たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

倭姫命(やまとひめのみこと)その3、倭姫命は何歳?

2018-02-22 05:38:04 | 神社

(お詫び、一度投稿したのですけど、古い時代の天皇は、1年に春と秋に1歳ずつ年をとるようで、

つまり1年に2歳カウントするみたいです。それを訂正していなかったので少し矛盾が出ました。

再度、計算しなおしてUPしました。前回の数字と今回の数字が違うことご了承ください。)




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

伊勢神宮は、いつごろ伊勢の地に行ったのでしょうか?


このようなことについて調べようとすると、いろんな説が出てきてなにが本当かわからなくなります。

調べ始めて、そろそろ1か月になりそう・・・


まあ、誰も本当のことはわからないのでしょうけど・・・おしまい・・・← と、これでは心もとないので

いろんな説を参考に、おいらの都合のいいように解釈してみようと思います。←  心もとない・・・

古事記には、伊勢神宮についてのことは、ほとんど出てこないようです。なんでだろう?


もう一度、倭姫命の系図を見てみましょうか




このころの年代は非常に複雑なのです。天皇の寿命が100歳超えたりするのです。

春と秋に1歳ずつ年をとる、つまり、1年に2歳カウントすることもあったり、

なんだかの都合で意図的に操作したりと、これも資料が多くておいらでは、手に負えません。

幸い、このことについて訂正を試みておられる方が何人かおられるので、その中から一つ

訂正した年表を参考に考えていこうと思います。

こちらhttp://takiren.sub.jp/kodaisi02htm.htmの表から引用すると、

崇神天皇崩御は290年、垂仁天皇は307年、景行天皇は336年(西暦)だそうです。

開化天皇の崩御の年が、記されていないので、日本書紀の崩御の干支を調べました



日本書紀の崩御年の干支は、開化天皇 癸未 そして、崇神天皇は、辛卯  

その差は、34年。これは、1年で2歳年をとるということを修正してあります。

少し強引かもしれませんけど、

この数字を使うと、崇神天皇即位は256年となります。



何かほかに年代を特定するものがないか、調べました。

いろんな説盛りだくさんです。


そこで見つけたのは、三角縁神獣鏡についてです。

この鏡、最初のころは、魏の王朝が卑弥呼に下賜したものと言われたようですけど、最近では

日本で作られたものと言われます。

卑弥呼が魏から貰った鏡は、景初三年(西暦239年)に百枚と、

正始元年(西暦240年、枚数不明)の二回だそうです。

この年代が偶然なのかどうかはわかりませんけど

三角縁神獣鏡の制作年代と重なるのでいろいろな説が出てきていると推測します。

三角縁神獣鏡の中には、景初三年という年号が書かれたものがあるらしいのです。


それについては、こちらhttp://home.b06.itscom.net/kodaishi/page026.htmlが詳しいと思います。

なんでも、鏡に作者とみられる人が書いた文字があるそうです。


内容は、「 景初三年に陳(製作者の名前)は鏡を作る。自ら経歴を述べれば、本は京師(呉の
領域の揚州の京城に住んだ作鏡師)であり、亡命して杜地(とじ)に至る。」

と書かれているようです。  杜地とは、塞がれた行き止まりのような場所とのことで、

日本のことだろうと解釈されるそうです。



こちらも参考になります。http://yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm

景初三年は、西暦239年です。



しかも、「景初四年」https://www.nagaitoshiya.com/ja/2014/bronze-mirror-ancient-japan-debate/という年が書かれている三角縁神獣鏡があるそうです。

「景初四年」という年は改元されて「正始元年」となったとのこと。

「景初四年」という年号は実在しないとされます。


このことからこの鏡を作った人は改元されたことを知らなかったと言われます。←これも諸説あります。

このようなことから、この鏡を作った人は、日本にいた可能性が高いとされます。


三角縁神獣鏡は、ヤマト政権下に組み込まれた各地の首長たちに配布されたもの

と考えていいと思われます。

そのために、500枚以上の数を作ったようです。

そう考えると、西暦239年(景初三年)ごろ、三角縁神獣鏡は作られ始め、間もなく配布され始めたと

考えられます。

四道将軍の派遣の時にも当然配布されているのではないでしょうか。


崇神天皇即位が、西暦256年とすると、四道将軍は崇神10年10月に派遣されてます。

前回はこれを、そのまま10年として計算してしまいました。

たぶん、崇神10年は、1年を2歳でカウントした数字と思いますので256年に5年プラスして


西暦261年となり、鏡を作り始めてから22年目、これをどう考えるかですよね。

まあ、そこそこいい数字かなぁ?  おいらは、もう少し短いと思っていました


さて、四道将軍の派遣は翌年262年で終わっているようです。

その年に、四道将軍のひとりである、

丹波道主命=彦坐王 (第9代開化天皇の第三皇子、倭姫命のおじいちゃん)は、派遣先の丹波で

「丹波之川上之麻須郎女」(倭姫命のおばあちゃん)を妻としたとおもわれます。

おばあちゃんの実家はこのあたり



とすると、その娘である日葉酢媛命(倭姫命の母)は、その後15~20年ぐらいで

垂仁天皇の后になっていると推測します。

仮に15年とすると、西暦277年ですね。

倭姫命は、垂仁天皇の第4皇女ということですけど、本当はよくわからないようです。

まあ、プラス5年の年に生まれたとして、282年生まれということにしておきましょうか。

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日本書紀では、垂仁25年に、天照大神を祀っていた豊耜入姬命から倭姬命に変更し、天照大神を五十鈴川へ移す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とあります。

この時代1年に2歳年をとるということから、垂仁25年は290+12.5となり、西暦302~3年

倭姬命が、旅立った時の年齢は、282年生まれとすると、303ー282で、21歳。

自分でも驚いています。こんなにもぴったりした数字が出て来るとは。。。





PS  訂正です。コメントにも書いておきましたけど

     表で、丹波之川上之麻須郎女を妻とした年が

     267年になっていますけど262年が正解ですね




さて、この先は、おいらの妄想になります・・・

倭姫命世記では、倭姫命は、天照大神を載いて長い年月をかけ、元伊勢を旅しながら

現在の伊勢の地にたどり着いたとされていますけど、

倭姫命世記というのは、後に作られた伝説と言われますので、無視して、

実際は、それほど長い日にちはかからなかったのじゃぁ?

母親の実家である美濃から、船に乗って伊勢に向かったのでは?

当時は、美濃の南側は海面上昇により陸地が少なかったようです。

   ↑
ps これ間違いです。海面の高さは現在とほぼ同じです



海面が現在より3m上昇した時の様子です




ps 川から流れてきた土砂が、堆積して陸地を作るのですけど、およそですが

1700年前の様子を考えるには海面が3m上昇した時の場合が参考になるかと思います。






美濃から最初に船に乗って伊勢に行ったのは、おそらく彦坐王の率いる部隊でしょう。

彦坐王も行ったかもしれません。

何を目的で行ったのか? 丹生水銀鉱の水銀を求めて、仲良く掘らせて・・・ではなく

おそらくは、武力でぶんどりに行ったんでは?

その時の、中継点が後の神社になったのではないでしょうか。



とすると、伊勢神宮の最初は、もっと早い時期になると考えます。

四道将軍の派遣で、丹波に行ってきた彦坐王は、奈良にもどったその後、美濃に来ているので、

西暦260年代かもしれませんね。

余談ですけど、遠征から帰ったらまたすぐにほかの場所に出されるという話は、

ヤマトタケルの話と似てるななどと思ったりします。


話を戻して、最初の伊勢神宮の場所も、今の所ではないでしょう。

次回は、場所について妄想してみたいと思います。























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ヘビノネゴザ、

2018-02-11 14:28:44 | 植物

年末に行ってきた「丹生水銀鉱跡」について調べているときに、ヘビノネゴザというシダについて

おもしろい性質があることがわかりました。

それは、重金属が多い土壌の場所にたくさん生えているということです。

こちらの説明がわかりやすかったですとても参考になります


どうも、重金属が好きというわけではなく、重金属に耐性があるので、ほかの植物が育たない場所、

つまり生存競争に有利な場所で育つことができるように進化した植物のようです。

鉱山の指標植物の一つともいわれるようです。

同じような性質のもので、「ハクサンハタザオソウ」というものもあるようです。


古代の鉱山探しは、このような植物をさがすことから始まっているかもしれませんね。

中央構造線付近は、鉱脈があるといわれますけど、鉱山の指標植物を見つけ、そのあたりを

錫杖 (しゃくじょう、 杖のようなもの)で地面をたたいたり、掘ったりして探したのかもしれませんね。

そして、その場所付近で金属を精錬したのでしょうか?のちに、それが神社になった?

考えすぎでしょうかねぇ~









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おんな城主 直虎

2018-02-08 08:00:29 | Weblog
下調べをあまりしてなかったので、時々道を間違え行ったり来たり・・・



最初に訪れたところは、 「川名の隠れ里」ロケ地 

駐車場に車を置いて、300mほど歩きます







たしか、棚田があった所では?

そうでした!




「久留女木の棚田」ですね

2枚の画像をつなげてみます



地図は、こちら、画像をとった場所です

説明は、ここがおもしろいかな



その後、 龍潭寺(りょうたんじ)へ向かいます。


地図はこちら


驚いたのは、その古さです。天平5年(733年)というから、寺としてはかなり古いのではないでしょうか



駐車場には、観光バスが数台。ドラマが終わってもまだまだ人気のようです




お墓があるんですよね










共保公出生の井戸










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中央構造線向林露頭

2018-02-06 07:24:59 | 神社
寒いですね。

おかげで、植物はさっぱり売れず、出荷量も微々たるもの・・・

ならば!  市場に行ったついでにどこかに出かけよう!  

と、まあ以前から行きたかった、中央構造線が直接見られる、中央構造線向林露頭 と言う所に出かけました。

愛知県豊明市にある市場のすぐ近くには、伊勢湾岸自動車道のインターがあるので、便利です。

北上して、新東名高速道路に入ります。

快適ですけど、トンネルが多いですね。

のんびり景色を楽しめたらいいのですけれど、結構みなさんスピードが出てる。

安全運転でいきましょう。。。




中央構造線向林露頭  (愛知県新城市長篠字向林)



現在は、このようになっています



ネットで探していたらちょうど古い画像があったんで重ねてみます





領家変成帯と三波川変成帯という名前はそれぞれ発見されたところから命名されているようです。

どういうものかというと、ウィキペディアより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

領家変成帯と三波川変成帯は同じジュラ紀の付加体で、白亜紀にそれぞれ異なる変成を受けた。三波川変成帯は海洋プレートの沈み込む低温高圧の条件で変成を受け、領家変成帯はマグマの上昇に伴い発生した高温低圧の条件で変成を受けた対の変成帯で、中央構造線の大規模な断層活動で互いに水平距離で60km、上下距離で20km離れていた領家変成帯と三波川変成帯が接するようになった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本列島の出来たことと関係があるようなんで、すごくおもしろい。

でも、全く知識がないんで、まあこんなところで失礼。

このあと、近くになんと、昨年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の現地があるではないですか!

行かない手はない!

とりあえず、地図を載せておきます









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