吉良温泉に行ってきたんですが、その帰り道、知立神社に立ち寄りました
国道1号線と155号線の交差する南西のところにあります
若いころ、知立には1年足らずですが住んでいました
でも、今回が、初めての参拝です
「知立」の語源は、「茅立」で、茅の育つ湿地帯を意味するそうです。
さて、この知立神社の創建は景行天皇42年(112)、
日本武尊が東夷東征の際、伊知里命に命じて祖神の分霊を勧請し
仲哀天皇元年(192)に社殿が造営されたのが始まりと伝えられているそうです
創建当初は、現在地の東1Kmの山町の北に鎮座していたそうです
どこだろう?
大あんまきで有名な藤田屋のあたりのようです
右のほうに御手洗というところがある、おそらくここが、手水舎のあたりでしょうか
その後、天文16年(1547)兵火により社殿が焼失、上重原へ遷座
さらに元亀2年(1571)に再び焼失すると天正元年(1573)に現在地に遷座
当時の領主水野信之が社殿を造営とあります
上重原のどこに遷座したのか場所がどれだけ調べても分かりません
それに、期間も短いですね
重原という地は昔は、しぎはらといって「しぎ」という鳥が住んでいた原っぱだそうです
そして、、平安期の荘園(重原荘)の中心であったのが、本郷地区と言われております
そこには、重原城という城があったようです
創建当初の知立神社のあたりからの、冬至の日没もこのあたりを通ります
このあたりなのでしょうかね?
重原城について少し調べます
重原城が城郭として整備されたのは、16世紀前半に刈谷城の水野氏(織田方)が今川・松平氏の勢力への防御拠点として改修した時(平安期、守護・地頭の居館があったと考えられている)。
天文17(1548)年、城主島津政兼が今川方に就いたため、尾張の織田信秀は重原城を攻撃して奪取
その後、今川方の松平広忠にこの城は攻撃されている。(織田信長の親父と、徳川家康の親父の戦い?ですね)
翌天文18(1549)年、今川氏の軍師とも言われる太原雪斎が安祥城を攻略すると、織田氏の拠点城郭として重原城の重要性が増した。
天文23(1554)年に織田信秀が没すると、今川氏は攻撃。重原城は落城した。
今川氏は重原城を尾張侵攻の拠点城郭として整備し、村木砦構築の資材はこの城を経由して送られたと言われている。(信長が始めて鉄砲を使用した戦)
永禄3(1560)年、桶狭間合戦によって今川義元が討たれると、重原城は水野信元によって奪回
『水野勝成覚書』には同年6月18日に、徳川家康が重原城を攻めたと記載されている。
少しややこしいですね。
水野信元は、家康の伯父ですが、織田方です
重原城が廃城になったのは、清洲同盟(水野 信元が仲介)が成立して、織田氏と徳川氏の間での騒乱がなくなった永禄5(1562)年頃とされます。
先にも書きましたが、その後、知立神社は、1571年に再び焼失、1573年に現在地に遷座
当時の領主水野信之が社殿を造営とあります