たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

重竹神社と白髭神社の位置

2023-01-22 07:42:53 | 猿田彦
レイラインを探していたら、何のことは無い。まるまる山と松尾山の山頂から見た北に

それぞれの神社の位置がありました。


ですけど、地図の真北と言うわけではなく、少しずれがあります。

その誤差が何なのかは分かりません。測量する山頂の位置が違うのか、神社の位置が違うのか

それとも、地球の歳差運動が起こしたものなのか?

重竹神社では5mほどの誤差のようです。なぜそうなるのかは、おいらにはわかりません。

ですけど、このような事をするのはサタヒコ達の可能性が高いですね。

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菊理比売姫は誰?その24 年代

2023-01-18 08:13:41 | 猿田彦
およその年代を表にしてみると、何か分かるかもしれないと思い作ってみました。

年代については、やや誤差があることをお許し願います。


年代については菊理比売姫は誰?その2で少し触れています。参考にしてください。

表のピンクになっているところの、286年~290年の間が、白山比咩神社から白山を越えて美濃、尾張

に行った時期と思います。

290年には崇神天皇が崩御していますので、サホヒコはそれから奈良を包囲しようと行動に移したのではないでしょうか。

ですので、290年~294年の間は、サタヒコ達は岡山を中心に四国、九州を廻り

鉄を供給することで、同盟する地域を築いていったと思います。

その期間は、白山越えのルートを通って美濃へ行くには時間が無かったかもしれません。

296年頃にサタヒコの妻である、アジサハヒメが亡くなっています。(水色)

この時には、サタヒコの母親は50歳ぐらい。当時ではかなりの高齢でしょう。

もし存命ならば、そしてサタヒコが美濃に行っていたならば次の事が当てはまるように思います。

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
菊理比売姫(くくりひめのみこと)

日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に一度だけ出てくるのみである

神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる。
そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った。
つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある。
菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もう一つ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。

 このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。

 このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



以上で、思いもかけず長くなりましたが、菊理比売姫は誰?についてある程度掘り下げることが出来た

のかもしれないと思っています。

間違っていることもあると思いますけど、分かり次第訂正していきたいと考えます。

とりあえず、このシリーズを終わります。

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菊理比売姫は誰?その23 平泉寺白山神社

2023-01-15 09:39:20 | 猿田彦
平泉寺白山神社の位置をよく見てみると、現在の、九頭竜川からかなり離れています。

3.5kmぐらいでしょうか。



当時の九頭竜川が何処を流れていたのでしょうか?

平泉寺白山神社の近くを流れていたのなら、当時のルートは白山神社近くでいいと思いますけど

現在と同じ付近だと、少し離れすぎていると思います。

標高を見てみましょう


勝山城付近で、172m、現在の九頭竜川が129mこの差が43m。

勝山城付近を流れていたと考えるには無理があるように思います。

と言うことは、平泉寺白山神社は、当時のルート付近には無いと考えるのが適当かと思います。

さらに、九頭竜川沿いの地名を調べましたけど、名前に「白」が付くところが見当たりません。

おいらの捜し方が悪いのかもしれませんけども・・・

そして、平泉寺白山神社の祭神を見てみると

本殿に伊奘冊尊、

本殿右の別山社に天忍穂耳尊、

左の越南知社(おおなむちしゃ)に大己貴尊(大国主命)

主祭神が、菊理媛神(ククリヒメ)ではないです。伊奘冊尊(イザナミ)ですね。

このあたりどのように解釈していいのか困りますね。

前回、サタヒコの時代にこの九頭竜川沿いのルートが出来たかもしれないと書きましたけど、違うかも・・・

もう少し後の時代かもしれません。











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菊理比売姫は誰?その22 油阪峠

2023-01-08 08:17:35 | 猿田彦
潟湖の海面をー5mにしてみました


少名彦神社は調べても関係が分かりませんでした。

白鳥町から油阪峠を越えて、石徹白川(水色の線)と、九頭竜川(青色の線)の合流地点まで行く

ルートはこの時代にはあったのでしょうか?

14世紀には、油阪峠には道が出来ていたようです。

白鳥町に、拠点となりそうな神社を探しましたけど、見当たりません。

白鳥神社がありますけど、時代が後になります。(仲哀天皇の時代)

その頃に、油阪峠を越えるルートが出来たのかもしれませんね。

それまでは、長瀧白山神社から、白山中居神社を経由して九頭竜川を下るルートだったと思います。

そして、そのルート上に泰澄が平泉寺白山神社を建てたということは、

サタヒコの時代には、すでにこのルートがあったかもしれないと思うのです。

長瀧白山神社と、平泉寺白山神社は、養老元年(717)に泰澄によって開かれたと言われています。

愛知県春日井市白山町にある、白山神社は、翌年の養老2年の創建です。

泰澄にとっては深い関係のある場所と思います。








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菊理比売姫は誰?その21

2023-01-07 06:36:21 | 猿田彦
現在の地図に、当時の潟湖をあてはめてみました。手作業なので少しずれているかもしれません。ご容赦


美濃方面から行くと、長瀧白山神社から、白山中居神社を中継して九頭竜川に出たのか、

白鳥付近から直接、九頭竜川に出たのかは分かりません。

はじめは、白山中居神社経由で行き、その後白鳥からのルートを開発したのかもしれません。

日本海側の潟湖に出た対岸に少名彦神社がありました。何か関係があるかもしれませんね。
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菊理比売姫は誰?その20 平泉寺白山神社

2023-01-06 05:40:10 | 猿田彦


ここは一度訪れたことがあります。苔の雰囲気がすごくいい所です。

なぜこの白山神社が今までのルートから外れているのか?

最初分からなかった。

まず例によって、海面を上げてみましょう。

土砂の堆積する速度が速いかもしれないので7mの海面上昇を参考にします


潟湖(せきこ、かたこ)が現れます。

白山比咩神社に行くには、真ん中の潟湖の北に出る、手取川を遡ります。

そして、白山を越えて長良川が流れる白鳥に出ます。

このルートだと、白山を越えなければならないので、体力的にも大変です。

しかも季節が限られるという制約があります。

ならば、その南にある潟湖から長良川に行けないだろうかと考えたのではないでしょうか?

白山中居神社から、石徹白川を下ると、九頭竜川に出ます。

九頭竜川を下ればその潟湖に行くことが出来ます。










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菊理比売姫は誰?その19  砂鉄

2023-01-05 07:49:25 | 猿田彦
木曽川に出て、そこから犬山を経由し、春日井に行く。

このルートが、最初の年なのか数年後に出来たルートなのかは分かりません。

ですけど、夕田茶臼山古墳がその場所に存在している事を考えると、(←自説が正しいことになっている)

このルートは確実にあって、その後も機能していたと考えられます。


さて、春日井で採れた砂鉄はその場で製鉄したのだろうか?

製鉄して鉄の形にすれば量が減るので持ち運びには有利です。

しかし、春日井の砂鉄はチタンの含有量が多いという特徴があります。

そのような砂鉄は製鉄が難しいとも言われます。

砂鉄のまま丹後半島、もしくは糸魚川に持ち帰ったのでしょうか?

チタンの含有量が多いと硬くなるという説もあります。

時代は違いますけど、次のような話があります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
丹後半島にある、遠所遺跡(6 世紀後半)で発見される砂鉄は、丹後半島で採取される砂鉄ではなく

極めて高いチタン酸化物を含んでいたそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おいらは、どうしてもこの砂鉄が、春日井のものだと思えて仕方がないのです。

誰か分析してくれないかなぁ・・・

鎌倉沿岸の砂鉄はチタンが多いそうなので、そちらの砂鉄かもしれません。


ヤマタノオロチの神話です
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
素戔嗚尊は十握剣(とつかのつるぎ)を拔いて、ずたずたに八岐大蛇を斬った。尾を斬った時、剣の刃が少し欠けた。そこでその尾を割り裂いて見ると、中にひとふりの剣があった。これがいわゆる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」である
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前にも書きましたけど、「尾」は、「尾張」の尾じゃないか?つまり春日井の事では?

チタンを含む刀は、硬いという話も無いわけではありませんけど、謎が多いようです・・・

チタンが原因ではなく、その温度が関係するのでしょうか?

伊勢津彦=サホヒコは、風の神様ですよね。

おそらく、鞴(ふいご)の技術が優れていたのではないかと思うのです。

ですから、チタンを含む砂鉄の製鉄も出来たのかもしれない。

そうすると、その鞴の技術は彦坐王が開発したことになる。

そして、春日井での製鉄を可能にしていたということです。

とするとサタヒコもその技術を持っていると考えてもおかしくないわけですよね。

おっと、話が飛躍しすぎですよね・・・


白山越えのこのルートは、最初からこの春日井の砂鉄を取りに来るという理由があったのかもしれない

もちろん、美濃の人達に会えるということが最優先だったと思います。



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菊理比売姫は誰?その18 迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)

2023-01-04 19:50:58 | 猿田彦
木曽川に出れば、あとは川を下り犬山まで行けばいいです。

犬山から春日井までは、20kmほど。

中継地は本宮山付近でしょうか。

そうすると、サタヒコがまだ若い時代から犬山との関係が出来ていたということになります。

その後に、伊勢に行くときでも中継地として滞在しています。

さらに、東之宮古墳の被葬者であろう、 尾張大印岐(おわりのおおいみき)

の娘である真敷刀婢 ( ましきとべ ) を妻にすることは、すんなりと出来たことと思います。

しかも、丹後からアジサハヒメとの間に出来た子の迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)を

犬山に連れて来て、真敷刀婢 との間に出来た子と一緒に育てているようです。

氷上姉御神社の氷上はもともと、「火神」もしくは「火上」なので迦邇米雷王=金山神の可能性があります。

姉御神社の「姉御」は、玉姫=宮簀媛(みやずひめ)と考えると、割としっくりするのではないでしょうか?

以上の事から、本宮山山頂にある大縣神社 奥宮からのレイラインはすでにサタヒコの若い時から

測量されていたかもしれません。

滋賀県米原市にある、坂田神明宮や、 愛知県稲沢市国府宮にある大御霊神社のレイラインは

伊勢に行く以前からの測量かもしれない。









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菊理比売姫は誰?その17白山神社(美濃加茂市)

2023-01-04 06:42:31 | 猿田彦



飛騨川と木曽川の合流地点の近くです。川の流れがしょっちゅう変わりそうな地形に見えます。

その小高い山の頂上付近にあります。

思ったより小さな神社でした。



ですけど、一の鳥居からの階段がすごい


主祭神 は、 菊理媛命(くくりひめのみこと)


ここから、さらに山の頂上に登ると、古井(こび)の天狗山と言う所があります。

新しい所のようです。しかし、参拝者が多いのにはびっくり。


「お願い事のかなうことで有名な こびの天狗山」だそうです。


せっかくですので、「お金がもうかりますように」とお願いをしてきました。。。







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菊理比売姫は誰?その16 IntCal20

2023-01-04 05:19:52 | 猿田彦
最新版のIntCal20は、探しても適当なものが見つかりません

日本古代史ネットワーク
と言う所に、箸墓古墳の年代を調べたグラフがありました。



そこには、古墳の築造は、300年~4世紀前半と書かれています。

おいらの、年表と一致します。

こちら参考にしてください
こちらも

このIntCal20を使った暦年代較正表でPB1700(夕田茶臼山古墳)を見てみると、330~と言う数字が出ました。

素人の遊びですよ~♪




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菊理比売姫は誰?その15 暦年代較正

2023-01-03 10:19:03 | 猿田彦
14C年代値は、この同位体分別効果の補正を行う必要があるとのことです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大気中のC 14 濃度は、過去一定ではなく経年変化があることなどから、年代値を較正する必要があります。 年代値の較正(暦年代較正)は、較正プログラムを用いて行います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

較正プログラムには、IntCal13とIntCal09 そして最新版のIntCal20があるようです

2009年、2013年に出来たもの、最新版は2020と言うことでしょうね。

平成21年( 2009)~24年(2012)度に夕田茶臼山古墳の確認調査が実施されたとのこと。

何度も言いますけど、いちゃもん付けているわけではありません。素人の遊びと思ってくだされ・・・

暦年代較正が、2009年から使われ始めたということから、

夕田茶臼山古墳の築造年代が3世紀中頃と言う年代は、

暦年代較正する以前の数字から導き出されたものかもしれないと思うのです。

資料があったのでそれを使ってみてみます



右がIntCal09で、左がIntCal13と思います
これを加工します

赤色の線が測定値です。BP1700ぐらいが250年頃の数字を指しています。



そこから、右に線を引いて、折れ線グラフと重なる所が暦年代較正の数字です。

たぶんそれでいいと思いますけど・・・違っていたらご指摘ください・・・

すると、年代は330~380年となりました。





いかがでしょう

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菊理比売姫は誰?その14 夕田茶臼山古墳

2023-01-03 06:36:19 | 猿田彦
夕田茶臼山古墳は、AMS年代測定により築造年代が3世紀中頃と判明しました。と言うことです。

別にケチをつけるなどと言う思いは全くありません。

彦坐王の古墳と思われる尾張部神社古墳は円墳です。その後、白鳥塚古墳に移されますけど

それは4世紀の事です。

ですから、夕田茶臼山古墳の築造年代が3世紀中頃ならば、彦坐王以外のヤマト朝廷の流れになります。

もしそうなら、それで一件落着なのですけど、それにあたる人物が全く分からない・・・

どなたか分かりませんか?


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菊理比売姫は誰?その13 春日井へのルート

2023-01-03 06:22:12 | 猿田彦
菊理比売姫は誰なのか前回で答えを出してしまったので、タイトルを変えようかと思いましたけれど

適当な名前が見当たらないので、そのまま続けます・・・

重竹神社(天王神社)から、現在の川をたどった地図です。当時は少し違うかもしれませんけどご容赦。

津保川から蜂屋川をたどり、飛騨川に出るルートです。

飛騨川に出る直前がやや不明ですけど、そこには白山神社があります。

気になるのは、夕田茶臼山古墳です。富加町のHPに詳しく書かれています。

以前から気になっているのが年代です。

引用させてもらいます
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
丘陵の尾根の上に築かれた前方後円墳です。全長は39.5mで、出土土器や炭化物のAMS年代測定により築造年代が3世紀中頃と判明しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3世紀中頃にこの地方に前方後円墳が存在することがどうにも納得いかないのです。







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菊理比売姫は誰?その12 もうお分かりですよね。

2023-01-02 06:58:36 | 猿田彦
白山比咩神社から、白山、白山中居神社、長瀧白山神社、郡上、洲原神社、そして志摩と、

おいらの妄想も加えてサタヒコ達の足取りを調べました。

サホヒコも一緒に行動していたのが分かったのが何よりの収穫でした。

最初はただ単にサタヒコが母親に会いに行ったのだと思っていましたけど、

その先に春日井の砂鉄があるかもしれないという結論に出くわしました。

それはサホヒコの考えのような気がします。

それについても,これから調べていきたいです。

その前に、タイトルである「菊理比売姫は誰?」ですよね。

この時代には、まだ倭姫は登場していません。

もうお分かりですよね。菊理比売姫=サタヒコの母親  そう考えていいのではないでしょうか?


後の時代に、サタヒコ達が三種の神器を伊勢に運びます。

船を建造しているときに犬山に滞在します。

八咫鏡は、大国主=伊勢津彦=サホヒコの御霊が宿っています。

木曽川の対岸の、各務ヶ原に一時置かれます。「かがみがはら」の名前はそこから来ていると思います

天叢雲剣は、丹後半島で作って持って来たのかどうかわかりません。

もし剣があるのならば、まだ彦坐王の御霊を宿してはいません。

この時点で剣が無いのであれば、春日井に出かけたときに、そこの砂鉄で作ったと推測します。

そして、そこで御霊を宿します。それが後に熱田神宮に収められるのでしょう。

丹後半島で作ったものがあるのなら、それが皇居にある「形代」ではないでしょうか?


さて、八尺瓊勾玉は?

丹後半島で作って、持ってきているようです。

犬山に行く途中で、美濃に寄ります。サタヒコの母親の古墳があるでしょう。

方県津神社にある古墳です。そこで、母親の御霊を八尺瓊勾玉に移します。

そして一時保管した場所が、犬山白山平ではないでしょうか?


そう考えると、すべてがピタリとくるように思いますけどいかがでしょう?

白山平と言う名前が、その時代に呼ばれたのかその後なのかは分かりません。

ですけど、泰澄はこの流れをすべて知っていたように感じます。

白山神社でもう一つ気になるのが、平泉寺白山神社です。

養老元年(717年)、泰澄によって開かれていますけど、なぜここの場所が今までの流れと違うのか?

これもこの先、検証したいと思います。

時間が無いかもしれませんので、遅くなるかも・・・






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菊理比売姫は誰?その11 白鬚神社

2023-01-02 06:09:16 | 猿田彦
重竹神社(天王神社)から900mほど北に行くと、白鬚神社がありました。

行かない手はありません。






山神様もおいでです


ここが、サタヒコが居た場所なのか、それとも後に出来た神社なのかは不明です。

住所も「志摩」なので、この付近が彼らの滞在していた場所と考えていいのではないでしょうか。

この場所に滞在したのはこの年だけではなく、毎年ある程度の日数滞在したのでは?

そして、春日井にも出かけているのではないだろうか?

目的は、春日井の砂鉄です。



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