最初のころ、おいらは、朝廷別王(=猿田彦=すくなひこな)は、猿投神社に住んでいたと思っていました。 違いますね。
「創祀は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀る」こう書いてありますね。
勅願によるということは、仲哀天皇が命じたということ。おそらく、神功皇后の意見でしょう。
仲哀天皇の妻である、神功皇后については、 神坂神社の祭神で、少し触れています。
それにしても、朝廷別王のころとは、だいぶ年月が開いています。神功皇后の曽祖父が
朝廷別王の時代です。
天皇にしても、崇神ー垂仁ー景行ー成務ー仲哀となります。
朝廷別王は、垂仁天皇と同じ世代です。
なぜ、こんなに時間がたってからの創祀なのか?謎です。
もう一つ謎なのは、氷上姉子神社に書いてありますけど、氷上姉子神社の本宮からのレイラインがこの猿投神社を通るということです。
(この、日の出日の入りマップには、ほんとお世話になっています。。。)
氷上姉子神社の時代を考えると、東谷山の尾張戸神社は、
第13代成務天皇5年に宮簀媛命の勧請によって創建されたと言われます
成務天皇は、実在しないかもしれないという説もありますが、それでもあえて年代を推測すると、
325年ごろと思います。
そして、尾張戸神社を建てたのが、朝廷別王でなく宮簀媛命と言うことは、この時には朝廷別王は
もうこの世にはいないということでしょう。320年で彼は55才ぐらい。
没年はそのころと思います。
宮簀媛命とは誰かと言うことを考えると、朝廷別王の娘としか考えられません。
「玉姫」と言う娘が、建稲種命(たけいなだねのみこと)に嫁いでいます。
でも、この年代を考えるとかみ合わないのです。またまた誰かが物語を創作しているようです。
そのことについては、ここでは触れません。あしからず。
さらに、尾張戸神社の創建された325年頃とは、朝鳥名神のレイラインを測量した頃とほとんど同じ年代でしょう。
ということは、この氷上姉子神社の本宮から猿投神社のレイラインは、同じ技術者集団の仕事かもしれません。
この集団は、朝廷別王といつも一緒に行動していたように思います。
その測量技術が代々受け継がれて、その後の猿投神社創祀の時に場所を確定したとは
考えにくいのです。
どちらかは、分かりませんけど、おいらは、朝鳥名神のレイラインを測量した技術者たちが
場所を特定して、現在の猿投神社の場所になんだかの形あるものがあったと考えます。
ですから、案内板には「創祀」としてあり、「創建」と言う言葉を使っていないのかもしれません。
でもなんで、仲哀天皇のころの創祀なのだろう?やはりわからない。
神坂神社の祭神でも書いていますけど、
神功皇后の曽祖父の「山代之大筒木真若王」と言う人物は朝廷別王=(=猿田彦=すくなひこな)
かもしれない。この場所に、猿投神社を建てたということで、可能性が高くなりました。
その山代之大筒木真若王の、奥さんは丹波能阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)です。
これは誰だろうか?
妄想すると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・天宇受売命(アメノウズメ)?
妄想を終わります。。。
「創祀は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀る」こう書いてありますね。
勅願によるということは、仲哀天皇が命じたということ。おそらく、神功皇后の意見でしょう。
仲哀天皇の妻である、神功皇后については、 神坂神社の祭神で、少し触れています。
それにしても、朝廷別王のころとは、だいぶ年月が開いています。神功皇后の曽祖父が
朝廷別王の時代です。
天皇にしても、崇神ー垂仁ー景行ー成務ー仲哀となります。
朝廷別王は、垂仁天皇と同じ世代です。
なぜ、こんなに時間がたってからの創祀なのか?謎です。
もう一つ謎なのは、氷上姉子神社に書いてありますけど、氷上姉子神社の本宮からのレイラインがこの猿投神社を通るということです。
(この、日の出日の入りマップには、ほんとお世話になっています。。。)
氷上姉子神社の時代を考えると、東谷山の尾張戸神社は、
第13代成務天皇5年に宮簀媛命の勧請によって創建されたと言われます
成務天皇は、実在しないかもしれないという説もありますが、それでもあえて年代を推測すると、
325年ごろと思います。
そして、尾張戸神社を建てたのが、朝廷別王でなく宮簀媛命と言うことは、この時には朝廷別王は
もうこの世にはいないということでしょう。320年で彼は55才ぐらい。
没年はそのころと思います。
宮簀媛命とは誰かと言うことを考えると、朝廷別王の娘としか考えられません。
「玉姫」と言う娘が、建稲種命(たけいなだねのみこと)に嫁いでいます。
でも、この年代を考えるとかみ合わないのです。またまた誰かが物語を創作しているようです。
そのことについては、ここでは触れません。あしからず。
さらに、尾張戸神社の創建された325年頃とは、朝鳥名神のレイラインを測量した頃とほとんど同じ年代でしょう。
ということは、この氷上姉子神社の本宮から猿投神社のレイラインは、同じ技術者集団の仕事かもしれません。
この集団は、朝廷別王といつも一緒に行動していたように思います。
その測量技術が代々受け継がれて、その後の猿投神社創祀の時に場所を確定したとは
考えにくいのです。
どちらかは、分かりませんけど、おいらは、朝鳥名神のレイラインを測量した技術者たちが
場所を特定して、現在の猿投神社の場所になんだかの形あるものがあったと考えます。
ですから、案内板には「創祀」としてあり、「創建」と言う言葉を使っていないのかもしれません。
でもなんで、仲哀天皇のころの創祀なのだろう?やはりわからない。
神坂神社の祭神でも書いていますけど、
神功皇后の曽祖父の「山代之大筒木真若王」と言う人物は朝廷別王=(=猿田彦=すくなひこな)
かもしれない。この場所に、猿投神社を建てたということで、可能性が高くなりました。
その山代之大筒木真若王の、奥さんは丹波能阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)です。
これは誰だろうか?
妄想すると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・天宇受売命(アメノウズメ)?
妄想を終わります。。。