(お詫び、一度投稿したのですけど、古い時代の天皇は、1年に春と秋に1歳ずつ年をとるようで、
つまり1年に2歳カウントするみたいです。それを訂正していなかったので少し矛盾が出ました。
再度、計算しなおしてUPしました。前回の数字と今回の数字が違うことご了承ください。)
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伊勢神宮は、いつごろ伊勢の地に行ったのでしょうか?
このようなことについて調べようとすると、いろんな説が出てきてなにが本当かわからなくなります。
調べ始めて、そろそろ1か月になりそう・・・
まあ、誰も本当のことはわからないのでしょうけど・・・おしまい・・・← と、これでは心もとないので
いろんな説を参考に、おいらの都合のいいように解釈してみようと思います。← 心もとない・・・
古事記には、伊勢神宮についてのことは、ほとんど出てこないようです。なんでだろう?
もう一度、倭姫命の系図を見てみましょうか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/4f/47e72a8fb3ed301da44f5aecebef935a.jpg)
このころの年代は非常に複雑なのです。天皇の寿命が100歳超えたりするのです。
春と秋に1歳ずつ年をとる、つまり、1年に2歳カウントすることもあったり、
なんだかの都合で意図的に操作したりと、これも資料が多くておいらでは、手に負えません。
幸い、このことについて訂正を試みておられる方が何人かおられるので、その中から一つ
訂正した年表を参考に考えていこうと思います。
こちらhttp://takiren.sub.jp/kodaisi02htm.htmの表から引用すると、
崇神天皇崩御は290年、垂仁天皇は307年、景行天皇は336年(西暦)だそうです。
開化天皇の崩御の年が、記されていないので、日本書紀の崩御の干支を調べました
日本書紀の崩御年の干支は、開化天皇 癸未 そして、崇神天皇は、辛卯
その差は、34年。これは、1年で2歳年をとるということを修正してあります。
少し強引かもしれませんけど、
この数字を使うと、崇神天皇即位は256年となります。
何かほかに年代を特定するものがないか、調べました。
いろんな説盛りだくさんです。
そこで見つけたのは、三角縁神獣鏡についてです。
この鏡、最初のころは、魏の王朝が卑弥呼に下賜したものと言われたようですけど、最近では
日本で作られたものと言われます。
卑弥呼が魏から貰った鏡は、景初三年(西暦239年)に百枚と、
正始元年(西暦240年、枚数不明)の二回だそうです。
この年代が偶然なのかどうかはわかりませんけど
三角縁神獣鏡の制作年代と重なるのでいろいろな説が出てきていると推測します。
三角縁神獣鏡の中には、景初三年という年号が書かれたものがあるらしいのです。
それについては、こちらhttp://home.b06.itscom.net/kodaishi/page026.htmlが詳しいと思います。
なんでも、鏡に作者とみられる人が書いた文字があるそうです。
内容は、「 景初三年に陳(製作者の名前)は鏡を作る。自ら経歴を述べれば、本は京師(呉の
領域の揚州の京城に住んだ作鏡師)であり、亡命して杜地(とじ)に至る。」
と書かれているようです。 杜地とは、塞がれた行き止まりのような場所とのことで、
日本のことだろうと解釈されるそうです。
こちらも参考になります。http://yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm
景初三年は、西暦239年です。
しかも、「景初四年」https://www.nagaitoshiya.com/ja/2014/bronze-mirror-ancient-japan-debate/という年が書かれている三角縁神獣鏡があるそうです。
「景初四年」という年は改元されて「正始元年」となったとのこと。
「景初四年」という年号は実在しないとされます。
このことからこの鏡を作った人は改元されたことを知らなかったと言われます。←これも諸説あります。
このようなことから、この鏡を作った人は、日本にいた可能性が高いとされます。
三角縁神獣鏡は、ヤマト政権下に組み込まれた各地の首長たちに配布されたもの
と考えていいと思われます。
そのために、500枚以上の数を作ったようです。
そう考えると、西暦239年(景初三年)ごろ、三角縁神獣鏡は作られ始め、間もなく配布され始めたと
考えられます。
四道将軍の派遣の時にも当然配布されているのではないでしょうか。
崇神天皇即位が、西暦256年とすると、四道将軍は崇神10年10月に派遣されてます。
前回はこれを、そのまま10年として計算してしまいました。
たぶん、崇神10年は、1年を2歳でカウントした数字と思いますので256年に5年プラスして
西暦261年となり、鏡を作り始めてから22年目、これをどう考えるかですよね。
まあ、そこそこいい数字かなぁ? おいらは、もう少し短いと思っていました
さて、四道将軍の派遣は翌年262年で終わっているようです。
その年に、四道将軍のひとりである、
丹波道主命=彦坐王 (第9代開化天皇の第三皇子、倭姫命のおじいちゃん)は、派遣先の丹波で
「丹波之川上之麻須郎女」(倭姫命のおばあちゃん)を妻としたとおもわれます。
おばあちゃんの実家はこのあたり
とすると、その娘である日葉酢媛命(倭姫命の母)は、その後15~20年ぐらいで
垂仁天皇の后になっていると推測します。
仮に15年とすると、西暦277年ですね。
倭姫命は、垂仁天皇の第4皇女ということですけど、本当はよくわからないようです。
まあ、プラス5年の年に生まれたとして、282年生まれということにしておきましょうか。
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日本書紀では、垂仁25年に、天照大神を祀っていた豊耜入姬命から倭姬命に変更し、天照大神を五十鈴川へ移す。
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とあります。
この時代1年に2歳年をとるということから、垂仁25年は290+12.5となり、西暦302~3年
倭姬命が、旅立った時の年齢は、282年生まれとすると、303ー282で、21歳。
自分でも驚いています。こんなにもぴったりした数字が出て来るとは。。。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/65/6ceacbacb9794cca8ea633128b3cf940.jpg)
PS 訂正です。コメントにも書いておきましたけど
表で、丹波之川上之麻須郎女を妻とした年が
267年になっていますけど262年が正解ですね
さて、この先は、おいらの妄想になります・・・
倭姫命世記では、倭姫命は、天照大神を載いて長い年月をかけ、元伊勢を旅しながら
現在の伊勢の地にたどり着いたとされていますけど、
倭姫命世記というのは、後に作られた伝説と言われますので、無視して、
実際は、それほど長い日にちはかからなかったのじゃぁ?
母親の実家である美濃から、船に乗って伊勢に向かったのでは?
当時は、美濃の南側は海面上昇により陸地が少なかったようです。
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ps これ間違いです。海面の高さは現在とほぼ同じです
海面が現在より3m上昇した時の様子です
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/3f/97efd82f7130cf9d4462efde39c972fb.jpg)
ps 川から流れてきた土砂が、堆積して陸地を作るのですけど、およそですが
1700年前の様子を考えるには海面が3m上昇した時の場合が参考になるかと思います。
美濃から最初に船に乗って伊勢に行ったのは、おそらく彦坐王の率いる部隊でしょう。
彦坐王も行ったかもしれません。
何を目的で行ったのか? 丹生水銀鉱の水銀を求めて、仲良く掘らせて・・・ではなく
おそらくは、武力でぶんどりに行ったんでは?
その時の、中継点が後の神社になったのではないでしょうか。
とすると、伊勢神宮の最初は、もっと早い時期になると考えます。
四道将軍の派遣で、丹波に行ってきた彦坐王は、奈良にもどったその後、美濃に来ているので、
西暦260年代かもしれませんね。
余談ですけど、遠征から帰ったらまたすぐにほかの場所に出されるという話は、
ヤマトタケルの話と似てるななどと思ったりします。
話を戻して、最初の伊勢神宮の場所も、今の所ではないでしょう。
次回は、場所について妄想してみたいと思います。