります。




住所は 滋賀県愛知郡愛荘町蚊野外41ですが、この蚊野(かるの)と言う言葉は

船を表す「カヌー」からきているそうです。

どこかの船にかかわる人たちが来て住み着いたのでしょうか。



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若狹姫神社

2020-11-05 05:22:01 | 巨樹、巨木





若狭姫神社は、元正天皇養老5年(721)2月10日、上社の若狭彦神社より分祀。





若狭姫神社の千年杉。



幹周/6. 0m、樹高/30m、樹齢/約500年。



久しぶりの巨木です。

樹齢500年とは思えない。1000年でも通るほどの大きさです。

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伊勢津彦 伊勢に向かうその9,斎宮の場所

2020-11-04 06:16:24 | 神社
まず、斎宮とは何かと言うことですけど、ウィキペディアより引用すると

「古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所」

ということです。

斎王は誰かと言うと,明和町のホームページより引用します


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

初代が、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)父: 崇神天皇 母: 遠津年魚眼妙媛

                   垂仁天皇の異母姉妹
                
                垂仁天皇とともに皇位継承者の候補にあげられた豊城入彦の同母妹。

                 宮中に祀られていた天照大神を大和笠縫邑で祀る。

                 崇神58年ごろ、老衰により退下。

次に、倭姫命(やまとひめ)父: 垂仁天皇 母: 丹波道主王の女、日葉酢媛命。

             垂仁天皇皇女。

             豊鍬入姫命より、御杖代の役目を引き継ぎ、

             天照大神の鎮座される地を求めて各地を巡幸し、伊勢に至った斎王。

             ヤマトタケルノミコトの叔母にあたり、
       
             東征に赴く途中、伊勢神宮を訪ねたヤマトタケルに草薙剣を手渡した。

そして、五百野皇女(いおの)父: 景行天皇  母: 三尾氏磐城別の妹、水歯郎媛
  
               ヤマトタケルノミコトの姉。別名、久須姫(くすひめ)

                明和斎宮へ来た最初の斎王といわれる。

伊和志真皇女(いわしま)  『斎宮記』、『二所太神宮例文』に名前のみ記されているが、

              実在した斎王かどうかは確認できない。



稚足姫皇女(わかたらしひめ)父: 雄略天皇 母: 葛城圓大臣の女、韓姫  

              雄略天皇の皇女。

              別名:栲幡皇女(たくはたのひめみこ)
      
              清寧天皇の同母兄妹。

              湯人の廬城部連武彦との関係を疑われ、身の潔白を証明するため自殺。

              無罪とわかる。


清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇の時代、斎王の記録なし

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



斎宮跡の場所です






道を一本間違えてしまいました・・・

斎宮跡の場所を通り越してうろうろしていたようです。



さて、当時の海岸線はどこなのだろう?

以前、熱田神宮の海岸線を調べたとき、現在の海面より4m前後高くした地理とよく似ているなぁと

いうことを思い出しました。

少々荒っぽいですけど、5m海面を上げてみます




祓川(はらいがわ)という、櫛田川の分流が近くを通ります。

ウィキペディアより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この川は平安時代以前は櫛田川の河道の本道だったが、1082年(永保2年)7月の大洪水や地震により、

現在の櫛田可動堰付近より下流にあった水田や村落が押し流されて現在の櫛田川の河道が

形成されてしまい、それまで本川だった祓川は派川となったという

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ですから、伊勢津彦そして、倭姫命の時代は、祓川から上流に行ったと推測されます。

その河口付近に湊があってもおかしくはないですね。

その場所が、斎宮になったとおいらは考えます。

斎宮跡から西に向かい、祓川に行くとそこには「漕代」と言う地名があります。




そこから、船を漕いで出発したのでしょうか?

(PS 船を漕いで川を遡ることはしませんね・・・。「漕代」と言う地名は、伊勢津彦が、

伊勢を去る時の場所のように思えます)



斎宮から、飯野高宮神山神社まで4.5kmほど。




途中、伊勢庭神社と言う所がありますね。まだここには行っていませんけど、推測するには

高速道路のサービスエリアのような所でしょうか?

倭姫命のトイレ休憩の場所・・・←おいっ!



祓川の意味を調べると、祓川(はらえがわ) 神仏に参拝するとき、身を清めるために禊みそぎする川。」

そして、櫛田川の名前の由来は、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古来、倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて諸国を巡行の際、

この地で櫛を落とされたことからこの名がついたとされる。

これにならい歴代の斎王は、群行の際、櫛をこの川に捨て、神に仕える決心をしたという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上のことから、斎宮から飯野高宮神山神社に神事のために

斎王が通ったと考えていいのじゃないでしょうか。






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伊勢津彦 伊勢に向かうその8飯野高宮神山神社(いいのたかみやこうやまじんじゃ)

2020-11-04 06:06:37 | 神社
彦座王、伊勢津彦とその部隊は櫛田川を上った飯野高宮神山神社付近に陣を築いたと思います




三重県松阪市山添町4






標高30m



倭姫命世記によると、垂仁天皇22年に倭姫命が「飯野ノ高宮」で4年間天照大神をお祀りしたそうです


踏切があるのです!


御祭神
猿田彦命,天鈿女命



この記事を書いたのが、2年前。現在、それを訂正しています。

そして、ここの祭神が、猿田彦命,天鈿女命になっていることに、あらためて感動します。

少し脱線しましょうか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

猿田彦命は、朝廷別王であり、彦座王の子供です。

母である、川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)と彦座王との最後の子供です。

彼が、まだ母親のおなかにいるか生まれたばかりかの時に、伊勢津彦と彦座王は、岐阜から

伊勢に出発したのでしょう。

その後、どれだけの期間、彦座王は、伊勢にいたのかは分かりません。

ですけど、10数年後に伊勢津彦は天日別命に伊勢を追い出され、砥鹿神社にたどり着きます。

そこに、まだ若い朝廷別王が合流します。

その後、伊勢津彦と朝廷別王は行動を共にします。

砥鹿神社から、諏訪に行きさらに、糸魚川の翡翠の産地にも行きます。

その後の行動は、現在調べているところなのでここには書きません。



朝廷別王が34歳ごろ、倭姫(朝廷別王の姉の娘)が、岐阜そして尾張にやってきました。

そこで、彼は倭姫と共に、木曽川、大江川を下り、多度の宇賀神社経由で伊勢まで行き、

この、神山神社に滞在したのでしょう。

その時に彼の持っているレイラインの技術を用いて、内宮と、斎宮、外宮の場所を決めた

と推測します。

これって、どこかで聞いた物語と同じですよね。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・








帰るときに気が付いたのですけど、ここにも山神様がいらっしゃいます



しかも、10柱




なぜこの場所に陣を築いたのか?

櫛田川をさかのぼっていくと




グーグル地図張れないので画像を貼り付けます



丹生水銀鉱に行くには櫛田川をさかのぼったと思われます。



途中、紀師神社があります。





中継地点でしょうか?





こうして、彦座王、伊勢津彦は、丹生水銀鉱にたどりついたと思われます。








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伊勢津彦 伊勢に向かうその7神館神社、加良比乃神社、そして川併(かわい)神社

2020-11-04 05:10:49 | 神社
今回は、何処が伊勢津彦の滞在先なのか、なかなかわかりませんでした

まずは

神館神社(かんたちじんじゃ)
三重県津市半田1733





標高3.9m  少し低いですね。





倭姫命が大和・伊勢を巡幸した時、ここに休憩所として館が建てられたとのこと






次に行ったのは

加良比乃神社



標高6.8m

倭姫命が、4年間滞在したと言われます

ここには、たどり着けませんでした・・・見えているけども行けない・・・






川併(かわい)神社


標高20m

ここは、駐車スペースが無く周りをウロウロしただけ・・・

標高的には、一押しですけど川からの距離がありすぎるので違うと思っていたのです



対岸にも、川併神社がありますね。時代が新しくなり受け継いで別れたのではないでしょうか




今回は、特定できないなと思いつつ川を渡った所、あることに気が付きました。

河原からは近いんじゃないか?

あとで、グーグルの地図の写真で調べると



近いです

実際には250mほどでした

ということは、本命はここ川併神社と思われます。






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伊勢津彦 伊勢に向かうその6 酒井神社

2020-11-04 05:07:03 | 神社



この3カ所で、最初に行ったのは、横道下神社

三重県鈴鹿市徳田町2107

標高 4m



大正6年にこの地に近くから移転してきているようです。


次に向かったのは、服織神社(はたおりじんじゃ、はとりじんじゃ)

三重県鈴鹿市御薗町2019

標高20.7m



村の一番奥と言う感じの場所。車止められないので画像はありません。


最後に行ったのは、酒井神社

三重県鈴鹿市郡山町1759

標高 26.3m



天智天皇治下10年(871)創祀とのこと

時代が新しいですね・・・

赤郷2号墳 まで850mほどなので、ここが本命かと思っていたのですけど・・・

とにかく行ってみましょう。


駐車場のすぐ前に鳥居があります




その横にも鳥居があり



りっぱな本殿ですね



そこから、小道がありましたので行ってみます




すると、





なんと、さきほど行った服織神社は、元はここにあったのです。




さらに、


どういう神様でしょうか?  山神様もいらっしゃいます

ひょっとすると、ここに祀られている神様は、今ある本殿よりも前からあるのじゃないのか?

伊勢津彦の時代の神様ではないだろうか?

そう思えてきました。

とても心地の良い場所です。



鎮守の森と言うのは、このような所のことを言うのかなと思いつつ、しばしこの場所でのんびりしました。



倭姫命の足跡があります

布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)

三重県亀山市布気町1663

垂仁天皇18年の創始




忍山神社(おしやまじんじゃ)

三重県亀山市野村町4-4-65


どちらも、倭姫命が立ち寄ったと言われますけど、旧地があるらしく場所は不明です。



















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伊勢津彦 伊勢に向かうその5 赤郷遺跡

2020-11-03 13:47:59 | 神社
赤郷遺跡

こちらに詳しい発掘の結果が書かれています


三重県鈴鹿市秋永町字赤郷 1823 番

赤郷2号墳    標高 10.5m



ここの発掘により、弥生時代後期ないしは古墳時代前期における集落の存在が明らかとなったとのこと。









三角縁神獣鏡が出てきたそうです!

川の近くですね。


神社ですけど、候補が3カ所ほどあります


それについては、次回に書きたいと思います

倭姫命は、ここに立ち寄ったのでしょうかね?

資料は、何もありません。





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伊勢津彦 伊勢に向かうその4鬼田神社(きたじんじゃ)

2020-11-03 13:43:43 | 神社
伊勢津彦と彦座王の向かった次の候補地は、鬼田神社

三重県鈴鹿市木田町2365

由緒不詳

主祭神 《主》大山津見神,《配》大雀命,豊宇気毘売神

標高 25.7m



なんで「鬼」の字が出てくるのだろう?

どうも、川の北なのでそれが、鬼田と書いて「きた」と読むらしい・・・

地名は木田ですね


倭姫命の足跡はここにもありません

近くには、伊勢国分寺跡もあり古くから栄えた場所でしょう





長い参道








川神社の飛地境内社として存在と言われますが、地形的にみると逆のように感じます。

その、川神社の場所は、鈴鹿川の対岸




標高13m








横にはもう一つ



山神様


そういえば、以前訪問したところでも山神様は見かけました。

何か関係でもあるのでしょうか?






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伊勢津彦 伊勢に向かうその3、移田神社(いだじんじゃ)

2020-11-03 13:41:46 | 神社
伊勢津彦と、彦座王が、次にたどり着いたのは、ここ「移田神社」と思われます。

倭姫命の足跡はありません




急な階段を登ってたどり着きます。







横から見た本殿



駐車場はこの右手なので、実際はここから入りました



三重県三重郡朝日町埋縄980




標高 22.5m

東を見ると

これで納得しました



1800年前は海であったであろう場所でしょう




創祀年代は不詳

明治四十一年に井後神社に合祀され、その後、平成十一年に返還し、井後神社から独立、旧地に再建

ですから、建物は新しいです

祭神    建速須佐之男命、天照大御神、応神天皇、大山祇神。

移田神社の本来の祭神は 「埴安姫神」



天照大御神と応神天皇は近隣の神社の合祀による祭神とのこと


参考までに移後神社の画像もご覧ください



移後神社は、現在の地よりやや離れた場所から移転してきているようです。



こちらも、急な階段を登ります

もう一か所



標高は19,3m










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伊勢津彦 伊勢に向かうその2、多度に到着

2020-11-03 13:39:44 | 神社
次に、伊勢津彦と彦座王が、船で寄ったと予想される場所は、

宇賀神社あたりと思われます














三重県桑名市多度町柚井1564

標高22.7m



祭神


宇賀乃御魂神(稲造・食物・商売繁昌の神)
大山津見神(山の神)
火之迦具土神、火之炫毘古神、火之夜芸速男神(火の神)
表筒男神、中筒男神、底筒男神(航海舟便の神)
大巳貴命、少彦名命(医薬の神)

道を登っていくと、多度山の頂上まで行けます。



頂上は、見張り場だったのでしょう

狼煙など上げたのでしょうか?



おいらは、途中であきらめました・・・

でも、このながめ



名古屋方面です

途中



いるんです。



さて、倭姫命はと言うと、野志里神社に来られているようです





標高、6.4m


この場所は、かなり以前に訪れています。

確か巨木を見に行ったのじゃないかな?

このブログには記事が無いので、それ以前の別のブログでしょう。

かなり昔・・・

近くには、多度大社があります。

一度訪れたことがありますけど、なかなか雰囲気の良いところです。


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伊勢津彦、伊勢に向かう その1、巌神社

2020-11-03 13:37:14 | 神社

天日別命と倭姫命伊勢に向かうという題で書いていたものが間違いだったと気が付いて

すでに、だいぶ時間が過ぎてしまいました。

天日別命は、崇神天皇が派遣した人物で、伊勢をまとめていた伊勢津彦を追放して、伊勢の

辰砂と国土を乗っ取るために、派遣された人物です。

じゃあ、伊勢津彦とはだれ?

今まで、何回も書いてきましたけど、「狭穂彦」(さほひこ)と言って、彦座王の息子です。

彼について、いろいろと調べた現在思うことは、非常に聡明な人だということ。

だから、父親の彦座王は、彼を伊勢に連れて行きその場所を治めさせたのでしょう。

その結果、辰砂は彦座王ファミリーに流通していたと考えます。

その後、10数年後におそらく、彦座王が老齢で十分な行動が出来なくなったころを

見計らい武力で、伊勢を奪ったと考えます。

とりあえず、「天日別命と倭姫命伊勢に向かう」という題を、「伊勢津彦、伊勢に向かう」

に変更して、内容も直しながら新しくしていこうと思います。










岐阜県海津市南濃町庭田字古畑629番地の1

主祭神
伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
伊邪那美尊(いざなみのみこと)
猿田彦命(さだひこのみこと)

創立年月日不詳








鳥居の手前には




拝殿



その奥が本殿でしょうか


標高24m

ここから川の方に下ると、いくつかの神社やその跡地があるようです。

それらはおそらく、船を停泊させた湊のようなところかもしれません。


ここの南にある山の山頂には、円満寺山古墳があります。

訪問はしていません 

このあたりです


さらに、貝塚もあるようです


倭姫命は、ここには訪れていません。

岐阜を出て、愛知県の一宮を通り、津島方面に向かったと思われます。

倭姫命の伝説については、こちらが詳しく書かれているようです。


愛知県愛西市には、奥津社古墳と呼ばれる所から出たであろうとされる三角縁神獣鏡が、

発見されています。




標高を調べたら、なんとー0.5m・・・マイナスです。

津島神社まで、3,7キロほど離れています。

関係があるかもしれないですね。



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正確な地図を作成してみました

2020-11-03 07:37:20 | レイライン


レイラインではありませんけど、面白そうなので正確な地図をgoogle地図で作成してみました


地図です

見ることが出来るでしょうか?

グーグルマップの貼り付け方法がいろいろ変わるようです。

グーグルの地図を見ると、やはり少しづつ誤差があるようですね。

それぞれの場所の関係がわからない。ただ単に、星の形が出来そうなところを選んで

結んだだけのような気がします。

飛鳥京、平城宮、平安京は、別のラインがあるように見えますけど・・・






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