たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

倭姫命(やまとひめのみこと)その9,美濃

2018-04-26 08:17:12 | 神社

さて、倭姫命は、いよいよ美濃にやって来ました。

「更に還りて近江国に入りて、東、美濃を廻りて、伊勢国に到る」

この、「東」と言う言葉が気になるのです。

単純に、近江の東と解釈してよいのか、美濃の東なのかそれ以外の意味があるのか良くわかりません。

倭姫命世紀では、美濃国の伊久良河宮に行ったことになっています。

天神神社のあたりがそこであろうと言われています。






伊久良河宮の少し北東に宗慶大塚古墳があります。

この古墳は、彦坐王と息長水依比売の間にできた子である、神大根王(かむのおおねのみこ)の

墓と言われます。

倭姫命のおばあちゃんの居た所はもう少し東の、方県津神社(かたがたつじんじゃ)付近です。

どちらから倭姫命は旅立ったのでしょうかね?

わかりません。

倭姫命世紀では、伊久良河宮付近で船を3艘もらってそこから伊勢に向かいます。

当時の海面は現在と比べてどう違うのでしょうか?

熱田神宮の近くは、当時海だったと言われています・


尾張名所図会を巡るより引用します

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日本武尊が宮簀媛命(みやずひめのみこと)のいる氷上(ひかみ)まで行った時の古い道(火高地古道)は潮干には歩いて渡ることが出来るが、満潮には渡ることが出来ない。
 呼続とはここから次へと呼び継いだところ故に名が付いた。昔はこのあたりから山崎、笠寺(現在の名古屋市南区)まで入り江になっていたが、新田開発を行い現在のような陸地となった。
 日本武尊の「この夕潮に 渡らへむかも」と詠んだ歌(詳しくは火高地古道を参照)や『方角抄』に「よびつぎの浜には海士の家居あり、塩屋かずかず見えたり」とあるようにここには古い道があった。

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調べてみると、ここから氷上(大高)までの道のようです



ここの標高は、1.6m とあります。

おいらの予想では、当時の海はもっと高かったと思ったのですけど・・・

これは、猿投神社から出てきた古い地図と言われるもの




このようなものもあります


でも、これらは、1300年前の様子ではないようです

偽物とも言われていますけど、そうとは一概に言えないでしょう

そこで、古代の海抜を調べると、以外!

2,000年前は、現在とほぼ同じだそうです。

http://www.kokudo.or.jp/grant/pdf/h25/tanabe.pdf

どういうことなのでしょう?



現在より、海面が1m高い状態を調べると



古地図と照らし合わせて考えると、時間がたつにつれ、川から流れる土砂が堆積したと考えられるのでは

ないでしょうか?

そのことについて、さらに調べることができるといいのですけど、時間がないので

これぐらいにして、次回からは次に進みたいと思います。

海抜についてこれほどややこしいとは思わなかった・・・






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御上神社

2018-04-10 11:05:31 | 神社


少し前に、御上神社に行ってきました




三上山が御神体


祭神は、天之御影神

金工鍛冶の祖神である天目一箇神であるとされています。

孝霊天皇の時代に天之御影命が三上山の山頂に降臨したのがはじまり。




鳥居をくぐると




本殿は国宝



本殿の裏には扉があり、そこを開くと三上山が見えるそうです。

天気が悪くて、あまり長居はしませんでしたけど、ちょうど雨がやんでいました。

ありがたいネ。

帰りには、安土城跡にも寄りましたけど、雨が降っていたので場所の確認のみでした。

何時か訪問したいです。





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倭姫命(やまとひめのみこと)その8,近江国

2018-04-09 11:06:26 | 神社



さて、倭姫命は、菟田の筱幡の次は日本書紀では以下です。


「更に還りて近江国に入りて、東、美濃を廻りて、伊勢国に到る」

近江付近を治めるのは、息長氏です。


倭姫命世紀では、近江の滞在は、坂田宮 (滋賀県米原市宇賀野835-2)となっています。


 
 

ここは、以前行ったことがあるので、ここに投降したんじゃないかと思い探しましたけど

わからず・・・投稿しなかったかも・・・



さて、例のごとく彦坐王の行動に当てはめると、場所は坂田宮ではなく、御上神社ではないかと。




息長氏は、野洲郡の出身で、そこから坂田郡から野洲郡付近に広がっていたと考えるのが

適当かと思います。

年代的にも彦坐王が行った場所は御上神社のある野洲の地と思います




もう一度、倭姫命の一般で言われている系図を見てみましょうか。



息長水依比売(おきながのみずよりひめ)が、彦坐王の妻になっています。

そして、その子に丹波道主命がいます。

その妻が、川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)となっています。


息長水依比売について、少し調べてみましょうか。

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父は天之御影神 (アメノミカゲノカミ)。

第九代開化天皇の皇子である彦坐王の妃の一人。

ヒコタタスミチノウシ、ミズホノマワカ、カムノオオネ、ミズホノイオヨリヒメ、ミイツヒメをもうける。



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おそらく、この野洲で、息長水依比売を妻にしたんじゃないのかな。

そして、その間にできた子に神大根王(かむのおおねのみこ)がいます

その墓が、宗慶大塚古墳(そうけおおつかこふん)でしょう。



そこから見た、冬至の日の出は、尾張戸神社です。

この神社は、古墳の上に建てられています。その古墳は、

彦坐王の殯(もがり)の場所ではないかと考えます。


墓はその麓にある白鳥塚古墳であろうと、水石亭主さんがおっしゃっておられます。

おいらも、そうだと思います。

このことは、あくまで、おいらの推測ですが、レイラインがぴたりとあたるということは

かなり意味があるでしょう。







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倭姫命(やまとひめのみこと)その7、うだのささはた

2018-04-01 15:08:33 | 神社

うだと言う名は、秦氏の「はた」の読みが、変化したものかもしれないという話があります。

もしそうなると、秦氏はかなり古くから日本に来ていたことになります。


もちろん、日本書紀の書かれた時代には秦氏は日本ですでに活躍していたので、その時の地名を使った

とも考えられますが、まあ、素直に考えましょうか。




「ササ」とは、砂鉄の意味もあると。水石亭主さんのブログに、あったような記憶が・・・

調べたら、ありました。



鳥取県の樂樂福神社(ささふくじんじゃ)のHPより引用します

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当社は大日本根子彦太瓊尊(第七代孝霊天皇)を主神とし、皇后、后妃、皇子及び其のご一族を奉斎する。

天皇はご幼少の御時「樂樂清有彦命(ささきよありひこのみこと)」と称し、

また「笹福(ささふく)」と号された。

古くは砂鉄生産の守護神として厚く崇敬され日野郡開拓鎮護の総氏神として

日野大社笹福大明神と尊称された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


砂鉄ってこんな古い時代から製鉄に使われていたのでしょうか?

鉄にまつわる歴史は、諸説ありすぎて混乱します。

実際は、どうなんでしょう?証拠となるものが無いのであいまいのままのようですけど

かなり古くから、砂鉄からの製鉄が行われていたと考えるのが適切かもしれない。


ところで、「うだのささはた」ですけど、「ささ」の次にも、「はた」がある。

なんのこっちゃ? 

「はたさんの住んでいる所の、砂鉄を使うはたさん」とでも解釈すればよいのでしょうか?






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