なかなか、投稿できません・・・仕事いそがしいしね
それと、伊勢までの道のりを確認しています
まだたどり着いていません・・・
仕事が落ち着いたら、休みとって伊勢に行きたいですね。。。
さて、倭姫命のおじいちゃんこと彦坐王と鉄の関係というより、どの時代にどのように
製鉄をしていたのか、なかなか詳しい資料が見当たらないのです。
そもそも、製鉄についてもよくわからない
たまたま、古代製鉄の研究をしておられる方のブログを見つけて、勉強させていただいていましたけど
突如、製鉄鉄関係の記事が削除され、さらに最近、ブログそのものが無くなったようです・・・
おいらのせいではないでしょうけど・・・残念。
まだ製鉄についての知識がほとんどないのですけど、それでもいろいろと推理していきます
まず、古代製鉄は「すず鉄」といわれる、通称「褐鉄鉱」(かってっこう、limonite)という
物からだと言われます。
湿地帯に生える植物(葦や茅,薦等)の根に,褐鉄鉱が付着して、塊になったもので、
それが、茎の中で動くと音がする。
鈴の語源のようです。神社に鈴があるのは、鉄がたくさんとれますようにという意味とか。
葦原中国は豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)とも呼ばれ、すず鉄が豊富にとれる
所と言われますけど、なるほどです。
このすず鉄は、比較的低温で製鉄ができるそうです。
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通説によると、日本においては青銅器と鉄器の伝来が、ほぼ同時であったと言われます。
さらに、砂鉄を使った「たたら製鉄」は、6世紀以降に広く全国的に分布するとのこと。
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この通説から製鉄を考えると、訳が分からなくなります。
前にも書きましたけれど、かなり古い時代に「砂鉄」と言う意味の言葉が確認されます。
さらに、古代では小さい規模での製鉄が行われていたようで、その痕跡が確認されないなど
証拠がないので、実際は、かなり早い時期から製鉄がされていたのではないかとも言われます。
さて、おじいちゃんである彦坐王の足跡ですが、近江で息長水依比売を妻としてから、
美濃の伊久良河宮あたりに住んだと思われます
その9でも書いたように、子である神大根王の古墳とされる宗慶大塚古墳から見た、冬至の日の出が
彦坐王の墓であろう尾張戸神社の古墳の位置からなので、可能性は高いと思います。
大きなおせっかいですけど、先に妻となった倭姫命のおばあちゃんである、川上摩須郎女命は、
どうなった?たぶん、ここで一緒に暮らしていたのでしょう。後に、方県津神社に移動したと考えます
順番が、逆じゃないか?なぜ?
おそらく、川上摩須郎女命は、まだ幼かったのではないだろうか・・・
妄想はこれくらいにしておきましょう。。。
鉄の話題からだいぶそれてしまいましたけど、この流れがポイントと考えます。
なぜなら、美濃には金生山という、赤鉄鉱を産出する山があるのです。
しかも、かなり良質とのこと。
こちら参考になります
位置関係を見てみます
伊久良河宮は、金生山より東です。しかも揖斐川、根尾川を越えています。
当時の川の位置はわかりませんけどね。
一方、金生山の付近には、昼飯大塚古墳を含め多くの古墳があります。しかし、時代は4世紀後半
からです。彦坐王の時代より100年ぐらい後です。
彦坐王の時代には赤鉄鉱を利用していなかったかもしれません。
ということは、すず鉄から製鉄をしていたのではないでしょうか?
伊久良河宮あたりは、湿地帯に生える植物(葦や茅,薦等)が、多く茂っていたのでしょう。
地図の左の方に、坂田神明宮がありますが、このあたりも湿地帯だったかもしれません。
ただ、赤鉄鉱からの製鉄を全く行っていなかったとは言い切れないのです。
金生山近くに来たことが、そもそも偶然ではないかもしれません。
さらに、彦坐王は 愛知県春日井市まで進んでいます。
その場所も、鉄鉱石や砂鉄が採れるところなのです。
そういう所だからこそ、そこに生える葦などには褐鉄鉱が多いかもしれませんけど・・・
残念ながら、これ以上はおいらには推測できませんね。