たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

瑞龍寺山頂遺跡 ずいりょうじさんちょういせき

2018-06-24 15:51:04 | 神社

岐阜城のある金華山の南西に標高158mの瑞龍寺山があり、その山頂部に古墳の跡があります

地図です



金華山ドライブウエーの最終地点に車を止めると、展望台です



そこから見た瑞龍寺山




そこから、徒歩で5分で山頂に到着です。


中央に並ぶ岩の右側が第 1埋葬地で左側が第 2 埋葬地、前方後方墳とされ、時期は 100 年前後とのこと

邪馬台国と対立していた狗奴国(くなこく)の王の墓ではないかとも言われます。

狗奴国について調べても、諸説ありすぎて訳が分かりません。

これも、ぼちぼち調べていこうかな・・・



周りに樹が無ければ眺めは良いのでしょう

ドライブウエーの途中に見晴らしのいいところがあります。そこからの景色です


養老山脈の南端がわかります



東を見渡すと



このあたりを調べていて、非常に面白いことを発見しました。

ご紹介しましょう

まず、左下矢印ですが、金神社から直線を引きます


もう一方の場所は、彦坐王の墓とされている所です(実際は違います・・・断言!)
そのことについては後で。




全体を見ると



おまけ


きれいに並びます

彦坐王の墓とされている所から、冬至の日の入りを調べると


岩戸神社があります



ここは、おそらく物部の関係する神社と思われます。



もしかすると伊福部氏が建てたのかもしれません。←これ違いますね。たぶん



ですから、彦坐王の墓とされている所は、物部氏の、関係する人物の墓と思います。


おまけです

旧伊奈波神社からの冬至の日の出の先にあるのが、


琴塚古墳です。被葬者は景行天皇の后、五十琴姫命と伝えられます。





















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倭姫命その12、ふたたび、おばあちゃんの居た所

2018-06-18 06:50:11 | 神社


その4で、おばあちゃんが居た所を推理しましたけど、どうも違うような・・・

調べていくと、方県津神社にある古墳は、5世紀のものとか・・・

これが本当なら、おばあちゃんの古墳じゃないね。

しかも、神社は以前別の場所にあったと。

とすると、古墳はおばあちゃんこと、川上摩須郎女命と久美浜(京都府京丹後市)から一緒に来た

伊福部氏のものかもしれません。

ならば、何処がおばあちゃんの住んでいたところなのか?

方県津神社の由緒を見てみましょう

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
由緒

日子坐王一族はこの地方に深い関係をもち農耕、治山、治水に貢献された。日子坐王の皇子丹波道主命は、崇神天皇の朝命を奉じて、丹波(山陰地方)に赴かれ四道将軍の御一人で、別名彦多都彦命(伊奈波神社)という。その奥方が当式内社方県津神社御祭神丹波之河上摩須郎女命、その御子日葉酢比売命又その御子五十瓊敷入彦命は(伊奈波神社)妃淳熨斗媛命(金神社)、その御子市隼雄命(橿森神社)及び擁烈根命(県神社)である、岐阜市内の総神社の親神様に当る。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彦坐王(日子坐王)=丹波道主命  と思いますので、彦多都彦命(伊奈波神社)との意味は

伊奈波神社の最初の主は彦坐王と言うことになります。現在の主祭神は、孫の五十瓊敷入彦命に

なっています。

このことについては、すでに水石亭主さんがいろいろ検討されておられますので、詳しくは

そちら参考にしていただければよろしいかと思います。


とすると、倭姫命のおじいちゃんとおばあちゃんが住んでいたところは、伊奈波神社付近でしょうか?

現在の伊奈波神社は、斉藤道三が移動させたもので、それ以前は長良川のすぐ近くにありました。

地図です。中心の所がその場所です。




現在は、金華山の登山道の途中にあります。

公園の第3駐車場に車を止め、5分ほど





この上が、旧伊奈波神社です。


10分ほど、登山道を登ります



到着~♪



烏帽子岩です

神籬の場所でしょうか?


倭姫命の母の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は、このあたりで育ったのでしょうか?








すぐ北には、長良川が見えます



駐車場近くから見た岐阜城です。




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猿投神社

2018-06-05 13:44:43 | 神社

久しぶりの訪問

二の鳥居の横に駐車場があるんで、そこから、見た一の鳥居です


正面を向いて


本殿の左には滝があります



その奥にも


鳥居の正面から






以前、取り上げた養老元年の古地図が、出てきたと言われます。

でも、あれは養老元年(717年)ではなくもっと以前の時代の地形だと思います。

地図に書かれていた場所が、現在の地図ではどこだろうと思い、主なところを落とし込んでみました。




グーグルマップは張り付くかな?



元の地図はこちら


左上にある下福島は、伊久良河宮の近くです

真ん中の島にある、愛知県稲沢市下津新町は、尾張大國霊神社 国府宮の近くです

気になるのが、その左にある赤い丸で囲んだ「中島」と言う地名。

現在では、この場所にはこの名前の地名は見当たりません。

書き間違いでしょうか?

それとも、元伊勢で言われる中島宮は、ひょっとするとここにあったのでは?

そのことについては、後ほど書きたいと思います。



この古地図に書かれている地名は、かなり後のものと思います。

そして、海の高さも現在と変わらないようです。

津島は、海抜2mぐらいなので、ちゃんと書かれています。

この図は、ひょっとすると、猿投神社ができたころの地図ではないでしょうかね?

300年ごろの地形ならこのような感じになると思うのです。

我が家は、このころ海の底ですね・・・

1700年の間でこれだけ地形が変わるのかと思うとすごい驚きです。








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