たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

一才やまぶどうの実

2022-07-31 05:28:26 | 植物
色付き始めました。

早いのかなぁ?  ネットで調べると 花期 6月   結実期 10~11月  となっている。

ずっと、ビニールハウスの中にあるので、早いかもしれない。



実は


まだ食べてないです・・・

昨年の秋に挿し木した苗は、家に植えてあります。


生育が早いですね。

どうやって仕立てようかな?
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古い画像

2022-07-30 05:20:43 | Weblog

探し物をしていたら、古い画像が出てきた。

写真をデジカメで撮ったものだと思うけど、それを編集してある。

せっかくだから、ここに載せておこうかな。









若かったころの写真でした。。。

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アスター ダッチェッス・ブルー・アイス その後

2022-07-28 07:26:55 | 植物


この色好きなんだけどなぁ~♪

今年の暑さには少々てこずりました。

我が家だけではないようです。その影響がこれから出て来るのではないかな。



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二拝二拍手一礼

2022-07-27 06:58:18 | 神社
ネットで、ある所を見ていたら、「二拝二拍手一礼」は、平成になってから広まった作法。と書いてあった。

なるほど、そういえばそうかもしれない。

さらに、二礼二拍手一礼は、神職の作法であり、玉串奉奠に伴う作法だそうです。

そういえば、氏子総代の時に榊をお供えしたことがあったなぁ。あれが、玉串奉奠なんだろうなと。

柏手は、神社によっても違うようです。

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出雲大社や宇佐神宮、彌彦神社では「四拍手」である。

伊勢神宮や熱田神宮での神事では「八度拝、八開手」となっている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それはともかく、二拝二拍手一礼の作法は、かなり昔からあるのかもしれない。

このような事は、時間がたつにつれ複雑になっていくのが恒例。

二拝二拍手一礼は、わりとシンプルなんで、原型に近い作法と勝手に解釈したうえで

少し妄想をしてみましょうか。。。へへ

まず、何処から広がったのか?

これは、伊勢神宮と考えるのが適当か?すると、最初は、倭姫と言うことになります。

次に、二拝二拍手一礼の「二拝」は、誰にお辞儀をしているのだろうかと言うこと。

良くわからないので、とりあえず、倭姫のおじいちゃんとおばあちゃん、つまり

彦坐王と、川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)この二人おいらの解釈では

スサノオとクシナダヒメです。

二拍手はだれか? 倭姫が御霊を宿した鏡と勾玉の主である、大国主と、保食神

つまり、これもおいらの推測ですけど、伊勢津彦=サホヒコと、アメノウズメ=アジサハヒメ

最後の、一礼は、サタヒコでしょう。

ここで一つ疑問が出てきた。クシナダヒメの御霊はどうやって伊勢に来たのか?

サタヒコは、間違いなく母親の御霊も何かに宿らせて伊勢に連れてきているはずです。

ここで思い出すことが、櫛田川の事です。

調べてみると、神話がいろいろあります。

そのなかの一つを見てみましょうか

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「竹田の国」(現在の松阪市櫛田町)と呼んでいた地で頭に飾ざしていた櫛を田に落とされたそうです。それを津あたりから伊勢志摩方面までを道案内されていた大若子命(おおわくごのみこと)が拾われお届けになられたそうです。
 「倭姫命」は、喜びと感謝を込め、その地を「櫛田」と名づけ、櫛を拾われたところに社を建て、大若子命に櫛田神社の祭神となるよう命じられたと伝わっています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

田んぼに落としたのなら、自分で拾えるだろ?

他にも、池に顔を写して化粧をするときに落としたとかとにかく、落とすことになっていますけど・・・

両方とも、櫛田川沿いの場所です。この川を遡ると、辰砂が採れる「丹生水銀鉱」にたどり着きます

推測するに、美濃の方々津神社に眠るサタヒコの母親の御霊も倭姫により「櫛」に移されて

伊勢に来ているのではないでしょうか。

そして、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と一緒に保管されているのでは?←妄想です。













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神大根王が春日井に居た頃

2022-07-26 05:41:07 | 猿田彦


サタヒコが、305年に、大縣神社に住むようになってから、それほど時間がたたないうちに

春日井の白山神社で製鉄を行ったと思います。

当然、神大根王は一緒に行き、手伝いをしていると思います。10歳ぐらいからでしょうか。

17歳には、すでに氷上姉御神社に居るので、5年後の310年頃には、氷上姉御神社に移ったと推測できます。

猿投神社からの夏至の日の入りのラインに居久良河宮があるので、

猿投神社には滞在したと思います。

316年頃には、高材比売(たかきひめ) を妻にしています。その時どこで暮らしていたのか?

どうして金生山の赤鉄鉱から製鉄をすることになったのか?

それまでは、砂鉄からの製鉄でしたので、誰が赤鉄鉱から製鉄をする技術を導入したのか?

金生山の赤鉄鉱をだれが発見したのか?    

謎だらけです・・・
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今年のしめ縄

2022-07-25 05:39:04 | 神社
毎年恒例です。しめ縄つくりやって来ました。

ここ数年で、今までしめ縄を作っていたお年寄りがおられなくなりました。

なので、作り方を知ってるのは、おいらともう一人だけ。

若い人に覚えてもらって、絶やさないようにしたいものです。

とりあえず我が家で、一つ準備しました。

これに藁を入れて巻いていきます。

それを3つ作り、よりをかけながら、ねじっていきます。

なかなか初めてだと、上手にはいきませんね。

まあ今年のしめ縄はこんなところです。



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壬午(みずのえうま)

2022-07-24 06:30:08 | 猿田彦
前回、景行天皇の12年壬午年(83年)と言う年代が出てきました。

最近の、壬午の年はと言うと、2002年だそうです。60年で、ひと回りします。


もう少し詳しい資料が無いかなと探しました。

ありました。ウィキペディアから引用します





あれ?これだと、82年が壬午の年になってるよ?  なんでだろう?

まあ、どちらにしても、その年代では古すぎます。適当な年代はと言うと、322年がそれらしいですね。

この年は、おいらがサタヒコの没年としている年です。322年  57歳

おいらの推測では、景行天皇即位 は、 310年頃頃と思います。

当時は、1年に2回年をとるので、12÷2=6年を足すと316年となります。

6年の誤差が出ました。これがおいらの年表の誤差なのかな?



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白山中居神社に行ってきました

2022-07-23 08:15:10 | 白山神社


白鳥から、油阪峠を通って石徹白川を遡るルートを通ったら、

途中道が狭いし、ガードレールも無い所が多く、対向車が来たらどうしようと言う所がありましたね。


ここには何度も来ています。標高は723mと、意外と高いんです。


巨木が素晴らしいのです。樹齢200年から1000年の巨木が、150本があるとのこと。

少し奥に行くと、浄安杉(目通り幹周囲12.1m)があります。今回は雨が降って来たのでパス。



朝日添川


橋を渡り


泰澄が居た場所でしょうか


磐座があります


本殿です




「船岡」と言う地名が出てきますね。この場所も、昔は、そう呼ばれたのでしょうか?

景行12年とあります。その時サタヒコは、50歳ぐらいです。

誰かに命じて建てさせたかもしれませんね。

雨のため、石徹白の大杉(樹齢  伝承1800年)にも行きませんでした。残念。



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尾張に来た神大根王

2022-07-22 06:48:16 | 猿田彦
神大根王の生まれてからの年代を表にまとめてみました。

おっと、神大根王の名前が「神骨」になっていますね。どちらも正しいのでこのままにしておきます。

313年には、玉姫が12歳ぐらい。 

その時には、彼女は氷上姉御神社に居ましたので、ここに書いてみました。

神大根王は、17歳ぐらい。当時では、もう、立派な大人ですよね。


317年は、息長宿祢生誕つまり、神大根王の子どもが生まれた時ですけど、

おいらが予想していた時と一年しか違わない年に、竹之内宿祢の生誕がありましたので、

もしかすると被ってるかもしれないと思いこの年にしました。  違うかもしれませんけどね・・・

322年は、サタヒコの没年と予測します。

305年に、神大根王が尾張に来た可能性はかなり高いと思います。

その後、サタヒコとマシキトベの息子が生まれます。

田縣神社と大御霊神社の祭神になっている人ですね。

神大根王とは10歳ぐらい年の差があるということになります。

一緒に暮らしていると思いますので、ほとんど家族と同じ関係になるでしょう。

そして、氷上姉御神社に行く以前には、春日井の白山神社で、製鉄を行ったのではないでしょうか。






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佐太神社

2022-07-21 05:42:10 | 猿田彦
何かわからないかなぁと思い、サタヒコの生まれてからの年表を作成しました。

およその年代です


これを調べているときに、佐太神社が出来ているのに気が付いた。

以前から何故この時代にわざわざ、出雲に佐太神社を建てたのか不思議でした。

今でもはっきりとはわかりません。

琵琶湖にある、白髭神社創建は、304年です。

椿大神社創建は、305年、佐田神社創建も305年。

さらに、大縣神社新宮を造営も、305年です。

同じ時期ですね。

伊勢からの、中継基地を作りながら出雲に行ったのではないだろうか?

出雲から、伊勢に行くときに出雲の人が同伴していることも充分あり得ることです。

報告を兼ねて、出雲に行ったのではないでしょうか。

その時に、佐太神社が出来たと考えるのが適当かな?

その帰りに、丹波に立ち寄り神大根王を連れて、犬山に行った。

そして、大縣神社新宮を造営して、そこで、その時の妻であるマシキトベと、玉姫、そして

神大根王とサタヒコは暮らし始めた。そう考えると、すべてがしっくりくるのです。

もう一つ気になるのが、大縣神社にある「姫之宮 奥宮」の存在です。

これは、おそらくアジサハヒメを祀ってある所と思うのですけど、他に祀ってある所

例えば、千代神社、広沢神社と比べると、磐座のような場所なので、特別なような気がします。

(眞名井神社は別格なので除きます。)

もしかすると、神大根王と一緒に、アジサハヒメの御霊を運んで、このご神体である岩に

御霊を宿らせたのかもしれない。

そうすると、倭姫も同じ様に行動していた可能性があります。


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 神大根王の足跡

2022-07-20 05:58:56 | 猿田彦
氷上姉御神社の「ひかみ」は、「火神」ではないかと少し前に書きました。

そして、「火の神」は神大根王の事ではないかと思うのです。

すると、彼の動きがある程度わかるのかもしれない。

ミヤズ姫=玉姫とすると、彼女が氷上姉御神社に来たのは、いつだろう?

ヤマトタケルがミヤズ姫と出会った時、彼女はまだ若いようです。12歳ぐらいでしょうか?

生まれはいつ頃かな?

最初に生まれた子供とすると、サタヒコ達が伊勢に行く直前ぐらい、

301~302年の生まれと思います。301年としましょうか。

その頃、神大根王はいくつかと言うと、5歳ぐらい。

景行天皇は、21歳ぐらいと推測します。

サタヒコは、36歳ぐらい。  どうでしょう?

すると、ミヤズ姫が氷上姉御神社で、ヤマトタケルと出会った年には、神大根王は、17歳です。

サタヒコは、48歳ぐらい。313年頃になります。

その頃に、神大根王は、猿投神社に行ったということになります。


しかし、神大根王がいつ頃、氷上姉御神社に来たのかは分かりません。

しかも、直接丹波から来たのか、他の場所に滞在していたのかもわかりません。

それが分かるような資料が、何か見つからないかなぁ・・・




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喪山古墳

2022-07-19 05:37:56 | レイライン
南宮御旅神社からの春分の日の日の出に喪山古墳があります。


前にも書きましたけど、南宮御旅神社の祭神が金山姫ならば、喪山古墳は彼女の眠る古墳ではないかと言うこと。

かなり現実味を帯びてきたと思います。

そうすると、被葬者は、神大根王の妻の「高材比売」となります。

まだこの古墳は、2つの円墳か、前方後円墳か分からないようです。

発掘が行われるまで、答えはおあずけですね。

いまだにわからないのが、喪山天神社( 岐阜県美濃市大矢田1261)との本当の関係です。


レイラインです

少しずれます。  この意味も分かりません・・・



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南宮大社

2022-07-18 05:48:40 | レイライン


南宮御旅神社の南に位置します。元々は、南宮御旅神社にあったとのことです。

だからでしょうか、祭神が南宮御旅神社は、「金山姫」で、南宮大社が「金山彦」です。

なんで、南宮大社は出て行ったのだろう?夫婦喧嘩でもしたのでしょうか?

それはともかく、ここに関してはレイラインが見つかりません。

時代が新しいのかもしれませんね。

金山彦のことが分かると、その他の何かが分かるかもしれないと思い、南宮大社のHPの歴史の所を見てみました。

そこには、このように書かれています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
南宮大社は古く神話の時代、伊耶那美命(いざなみのみこと)が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)をお生みになられた際にお生まれになられた鉄鉱・鉱山を司る金山彦大神を主祭神として、相殿神に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、見野命(みののみこと)をお祀りしております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これを読んで、あれ?  金山彦が誰だか書いてあるのでは?  と思いました。

神生みの事は何度も書いています。

菊理比売姫(くくりひめのみこと)
白龍神社参考にしてください。

サルタヒコ=山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)

アメノウズメ=丹波能阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)

をそれぞれ、イザナギとイザナミにたとえていると思うのです。

そして、生まれた子が、迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)←この名はカグツチから来ているのではないかと思うのです。

迦邇米雷王=神大根王(カムオオネ王)ですので、金山彦神=迦邇米雷王=神大根王となります。

宗慶大塚古墳は、彼の眠る古墳と思います。冬至の日の出のレイラインは、東谷山の山頂を通ります。


そして、金山とは、金生山の事ではないでしょうか?


系図を書いてみます

若都保命が、伊富岐神社にある系図に名前があるということは、

そこに居た製鉄の技術者たちは、神大根王と世代が同じと言うことです。

ですから、金山彦は祀られていません。




ふと思ったのですけど、「カグツチ」は、火の神です。

氷上姉御神社の名前の氷と言う字は、元は「火」と言う字を使ったと記憶しています。

調べてみましょう。

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『延喜式』神名帳では社名が「火上姉子神社」と見えており、社伝ではもと当地の地名は「火高火上(ほだかひかみ)」であったが、火災を忌んで現在の「大高氷上」に改めたとする
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちょいと妄想しましょうか。

サタヒコの時代には、まだ漢字はありません。「ひかみ」→「火の神」から想像すると

氷上姉御神社は、最初「火神神社」で、神大根王が住んでいた。

その後、彼は、猿投神社に行き製鉄を行った。その後、美濃の伊久良河宮に移動した。

後に「火神神社」には、オトヨとマシキトベの子である「玉姫」が、住むようになった。
  (オトヨ=猿田彦)

すると名前が、「ひかみあねごじんじゃ」になった。

  妄想を終わります・・・へへ;





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神大根王

2022-07-17 05:47:59 | レイライン
神大根王を調べると、彦坐王の子とされています。でも、違いますよ。

サタヒコとアメノウズメ(アジサハヒメ)の子です。


南宮御旅神社が出来たのは、景行天皇の崩御付近の年代だろうと推測します。

先にも書きましたけど、景行天皇の崩御が53歳とすると、333年頃。

その頃には、サタヒコとアジサハヒメの子である、神大根王(迦邇米雷王)は、37歳ぐらい。

神大根王と、景行天皇はかなり親しかったのかもしれない。

ですから、このラインがあるのでしょう


このラインも納得です。

このラインを作らせたのは、景行天皇ではなく神大根王かもしれない。

いや、それとも、神大根王の子である息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)の可能性もあります。

彼は、神功皇后の父です。


南宮御旅神社の隣に美濃国府跡があるということは、時代がだいぶ違いますけど、この時の二人の関係が良かったことが関係しているかもしれない。

さらに付け加えるならば、このラインどう思われますか?


京都御所


発見した時には、びっくりしましたね。。。偶然じゃないよね。。。


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日吉大社

2022-07-16 04:26:38 | レイライン
東本宮と西本宮は創祀の年代が違うようです。

東本宮は、崇神7年となっています。

西本宮は、天智天皇7年(668年)とされています。

でも、レイラインの意味する時代とは合わないような気がします。

もう一度レイラインを調べましょうか。

まず、居久良河宮からの冬至の日の入りのラインです。


東本宮、西本宮ともに少しずれがあります。
見やすいように、google地図にラインを書いてみます。

真ん中の下の矢印ですが、山王鳥居にピタリです。

今まで調べてきた中でも、鳥居にラインが合うことは時々あります。

何か意味があるのかもしれません。

誤差が無いということは、サタヒコに仕えていた測量集団の仕事でしょう。

左上の矢印は、西本宮です。ここからの夏至の日の出を見てみましょうか。


南宮御旅神社にぴたりです。


これをどう解釈しましょうか?    悩みますねぇ・・・

おそらく、同じ人たちの仕事でしょう。時代もそんなに違わないのではないでしょうか?

とりあえず、今までの事からわかることは、東本宮の創祀が、崇神7年と言うことはあり得ないということ。サタヒコの没後でしょう。


西本宮創祀は、天智天皇7年(668年)ということも、遅すぎるのじゃないだろうか?

それ以前に、西本宮の場所に何かがあったと考えて良いのではないだろうか。

とりあえずは、そのように推測しておきます。

日吉大社はまだ訪問したことがありません。いつか行ってみたいですね。


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