たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

猿投神社の場所 その3

2022-06-30 05:45:40 | 猿田彦
こちら参考にしてください大御霊神社 その5 氷上姉子神社の場所

氷上姉子神社には、ミヤズ姫が住んでいますが、サタヒコも最初は一緒に住んでいたのでしょう。

母親の、マシキトベも居たと思います。

ミヤズ姫の年齢が分かれば、何かわかるかもしれません。

宮簀媛=玉姫と考えます。詳しくはこちら「針名神社」をどうぞ。

まず、サタヒコ(オトヨ)とマシキトベとの間に出来た子は今のところ3人がわかっています。

犬山の田縣神社の祭神、稲沢の大御霊神社の祭神、そして玉姫。この3人です。

順番はわからないです。

最初に生まれたのが玉姫とすると、伊勢に出かける前に生まれたと考えるのが適当かと思います。

玉姫は、晩年犬山の大縣神社に戻ってきます。

長女だからでしょうか?他の男の兄弟はそれぞれ外に出て行っています。

だからと言って、一番年上とは限りませんけどね

さて、サタヒコが伊勢に出かけたのが、302年。その年に生まれたとすると、15歳になるのは317年。

このころに、ヤマトタケルと結婚します。ヤマトタケルは架空の人物なので、おそらく景行天皇でしょう。

景行天皇はかなり以前からサタヒコとの関係が深いようです。

伊勢から、辰砂が届くのは、この氷上姉子神社と思われます。

そして伊勢には、景行天皇の妹(姉かもしれない)、つまり、倭姫がいます。

うってつけの、配置ですね。

サタヒコは、その業務を玉姫と景行天皇に任せることにした。

そして猿投神社に移動した。

317年には、サタヒコは、52歳ぐらいです。つまり、隠居したということでしょうか。


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猿投神社の場所 その2

2022-06-29 04:59:02 | 猿田彦
猿投神社の場所 その1 氷上姉子神社奥宮を書いてから、寄り道していましたね。

猿投神社の場所、これが分からない。どうやって探ろうか?

まず、猿投山にある「大碓命墓」は、猿田彦(サタヒコ)の墓です。青塚古墳が出来るまで、彼が埋葬されていた場所です。

彼の寿命はわかりませんけど、かなり長寿のようです。

唯一の手掛かりは、「景行天皇28年、御崎の「静之窟」内に少彦名命(猿田彦)を勧請した」と言うこと。

くわしくは、少彦名命(すくなひこなのみこと)をご覧ください。

彼の死後、景行天皇が、少彦名の物語に付き合ったということでしょう。

ですから、彼の死後からそれほど時間がたっていないと思います。景行天皇28年は、324年頃です。

その2年前に亡くなったとすると、サタヒコは、57歳ぐらいなのです。

当時としては長寿ではないでしょうか。



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白山神社まとめ

2022-06-28 05:40:35 | 白山神社
驚きの連続でした。

一番最初の白山神社が彦坐王を祀っていることは、船岡山と言う名前が、船岡神社から来ていると考えると疑いのないことと思います。

日本海側の海岸の地形が今とだいぶ違うということに驚きでした。

船で移動するには、およそ20kmごとに港があるはずです。その場所の特定が今までできなかったので

越から出雲までの移動が推測出来ていません。

20kmのスケールを書いてみました。

これである程度、港の場所がわかるかもしれません。



サタヒコ達は、日本海側より白山越えをして、美濃の方面に行った可能性は高いです。

彼らの行動力は、すごいです。以前書いた猿田彦その 30 戸隠神社奥社で、それがよくわかります。

彼らにとって、白山越えはたやすいことでしょう。そして、それが出来たとすると彼が若い頃の事と思うのです。

美濃まで行ったかどうかは不明です。

美濃は、垂仁天皇に侵略されているので、母親には会っていないかもしれない。

あれこれ調べていたら、面白いことが書かれているところに出くわしました。

こちら、嘉利マスターが綴る 白山麓・磐座探訪記の、奥美濃・白鳥神社の秘密②と言う所に、「白山中居神社」からのラインがあるとのこと。

早速調べてみました。


一番下の明健神社は時代が後になります。

白山中居神社は、、景行天皇12年の創祀とのこと。316年頃でしょうか。

白鳥神社は、仲哀天皇の時代とのこと。なんだかわけが分からなくなってきた・・・

現在、彦坐王が眠っているのは、春日井にある「白鳥塚古墳」と思います。

その名前の、「白鳥」が、ここから来ていると思うのですけど、決め手が見つかりません。

今後の課題にしておきましょう。

このラインは、レイラインではないのでサタヒコ達の仕事ではないと思いますけど、

その影響を受けた人たちが、ライン上に神社を建てるということを行ったのではないでしょうか。

祭神については、最初は、「彦坐王」で、泰澄の時代には、イザナギで、イザナミも同じ時期に祀られていたかもしれません。

その後、ククリヒメに代わったようです。理由はわからない・・・


泰澄が、白山登拝を決意し、山頂に到達したのが、養老元年(717)。

すでに書きましたけど、春日井市白山町の白山神社の創建は養老2年(718)。

翌年に、急いで春日井に駆け付けたような印象を受けます。

そうすると、白山に行く前にも春日井に来ていたのかもしれませんね。









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アスター ダッチェッス・ブルー・アイス

2022-06-27 07:04:16 | 植物




栽培しやすいですね。

挿し木もできます

酸性土壌を嫌います。苦土石灰を土に混ぜましょう。

連作を嫌います。年ごとに植える場所をかえましょう。

ピンチをすると、側枝がたくさん出ます。

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ハッカクレン  湖西

2022-06-25 06:52:48 | 植物

父親の残していったものです。 名前が分からなかったけど、ようやく判明。

ハッカクレン  湖西 と言うもの。

この斑入りの入り方は、「ちりふ」というらしい。斑が散って入るという意味らしい。

一鉢しかないんで、増やすには時間がかかりますね。
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花びらを忘れてしまいました・・・

2022-06-24 12:49:12 | 植物


おいらも良く忘れ物をします・・・

POPです


最近になって、花が付かなくなりました。暑いからだと思います。

もしかして、忘れてるのかもしれない・・・
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ニコチアナ(ハナタバコ) ライム・グリーン

2022-06-23 05:38:34 | 植物

咲き始めました。


わりと背が高くなります。6cmぐらいかな    

なので、ピンチして栽培しようかな。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ナス科ニコチアナ属   半耐寒性多年草  
暑さには強いですけど。低温にはそれほど強くありません。
日当たりが良く、水はけの良い場所が適しています。
花期は5月~10月  
雨に当たると花が傷んでしまうことがあります。
長雨の季節には、雨の避けられる場所で栽培してください。
ナス科 のため、連作障害が出やすいです。地植えの場合は植える場所をかえてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



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東之宮古墳に行ってきました

2022-06-22 06:30:14 | 白山神社

 愛知県犬山市犬山北白山平6

以前と比べて、すごくよく整備されています。

成田山の西側を通ると、駐車場にたどり着きます。


そこから徒歩で、5分ほど



その西側には神社があります




さらに、

犬山城が見えます

古墳に登ります

「冬至」には、東之宮古墳の中心軸から太陽が昇るとのことです。
この画像の真ん中からですね。








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金山彦

2022-06-21 05:50:31 | 白山神社
少し前にふれたので、調べてみました。

するとなんと、神生みの話に出て来るのですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)と対になるともされる。

神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。

岐阜県垂井町の南宮大社(金山彦神のみ)、南宮御旅神社(金山姫神のみ)、島根県安来市の金屋子神社、宮城県石巻市金華山の黄金山神社、京都府京都市の御金神社及び幡枝八幡宮末社の針神社を始め、全国の金山神社で祀られている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

生まれは、丹波のようですね。

祀られている神社は、南宮大社が最初なのでしょうか?

何度も訪問していますけど、ここには書いてないようです・・・


南宮御旅神社は、金山彦が、遊びに行くところなので、たぶん奥さんが祀られているとのこと。
近くですよ。

訪問して、ここに書いていますけど、今読むと、かなり間違ったこと書いてます・・・
リンクはしないでおきましょう。画像だけUPしましょうか。



奥へ進むと

左が、白髭神社  右が、南宮御旅神社です

さらに

レイラインが、喪山を通る。

当時、その意味が分からなかったのですけど、もしかすると、金山姫神の古墳なのでしょうか?




金屋子は二人の間に出来た子とのこと。

神々のふるさと山陰より引用させてもらいます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
金屋子神は、高天原から播磨国に天下った後、白鷺に乗って出雲国比田村の桂の木に飛来し、発見した安部正重らに製鉄技術を教えた「鉄作りの祖」とされています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
金屋子神は、美濃ではなく出雲なんですね。





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菊理比売姫(くくりひめのみこと)

2022-06-20 04:53:35 | 白山神社
最初のころ、白山比咩神社と言うのは、泰澄が勝手に作ったものだと思っていました。

まあ、今までのおいらの推理が正しいかどうかも分かりませんけどね。

ちなみに、九頭竜湖の付近には辰砂が出るところがあるそうです。

それと、かなり古い白山神社もあるようです。サタヒコの時代より少し後のようですけど。

さて、本題に入りましょうか。

菊理比売姫(くくりひめのみこと)を調べましょうか

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に一度だけ出てくるのみである

神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる。
そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った。
つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある。
菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない

菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041年-1111年)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

白山比咩神社の最初の祭神は、彦坐王ではないでしょうか?

その後、泰澄の時代に伊奘諾尊(いざなぎ)伊弉冉尊(いざなみ)になったと考えます。

ここで言う、伊奘諾尊、伊弉冉尊は、山代之大筒木真若王(サタヒコ)と、

丹波能阿治佐波毘売(アメノウズメ)と思います。

二人に出来た子が、迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ) この名前は、「カグツチ」から来ているのではないかな?  逆かもしれない。

個人的には、イザナギ、イザナミは、もっと古い人物と思います。

その名前を、古事記でも使ったのでは無いかと思っています

イザヤと関係があるかもしれないと思っているのですけど・・・

まあ、詳しいことはわからないので、これ以上話を進めることはやめておきます。

サタヒコと、アジサハヒメが暮らしていた場所は、比沼麻奈為神社です。

その場所に、倭姫も暮らしていました。

しかし、アジサハヒメは出産と同時に亡くなってしまいます。

日本神話の神産みは、この時のことを物語っていると思います。

その時に、サタヒコに何か助言できるような、巫女のような人物は誰?

倭姫しかいないでしょう。

泰澄は、倭姫の非常に強い霊力にあこがれたのかもしれませんね。

そして、サタヒコ達が越えたであろう白山に行ったと考えます。



現在の伊勢神宮がこれだけ人々の想いを集められるのも「倭姫」の霊力なのかもしれません。。。





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五社大明神社

2022-06-19 05:16:03 | 白山神社
春日井の白山神社については、神社が出来る以前には、別の何かがあったように思います。

一番可能性が高いのは、五社大明神社の前身です。


祭神を見てみましょうか。

大碓尊(おうすのみこと)素盞嗚尊(すさのおのみこと)菊理比売姫(くくりひめのみこと)
 日本武尊(やまとたけるのみこと)天目一命(あめのまひとつのみこと)



大碓尊とは、大歳神(オオトシノカミ)の事ではないだろうか?両方ともサタヒコの事ですけど。

菊理比売姫については、後に調べます。

日本武尊は、架空の人物と思いますけど、あえて言うなら、景行天皇では?

注目するのは、天目一命です。

前に、天叢雲剣を作り,ここまで運んだ人物が、春日井の白山神社での儀式に参列しているのではないか

と書いています.

その製鉄に関する人物が天目一命(天目一箇神)です。

「天之御影神」=「天目一箇神」=「日本 得 魂 命」ではないかと思います。

しかし、年齢を考えると彼はすでに他界しているのでは?

調べてみましょうか。

春日井の高蔵神社に行く途中の祠  その10 天目一箇神は誰を見て頂くとわかりますが、彼は、サタヒコの母親の兄弟です。

サタヒコの母親が、彦坐王の妻となったのは、261年頃です。その時16歳とすると、

サタヒコが伊勢に行くのは、302年頃と思いますので、その時にはすでに57歳になっています。

仮に、天目一箇神がサタヒコの母親より10歳若かったとしても、伊勢までの旅はしなかったでしょう。

とすると、天叢雲剣を作り,ここまで運んだ人物と言うのは、天目一箇神の弟子つまり、

製鉄の技術者ではないだろうか?

彼らは、鏡を伊勢に運んだあとは、 滋賀県野洲市三上にある御上神社に落ち着いたと思われます。

ですから、御上神社の祭神は天之御影神=天目一箇神 (日本 得 魂 命)になっています。

このように考えると、すべてがピタリとくるように思います。

春日井の白山神社を、倭姫が彦坐王の御霊を天叢雲剣に移す儀式を行った場所とすると

天叢雲剣は何処にあったのか?

この場所が、五社大明神社の前身ならば、ここに置いてあったとするのが適当でしょう。


さらに、熱田神宮が出来ると、天叢雲剣は、そちらに移動します。

そういえば、 天叢雲剣は、熱田神宮にある本体と、皇居にある形代の2つがあるんでしたね。

丹波から2つ作って持ってきたのかもしれません。

一つは、熱田神宮に、もう一つは鏡と一緒に伊勢に行き、倭姫が祀っていた。

伊勢に持って行ったものが、今、皇居にある天叢雲剣ではないでしょうか。

磐座のある、高蔵神社が、熱田神宮の奥の院と言われるのも以上のような関係からかもしれません。
この場所です。





それと、「金山彦」の名前が出てこないのは、「天目一箇神」の子が「金山彦」ではない可能性があると思うのです。考えすぎかな?

金山彦は、もう少し後の人物かもしれません。

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白山比咩神社は、いつ出来たのだろう?

2022-06-17 05:46:56 | Weblog
白山比咩神社創祀はいつだろう?

サタヒコ達が、越を出て、出雲に向かった年代もはっきりわかりません。

というか、最初は少人数で日本海を西や東にあちこちに行っていたと考えるのが適当かな?

その時の初期の段階と思うのです。

なぜなら、出雲に落ち着いてからは、サタヒコは九州にも行っているようですし、

岡山で船を造って四国や淡路島、おそらく熊野にも行っていると推測します。

そのような状況から考えると、それ以前の時期と思います。

サホヒコが伊勢を追い出されたのが、281年頃、その3年後ぐらいには越に居たとすると

285年ごろかなぁ?

場所について、地図で位置関係を見てみましょう。

白山比咩神社から、春日井の高蔵神社磐座に線を引いてみました。

美濃五社神社は、サタヒコが生まれ育った場所です。

美濃付近の高い山からは、白山が見えるのでは?

その姿を覚えていれば、日本海側からでもどの付近に居るかは想像が出来るでしょう。

さらに、星を読んでナビをする技術も持っているようですし。

最初の白山比咩神社が、美濃、尾張を意識した場所にあると考えて良いのではないでしょうか。






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白山比咩神社の場所

2022-06-16 05:03:25 | 白山神社
船岡山の頂上です


海面を見て見ましょう。分かりやすいように7m海面を上げてみます。

青い点が、白山比咩神社です

驚きましたね。

まるで堤防が出来ているみたいです。湾の中は穏やかな場所でしょう。

港を造るには良い所と思います。

白山の頂上に上るには、手取川を遡れば行けるようです。

泰澄はどのルートを通ったのかは分かりませんけど、南に降りて行けば長良川に出ます。

サタヒコはもしかすると、白山越えをして美濃や尾張に行くつもりだったのでしょうか?

彼らの行動は想像を超えますからね。

地図を見ていて気が付いたのですけど、白山頂上付近から石徹白川を下り、九頭竜湖に出ます。


あれ?九頭竜湖の水は何処に流れ出しているのだろう?

それは置いといて、東に向かい、油阪峠を越えると長良川(水色の線)に出ます。 岐阜県郡上市白鳥町です。

気が付きました?

白山比咩神社→白山→石徹白川→白鳥町   「白」が付きます。



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白山比咩神社

2022-06-15 05:16:36 | 白山神社
白山比咩神社の事が気になります。

前に、崇神天皇の時代にすでに存在していたということは、後の創作ではないかと書いていますけど

いろいろ調べているうちに、実在していたのではないかと考えを改めました・・・反省 へへ;

まあ、思考のバイアスを取り除く訓練だということにしておきましょう。

もう一度、白山比咩神社を調べてみましょうか

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
白山神社の総本社

主祭神は、白山比咩大神 =菊理媛神(くくりひめのかみ)
     伊邪那岐尊
     伊弉冉尊

社伝由緒によれば、崇神天皇の時代に白山を遥拝する「まつりのにわ」が創建された。
  (「まつりのにわ」とは、神霊のとどまる所。天地の神や五帝をまつる祭場 )


養老元年(717年)に越前の修験僧・泰澄大師によって白山に登って開山。主峰・御前峰に奥宮が創建され、白山妙理大権現が奉祀された、と伝わる。


白山比咩神社創祀之地(そうしのち)はこのあたりのようです。それとも山頂かもしれません。(資料が複数ありました)

訪問したことはありません



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

泰澄の関係する神社を地図に書き込んでみました。(赤色の所です)


洲原神社は時代が少し遅いです。

泰澄は、春日井から白山比咩神社奥宮まで移動したのではないかと思えますよね。

泰澄の時代の事はほとんど知らないので、これ以上は踏み込みません。




白山比咩神社創祀之地は、サタヒコがまだ尾張に来る前の時代の何かゆかりのある場所かもしれない。

日本海側で、丹波と越の中間地点です。

そして、白山の「白」と言う言葉も、サタヒコがつけたのならば、説明が付きます。

舟岡山と言う地名が気になります。

船岡とは、丹波でサタヒコの父である彦坐王が滞在していた場所なのです。現、船岡神社ですね。

もしかしたら、サタヒコがこの地に彦坐王を祀ったのかもしれない。

そうすると、ここが最初の場所になります。白山神社の総本社と言うことも納得できます。

「白山」という名前も、この地が最初と言うことになります。

この地には、4500−4300年前の縄文時代中期の村の跡があるそうです。

古くから人が住んでいたようです。












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彦坐王の棺のあった場所

2022-06-14 06:29:12 | 白山神社
春日井の白山神社に行ったときに、鳥居の左側に石があったのを思い出しました。

気になったので、出荷の帰りに行って確かめてきました。


鳥居をくぐり、確か、階段の前を左に行ったところです。

このあたりでしょうか?



案内があります

一番左に、

庚申=猿田彦の事ですね

右の方には

保食大神(うけもち)=アジサハヒメの事と思います

天王社の祭神は、スサノオと言われます。おいらの推測では、スサノオ=彦坐王です。


大国主(サホヒコ)は何処なのでしょう?

この中のどれかでしょうか?


それと、レイラインの測量技術者がいますね。

レイラインをきちんと調べ直してみましょうか。

途中の祠に行った時の、携帯の地図の画像は

これですね。

このあたりでしょうか?

多少の誤差はご容赦。


白山神社のレイラインは


どうです?ほぼピタリではないでしょうか?

地図の尺度を少し遠くするとよくわかります


こんなにも、きちんと場所が特定できるということは、ここで、倭姫が彦坐王の御霊を天叢雲剣に移した儀式を行った場所と断定していいのではないでしょうか?

そして、彦坐王の棺のあった場所もここと言う解釈で良いと思うのです。

レイラインを残してくれた測量技術者に感謝です。








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