たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

熊野本宮大社

2024-05-01 14:07:00 | 神社




詳しい創建年代は不明であるが、社伝によると崇神天皇65年に熊野川の中洲、現在の大斎原(おおゆのはら)の地に創建されたとされている。



本殿は、写真を撮ってもいいのですけど、SNSなどには載せてはいけませんとのことです。

なので、画像はこれだけですね。

崇神天皇65年という年代が、気になります。

256頃に、崇神天皇即位なのでそれに65年の半分の32.5年をプラスで、おいらの年表に当てはめると、288.5年ごろになります。

291年ごろには垂仁天皇即位です。あくまで、おいらの年表ですけど・・・

つまり、崇神天皇が亡くなったころということになります。

本牟智和気命(ほむちわけのみこと)が、出雲に行っているのが295年ごろ。

その年のすぐ後に、倭姫がサタヒコのところに行っています。

何が言いたいのかというと、「神武東征」とかぶるのです。

それを調べようとして、あちこち行きました。

でも、まだまだ分からないことが多いですね。









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潮御崎神社

2024-05-01 10:33:10 | 神社

本州最南端です。中央に見えるところがその場所です。(オゴクダ浜から撮影)



有料駐車場から少し歩きます。









ようやく訪問することができました。

以前このブログで、「少彦名命(すくなひこなのみこと)」
に、いろいろと書いてます。参考にしてください。

画像を撮ることを忘れてしまいましたけど、隣に鎮守社として高皇産霊尊が祀られています。

上の画像の左側に少し写っていますね。

この左側には、天照大御神、大己貴命、猿田彦命を祀った祠があります。

おそらく、高皇産霊尊は、彦座王(サタヒコの父親)

そして、天照大御神、大己貴命は、サホヒコ

猿田彦命は、サタヒコ 本人ですね。

たしか、鳥居付近だったと思いますけど、そこから少し小高いところにも祠がありました。



行ってみると、金山彦命が祀ってあります。

おいらは、 金山彦命は、サタヒコとアメノウズメの間にできた子と思います。

ここに祀られていることで、その推測の可能性が高くなったなと思いますけどいかがでしょう?

神社から戻ると、灯台があります。これも画像を忘れました・・・




灯台の上から「静之窟」の場所を探しましたけれど、わからない



違う方向を探していました。もう一度、オゴクダ浜から撮影した画像を見てみましょう。


こちら側にあるようです。降りていく道があるようです。次回ですね。




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熊野速玉大社

2024-04-27 15:47:45 | 神社


熊野速玉大社

HPより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神倉山と新宮
 「熊野権現御垂迹縁起」(一一六四年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
初めは、二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代の初めには現在のように十二の神殿が完成しました。
日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。 十月の例大祭では、お旅所に新宮の由来となった最初の宮である「杉ノ仮宮」を造り、古式に則って神事が行われます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





とてもきれいなところです。


巨木があります







しめ縄が気になります



この作り方参考にしよう。できるかな?



この後、近くの、猿田彦神社・神倉三宝荒神社に行こうとしましたが、道が狭くて断念しました。

時間があったら徒歩で行きたいですね。もう一度来られるかな?






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石切劔箭神社上之社

2024-04-27 15:06:53 | 神社




祭神
饒速日尊(にぎはやひのみこと)
可美真手命(うましまでのみこと):饒速日尊の御子
「石切大明神」と総称される。


ここに来るまでの道が狭いんです。古道らしい。古いところは、何処もそうなんですね。



大阪の中心部でしょうか

当時は、この少し西まで海だったようです。






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高蔵神社

2024-04-17 08:06:06 | 神社

訪問した時は、桜がきれいでした。。。



都美恵神社から、15kmほどです。



階段を登ると


2本の杉が出迎えてくれます


樹齢は、500年以上でしょうか?久しぶりの巨木です。



祭神は、倉庫・延命長寿の神である高倉下命(たかくらじのみこと)

この神様がよくわからない

色々調べてみます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祭神は「高倉下命」で神武天皇の窮地を救った神様。
尾張にある熱田神宮の摂社「高座結御子神社」に祀られている尾張氏の祖である。

この地域は高倉下命の七代の後の子孫「倭得玉彦命」がこの地に移り住み氏神を祀ったことを起源とし、自信の氏神を祀った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
記紀によれば、東征中の神武天皇は熊野で悪神の毒気により倒れたが、高倉下が剣を献上すると覚醒したとされます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
社伝によると、高倉下命より七代目の子 倭得玉彦命(ヤマトエタマヒコノミコト)が伊賀国に一族とともに移住してきた

倭得玉彦命が祖神である天香語山命を祀ったとするのが当社創建由緒。

垂仁天皇の御宇(帝王が天下を治めている期間)とし、貞観三年(861年)に従五位下の神階を授かる国史顕在社である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで、おいらが作った家系図を見てみましょうか


一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 
七御子・建諸隅命 (川上摩須)   
八御子・倭得玉彦命  (日本 得 魂 命)=天之御影神=天目一箇神 
       妹が 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)ーーーーーーー彦坐王             
                               ↓                 
                             サタヒコ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここにやってきた人は、サタヒコの母親の兄弟でしょうか。

垂仁天皇は、306年ごろに亡くなっていると思います。

倭姫が伊勢に行ったのは、297年頃と推測しますので、

その間に日本 得 魂 命はここにやってきたことになります。













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都美恵神社 その2

2024-04-17 05:03:00 | 神社
前回、伊勢津彦(=サホヒコ)は、美濃に行くとき以外、ここに来ることはなかったと書きましたけれど、

そうではなく、伊勢にいるときに、彼の生まれ故郷である奈良に行くことがあったのではないだろうか?

そうすると、このルートを通って、都美恵神社に滞在しているかもしれない。

その時には伊勢の辰砂を持って行ったと考えるのは妥当でしょう。

それを、崇神天皇が知り、辰砂を自分のものにしようと、伊勢の乗っ取りを考えたのかもしれない。


由緒をもう一度見ましょうか

 都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないか と思われる。
我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族) がこの柘植へ移住してきたことは、
伊勢風土記逸文に「伊 賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、
又の名 は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城 を造り、其の地に坐しき、
ここに阿倍志彦の神、来り集い 勝たずして還り却りき。

伊勢津彦が、ここに滞在したのは、270年~280年ごろと推測します。

都美恵神社の起源は、そのころでしょう。

でも、中継地点としての機能はすでにあったと思います。



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都美恵神社

2024-04-10 08:48:40 | 神社





彦座王、サホヒコが奈良から美濃に来た道は何処だろうと思って地図を見ると、

木津川、柘植川、加太川、鈴鹿川を通ったのではないかと思い確認のため出かけました。



このルートでしょうか?

青い線の右端には、鬼太神社があります。

そこから西に向かうと、都美恵神社があります。






久しぶりの訪問です。







御由緒
 都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないか と思われる。
我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族) がこの柘植へ移住してきたことは、
伊勢風土記逸文に「伊 賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、
又の名 は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城 を造り、其の地に坐しき、
ここに阿倍志彦の神、来り集い 勝たずして還り却りき。
因りて名を為しき云々」とあるこ とからも、霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた 神であることは事実のようだ。
 この神社のもとの名は穴石(穴師)神社又は、石上明神 ともいって上柘植村の産土神として祀られていたが、
寛永 二十一年(一六四四)大洪水の為社地欠損甚だしく、正保三年 (一六四六)今の地に移されたことは、
種々の古文書から明ら かであるし、
その時の社殿造営の棟札(式内社 正保三戌 年八月二十七日)も町文化財として今日残されている。
 この神社の祭神は栲幡千々比売命、布都御魂命、布津主命外三十三柱となっているが、又他の一本によるともとの 祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。
 都美恵の社号については、一村一社の合祀(明治四十二 年四月)後、大正十一年七月に現社号に改称されたもので 倭姫世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略、二所皇太神宮遷幸要略等 にある「敢都美恵宮」から「敢」をとって撰定されたもの で、
即ち都美恵は柘植の古語であり神宮縁りの地でもある。
 こうした由緒のある宮をわれわれの産土神として末永く 祀りつぎたいものだと思う。
村主 種次郎 記



この中で、伊勢津彦の名前が出てきますよね。石で城を作った場所がここだとは今まで気が付きませんでした。

でも、伊勢津彦=サホヒコは、いつ頃ここにやってきたのだろう?

美濃に行く途中、ここを通ったとは思いますけど、そのとき彼は、10歳ぐらいなので城を作ったのはその後のようです。

というよりも、彼が城を作ったという話は本当だろうか?

彼の足取りをしらべても、この地に来ることは考えにくいのです。

さらに、「もとの 祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。」とありますが、彼女はおそらくサタヒコの母親でしょう。

そうすると、石の城はサタヒコが作ったのでは?

神社は、それ以前からこの地にあったと思いますけど。












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鏡作坐天照御魂神社

2023-04-30 06:51:11 | 神社


一の鳥居の画像を撮ること忘れました・・・

少し歩いていくと


そこには








三角縁神獣鏡の画像でしょうか?


拝殿


裏に廻ると本殿


祭神は、天火明命

手前が、石凝姥命

向かって左が、天糠戸命


祭神については、水石の美を求めてを参考にさせて頂きました。

丹後半島のレイライン その 27 八咫鏡でも少し取り上げています。参考にしてください。



三角縁神獣鏡はここで作られたのでしょうか?そう思って訪問したのですけど、

いろいろ調べていくと、訳が分からなくなりました・・・

八咫鏡のコピーがここで作られたとのこと。

そうすると、時代はサタヒコ達の頃の後になります。













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二拝二拍手一礼

2022-07-27 06:58:18 | 神社
ネットで、ある所を見ていたら、「二拝二拍手一礼」は、平成になってから広まった作法。と書いてあった。

なるほど、そういえばそうかもしれない。

さらに、二礼二拍手一礼は、神職の作法であり、玉串奉奠に伴う作法だそうです。

そういえば、氏子総代の時に榊をお供えしたことがあったなぁ。あれが、玉串奉奠なんだろうなと。

柏手は、神社によっても違うようです。

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出雲大社や宇佐神宮、彌彦神社では「四拍手」である。

伊勢神宮や熱田神宮での神事では「八度拝、八開手」となっている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それはともかく、二拝二拍手一礼の作法は、かなり昔からあるのかもしれない。

このような事は、時間がたつにつれ複雑になっていくのが恒例。

二拝二拍手一礼は、わりとシンプルなんで、原型に近い作法と勝手に解釈したうえで

少し妄想をしてみましょうか。。。へへ

まず、何処から広がったのか?

これは、伊勢神宮と考えるのが適当か?すると、最初は、倭姫と言うことになります。

次に、二拝二拍手一礼の「二拝」は、誰にお辞儀をしているのだろうかと言うこと。

良くわからないので、とりあえず、倭姫のおじいちゃんとおばあちゃん、つまり

彦坐王と、川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)この二人おいらの解釈では

スサノオとクシナダヒメです。

二拍手はだれか? 倭姫が御霊を宿した鏡と勾玉の主である、大国主と、保食神

つまり、これもおいらの推測ですけど、伊勢津彦=サホヒコと、アメノウズメ=アジサハヒメ

最後の、一礼は、サタヒコでしょう。

ここで一つ疑問が出てきた。クシナダヒメの御霊はどうやって伊勢に来たのか?

サタヒコは、間違いなく母親の御霊も何かに宿らせて伊勢に連れてきているはずです。

ここで思い出すことが、櫛田川の事です。

調べてみると、神話がいろいろあります。

そのなかの一つを見てみましょうか

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「竹田の国」(現在の松阪市櫛田町)と呼んでいた地で頭に飾ざしていた櫛を田に落とされたそうです。それを津あたりから伊勢志摩方面までを道案内されていた大若子命(おおわくごのみこと)が拾われお届けになられたそうです。
 「倭姫命」は、喜びと感謝を込め、その地を「櫛田」と名づけ、櫛を拾われたところに社を建て、大若子命に櫛田神社の祭神となるよう命じられたと伝わっています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

田んぼに落としたのなら、自分で拾えるだろ?

他にも、池に顔を写して化粧をするときに落としたとかとにかく、落とすことになっていますけど・・・

両方とも、櫛田川沿いの場所です。この川を遡ると、辰砂が採れる「丹生水銀鉱」にたどり着きます

推測するに、美濃の方々津神社に眠るサタヒコの母親の御霊も倭姫により「櫛」に移されて

伊勢に来ているのではないでしょうか。

そして、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と一緒に保管されているのでは?←妄想です。













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今年のしめ縄

2022-07-25 05:39:04 | 神社
毎年恒例です。しめ縄つくりやって来ました。

ここ数年で、今までしめ縄を作っていたお年寄りがおられなくなりました。

なので、作り方を知ってるのは、おいらともう一人だけ。

若い人に覚えてもらって、絶やさないようにしたいものです。

とりあえず我が家で、一つ準備しました。

これに藁を入れて巻いていきます。

それを3つ作り、よりをかけながら、ねじっていきます。

なかなか初めてだと、上手にはいきませんね。

まあ今年のしめ縄はこんなところです。



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猿田彦その 20 諏訪神社

2022-01-04 14:13:23 | 神社


方々津神社の近くです。



後で気が付いたのですけど、神紋がここに写ってますね。

諏訪大社は梶ですが、上社は根が4本の「諏訪梶の葉」

下社は5本の「明神梶の葉」と分かれているそうです。

この画像からはそれが分かりませんね。来年覚えていたら気をつけてみよう。


結構きつい


本殿

摂社末社がたくさんあります




サホヒコ=伊勢津彦=大国主は、ここに住んでいたのじゃないかな?

神社は、後から出来たのでしょう。

鏡があるそうですけど、どんなのかは分かりません。


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猿田彦その 18  尾張戸神社古墳

2022-01-02 16:58:37 | 神社
元日の午前中には、尾張戸神社に行きました。ここんところ、お正月恒例です。



尾張戸神社の大麻を頂いてきます。


以前にも書きましたけど、すれ違う人のほとんどが、「おめでとうございます」とあいさつをされるのです。

それも楽しみの一つですね。

でも、ここは標高198m。息を切らして登ります。途中で、後ろから足音が・・・

あっという間に追い越されました・・・若い女性でした

彼女、息も乱れてなくすいすいと登って行かれました。完敗ですね。。。

境内では、火が燃やしてあるのでそこで暖をとりながら氏子さんからいただいたみかんを

食べて一休みです。

神社の説明が書いてあったので、読んでみると、

「頂上の古墳は、白鳥塚古墳と同時期の4世紀前半の築造とされる」と書いてあります。

いろいろな説がありますけど、4世紀前半ならば、サタヒコが伊勢に行った後に

彼が作ったものと思います。

山頂の尾張戸神社古墳は、白鳥塚古墳が完成するまでの間の古墳でしょう。

彦坐王の亡くなったのは、280年頃です。

そのころ、前にも書いたように、垂仁天皇(この時点ではまだ天皇ではありませんね)が、

美濃まで勢力を伸ばしているときには、きちんとした墓を作ることが出来なかったと推測します。

じゃあ何処に彦坐王の墓があったのでしょうか?

その候補地とされるのが、高座神社に行く途中の祠のある所ではないでしょうか。

画像が無いですね。そこからの景色がこれです

この後ろに、祠があるのです。

そこが、彦坐王の最初の墓の場所ではないだろうか?


サタヒコが、16歳ぐらいで父親の彦坐王が亡くなっています。(280年頃)

その後、302年に倭姫を伊勢に連れて行っています。

305年頃に伊勢から帰っています。その頃に尾張部神社古墳が出来たのではないでしょうか。

白鳥塚古墳は、同時進行で築造されたのかもしれません。

そう考えると、違和感がないように思います。















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大縣神社奥宮

2021-11-07 13:30:21 | 神社


昨日、行ってきました。奥宮については、すでに、このブログに書いてありますけど、もう一度。。。

本殿から約400mほどで鳥居です。

そこから、結構きつい坂を登ります。

サタヒコもここを登っていたんだな~と思いながら歩くとなかなか楽しいです。


ちょうど、この写真を撮った所に座るのにちょうどいい岩があります。

サタヒコもここに座っていたのだろうか?それとも、何か宗教的な岩?

その岩と、ご神体の磐座とを結ぶ線より左に少しずれて祠があります。



この祠の場所は、後から決まったのでしょうか?


ご神体です。





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伊冨利部(いふりべ)神社

2021-09-18 16:29:17 | 神社




行ってきました




以前は、この先700mに一の鳥居があったそうです。


御祭神  
若都保命(わかつほのみこと) 
応神天皇(おうじんてんのう)





伊冨利部天神社創建
延喜式(905~927年)神名帳に葉栗の一座伊冨利部天神と記載されている所謂式内社で、当地の豪族伊福部一族が祖神である若都保命を創祀したのが起源である。創建年月は詳らかではないが、延暦13年(794年)~弘仁元年(810年)のおよそ1200年前に創建されたものと思われる。若都保命は天孫瓊瓊杵命の御子なる天火明命九世の御孫、弟彦命の御弟神に座します。延喜式神祇巻九に葉栗群十座の内伊冨利部神社、本国帳に従三位伊冨利部天神と載録されている。


円墳です


古墳の上にも祠があります





神社の周りは川?




稲荷もありますね。


きれいです









福徳龍神社

手力雄神社にも祭られています。

おそらく、サタヒコと思います。

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伊富岐神社

2021-09-12 15:33:44 | 神社


行ってきました。



もう何度も訪問しています。



でも、きちんとした時代背景を知った上で訪問するのは一味違いますね。


本殿



右が境内社との説明がある神社です。摂社と呼んでよいと思います。


こちら向かって左側の摂社


巨木も素晴らしいですね。
でも、これって合体木かもしれない。
信長の時代にすでに大木だったようなので、そうでないかもしれない・・・
巨木が枯れた後に合体木を植えたとか・・・いかん、分からなくなってきた・・・


入り口にも境内社が

近づいて


残念ながら、本殿、摂社ともに近くには行くことが出来ませんでした。


帰りには、昼飯大塚古墳に立ち寄りました


そこから見た、金生山。削られている山がそうです。

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