たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

イタリアントマト

2016-05-26 06:35:46 | 植物

イタリアントマトってどういうもの?

調べたけど、よくわからない・・・

とりあえず、ネーミングの良さから←おいっ!

これ、種を買って育ててみました



ローマと言う品種

後で調べたら、なんとアメリカで作られた品種で、ケチャップにするものとな・・・

ローマってとこの国だ?・・・

まあ、生で食べるとケチャップの味がするそうです

現在、実がこれくらい



それじゃ面白くないんで、さらに調べたら、ソースにする場合は長細いタイプのトマトを使うそうで、

サンマルツァーノというトマトが有名とのこと

加熱しても煮崩れしない肉厚な果肉が特徴で、熱を加えると独特の粘りが出て、旨味が増すとのこと


これは、少し遅れたので、まだ実はなく花が咲いています


こちらは、栽培状況により味が変わりやすいそうです


さて、あと数日で食べ比べできるかな?




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伊木山城その2

2016-05-21 07:46:48 | Weblog
伊木の森の駐車場から登りました。




心臓破りの道・・・登ります!

我が心臓は、・・・大丈夫でした。。。猿ばみ城のほうがきついね


頂上です


なかなか広いです

北側に石積みがあるそうですけど、確認するの忘れました

城の規模は東西90m、南北35mの規模で、6段の曲輪があるそうです





つぎは、キューピーの鼻の展望台からの景色です



こんな感じでしょうか



山の南側を通り西に向かいます

途中、小牧山が見えます



ズーム up




播隆上人修行場(上人洞)



播隆上人とは?

 北アルプスの槍ヶ岳(標高3,180メートル)を開山した人

江戸時代後期、天明6年(1786)に越中国河内村(現富山県富山市河内)に生まれる。

とのこと





今度は、西から東に向かい頂上をめざします




旧熊野神社跡



武功夜話によると、蜂須賀小六、前野将右衛門は、この地をおさめる伊木清兵衛とは顔見知りだそうで

使者を遣わして、一戦構えるのは意味がないことを伝え、清兵衛とよく話し合いたいと伝えたところ

清兵衛殿が山から降りて来たとあります。


でも、ウィキペディアによると伊木清兵衛は

・・・・・・・・・・・・・

織田信長の美濃国攻めに従軍し、

永禄4年(1561年)犬山城の対岸にある伊木山に拠った斎藤勢を攻めた際に著しい武功を挙げた。

この功により信長より「伊木」の姓を賜り、伊木山への築城を許され、伊木山城を構えたとされる

・・・・・・・・・・・・・・・・

はて?訳がわからない・・・

あれこれ調べてみました



もともとこの地をおさめていた斉藤勢の香川伊木氏がいて、

それを攻めた人物が信長に築城を許されたとされる武馬伊木氏(野武士のようです)


武馬伊木氏と信長はほんとうに関係があったのだろうか?

この時期、永禄4年(1561年)に、信長がここを攻める・・・?


まあ、それはそれで・・・


そして、その後、斉藤勢の香川伊木氏の子が。再度この地を奪い返す

その人物が、伊木清兵衛ということらしい。




木下藤吉郎は、このころから活躍し始めたようですね

このときの藤吉郎の年齢は?

天文6年(1537年)生まれとして、織田信長が、木下藤吉郎に伊木清兵衛を調略することを命じたのが

永禄七年(1564年)ですから、27歳ですね。






おそらく、現在の熊野神社あたりからここ旧熊野神社跡を通って、頂上に向かう道が当時のものと思います。





いつの時代のものでしょうか?




ここを、木下藤吉郎や織田信長が通ったと思うとロマンを感じます








伊木山城跡について、詳しい資料がありました

こちらです
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伊木山城その1

2016-05-15 16:02:32 | Weblog

伊木山にお城があったこと知りませんでした・・・

なぜか登ったことも無かったんです

駐車場が午後5時には閉まるのでなかなか行けなかったんですよね


地図です


信長公記によると、織田信長は、猿ばみ城、宇留摩城を攻めるために、両城を見下ろすことのできる

伊木山に要害(砦)を築いた。

織田勢はそこで、昼夜城をにらんで滞陣した。とあります。



伊木山は、キューピーの寝姿に似ていると言われているそうですけど、どうですか?

右の小高いところに展望所があり、キューピーの鼻といわれているそうです


おいらの子供のころは、大仏さんが寝ていると言ってたような気がしますけど



中央です。  頂上が、城があった場所とおもいます。



さらに左、西の部分です。  左に岐阜城が見えます



画像大きくすると


上の画像は、伊木山の南、木曽川の堤防から撮ったものです


信頼度が低いとされる「武功夜話」には、このときのことが詳しく書かれています

詳しすぎるから、創作した偽者という声もあるようですけど、この時の木下藤吉郎の足取りを

調べたら、なかなかリアルと思うのです

藤吉郎は、まず、松倉城に着陣。隊を二つに分け、伊木山へは蜂須賀衆を川伝いに進め、

自らは松倉衆を引き連れて、魔免戸口(各務原市前渡)より中之道へ進み、

宇留間城山の西方十五町の巾上(羽場)に陣を構え、宇留間城と対陣。


およそ、このようになります



この、赤い線は岐阜城と、前度不動がある山をつないだ線です。

ちょうど、扶桑緑地公園のあたりを通ります

どういうことかというと、岐阜城(とりあえずこう呼びます)からは、山に隠れて見えないということ。

伊木山に向かった蜂須賀衆は、270人、木下藤吉郎の方も280人ほどの人数。

岐阜城からは、充分確認できる距離と思います


まったくのおいらの推理ですけど、藤吉郎はあえて岐阜城から見ないように動いたように思うのです

とすると、木曽川を渡るのは扶桑緑地公園あたりからと思います


前度不動山の北には、荒井山、長平山があり伊木山に行く道中も、岐阜城からはそれらの山に

かくれたり、低い場所もけっこうあるので見えないようです。



そして、藤吉郎が布陣した、巾上(羽場)と言うところには、藪下と言う言葉が出てきます。


引用します・・・・・巾上(羽場)の大藪下の木下藤吉郎様、御陣所へ御案内・・・・・とあります。



このあたり、おそらく古い時代に木曽川の浸食のせいで、段差が出来ています

その段差の下のことを藪下と呼んだのではないでしょうか・・・勝手に想像してます。←信頼度が低い?


伊木山の北から



そして、西を見ると

段差わかるでしょうか?


わかりやすいところズームUP



ここかどうかは、わかりませんけどね。。。
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松倉城

2016-05-08 21:17:14 | Weblog

ウィキペディアによると1532年(天文元年)、富樫頼定が犬山城主、織田白厳に仕え、尾張国葉栗郡松倉を領した際、築城

地図です

ざんねんながら、今は何も残っていません





1566年(永禄9年)、木下藤吉郎が、墨俣城を築城するとき、木曽山中より木材を流して、

ここ松倉にて陸揚げして、加工をしてから再び川に流し、墨俣に送ったと言われます。



でもね、木下藤吉郎による墨俣城築城というのは、本当にあったのかどうかわからないそうです。

おいらも、墨俣城築城については、わからないことがあります。まあ、今後の課題にしておきましょうか。

以前書いた、手力雄神社では、1563年(永禄6年)4月、新加納の戦いに、織田信長は、ここ松倉城から出撃したと思われると書きました




当時の木曽川は現在と流れが違うようです

天正14年(1586)6月24日に木曽川は大洪水を起して、本流が現在の流れになったと言われます

それまでの本流は、愛岐大橋のやや上流より北に向きをかえ、現在の境川を流れ墨俣で長良川と合流していたそうです。

何本もの支流があり、流路変更はよく起きていたようです。

ここ松倉城跡から見た、岐阜城です。左奥の山頂が岐阜城です


本流になる以前は、ここより10kmほど下流で川幅80mぐらいだったそうです。

永禄7年(1564年)、尾張国の織田信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)に

鵜沼城と伊木山城の攻略を命じたそうです。

武功夜話では、その時、木下藤吉郎は、なにとぞ私にやらせてくださいと願い出て

それを、まかせられたそうです。

そうして、この松倉城で、軍義をして出陣したとされています。





武功夜話は、信憑性低いと言われますけど、このあたりの話においてはなかなか参考になると思います。

そのあたりを調べていたので、投稿がだいぶ遅れましたけどね。。。







東の上流を見ると、橋の一番右の足の上辺りに山が見えます

それが、伊木山と思います


木下藤吉郎は、松倉城を出て、現在の愛岐大橋近くで木曽川を渡り伊木山に向かうのです。


                                      つづく。。。
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猿啄城(さるばみじょう)その2

2016-05-05 08:00:42 | Weblog

前に書きましたけど、猿啄城(さるばみじょう)で、大ぼて山と、水の手を捜しに行きましたけど、再度挑戦です。

以下、参考までに引用です

・・・・・・・・・・・・

さて、織田信長は、堂洞合戦の前に、この猿啄城を攻めています


信長公記より引用です



猿 ば み の 城 、 飛 騨 川 へ 付 き て 、 高 山 な り 。 大 ぽ て 山 と て 、 生 茂 り た る 翻 あ り 。 或 る 時 、 大 ぼ て 山 へ 丹 羽 五 郎 左 衛 門 先 懸 に て 攻 め の ぼ り 、 御 人 数 を 上 げ ら れ 、 水 の 手 を 御 取 り 侯 て 、 上 下 よ り 攻 め ら れ 、 即 時 に つ ま り 、 降 参 、 退 散 な り 。



つまり、丹羽五郎左衛門が大ぼて山を攻略し水の手を取った。とあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回は、西の迫間不動から、水の手を捜しました

このあたりまで行ったんですよ



でも、それらしき水の手はわかりませんでした。



そして、坂がきつい! 水を運ぶのにはこのルートは適さないと思います



ならば、候補地は迫間不王の滝の上流でしょうか?

それから、迫間不動の西には沢がありました

そのうちの、どちらかもしくは両方かと思います

猿ばみ城から1キロちょっとですけど、尾根伝いに行けるので楽です



当時と地形も変わっているかもしれませんし、他にもルートがあるかもしれません

ですから、あくまで推測ですけど、もし水源がそこなら 「大ぼて山」は明王山かも知れませんね


明王山から見た猿ばみ城 (左の山の頂上の白いぽつんとしたところ)


180度回転して西を見ると



迫間城跡がありますけど、城は、当時、まだ無かったかもしれません


資料がまったく無いんですよね

おいらの、伯父にあたる人が調べていたそうです

でも、すでにだいぶ前に他界されているのでそのことについては話しすらしたことがありません

残念ですね。


それと、岩屋観音堂で以下のように書きました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

信長が、猿ばみ城攻略の時には、おそらく、舟を数艘、綱でつないで橋のようなもの(舟橋)を作り

それを利用して、大勢の兵士が川を渡ったのではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところが、「武功夜話」と言うものには次のように記録されているそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『信長様御下知、栗巣向う岸大ぶて山に向け、丹羽五郎左衛門に仰せつけらる、美濃方多治見次郎なる者手勢600ばかり、堅固也、川幅およそ5間、渡りに舟無く、大岩に大綱繋ぎ、素肌となりて渡り、城は2町先、聞えれば矢玉の的、綱を頼りに対岸へ、猿啄の城兵は水の手より不意に攻め立てられ慌てふためき大井戸(太田)へ退散也』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

舟ではなく、綱をたよりに泳いで渡った?

それとも、綱渡りをした?

刀や槍、弓矢やら鉄砲をもってそんなことが出来るのでしょうか?

流れは急で、水深もかなりあると思います。


いや、試すことはご勘弁・・・

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もうじき母の日ですね

2016-05-04 12:28:36 | 植物

カーネーションの出荷はそろそろピークを過ぎたころでしょうか

これは、ある、花市場の今日、午前中の様子



最近では、アジサイも多く見られます

GW中、おいらは、最小限の仕事しかやらないようにして、体と心休めてます。。。


5月9日、水星の日面通過 と言う現象が起きるそうです

どういうことかというと、水星が地球と太陽のちょうど間に入る天文現象とのこと

ざんねんながら、日本では夜なんで見られないとのこと


惑星直列とは言わないようです

はて、地球の重力に影響が出て地震でも起きるのでしょうかね?

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