たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

井戸神社のカツラ

2018-05-28 08:10:12 | 巨樹、巨木



久しぶりの巨木です。以前から行きたかったところに行ってきました。



場所は、滋賀県犬上郡多賀町大字向之倉字東反尻63番地 井戸神社




行き止まりに、車を止め少しだけ歩きます




現れました




後ろから






樹の奥にある神社


もっと写真を撮ったのですけど、残ってない・・・なんで?

気を取り直して



根基に水源があります。湧水でしょう。

以前は、この水たまりがコバルトブルーできれいだったと

それが見たくて訪れたのですけど、残念ながらあまりきれいとは言えず・・・

でも、静かで心落ち着くところです

カツラは、ある時期キャラメルのようなにおいがすると言います

いつなのか調べたら、主に落葉した葉から香るので、秋とのこと。

秋になったら、どこかのカツラに逢いに行きましょうか。。。





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倭姫命その11、なぜ伊勢?

2018-05-21 07:43:07 | 神社

倭姫命に興味を持ち、いろいろと調べ始めたのですけど、倭姫命以前に伊勢に行くルートを

大和朝廷の誰かが築いて、その後倭姫命が伊勢に渡ったと考える方がしっくりくるのです。

すると、年代は限られます。

崇神天皇と同じ年代、もしくはその後の垂仁天皇の前期の間になるでしょう。

誰だろうと、調べたら、伊勢国造(いせ の くにのみやつこ、いせこくぞう)という

人物がそれらしいかなと。

さらに調べます


伊勢国造は、天日別命と言う人物だそうです。

引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天日別命は、神武東征軍に参加して大和に入り、天皇から『天津の方に国あり。其の
国を平けよ』と命じられた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さらに引用


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夫れ伊勢の國は、天御中主尊の十二世孫、天日別命の平治けし所なり。天日別命は、神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征ちたまひし時、天皇に随ひて紀伊の國の熊野の村に到りき。時に、金の烏の導きの随に中州に入りて、菟田の下縣に到りき。天皇、大部(おほとも)の日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる黨、膽駒の長髄を早く征ち罰めよ」とのりたまひ、且、天日別命に勅りたまひしく、「天津の方に國あり。其の國を平けよ」とのりたまひて、即ち【標(しるし)の剣】を賜ひき。天日別命、勅を奉りて東に入ること數百里なりき。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こちらに、わかりやすく書かれています


ここにも、菟田の地名がでてきますね。




この天日別命は、すでに伊勢にいた「伊勢津彦命」に国土を渡すよう要求したが、断られたので、

武力で追放したことになっています。


伊勢津彦命とは、丹生鉱山とその近辺で辰砂の採掘をしていたと推測します。

でも、この伊勢津彦命は、他所からやってきた人です。

この、丹生鉱山は縄文時代から採掘が行われていたと言われます。それ以前にも誰かが、おそらく

縄文人が、住んでいたのでしょう。

そこへ、伊勢津彦命がやってきてこの地を治めた。

そこを、さらに大和朝廷が奪ったということでしょうね。

伊勢津彦命は、その後、東(信濃)へ去ったとか、そのほかにもいろいろな説がありますので、

ここでは取り上げません。

一方、大和朝廷が派遣した天日別命ですけど、この人もどんな人物なのか謎なのです。

ウィキペディアより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天日別命または天日鷲命(両者には同神説と別神説がある)。前者は天御中主尊の12世孫、後者は神皇産霊尊の5世または7世孫という。神武天皇東征の際、伊勢津彦を追って伊勢国を平定し、その娘の弥豆佐々良比売命を娶って彦国見賀岐建与束命(伊勢神宮外宮摂社・度会国御神社の祭神)を生ませたという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


天御中主尊、神皇産霊尊ともに抽象的な神様なので、天日別命とは架空の人物ではないかとも言われます

おいらも、そう思います。

倭姫命は、後に美濃から伊勢に向かいますが、それに先立ってルートを確保した人物は、やはり

彦坐王ではないかと思うのです。

その10で書いたように、美濃の伊久良河宮あたりに居を構え船を作り、何か所かの中継基地を

作りながら、伊勢に向かったのではないかと考えました。

これは、まるで倭姫命の旅と同じではないかと思ったりします。

参考程度に、古地図です


ただ、ルートは海岸線に沿って、水の確保のために、川を少し登った所の小高いところに基地を作り

まず先に、偵察隊を放ち、先発隊が準備をした後に本隊が移動するというような形を

とったのではないでしょうか。かなりの、大人数で攻めていったと推測します。

そこの中継基地が、後にも利用され、神社になったのではないかと思い、

めぼしい川の少し上流にある古くからの神社を探してみました。

次回からは、そのことについて書きたいと思います。







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倭姫命その10、おじいちゃんと鉄の関係

2018-05-12 08:24:42 | 神社

なかなか、投稿できません・・・仕事いそがしいしね


それと、伊勢までの道のりを確認しています

まだたどり着いていません・・・

仕事が落ち着いたら、休みとって伊勢に行きたいですね。。。



さて、倭姫命のおじいちゃんこと彦坐王と鉄の関係というより、どの時代にどのように

製鉄をしていたのか、なかなか詳しい資料が見当たらないのです。

そもそも、製鉄についてもよくわからない

たまたま、古代製鉄の研究をしておられる方のブログを見つけて、勉強させていただいていましたけど

突如、製鉄鉄関係の記事が削除され、さらに最近、ブログそのものが無くなったようです・・・

おいらのせいではないでしょうけど・・・残念。


まだ製鉄についての知識がほとんどないのですけど、それでもいろいろと推理していきます



まず、古代製鉄は「すず鉄」といわれる、通称「褐鉄鉱」(かってっこう、limonite)という

物からだと言われます。

湿地帯に生える植物(葦や茅,薦等)の根に,褐鉄鉱が付着して、塊になったもので、

それが、茎の中で動くと音がする。

鈴の語源のようです。神社に鈴があるのは、鉄がたくさんとれますようにという意味とか。

葦原中国は豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)とも呼ばれ、すず鉄が豊富にとれる

所と言われますけど、なるほどです。


このすず鉄は、比較的低温で製鉄ができるそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

通説によると、日本においては青銅器と鉄器の伝来が、ほぼ同時であったと言われます。

さらに、砂鉄を使った「たたら製鉄」は、6世紀以降に広く全国的に分布するとのこと。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この通説から製鉄を考えると、訳が分からなくなります。

前にも書きましたけれど、かなり古い時代に「砂鉄」と言う意味の言葉が確認されます。

さらに、古代では小さい規模での製鉄が行われていたようで、その痕跡が確認されないなど

証拠がないので、実際は、かなり早い時期から製鉄がされていたのではないかとも言われます。


さて、おじいちゃんである彦坐王の足跡ですが、近江で息長水依比売を妻としてから、

美濃の伊久良河宮あたりに住んだと思われます

その9でも書いたように、子である神大根王の古墳とされる宗慶大塚古墳から見た、冬至の日の出が

彦坐王の墓であろう尾張戸神社の古墳の位置からなので、可能性は高いと思います。


大きなおせっかいですけど、先に妻となった倭姫命のおばあちゃんである、川上摩須郎女命は、

どうなった?たぶん、ここで一緒に暮らしていたのでしょう。後に、方県津神社に移動したと考えます


順番が、逆じゃないか?なぜ?

おそらく、川上摩須郎女命は、まだ幼かったのではないだろうか・・・

妄想はこれくらいにしておきましょう。。。


鉄の話題からだいぶそれてしまいましたけど、この流れがポイントと考えます。

なぜなら、美濃には金生山という、赤鉄鉱を産出する山があるのです。

しかも、かなり良質とのこと。こちら参考になります


位置関係を見てみます



伊久良河宮は、金生山より東です。しかも揖斐川、根尾川を越えています。

当時の川の位置はわかりませんけどね。

一方、金生山の付近には、昼飯大塚古墳を含め多くの古墳があります。しかし、時代は4世紀後半

からです。彦坐王の時代より100年ぐらい後です。

彦坐王の時代には赤鉄鉱を利用していなかったかもしれません。

ということは、すず鉄から製鉄をしていたのではないでしょうか?

伊久良河宮あたりは、湿地帯に生える植物(葦や茅,薦等)が、多く茂っていたのでしょう。

地図の左の方に、坂田神明宮がありますが、このあたりも湿地帯だったかもしれません。


ただ、赤鉄鉱からの製鉄を全く行っていなかったとは言い切れないのです。

金生山近くに来たことが、そもそも偶然ではないかもしれません。

さらに、彦坐王は 愛知県春日井市まで進んでいます。

その場所も、鉄鉱石や砂鉄が採れるところなのです。

そういう所だからこそ、そこに生える葦などには褐鉄鉱が多いかもしれませんけど・・・

残念ながら、これ以上はおいらには推測できませんね。













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