たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

知立神社

2013-06-29 14:37:45 | 神社

吉良温泉に行ってきたんですが、その帰り道、知立神社に立ち寄りました

国道1号線と155号線の交差する南西のところにあります








若いころ、知立には1年足らずですが住んでいました

でも、今回が、初めての参拝です

「知立」の語源は、「茅立」で、茅の育つ湿地帯を意味するそうです。

さて、この知立神社の創建は景行天皇42年(112)、

日本武尊が東夷東征の際、伊知里命に命じて祖神の分霊を勧請し

仲哀天皇元年(192)に社殿が造営されたのが始まりと伝えられているそうです

創建当初は、現在地の東1Kmの山町の北に鎮座していたそうです

どこだろう?

大あんまきで有名な藤田屋のあたりのようです


右のほうに御手洗というところがある、おそらくここが、手水舎のあたりでしょうか

その後、天文16年(1547)兵火により社殿が焼失、上重原へ遷座

さらに元亀2年(1571)に再び焼失すると天正元年(1573)に現在地に遷座

当時の領主水野信之が社殿を造営とあります


上重原のどこに遷座したのか場所がどれだけ調べても分かりません

それに、期間も短いですね

重原という地は昔は、しぎはらといって「しぎ」という鳥が住んでいた原っぱだそうです

そして、、平安期の荘園(重原荘)の中心であったのが、本郷地区と言われております

そこには、重原城という城があったようです

創建当初の知立神社のあたりからの、冬至の日没もこのあたりを通ります



このあたりなのでしょうかね?

重原城について少し調べます


重原城が城郭として整備されたのは、16世紀前半に刈谷城の水野氏(織田方)が今川・松平氏の勢力への防御拠点として改修した時(平安期、守護地頭の居館があったと考えられている)。


天文17(1548)年、城主島津政兼が今川方に就いたため、尾張の織田信秀は重原城を攻撃して奪取


その後、今川方の松平広忠にこの城は攻撃されている。(織田信長の親父と、徳川家康の親父の戦い?ですね)

翌天文18(1549)年、今川氏の軍師とも言われる太原雪斎が安祥城を攻略すると、織田氏の拠点城郭として重原城の重要性が増した。

天文23(1554)年に織田信秀が没すると、今川氏は攻撃。重原城は落城した。

今川氏は重原城を尾張侵攻の拠点城郭として整備し、村木砦構築の資材はこの城を経由して送られたと言われている。(信長が始めて鉄砲を使用した戦)

永禄3(1560)年、桶狭間合戦によって今川義元が討たれると、重原城は水野信元によって奪回

『水野勝成覚書』には同年6月18日に、徳川家康が重原城を攻めたと記載されている。

少しややこしいですね。

水野信元は、家康の伯父ですが、織田方です

重原城が廃城になったのは、清洲同盟(水野 信元が仲介)が成立して、織田氏と徳川氏の間での騒乱がなくなった永禄5(1562)年頃とされます。

先にも書きましたが、その後、知立神社は、1571年に再び焼失、1573年に現在地に遷座

当時の領主水野信之が社殿を造営とあります
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針綱神社

2013-06-19 09:03:43 | 神社
このニュース面白い

おいらも、やってみたいね~♪

そういやぁ、火を起こしたこと無いです

お米は簡単に炊ける

魚釣りは、最近やってない  ちなみに、キャッチアンドリリースという言葉は嫌いです

水の確保が一番大事でしょうね



さて、昨日の針綱神社について調べてます


昨年撮った画像、犬山城です。右のふもとが針綱神社で、おそらく、その右の小高い丘みたいなのが

東之宮古墳のあるところ。

建稲種命(たけいなだねのみこと)と、玉姫との間にできた息子、

尻綱根命(シリツナネノミコト)が、祭ってあります。

そして、その子である、尾治針名根連命(おはりはりなねむらじのみこと)も祭られています

針綱の2文字はここから来てるのでしょうか?


御祭神は、このようです

******************

【御祭神】


尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)
玉姫命(たまひめのみこと)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
菊理姫命(きくりひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
建筒草命(たけづくさのみこと)
建多乎利命(たけたおりのみこと)
建稲種命(たけいなだねのみこと)
尻調根命(しづきねのみこと)
大荒田命(おほあらたのみこと)

******************

 下から2番目の「尻調根命」というのが、「尻綱根命」でしょう。

古事類苑から引用します

***************

尻調二字を、舊事紀に尻納、または尾綱ともかけるに見なれて、

古事記傳及荏野册子に、尻綱根命とし、

熱田尊命記集説、本國帳集説、尾張式内神社考證等には、尾綱根命とかけり

*****************

尾治針名根連命(おはりはりなねむらじのみこと)は、

尾張氏の祖先神で尾張国一宮の真清田神社の御祭神でもある

天火明命(あめのほあかりのみこと)の十四世孫とのこと。

真清田神社とのつながりも、ここで見えてきました。

できれば、もう少し掘り下げてみたいですね

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青塚古墳

2013-06-16 10:04:22 | 神社
昨日の話しの続きです


尾張戸神社は、成務天皇5年(135)簀媛命による勧請と伝わってるそうです。

日本武尊が、東方遠征から帰り結婚して、それほど年月がたたないうちに

なくなったとすると、(113年, 景行天皇43年, 日本武尊、能褒野で、薨御)

そのとき簀媛命が20歳ぐらいとすると尾張戸神社を勧請したのは、40から45才ぐらい

おそらく、玉姫命もそれほど年齢に違いがないでしょうね

父親の大荒田命が、そのころに亡くなっていてもおかしくないですね

でも、古墳時代は、250頃–600末頃ですので、青塚古墳(大荒田命の墓とされてる)は、時代が合わないですね。



一方、このような説もウィキペディアより

*************


『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代と重なることになる。

****************

318年説が有力かな?

それに、ヤマトタケルの存在も本当かどうかとか、その父親の景行天皇の実在性も疑問が出されていると。

実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと考えられているとのこと。

とすると、なんか無意味な感じ・・・

気を取り直して、強引に数字を当てはめると

倭姫命は、垂仁天皇25年、最終的に伊勢に落ち着くとありますので、313年に25年を足した年代より

数年後にヤマトタケルが東方遠征に行ってるので、350年ぐらいに簀媛命と結婚となるのかなぁ

すると、最初の計算にあてはめて、370年くらい?

古墳時代ですね。

計算が合いました



一番最初に書いた「尾張戸神社は、成務天皇5年(135)簀媛命による勧請」

というのは、日本書紀に書かれていたことかもしれない・・・違いますね

「東谷大明神草創本基」とかいうのに書かれているようです

これが何なのかはわかりませんでした


まだ、自分なりに整理できていませんけど、天皇も

神武天皇と崇神天皇が同一人物である可能性が極めて高いとか、

なんと、年齢がおかしい

神武天皇の127歳、崇神天皇は120歳で亡くなっているとのこと。

昔の天皇は長生きだったんだ~???

一説によると、中国に見栄を張るために日本の起源を昔にするためだとか


籠名神社祝部海部直氏系図というものがあります

この系図が西暦870年台に作られたことが間違いないそうです

それは、第四世から第十七世までが抜けているそうです。

抜けたのではなく、書きたくなかった?

この第四世から第十七世にかけての時代は、崇神天皇の時代前後に相当

『魏志倭人伝』でいえば〈卑彌呼〉の時代とその前後に相当しているそうです。

これなども、天皇の話と関係してるのかも知れませんね







コメント (2)
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