たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

C14年代測定

2022-09-30 05:14:23 | 猿田彦
弥生時代とは、前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、

後期は1世紀中頃から3世紀の中頃まで続いたと考えられている

一般的に3世紀中頃古墳時代に移行したとされる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このように言われています。

どのような経過でこのようになったのかはよくわからないのですけど、

おそらく、C14年代測定が表す数値もある程度関係しているようです。

ところが、この測定値が実際の年代と少し違う値を示すそうです。

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大気圏及び水圏での炭素14濃度分布は、拡散、循環、均衡の影響を受けるため不均一である。中緯度地域の表層海水は大気より400年以上、深層海水は700年から1000年以上古い年代を示す。更に時代と地域により年代差は変動する。また、南半球の大気は北半球と比較し40年古い年代を示す。つまり、南半球の大気を起源とする有機物の場合、画一的に40年を差し引く必要があることになる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
植物が炭素を固定する際に同位体選別と呼ばれる現象が生じ、植物の種毎に試料の炭素14濃度と年代には差異が発生する

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
国内でも弥生時代や古墳時代の開始時期について放射性炭素年代測定では実際より古く年代が推定されることが判明している。これは国内の年輪や出土物などの年代推定と比較して校正線を作成することで明らかとなった。特に土器については食物の貯蔵や調理に海産物である塩分が不可欠であることから、土器に付着した海産物のリザーバー効果により最大数百年古く推定されることに注意する必要がある
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

年代により、そして場所により誤差があるようです。

300年頃はどうなのか?あれこれ探しました。このような表を見つけました。
残念ながら、400年までしかわかりませんけど参考にはなるでしょう。


どうやって見るんだろう?←おいっ!

CAL BP とは、、1950年を基点とした年代で、上の数字はそこから1550年遡るということらしい、

つまり、下の数字と同じと言うことですね。下の数字は西暦ですね。

左が、C14の数字でしょう。

直線が古い数値、曲線が修正後の数値と言う事かな。

直線のグラフは、ほぼ100年でC14の値が100減っているようですから、

400年を考えると、C14の値が130ぐらい違うということで130年差があります。

残念ながら、300年頃の修正値が分からないので正確な数字は出ませんけど、

50~100年ぐらいの差はあると予想できます。

勝手に想像してみました。


これだと50年の違いです。←全く根拠はありません。



そうすると、おいらの年表と妻木晩田遺跡の出土品の年代が合うのではないだろうか?←強引

弥生時代後期は1世紀中頃から3世紀の中頃までと言われます。つまり、50年から250年頃ですね

誤差が、50年だとピタリ。サホヒコの時代になりますけど、100年だと1~2世代後になります。

サタヒコの息子である「神大根王」の息子たちかもしれない。

おいらの推測では、神大根王=金山神ですから、あり得るかもしれません。

でも、彼らの古墳が妻木晩田遺跡にあるとは考えにくいのです。

やはり、妻木晩田遺跡はサホヒコの最後に住んでいた所と思います。
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遊んでみました

2022-09-29 04:48:39 | 猿田彦
神宮HPの地図です。上が北ではありません。


それを、googleの地図に貼り付けます。そして、土宮の参拝方向に線を引きます。


これだと、レイラインの交差する場所にピタリですけど、本当は、100mぐらい離れています。


あれこれやっていると、土宮は、上社に向いているのではないかと思い試すと

そうとも考えられます。ブルーの線が、上社からのものです。

案外そうかもしれませんね。
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豊受大神宮別宮 土宮

2022-09-28 04:38:50 | 猿田彦
前回、「風宮が鍛冶に関する所ではないか」と言うことを書きましたけど、土宮は何だろう?

風宮が鉄に関する所ならば、鍛冶をするための鉄材などと、完成品の保管場所なのでしょうか。

そうすると、土宮は辰砂の保管場所なのだろうか?

いろいろ調べているうちに、土宮だけが向きが違うということがわかりました。

以下、神宮のHPより、引用させてもらいます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
他の別宮が全て南面するのに対して土宮だけが東面しています。保延元年(1135)のご造営の際もこの点が問題となり、朝廷においても十分検討されましたが、結局は従来通り東面に建てられることになりました。これについては南面に建てれば正宮を後にするとか、地勢の便宜上の理由に拠るとか、古来種々論じられてきましたが、詳らかにしません。但し、理由の如何にかかわらず、東向きにご鎮座するということは外宮ご鎮座以前にさかのぼり、古くからの姿を残したものといえます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうしてでしょう?

とりあえず、地図に落として考えましょうか。

googleの地図では土宮の向きがはっきりわからないし、神宮のHPの地図では方向が分かりません。

神宮のHPの地図です。Cが土宮ですね。この地図は、上が北ではありません。

この地図を、方向を修正してgoogle地図に合体させてみます。


手作業なので、少し誤差があることはお許し願います。

さて、どこを向いてお参りしているのでしょうか? 驚きましたよ!




レイラインの交差する場所ではないでしょうか?

レイラインのように決定は出来ません。地図の建物、敷地の向きが本物と同じかどうかが分かりません。

他の地図も見てみましたけど、やはり地図により少し向きが違いました。

違う場所を向いているのかもしれません。

レイラインの交差する場所と断定することには無理があります。

とりあえず、土宮は、辰砂の保管場所などではない可能性が高いですね。

そうすると、風宮も鉄の保管場所なんかではなく、もっと高尚な場所と考えたほうがいいですね。

いくらなんでも、倉庫に向かってお参りしていたなんて考えたくもありませんよね。ヨカッタ。


もうひとつわかったことは、今まで日の出日の入りだけのラインしか見つけられなかったのに

今回は、それ以外のラインもあるということが分かりました。






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鞴(ふいご)

2022-09-27 04:45:26 | 猿田彦
鞴とは火力を強めるために用いる送風装置(コトバンクから引用)です。

弥生時代後期には、鞴(ふいご=送風機)と羽口(はぐち=送風口)を使って、炉に風を送り込み高温の状態を作ることが出来たそうです。

サホヒコも当然鞴を使って鍛冶をしていたのでしょう。

ここでふと思い当たるのが、伊勢津彦=風の神様では無かったっけ?

「伊勢を去る際、大風を起こし光輝いて日の如くあった」といわれます。

これは、製鉄をしている時の様子ではないかと言う説もあるようです。

今までの流れだと、製鉄ではなく鍛冶ですね。

どちらでも同じことですけど、サホヒコは、鞴に関する特殊な技術を持っていたのではないだろうか?

それが、風の神様と言われる理由かもしれない。

外宮にある、豊受大神宮別宮 風宮は、本来そのような意味があるのではないだろうか。

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伊勢の鍛冶

2022-09-26 04:47:32 | 猿田彦
春日井から伊勢に送る鉄は製品ではなく素材で送っていたと考えます。

一般には、弥生中期末期には鉄素材を高温にして、それを鍛えて製品にしていたそうです。

それを、鍛冶と言うとのこと。

調べると、色々出てきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
弥生時代後期には、鞴(ふいご=送風機)と羽口(はぐち=送風口)を使って、炉に風を送り込み高温の状態を作ることが出来たそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鉄素材の産地を朝鮮半島に求めても、3世紀代の砂鉄製錬遺跡は現在のところ未検出である。
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「鍛冶」はあて字。「かなうち(金打)」が「かぬち」となり、さらに「かぢ」と変化した語) 金属を打ちきたえて、いろいろの器具をつくること。
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日本では、この時代に砂鉄から製鉄を行っていたということが、今はまだ認められていないみたいですね。

さて、本題に戻り、サホヒコは春日井から来た鉄を使い鍛冶で製品にしていたのではないかと考えられます。

すると、場所は港の近くかもしれません。

何処だろう?

捜すと、外宮に「大津神社」というところがあります。おいらはまだ訪問したことがありません。

「大津神社」の祭神は、五十鈴川の河口を守る神様、葦原神。

なんとなく、サホヒコっぽいですね。

その近くに「上御井神社(かみのみいのじんじゃ)」があります。ここは一般の人は入れないそうです。

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三重県伊勢市豊川町の伊勢神宮外宮境内、高倉山を構成する1山である藤岡山の山裾に鎮座する。

外宮の所管社4社のうち第3位である。社殿はなく、「御井覆屋」が上御井を覆っている。

覆屋は二重の板垣に囲まれている。

祭神は上御井鎮守神(かみのみいのまもりのかみ)。

外宮の御料水の守護神、ないしは御料水を汲み上げる井戸の守護神とされる。

外宮の祭儀の折には、上御井神社にも祭祀が捧げられる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

井戸があるようです。

単純に考えると、サホヒコたちが、ここで鍛冶を行ったとします。

高温でしかも鉄を槌で叩くという労働をします。

汗をかくので、水分補給が必要ですね。

そのための井戸じゃないかとも思うのですけど、いかがでしょう?

そうすると、サホヒコの住まいは、「大津神社」でしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「上御井」は、神に供える水を汲み上げる井戸。
上御井の予備の井戸として下御井神社が祀られている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

位置から考えると、下御井神社は、その後のサタヒコの時代の鍛冶をする場所のように思われます。

と言うことは、サホヒコがいなくなってからは、春日井からの鉄の供給が無くなったということです。

サホヒコを追い出した、天日別命(あめのひわけのみこと)は、鉄の供給が出来たのだろうか?

そのことについては、まったく資料が無いのでその後に起こることから推測するしかありません。

なかなか難解な事なので、今後に持ち越します・・・


いろいろ調べていて、おもしろいなと思ったことは、「高倉山」と言う名前です。

これって、春日井の「高座山」と同じ発音ですよね。

鉄と一緒に、山の名前も運んできたみたいです。。。

それと、志段味 → 志等美神社 これもそうですね。
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硬玉(翡翠)の分布

2022-09-25 04:25:01 | 猿田彦
妻木晩田遺跡から岡山に行き、さらに四国に出向いています。



硬玉(翡翠)の分布図を見てみましょうか。

縄文時代の分布です

赤丸は、妻木晩田遺跡でしょうか?その近くの遺跡なのでしょうか?

どちらにしても、縄文時代にはすでに糸魚川の翡翠はここまで来ています。

すでに、航路が出来ていたと考えられます。

弥生時代はどうでしょう?


岡山、四国のサタヒコ達が行った先に翡翠が分布しています。

弥生時代の分布なので、彼らによるものなのか、それ以前に持ち込まれた物なのかは分かりません。

妻木晩田遺跡の時も鉄滓の時代が、弥生時代後期後葉から古墳時代前期中葉と言う

時間幅で考えるというようなことになっています。

きちんと時代を特定することは難しいようです。

おいらは、彼らが持ち込んだものと考えていますけど・・・


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諏訪そして糸魚川、丹後半島

2022-09-24 04:54:17 | 猿田彦


諏訪そして糸魚川、丹後半島にいる時の年齢は、サホヒコ31歳から、40歳。

サタヒコは、16歳から25歳。

当然どこかに妻が居るでしょう。当時の婚姻の形はよくわかりません。

もしかすると、それぞれの場所に現地妻がいるかもしれない・・・うらやましくもないけど・・・

サホヒコ(大国主)の妻は、やはり奴奈川姫かもしれない・・・分からなくなってきた・・・

当然サタヒコも糸魚川には妻が居たと思います。

ですから、糸魚川と丹後半島の交易のため船で往復していたかもしれません。

丹後半島での妻は、もちろんアジサハヒメ=アメノウズメですよね。

アジサハヒメを娶ったのはまだあとの事なので、それまでは丹後半島には妻はいなかったかもしれない。

まあ、これも不確かです。書かない方が良かったかなぁ・・・





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サホヒコ、サタヒコの年齢

2022-09-23 04:59:36 | 猿田彦

伊勢を追い出された後、諏訪に行きます。その滞在期間が分かりませんので、

とりあえず3年としておきます。同様に、糸魚川、丹後半島も3年とします。

これで、何かわかるかもしれません。

まず、彦坐王が春日井で製鉄を始めるには、砂鉄のある場所が分からなければなりません。

おそらく、犬山の東之宮古墳の埋葬者である、尾張大印岐(おわりおおいみき)に尋ねたと思います。

彼らは、すでに高蔵神社磐座の事は知っていたはずです。

その近くに砂鉄があることも知っていた可能性があります。

それが鉄の材料と言うことは知らなかったかもしれません。

そう考えると、彦坐王はわりと早くから製鉄を行っていたかもしれません。

技術者は、妻と一緒に丹後半島から来ていますので問題はないでしょう。

そうすると、サタヒコは若いころから父親と一緒に春日井に居たと思います。

ですから、製鉄の事はよく知っているでしょう。

そして、伊勢にも一緒に行っていたと思います。

サホヒコとも面識があるはずです。





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竹野神社

2022-09-22 05:03:27 | 猿田彦





竹野神社の本殿祭神は、天照皇大神 

本殿脇の摂社・斎宮神社の祭神は、日子坐王命、開化天皇皇子で丹波竹野別の祖・建豊波豆羅和氣命、
そして竹野媛命

この、丹波竹野別の祖・建豊波豆羅和氣命と言う人が分からない。

実在ならば、彦坐王の兄弟になります。







海面上昇の画像です

今回3mの上昇ですけど、4mでも良かったかな。

作製している時点で、一の鳥居が水没するのでおかしいと思っていました。

社伝では、丹波大県主由碁理の娘で、開化天皇の妃であった竹野媛が年老いて後、

天照大神を祀ったのが当社の起源とのこと。

これって、おかしいよね。竹野媛は、彦坐王の母親です。

いくら年老いたとしても、その時代には、まだ天照大神は存在していないです。

と言うことは、この神社の創建は、もっと遅いということになります。

ですから、一の鳥居も、参道もこの地図では、水没することになります。

じゃあ、なぜここに天照大神が祀られているのでしょうか?

もしかすると、ここがサホヒコの滞在した場所かもしれない。

ならば、天照大神ではなく、大国主ではないかとなります。

でも、出雲神話は後に出来た作り話と言うことになれば、大国主と言う名前は出てこないのかもしれません。

この事については、もう少し調べないと何とも言えませんね。

これくらいにしておきましょう。

サタヒコは何処に居たのかと考えると、母親の兄弟の住んでいる付近と思います。

父親の彦坐王が住んでいた船岡神社かもしれない。

それとも、母親の兄弟の、倭得玉彦命=天目一箇神の居る藤社神社かもしれない。

のちに、倭得玉彦命の娘のアジサハヒメ(アメノウズメ)を、妻とします。

比沼麻奈為神社はその時に出来たと思います。

ですけど、サタヒコはこのころ、つまりサホヒコと一緒に丹後半島にいる時には、丹後には落ち着いていなかったと思うのです。

つまり、越と丹後半島を行き来していたのではないだろうか?

翡翠と鉄の交易をしていたのではないだろうか?

そのころに出来たのが、白山比咩神社ではないでしょうか?


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伊勢津彦 その2

2022-09-21 05:27:04 | 猿田彦
伊勢津彦=サホヒコとして考えていきます。

生れは 250年頃。 262年に父親の彦坐王と美濃に来ています。12歳ぐらいですね。

265年頃にサタヒコが生まれていますので、その後に彦坐王と一緒に伊勢に行ってます。

仮に、266年とすると、16歳。

彦坐王がどれくらいの期間、伊勢に居たのか分かりません。おそらく美濃と伊勢の間を

定期的に往復していたと思います。

そうしているうちに、辰砂の加工をしていた森添遺跡(後の久具都比賣神社)と交流が出来て

交易の品、つまり「鉄」が必要と思った。それから春日井に砂鉄があるということを聞き

彦坐王が、そちらにそちらに出向いた。そして製鉄をはじめた。

それから森添遺跡(後の久具都比賣神社)との交易が始まった。

それが何時頃なのか、まったく見当がつかないです。仮に、270年頃とすると

サホヒコは、20歳。

この時代、彼にはすでに妻が居てもおかしくはありませんね。17歳で妻を娶ったとしましょうか。

18歳で、長男が出来る。268年。

そして、281年に、天日別命(アメノヒワケ)に、伊勢を追い出される。31歳です。

15年ほど伊勢に居たことになります。

長男は14歳ぐらいです。サタヒコは16歳ぐらいで、ほとんど違わないですね。

この長男が、建御名方神(たけみなかたのかみ)と思います。

一行は、諏訪に行き滞在します。これもどれくらいの期間かは分かりません。

3年としましょうか。すると284年。建御名方神は、17歳。この時代、そろそろ妻を娶る頃でしょう。

八坂刀売神(やさかとめのかみ)が妻でしょう。サホヒコは34歳ぐらいです。

そして、糸魚川に行きます。ここで、次男が妻を娶ります。沼河比売が彼の妻でしょう。

大国主(サホヒコ=伊勢津彦)ではないと思います。

次男は、事代主でしょう。

越に、3年居たとすると、サホヒコは37歳。287年。

その後に、妻木晩田遺跡に行くのですけど、その間に丹後半島に滞在したのではないかと思うのです。

サタヒコは当然滞在しているでしょう。母親の実家ですから。

ホムチワケが、出雲に行くのが294年。サホヒコは、44歳。

おそらく、300年頃に彼は亡くなっていると思います。50歳ぐらい。





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伊勢津彦神

2022-09-20 04:49:05 | 猿田彦
彼の名前を調べると、伊勢津彦神、櫛玉命(くしたまのみこと)

そして、出雲建子命(いずもたけこのみこと)が出てきます。

「櫛玉命」の意味がいろいろ調べても分かりません。

「櫛」とは女性につく名前ではないのか?

「櫛名田比売」の名前がすぐに浮かびます。その由来がこちらに書かれています。

引用させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神名のクシナダはクシイナダの約とされ、『日本書紀』第八段に「奇稲田姫」と見えるのがその意義を表しているとされる。『日本書紀』の一書一には、単に「稲田媛」ともあり、櫛名田比売の神格は、稲田の祭りを行う巫女、もしくは稲田の守護神といったように捉えられている。クシ(奇し)は、霊妙なことを意味する語とされ、『古事記』の「櫛」の字は、櫛名田比売が櫛に変身したことを踏まえた借字と考えられるが、文字の通りの櫛を指すとする見方もある。『日本書紀』の一書での神名に「真髪触奇稲田媛」ともあって「真髪触(まかみふる)」という語が、髪に挿す「櫛」との関係を示唆する。祭祀のための斎串(いぐし)の意とする説もある。また、クシが酒の美称でもあることから、大蛇を酔わせた酒を含めて、「奇」「櫛」「酒」という連想が神話の展開上に働いているとする見方もある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もう一つこちらから引用させていただきます
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古代日本では先端のとがった1本の棒に呪力が宿るものと信じられていたそうです。神にささげる玉串、神を招くときにたてる斎串もその例であるように髪に1本の細い棒を挿すことによって悪魔を祓うことが出来ると考えられていたのです。
それが「簪」のはじまりといわれています。
伊勢神宮にも神様の神宝として古来よりやはり、つげぐしがおさめられています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
簪(かんざし)

「玉」については、玉つくりの事でしょう。サホヒコは、越で勾玉の製造にかかわっていたと思います。

クシ(奇し)は、霊妙なことを意味する語と解釈すると、

勾玉を作る特別な技術を持った人 こんなところでしょうかね。



次に、「出雲建子命」 なんで「子」なのか?これも理解に苦しみますね。

妻木晩田遺跡のある場所を「出雲」とするなら「出雲建」までは合ってますけどね。

サタヒコが「白」と言う単語をよく使うのですけど、その「白」とは、

出雲の「雲」から来ているのではないかと思うのですけどいかがでしょう?

もしそうなら、妻木晩田遺跡=出雲になります。

名前についてはこれくらいにしておきましょうか。




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外宮の場所

2022-09-19 05:09:22 | 猿田彦
上社から外宮までの距離は直線で1,3km。

伊勢津彦が住んでいたとするには、少し遠い気がします。

上社の隣には、志等美神社(しとみじんじゃ)があります

「しとみ」とは動詞「しとむ」の連用形が名詞化したもので、「水に浸る」「水に浸かって濡れる」

そのような意味だそうです。

そこで思い出すのは、志段味です。春日井にある地名で、その地名はおそらく美濃の方々津神社

付近にある同じ志段味という地名からついているとおもわれます。

春日井の志段味(しだみ)の地名は東谷山の峰からしたたる水が幅広く溜まるところ、に由来しているそうです。

「しとみ」と「しだみ」は同じ意味ですね。

美濃の志段味は、「長良志段味」と言う所です


左上の、五社神社がサタヒコの生まれ故郷と思います。

隣の諏訪神社がおそらく、伊勢に行く前までサホヒコの住んでいた所と推測します。

そうすると、志等美神社(しとみじんじゃ)の名前は、「サホヒコ」つまり「伊勢津彦」が付けた

のではないでしょうか。

おそらく、伊勢津彦はこの 上社、志等美神社 付近に住んでいたのでしょう。

猿田彦の役目は、大国主=伊勢津彦=サホヒコの御霊を宿した鏡を祀る場所を伊勢のどこかに

造ること。同時に、彼の妻であったアジサハヒメ=アメノウズメも祀るという事がありますけど、

伊勢の辰砂を手に入れることも考えていたはずです。

ですから、倭姫が久具都比賣神社を訪問する話があるのでしょう。

いつもの通り、猿田彦(サタヒコ)の名前は消されています。

そうして、久具都比賣神社の人達との交易の話が出来ると港が必要になります。

それが、月夜見宮でしょう。

伊勢の辰砂と春日井の鉄が主な交易の品と思われます。

すると、辰砂や鉄を保管する場所が必要になります。それが外宮ではないでしょうか。

なぜ、外宮があの場所にあるのか、当たらずとも遠からず・・・と思います。
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伊勢津彦

2022-09-18 05:17:34 | 猿田彦
上社の位置です。



やや妄想に近くなるかもしれませんけど、

今までわかったことを踏まえて状況を考えてみたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上社が宮川の河口にあるということは、久具都比賣神社の人達と交易していたと思われます。

上社は、久具都比賣神社から来た辰砂を陸揚げする所。

辰砂は、陸揚げされた後、近くで保管される。

その後、大型船に積み替えて、美濃や春日井に向かった。

そうすると、伊勢津彦は上社付近に住んでいたことになります。

じゃあ、斎宮の場所はと言うと、伊勢津彦は、最初は斎宮付近に居たのでしょう。

例の、ラインが交差する場所の近くです。

櫛田川を遡ると辰砂のある、丹生水銀鉱跡に行きますから。

最初のころは、自分たちで丹生水銀鉱に行き、辰砂を掘り櫛田川を下り、

斎宮の場所から船で美濃に運んでいたのでしょう。

美濃からは何を輸出したのだろうか?当時、美濃で製鉄を行っていただろうか?それは不明です。

しかし、その後、春日井で製鉄を始めると、味鋺神社の港から

鉄を伊勢に向けて運び始めた。

それから森添遺跡(後の久具都比賣神社)との貿易が始まったのかもしれない。

上社に移動したのは、その時からと考えられます。

伊勢津彦と言う名前が付いたのは、それからでしょう。

ちなみに、津の意味は、船着き場や港、人が多く集まる場所あるいは地域なので、

伊勢津彦とは、伊勢の港の男と言う意味でしょうか。

月夜見宮は何だろう?

もしかすると、大きな船の着く港かもしれない。

猿田彦たちが来た時には、上社の港は浅くなり、入ることが出来なかった。

もしくは、上社ではせまくて何隻もの船が留められなかった。

ですから、新しく月夜見宮の所に港を造った。

そのように考えます。




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月夜見宮

2022-09-17 05:43:35 | レイライン


海面を4m上げた地図を見てみましょう


ほぼ当時の様子と思います。月夜見宮は、港でしょう。でも、なんで宮川の中に位置しないのか

少し疑問です。何か他の役目があったのでしょうか?

気になったので、宮川付近の神社を調べると、上社(かみやしろ)と言う神社がありました。

上社の境内社には、櫛玉宮があり、伊勢津彦大神・伊勢津姫大神が祀られています。

近くの、大河内神社には、大山祇神(オオヤマツミ)が祀られています。

推測に過ぎないのですけど、大山祇神=彦坐王ではないかと思います。

それはともかく、ここも、海面を4m上げた地図を見てみます。


港のようですね。それと、櫛玉宮が気になりますよね。

櫛玉宮には、伊勢津彦大神・伊勢津姫大神が祀られているということは、

伊勢津彦はここを何かの拠点としていたのでしょうか。

それと、伊勢津姫大神とは伊勢津彦の妻なのでしょうか?

調べても何も資料が出てきません・・・

もしそうなら、伊勢津彦にとってはこの場所が重要な場所であるということになります。

伊勢津彦がここに居た時代には、月夜見宮はまだ無かったのではないかな。

内宮の近くにも、字が違いますけど、月讀宮がありますよね。

ということは、猿田彦と倭姫命が伊勢にやって来た時に出来たとするのが適当かと思います。

4m水面を上げた地図を見てみましょうか


月讀宮は、海ではなく五十鈴川の岸にありますね。

と言うことは、船が長く留まっていると考えられます。

その他には、川底が深くその場所まで入っていくことが出来たとも考えられます。

宮川は、川底が浅かったのだろうか?

伊勢津彦が伊勢を追い出されたのは、281年頃。

猿田彦と倭姫が伊勢に来たのは302年頃。

その、20年ぐらいの間に上社付近の川底が埋まって高くなってしまったのだろうか?

確認が出来ないので、これぐらいにしておきましょうか。







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瀧原宮

2022-09-16 04:47:18 | レイライン

瀧原宮は、倭姫命が内宮よりも先に天照大御神を祀った場所という伝承があるそうです。

宮川の河口から約40km上流にあります。


冬があまりにも寒いので、ここをやめて現在の内宮の場所に移ったという話を聞いたことがあります。


ホントかどうかはわかりませんけど・・・


なんか、ゼロ磁場の隠れたパワースポットとも言われているようです。

そちらの方は、おいら興味が無いのでこれ以上は書きませんけど・・・

レイラインがあるにはあるのですけど、これが確認が出来ないのです。
とりあえず見てみましょう



月夜見宮の入り口すぐの鳥居からです


瀧原宮


ところが、この地図以外にこの鳥居のマークが無いのです。

googleの地図で見ると何かはあるのです。


でもそれが何なのかはわからない。

他のどの地図を見ても、良くわからない。


たぶんこの画像だったと思いますけど、ここの奥のような気がします。

この場所が何なのか、誰か知らんかな?

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