たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

氷上姉子神社

2019-04-12 07:43:26 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン





祭神 宮簀媛命(みやずひめのみこと)

熱田神宮の創祀以前に草薙剣(三種の神器の1つ)が奉斎されたところと言われます



宮簀媛命とは誰なのか?これがわからないんです。

日本武尊の妃で、建稲種命の妹といわれます。

とりあえず、ウィキペディアをリンクしておきます



東谷山の尾張戸神社は、第13代成務天皇5年に宮簀媛命の勧請によって創建されたと言われます

ですから、宮簀媛命は、彦坐王の後裔であることは間違いないのでしょう。

それと、兄の建稲種命の妻である玉姫は、おそらく朝廷別王の娘もしくは、孫と考えます。




元宮は、現在の神社の南側道路を挟んで反対側にあります


このあたりです


ほんの、数分で到着です





さて、レイラインです



元宮から夏至の日の出の方向






猿投神社です。


これも驚きましたね

これをどう考えるのか?わかりません・・・








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猿投神社 西の宮

2019-04-11 06:40:13 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン



東の宮を出てから、直接、西の宮に行く道があるようなので、そこを通ろうとしたのですけど

なぜか、通り過ぎました・・・

おいらの前をきれいな女性が歩いていたので、見とれてしまったのかも・・・



結局、東の宮入り口まで来てしまったので、そこから西の宮を目指します。

登山コースについては、こちらの方の書かれたものが非常にわかりやすいので、参考になります





到着



こちらは、人がほとんどいない!

なんで?

途中すれ違ったのは、ひとりだけ。

ここから、急な坂を登ります


到着です

ここにも、本殿の前に四角い場所があります。

でも、ここはレイラインの目的の場所ではありません。

おっと、その前にレイラインを見なければいけませんね。



驚きですね

夏至の日没のラインを白鳥塚古墳を通るように調整します




すると、きちんと深川神社も通ります



そして、計測地は



大碓命(オオウスノミコト)の墓とされる場所の前です



この画像を撮った地点付近だと思います

周りに木がなければ、目視で深川神社が確認できるかもしれません。



大碓命は、第12代景行天皇の息子ということになっていますので、時代が朝廷別王(みかどわけのみこ)

の、二世代後の人です。

ですから、このレイラインを計測した時点では、大碓命の墓はなかったことになります。

大碓命という人物も実在かどうかわかりませんけどね。

でも、猿投神社の主祭神(諸説あり)になっています。





とにかく、この猿投山は謎の多い場所です。

でも、このレイラインは、彦坐王の息子であった朝廷別王が、

この地を開拓したと考えていい証拠ではないでしょうか。




西の宮で、コンビニで買ったおにぎりで、遅い昼食を済ませ、その後、入り口まで戻ります。



残念ながら、お会いできませんでした・・・

同じ道を帰るのも退屈なので、さらに、南に行き猿投山を一周するように進みます。

途中、山神様が祭ってありました



何かあった場所なのでしょうか?


もうだいぶ疲れているので、寄り道は無しで猿投神社を目指します。



いろいろと、滝があるようです



ほとんど、人は居ないです

なぜなんだろうね?

駐車場が無いせいかもしれませんね。

  
到着~♪



この門を通ったのは、初めてです。

参道も長いです。


さすがに疲れました。かなり遠回りをしたので、17kmぐらいは歩いたでしょう。

毎日、5kmぐらいは歩くので苦にはなりませんけど、休日はやはり体を休ませたいです・・・

もう行かないぞ!

でも、ここは、きれいな女性が多いよねぇ・・・



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猿投神社東の宮

2019-04-08 11:11:55 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

本当は、行きたくないけど、暖かくなってきたのでしょうがなく出かけてみます・・・へへ;



近くの駐車場は、満車だろうなと思ったけどとりあえず行ってみます。

やはり満車。

遠くの駐車場に行ってもかなり車がありました。

午前11時出発!



近くの駐車場にあった案内図

水車があるそうな


途中、車止めるスペースは少しですけどありました。

でも、道が細いのですれ違いが難しいと思います。



歩くこと1時間

東の宮入り口です


なかなか、勾配の急なところが多いですね。

それでも、人が多い!

かなりの高齢の方も登っておられる

それに、女性の方も多い!

年齢も、若い方からお年寄りまでいろいろ。

トレイルランニングと言うのでしょうか?

そうした人も多いです。


到着です


東の宮


祭神はわかりません

隣にも



さて、もう一度地図を見てみましょう




矢印の場所はどこになるのでしょう?



神社の前に四角い場所があります




なんでしょう?

矢印の場所は、このあたりですね



神社側から見ると


木が視界を遮って、大目神社が目視できるかわかりません。

ギリギリ見えるかもしれませんね。

この四角い場所は何でしょう?

以前は、ここに本殿があったのでしょうか?

とにかく、この場所から夏至の日の入りを計測したのでしょう。

相変わらず、すごい精度です。

おそらく、この場所が猿投山での最初に落ち着いたところと思われます。




かなり坂道を登ったので、これで帰ろうかと思いましたけど、頂上まで800mとあります。

しょうがないので・・・行きますか・・・へへ;








さて、せっかくだから、西の宮にも行きましょうか。

つづく・・・です。
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大目神社(おおまじんじゃ)

2019-04-07 10:42:49 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン


さて、深川神社から猿投山にどういうルートで行ったのか?

どこかに神社がないかと探したら、大目神社と言う所がありました。

とりあえず、出かけてみました







祭神は、

天忍穂美美命、天乃菩日命、天津日子根命、活津日子根命、熊乃久須毘命、多岐理姫命

一寸島姫命、多岐都姫命。

アマテラスとスサノオとの間で交わされた誓約で生まれた五男三女神です。

これは、深川神社と同じですね。

ということは、ここも国津神は追いやられ、天津神が崇められるようになったのでしょうか。

8世紀後半のことですので、それまでは、彦坐王ファミリーの後裔が

この地をおさめていたのでしょうね。

天井には


藤四郎神社


藤四郎とは?おいら、焼き物のことはさっぱりです・・・




さて、本殿の裏に行くと、



これって、古墳?



どうもそのようです。

円墳が削られているようです。

大和朝廷が来た時に削られたのでしょうか?

発掘はされていないので、すべて謎です。


レイラインはというと、驚きますよ。


これは、古墳の上を通るように調整しました。


そして


どこだと思います?


猿投神社東之宮からです。


でも、よく見ると東之宮よりすこしずれてますね

といっても、数メートルですけど

誤差の範囲なのでしょうか?

これは、現地に行ってたしかめるほかありませんね・・・

調べると、麓からかなり距離がある。猿投山標高629m・・・往復5時間?

行きたくない・・・










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深川神社

2019-04-04 07:24:35 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン


深川神社



愛知県瀬戸市深川町11番地









こちらは、奥の宮稲荷社



この鳥居の左側が古墳だったかと思います・・・詳しく見るの忘れました・・・





さて、朝廷別王 (みかどわけのみこ)は、五社大明神社あたりから、水野川をさかのぼったと思います。



実際に、水野川に沿って川上に行ってきました。

途中、「道の駅 瀬戸しなの」あたりで分からなくなってしまいましたけど、地図を見るとその東側に深川神社付近へと流れる川があるので

おそらくは、そのような道筋を移動したのでしょう。




深川神社のHPより引用

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

奈良時代、ここ尾張は、時の政権大和朝廷との繋がりを保つため、

宝亀2年(771)に朝廷・藤原氏縁の天津神(あまつかみ=天に住む神々)をこの地に勧請(神仏を分霊して祭ること)、創建した。

これが、延喜式(えんぎしき=延喜5年、藤原時平ほか11名の委員によって編纂された古代法典)に記されている深川天神の始まりである。

このため、この地にあった国津神(くにつかみ=地に住む神々)は追いやられ、天津神が崇められるようになった。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この国津神こそが、朝廷別王 (みかどわけのみこ)の関係する人々の後裔と思います。

ちなみに、天津神とは、天照大神などがいる高天原の神のこと。

大和朝廷に乗っ取られてしまったのですね・・・

ということは、彦坐王ファミリーは、大和朝廷ではないということになりますね。

彦坐王のことをいろいろ調べていくと、彼は、伊勢、美濃、尾張で囲む伊勢湾の地域を一つの国にしようとしていた

そんなふうに、感じます。

地理的に見ても、今までここで紹介してきた神社で、山頂にあるところはそれぞれ、

かなりのところが互いに目視できるのではないでしょうか。

もしかすると、狼煙とか、音とかで連絡を取っていたのではないかとも想像します。

それと、彦坐王は、この地において争いを起こしたという話が全く出てきません。

むしろ、婚姻によって関係を作っていくという方法で地域に溶け込んでいるようです。

金生山(岐阜県大垣市)、そして春日井付近で採れる「鉄」を利用することで、

さらに地域に根付いていったと考えられます。

伊勢で採れる朱(辰砂)も、その役目を持っていたのかもしれません。





伊勢湾を囲む彦坐王ファミリーの主な場所の地図です


地図を載せたいのですけど、google地図のマイマップはどうやっても載せられないので、

リンクしておきました。


さて、レイラインです

深川神社から



これを見たときは、「やった」と思いましたね。

白鳥塚古墳直撃!



こんな感じです


この事から、この深川神社は当時、重要な場所だったと推測されます。

もしかすると、朝廷別王は大縣神社を息子に譲り、自分はここに住んでいたのかもしれませんね。

でも、まだここから猿投神社に進んだようです。




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