たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

あけましておめでとうございます。

2020-12-31 16:20:39 | Weblog


ことしもよろしく~♪

雪が降ってます。初日の出は見られませんでしたね。

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荒尾南遺跡

2020-12-31 08:09:26 | 遺跡

現在は、東海環状自動車道のインターチェンジが出来ています。

こちら参考にさせて頂きました。

その中から、一部引用させてもらいます。

まず、船の絵を描いた土器が発見されたということ。

このような絵だそうです


両側に82本のオールが描かれている船の絵
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
絵画土器が作られた頃、弥生時代から古墳時代に移り変わる時期には、北陸地方南西部や東海地方西部に由来する土器が房総で急激に存在感を増すことがわかっています。おそらく、この土器に描かれた船の絵も、伊勢湾周辺から東京湾へと太平洋岸を渡ってきた文化の一つなのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

弥生時代後期の広口壺に、細く鋭い線で3艘の船が描かれているとのこと。



こちら参照させていただきました

弥生時代後期とすると、彦座王の頃か? 3艘の船・・・伊勢に行った時も3隻の船・・・偶然だろうか?

それはともかく、この時代にすでに大型船があったと考えます。

北陸地方南西部の土器は、やはり琵琶湖経由で大垣に入ったのでしょう。

この船で、大垣から熱田神宮経由で伊勢そして、関東へ移動したと思います。

関東は、諏訪にいる建御名方命(タテミナカタノミコト)が、開拓しているので

そちらと交易が盛んになったと推測します。








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伊久良河宮のレイライン

2020-12-30 14:52:10 | レイライン
元伊勢と言われる所です。




「倭姫が、伊賀、近江を経て、美濃の居倉に四年間留まられ、伊勢に遷宮された」と言われます。



倭姫は、ここから、船で伊勢まで行ったことになっていますが、ここから伊勢に行ったのは

倭姫ではなく彦坐王と、 狭穂彦(=伊勢津彦=大国主)でしょう。

船3艘とも言われます。



朝廷別王(佐田彦=猿田彦=少彦名  漢字は統一していませんあしからず)

は、おそらくここで生まれたと思います。

倭姫の母親の日葉酢媛(ヒバスヒメ)も、同じく生まれはここでしょう。

二人は、それほど年齢は離れていないようです。そのほかの兄弟が実在したかは不明です。

ですが、ここには神大根王とその母親である、息長水依比賣 (おきながのみずよりひめ)がいるので

その後、方県津神社付近に移動したのでしょう。


さて、レイラインです。

地図が少し違います。一番上に出した地図と、グーグルの地図は同じなので
この地図が違うのでしょう。ご了承願います。

そして、全体は


おみごと!


白髭神社です。こちらで取り上げています。



ということは、朝廷別王は、日本海より琵琶湖経由で、大垣に来て最初は、伊久良河宮付近に滞在。

神大根王と再会したのでしょう。

その後、レイライン上に白髭神社を建てそちらに移ったことになります。

そうすると、その時、方県津にいる母親には会っているのでしょうか?

少し妄想します・・・

方県津付近の地図です。



中心は、五社神社。その左にあるのが方県津神社。上にあるのが、諏訪神社。

諏訪神社付近に公園があります。ひょっとすると、そこが住まいだったかもしれません。

以前、なんで諏訪神社がここにあるのか不思議に思っていましたけど、 狭穂彦=伊勢津彦=大国主

そして、国譲りは伊勢のことと考えれば納得です。

はいっ、妄想を終わります・・・


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朝鳥明神その2

2020-12-29 07:51:17 | レイライン
もう一度、地図とレイラインを載せます





時間を考えると、当然、朝廷別王の亡くなった後。

場所は、彼が拠点としていた場所の一つである、大垣。そして、レイライン上の場所。

誰が関係しているかと言えば、レイラインを測量している技術者集団。

その集団とは誰か? それはわかりません。

それでも推測すると、朝廷別王の母親といっしょに丹波より(現在は丹後市久美浜町須田)やって来た

人たち、それを「伊福部氏」と言うらしいですけど、その中の技術者かもしれません。

航海するときに必要な航法として、星とか太陽、月の観測に詳しい人たちと推測します。

だから、水平線からの日の出、日の入りの場所がわかると考えます。

あまり伊福部氏については、詳しくは無いので、これくらいにしておきましょう。


レイライン上に、深川神社があります。

ここが、当時の技術者たちの拠点の一つかもしれません。

彼らが、なんだかの理由で大垣に住んでいて、そこから彦坐王と彼の息子である朝廷別王を崇める

場所を、レイライン上に建てた。それが、この場所ではないでしょうか。

せっかくですから、深川神社について、

深川神社のHPより引用

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

奈良時代、ここ尾張は、時の政権大和朝廷との繋がりを保つため、

宝亀2年(771)に朝廷・藤原氏縁の天津神(あまつかみ=天に住む神々)をこの地に勧請(神仏を分霊して祭ること)、創建した。

これが、延喜式(えんぎしき=延喜5年、藤原時平ほか11名の委員によって編纂された古代法典)に記されている深川天神の始まりである。

このため、この地にあった国津神(くにつかみ=地に住む神々)は追いやられ、天津神が崇められるようになった。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この国津神こそが、レイライン測量技術者の関係する人々の後裔と思います。

製鉄の技術者も居たのでしょう。

その、窯の技術が、その扱う素材を鉄から土に代えて、焼き物が盛んになったと推測できます。



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尾張、美濃のレイライン

2020-12-28 08:31:44 | レイライン

まだ作業中ですけど、おいらが調べたレイラインのある所を地図に載せています。

正確な場所ではありませんけど、何かの役に立つかもしれません。

  ↓ こちら、たぶんクリックすると繋がると思います。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1ZNMIe6ojErogFKcK2ttxKUWslkBrZZmo&usp=sharing

尾張、美濃のレイラインをまとめてみました。


おいらが調べた中で、朝廷別王の関係する、一番最初のレイラインは何処かと考えたら、なんと以外

糸魚川付近の、小滝翡翠峡から小滝 諏訪神社のレイラインです。


美濃のレイラインは、かなり古いですね。でもあれは、目視の可能性が高い。

そして、時代が違います。



糸魚川のレイライン以前にもまだあるかもしれません。

でも、尾張よりも糸魚川の方が早いとは驚き。


諏訪付近とか関東、それに出雲はまだ調べていません。

距離があるので、なかなか出かけられませんね。

地理も詳しくなけりゃ、レイラインは見つけられないですし・・・

だんだんと難解になってきます。でも楽しいですけどね。

糸魚川のレイラインは、見つけたときには感動しましたね。

他のところも、発見した時には、驚きがいっぱいです。
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白鳥塚古墳

2020-12-27 09:25:01 | レイライン
前回に引き続きます。

もう一度全体のレイラインを見てみましょうか


大碓命墓を、朝廷別王の墓とすると、白鳥塚古墳は誰が埋葬されているのでしょうか?

白鳥塚古墳の築造時期の報告にはばらつきがあります。4世紀 前半~後半とあまり、はっきりしないようですね。

埴輪が出土していないとのこと。ならば、4世紀前半の可能性があるのかな?

ここを、彦坐王の古墳とすれば、埴輪はヒバスヒメが最初とされていますので、父親である

彦坐王の古墳には、埴輪が無くても当然です。

年代的にも、彦坐王の生誕は、230年頃、60歳で亡くなれば290年、それから古墳完成に

10年かかると300年。かなりいい線ではないでしょうか。

以前にも書きましたけど、彦坐王の死後、最初は東谷山山頂の尾張部神社古墳に埋葬され

その後、白鳥塚古墳の完成後そちらに移されたと推測します。殯(もがり)ではないかと思います



実は、初めての訪問なのです。

少し前に、駐車場が出来たのでようやく訪問することが出来ました。

後円の部分です


古墳に上ることが出来るのですね




読めますかね?二つの埋蔵施設が東西に並んで存在する可能性が指摘されているそうです。

どういう意味でしょうね?

いろいろ想像は出来ますけど、分かりません。



こちらは、前方の部分



周りが低いですけど、ここの土を盛ったのでしょうか。

後から気が付いたのですけど、前方から後円を見た先が東谷山山頂古墳の方角なのでしょうか?

それっぽいですね。今度訪問した時に確認したいと思います。


さて、レイラインを考えると、大碓命墓(朝廷別王の墓と考えます)は、

夏至の日の入りのレイラインが白鳥塚古墳を通る場所に作られたと考えていいでしょう。

その後、白鳥塚古墳に移されたのかどうかはわかりません。

「二つの埋蔵施設」と言うことが引っかかります。

でも、青塚古墳に埋葬された可能性も大いにあります。


青塚古墳の場所です

おいらは、こちらが朝廷別王(=佐田彦=猿田彦=少彦名)が埋葬されている

古墳と思うのです。

そうでなければ、ほかにだれが埋葬されているのか、ふさわしい人物が浮かび上がらないのです。

不確かですけど、名前に「別」と言う字がつくと、天皇になれないという意味があるとか。


裏を返せば、それだけの権力が備わっていたと解釈できます。














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朝鳥明神

2020-12-25 13:49:17 | レイライン
大垣の神社をあれこれ探していたら、不思議な神社を見つけました。



詳しいことはこちらを参考にさせてもらいました

冬至の日に祭礼が執行されるようです。

神社の駐車場に到着~♪ 普通の鳥居とは少し違いますね


反対の南の方を見ると

冬至の日の出は、画像右端あたりかな?木にさえぎられて見えません





奥へ進みます



しめ縄をまいた岩がいくつもあります



これ以上は奥に行けません


これが本殿でしょう。この向きが冬至の日の出の方向と思われます。




神社からは冬至の日の出の方向は木にさえぎられて見えませんので

少し離れた見晴らしのいいところで、その方向を見てみます


画像の右寄り、屋根と屋根の間付近が冬至の日の出場所のようです。


何もわかりませんね・・・

それでは、レイラインを調べてみましょうか

参考にさせて頂いたHPにも書いてありましたけど、白鳥塚古墳からのレイラインがあります。

ということは、大碓命墓からのレイラインです。

まず、大碓命墓の場所です



マーカーをなるべく正確な位置に合わせて・・・


行ったことがあるので、かなり正確と思います。

そして、

ほぼ、ピッタリ!



こちらも、数メートルの誤差があるようですけどほぼピッタリ。

全体です


ちなみに、大碓命墓からこの朝鳥明神までの距離は65kmです。

とても目視できる距離ではありません。

それでも、誤差がほとんどない測量をしているということを認めないと、この測量集団のことを理解できないでしょう。

何人で測量しているのだろう?

ふと、しめ縄をまいた岩の数だろうか?7~8くらいあっただろうか?

それが、この集団の人数?

そもそも、大碓命(オオウス)の墓と言うのが怪しいですね。

大碓命については、ウィキペディアを参照。

おいらは、ヤマトタケル(日本武尊/倭建命、小碓命)も、大碓命も実在しないと思います。


大碓命の墓がある、猿投神社の「猿」は猿田彦の「猿」でしょう。



もっと言えば、猿田彦の呼び名は「佐田彦」(さたひこ)から来ているとも言われます。

さたひこの(さ)は、ウェブで検索すると、「サの神」と出てきますけど、

ヘブライ語では、 「前に進め」と言う意味だそうです。(日ユ同祖論ある程度信じてます)

さて、それはともあれ、大国主=伊勢津彦=狭穂彦(さほひこ)ですが、何かお気づきになりませんか?

そう、「さほひこ」と「さたひこ」「ほ」と「た」の違いだけ・・・

「さ穂彦」と「さ田彦」がある程度、本来の意味に近いのでは?

どちらも、稲に関係します。二人は、母親は違いますけど、父親は同じ「彦坐王」です。

父親が名付けたのかもしれません。もしくは、朝廷別王が、さ穂彦にあやかってつけたのかもしれません。

猿投神社の主祭神は、大碓命。

大碓命が主祭神とされたのは近世以降で、

それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など諸説があったようです。

おいらは、大碓命=猿田彦=帝別王と思います。


さらに、「すくなびこな」も、朝廷別王でしょう。

大縣神社をウィキペディアで調べると、主祭神が少彦名命(すくなひこなのみこと)とする説があるようです。

やはり!ですね。。。

いろいろと書いているうちにずいぶんと長くなってしまいました。

いったん、終了しましょうか。

次では、さらに、レイラインの意味するところを検討したいと思います。






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昨日は冬至でしたね

2020-12-22 07:46:24 | レイライン
昨日の夜、いつが冬至か調べてみようと思いIPHONEのSiriに聞いたら「今日です」と言われた。

カボチャも柚子も用意してないなぁ・・・

そうそう、このブログもうだいぶ前から書いてるんだなぁ



今日で、5432日目だそうです。

始めたのが、2006年の02月7日・・・歳をとりました。。。

せっかくだから、レイラインのことを書きましょうか。

最初のころ、冬至の日の出の反対は、夏至の日の入りと思っていました。

でも、実際には、少しずれます

なぜか?



たぶん、こういうことだと思います。違ってたらごめんね。。。

ですから、レイラインを見るとき何処から見たものかが重要になります。

その意味がもう少し分かるようになればいいのですけど、残念ながらまだ分かりません。

誤差の少ないレイラインは、時間をかけて何度も修正をしているのかも知れません。

これも、想像するしか今のところ手立てがありませんけど

何の気なしに始めたレイライン探しですけど、これだけ広範囲に広がるとは想像しませんでした。

当時の、測量技術者に敬意と感謝を送りたいですね。
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南宮御旅神社

2020-12-21 11:15:03 | レイライン
大垣付近には、白髭神社が多くあります。

朝廷別王(みかどわけのみこと)=猿田彦として話を進めていきたいと思います。


大垣にある白髭神社の最初の場所は何処なのか?

当時は、海が大垣のあたりまであったようです

そのことを考慮して調べていくと、ここに行き付きました。










昼飯大塚古墳

西850mぐらいにあります。

昼飯大塚古墳のレイラインを見てみましょうか


宗慶大塚古墳からの冬至の日の入りのラインの上です。

宗慶大塚古墳を、神大根王(カムオオネ王)の墓とすると、その子に当たる人物の可能性が高いですね。

さらに、宗慶大塚古墳のレイラインは、東谷山の山頂を通ります。


このことから、宗慶大塚古墳を、神大根王(カムオオネ王)の墓としてもいいのではないでしょうか。

神大根王は、朝廷別王より10歳ぐらい年上と推測します。

朝廷別王は、大垣で生まれているので、二人は面識がある、もっと言えば一緒に育った可能性があります
さらに、狭穂彦王は、ここから伊勢に出発しています。


猿田彦となった朝廷別王は、大垣を拠点とする理由は十分あると考えます。

この、白髭神社は、大垣における朝廷別王の本拠地だったのでしょう。


そしてさらに西に3.5kmぐらい行くと、南宮御旅神社と白髭神社があります。





正面右側が南宮御旅神社 左側が、白髭神社

ここは、南宮神社の元の場所と言われます。

ここの白髭神社は、後に出来たようです。

さて、この南宮御旅神社のレイラインを調べたら


驚きですね。

どういう関係なのだろう?

想像がつきません・・・



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佐波加刀神社

2020-12-20 17:24:51 | 神社
猿田彦は琵琶湖から、どのようなルートを通って大垣まで行ったのか?

以前書いた「佐波加刀神社」から杉野川を遡るルートは、そこにある多くの神社の年代が、

いずれも猿田彦の時代よりも、少し後からできたようなのです。

かなり期待していたのですが、空振りのようです。

せっかくなので、画像を載せましょう。

佐波加刀神社(さわかとじんじゃ)


御祭神
日子坐王  大俣王  小俣王  志夫美宿禰王
沙本毘古王  袁邪本王  佐波遲比賣王  室毘古王

沙本毘古王(さほひこ)が祭神になっているところは少ないのです。



「本社は元、百聞山に御鎮座ありしを天平年間現在の 地に遷座す。」 とのことですけど、

百聞山が何処にあるのか分かりません・・・






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