たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

伊久良河宮

2021-07-30 05:52:55 | レイライン


岐阜県瑞穂市居倉 字中屋敷

天神神社がその場所です

神獣文鏡6面や硬玉製を始めとする30個余りの勾玉が出土しているとのこと。

倭姫が、坂田神明宮よりこの地に移り、4年(現在の2年)滞在。

倭姫命は生津から2艘の木船で川を下り、尾張国神戸(現一宮市)にたどり着き、中島宮に滞在。

このように言伝えられています。


右下に 豊受神社 がありますけど、そこが 「生津」です。

でも、ここから船で一宮に行けるのか?どうしてもそこが引っかかります。

当時の長良川と木曽川の流れが分かりませんが、普通に考えると無理があるように思います。

濱神明社(一宮市)倭姫の船がつながれた場所と言う伝説があるそうです。

他にも、一宮市にはいろいろ倭姫のまつわる話があるようです。

今回はその話ではなく、伊久良河宮の近くに、「宗慶大塚古墳」と言う古墳があります。



そこのレイラインを見ると



東谷山の尾張戸神社古墳にピタリと照準が当たります。(冬至の日の出)

宗慶大塚古墳の埋葬者は、神大根王(かんおおねのみこ)と言われています。

おいらもそうだと思います。

もう一つレイラインがあります。


冬至の日の入りが、昼飯大塚古墳を通ります。真ん中じゃないですね。




両方の古墳の築造時期は、4世紀後半と考えられるそうです。

親子ならば年齢差は20年ぐらいなので昼飯大塚古墳の埋葬者は、神大根王の息子と考えていいのでしょう。

でも、一つ気になることがあるのです。

神大根王は、彦坐王の子と言われています。朝廷別王より年上のはずです。

すると、亡くなった年代は4世紀前半になります。


神大根王の母親は、息長水依比売。でも、息長氏の姿は彦坐王の時代には見当たりません。



分かりやすいように、彦坐王の妻とされている人とその代表的な子の名前を書いてみます


妻            子     子の生まれた推定年
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山代之荏名津比売    大俣王          248

沙本之大闇見戸売    沙本毘古王(サホヒコ)  250  =大国主=伊勢津彦  

息長水依比売      神大根王        255 (この年代が疑問
(父親が天之御影神)

袁祁都比売命      山代之大筒木真若王 

丹波之河上之摩須郎女   朝廷別王        265 =サタヒコ=猿田彦=スクナヒコナ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


息長水依比売の父親はと言うと、天之御影神(あめのみかげのかみ)です。

御上神社の祭神ですね。御上神社からのレイライン衆良神社(すらじんじゃ)を通るということから、御上神社を建てたのは、朝廷別王=サタヒコ=猿田彦

と考えます。

そうすると、天之御影神朝廷別王=サタヒコ=猿田彦になります。

さらに、息長水依比売は天之御影神の子ではなく妻で、その子が神大根王かも。

時代を合わせるための操作のようです。

そうすると、事実が当てはまるようになるのではないかな(少し強引すぎる?)

つまり

猿田彦=朝廷別王=山代之大筒木真若王=天之御影神

アメノウズメ=丹波能阿治佐波毘売=息長水依比売


神功皇后までの親子関係は次のようになります

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山代之大筒木真若王 (やましろのおおつつきまわかのみこ)=朝廷別王
   ↓
迦邇米雷王 (かにめいかずちのみこ)
  ↓
息長宿禰王 (おきながのすくねのみこ)
  ↓ 
神功皇后

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


神大根王=迦邇米雷王とすると、昼飯大塚古墳の埋葬者は息長宿禰王となります。

神功皇后の父親ですね。

年代を検証してみましょうか。

倭姫が坂田神明宮に来た年が、296年ぐらい、12歳ぐらいの年齢です。

その時、朝廷別王は30歳ぐらいです。その頃に、迦邇米雷王 (かにめいかずちのみこ)が生まれたとしましょう。

そして、その20年後に子である、息長宿禰王 (おきながのすくねのみこ)が生まれたとすると

316年頃の生まれになります。

神功皇后はその子なので、さらに20年をプラスすると336年頃の生まれです。

神功皇后についての説はいろいろあります。

どれが正しいのかは分かりませんけど、いつも参考にさせて頂く水石の美を求めてを見せてもらうと、以下の説明があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神功皇后の没年は書紀紀年では269年であり実年代では干支二運(120年)を繰り下げた389年
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうでしょう?ピタリですよね。


宗慶大塚古墳の築造時期は、4世紀後半と言うことも納得が出来ると思います。

ということは、彦坐王は、伊久良河宮付近に住んでいなかったことになります。

そして、息長水依比売と、袁祁都比売命は妻ではないことになります。


そうなると、伊吹山付近での製鉄を始めたのは彦坐王ではなく、その子の朝廷別王と言うことになります。

しかも、彼が佐田彦(サタヒコ)もしくは、少彦名(スクナヒコナ)として出雲で活躍していた後

の時代と思います。

何処かで製鉄の知識を習得していたので、大垣にある金生山付近の「鉄」に気が付いたのが始まりかもしれない。

彦坐王が、そのことに気が付いていたならば、その地を通り過ぎて行くはずがありません。

今回も意外な展開になりました。通説からするとかなり驚く内容ですけど、

アメノウズメが日本海側の何処かの生まれで、倭姫の時代に猿田彦(朝廷別王)と近江にやって来た。

その子が、神大根王で伊吹山付近で製鉄を始めた。

その鉄製品が、大垣の港から熱田神宮経由で伊勢や、三河、そして関東に流通したと考えられないだろうか。



その大きな財力の結果が昼飯大塚古墳なのでしょう。


今までのこのブログの流れで、朝廷別王は伊勢津彦と三河で出会い、その後諏訪に行き

さらに、越にたどり着きます。その後、いったん尾張に帰りますけど、そこからどのような

過程で出雲に行ったのかは全く分かりません。

伊勢津彦についても同様で越からの足どりと年代が分かりません。

おそらく、越から船で出雲に行ったのでしょう。

これらは、今後の課題です。

しかし、朝廷別王(サタヒコ、猿田彦、スクナヒコナ)は、倭姫との関係で出雲より近江そして、大垣に来ています。

アメノウズメを連れて来たのもその時代でしょう。

晩年は猿投で暮らし、その墓は、猿投神社西の宮にある「大碓命墓」で、その後

青塚古墳に移されたと思われます。

朝廷別王と言う名前は、朝廷にはなれない王と言う意味のようですけど、最初のころなんでそんな意味なのか不思議でした。

しかし、いろいろ調べていくと、この当時ものすごい権力と財力を備えた人物と言うことがわかります。

青塚古墳はその象徴なのだと思います。

当然ですけど、この「朝廷別王」(みかどわけのみこと)と言う呼び名は後から誰かがつけた名前でしょう。

サタヒコ、スクナヒコナそれと、子供のころからの名前はどうなのか分かりませんけど、

それくらいが本人が使っていた名前かと。

彼の名前の多さは、彼の存在を隠そうとするために後からつけられたような気がします。



次回からは、日本海側での朝廷別王の足跡を調べてみたいと思います。





























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本宮山 その7  もう一度 村神神社 (村上神社)

2021-07-25 17:55:10 | レイライン

気になる事があったので、もう一度出かけました。

まず、タイトルにもありますけど、「村神」なのか「村上」なのか?


「村神」ですね

でも

こちらは、「村上」でした。

だから地図によって、表記が違うんだ。

何か物語があるのでしょう。


鳥居を入ると




秋葉様


専門家ではないので不確かですけど、古墳ではないようですね。



山神様

この時代、山神様がよく見られます


本殿の石垣はそれほど古いものではないのかもしれません。



北、西、南は低くなっています。

秋葉様の所でふと思ったのですけど

狼煙を上げる場所かな?

可能性はあるでしょう。。。














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本宮山 その6 村神神社 (村上神社)、手力雄神社

2021-07-20 06:31:51 | レイライン
手力男命(たぢからをのみこと)=曙立王と考えると、手力雄神社は倭姫と関係が深い場所と言うことになります。

でも、鎮座したと伝えられるのは、貞観2年(860年)との説があります。

その他にも 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
創建不詳 社伝には5世紀末期ごろ中里(今の岐阜県各務原市那加地区)を支配していた豪族により、山の中腹に磐座(いわくら)祭祀として神様を祭ったのが始まりとされます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このように、手力雄神社の創建は倭姫の時より後になります。 

地図を見てみましょう


手力雄神社のすぐ西に、村神神社(村上神社)があります。

ここも気になります。

ひょっとしたらと思い、本宮山からのレイランを見てみると

本宮山の頂上からです。  ピンは村神神社です



手力雄神社は、村神神社から150mほど東にあります。

気になったので、現地に出かけました。

手力雄神社から歩いてすぐです。神社の東側から行くのが良さそう。



鳥居を過ぎると

秋葉神社

そして

山神様

本殿です。

本来の入り口は、南側のようです。

そちらから見ると


今これを書いているときに気が付いたのですけど、これって、古墳?

その上に神社があるのかな?

もう一度現地に行って確かめたいなぁ。


位置を調べます。上の正面からの画像を撮った場所です。

携帯の地図の画像です




もう一度


撮影場所付近がレイラインの上です。おどろきましたね。。。

と言うことは、倭姫の時代にこの神社は創建されたと言うことになります。


でも、曙立王(手力男命)と関係があるかどうかはわかりません。

位置関係を調べましょう




もう一度、村神神社付近の地図を見ると、川の合流する所がすぐ西にありますけど、左側が岩地川、右が境川です。

倭姫の時代にはこれらの川は何処を流れていたのでしょうか?

ちなみに、境川は、500年ほど前にはもっと南を流れていたようです。

さらに南に行き、現在の木曽川を渡ると浅井古墳群があります。これは時代がもっと後で

古墳時代後期の築造。今回は関係がありませんけど、ここより大江川を下り伊勢に至ったようです。

岩地川を1kmほど北に行くと、琴塚古墳があります。被葬者は景行天皇の后、五十琴姫命と伝えられます。

伊奈波神社 (旧跡)から境川(現木曽川と考えられます)に行くのには、この岩地川を通ったと考えられます。

その境川をさかのぼると犬山に至ります。

犬山の東之宮古墳から、村神神社まで約10km。

村神神社から、方々津神社、五社神社までも、約10kmです。

ですから、この村神神社は中継の場所だったと考えていいと思います。

当時の非常に重要な場所ですね。。。


ここからは、遊びです・・・

古い地図が無いものかと探したら、岐阜県図書館にいろいろありました

と言っても古墳時代のものはもちろんありませんけど、参考までに「元禄十一年美濃国絵図」

と言うものを見てみました。うん?何年だろう? 1698年 (元禄11年)です。


赤い線は古道でしょう。東山道や古東山道、などを調べるには参考になりそうですね。














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本宮山 その 5 坂田神明宮から伊久良河宮までの道

2021-07-08 07:46:06 | レイライン
倭姫が,坂田神明宮の次に4年間(現在の2年)滞在したとされる場所が、伊久良河宮です。

以前書いた記事を参考にしてください。


天神神社と言う所が伊久良河宮跡です。

彦坐王(朝廷別王=サタヒコ=猿田彦の父親、倭姫のおじいちゃん)が、奈良から伊久良河宮に

至る道が、今までよくわからなかったので、今回いろいろと検討をしてみます。

朝廷別王=サタヒコ=猿田彦が、倭姫と一緒に移動したのも同じ道でしょう。



例によって、海の高さを4m上げてみます。(少々荒っぽいですが、河川による土砂の堆積が
当時に近い状態になると考えます)



一日に進む距離は、徒歩での場合(この時代まだ馬は居ませんね・・・)10kmぐらいです。

荷物の量にもよるでしょう。体力のある人だけじゃないでしょう。

ちなみに、航海の場合は20kmと言われます。

彦坐王の場合、初めての場所への移動なので、まず、偵察隊が安全な場所を探し、

そして宿泊できるような建物を作り、その後本隊の移動と言う形をとったと推測します。

倭姫と朝廷別王=サタヒコ=猿田彦の移動の場合は、すでに中継地点が存在するのではないでしょうか

それらを考えていろいろ検討しましたけどなかなかルートが分からない。

その時代の神社や、それらしき場所が無いのです。

伊富岐神社の位置を書きましたけど、倭姫が通過するときにはまだなかったと思います。

ここの白髭神社付近は、倭姫が伊勢に行くときの船を作ったと言われる場所です。



ようやく当時に関係する場所にめぐり合えました。

滋賀県米原市柏原に 白清水(しらしょうず)と言う場所があります


ここの湧き水は古事記に記されていて、ヤマトタケルが伊吹山の神に惑わされたとき、この水で正気を取り戻したと伝わっているとのこと。




ヤマトタケル≒景行天皇の仮の姿とすると、ここは、彼のお気に入りの場所?


この時代、川に沿っての移動が多いです。坂田神明宮から天野川をさかのぼって行くと、

驚いたことに、白清水近くが源流です。





天野川沿い(青い線)を通るとかなり遠回りですけど?

黒い線が、旧中山道です。この道を通るのか? 悩ましい所です。

実際に、このあたりをうろうろしてきました。

琴岡神社


ずっと、天野川沿いならば、ここあたりが中継地でしょうか?

名前も気になります。坂田神明宮の外宮が「岡神社」でしたよね。


ぐるっと回って、もう一度白清水に到着です。

そのすぐ近くに、神明神社(786年、小さな祠を建立し天照大神を祀った事が始まり)があります。


鳥居のすぐ左に、東山道が通っていたらしい。


・・・・・・・・・・・・・・・・
旧東山道説明

 正確には、東山道・中山道分岐点道標。
 県境、寝物語長久寺より坂下JR踏切までは、古道東山道の上に中山道が敷設された。
 それより北西へ走る東山道は廃道になり、踏切を渡り、柏原宿に入る道が、中山道として新設された。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

倭姫がこちらに来た時代には神明神社はありません。創建は、だいぶ後のことですね。

「中山道が新設された」と書いてあります。

ということは、それまで道が無かったという事でしょうか?

ならば、中山道(旧中山道が正しいです)を通るという選択は無くなります。

ようやく当時の状況が分かり始めました。


こんな感じです


白清水の近くには、今須川が流れています。そこを下ると藤古川に合流。さらに下ると牧田川に合流。

そして当時の海に出ます。赤い線で描いたルートがそれです。


海の近くに、象鼻山古墳群があります。

まだ倭姫の移動の時には古墳はありません。(ウィキペディアは2世紀からと書いてありますけど、間違っているとの指摘もあります。)

古墳の主は、どこから来たかと言うと、岐阜の金華山付近からです。

象鼻山古墳群に書いていますけど、どうも、追い出されたわけではなくて

自発的に移動したようです。訂正しておかなければ・・・



金華山付近と言うことは、長良川を挟んで北には方県津神社がありますね。

その東にある五社神社付近が、朝廷別王=サタヒコ=猿田彦の育った場所です。

ということは、象鼻山古墳群に移動してきた人たちと朝廷別王=サタヒコ=猿田彦は

子供のころから、顔なじみの可能性があります。



倭姫が坂田神明宮に来たのが295年。サタヒコは30歳ぐらい。

その後、 滋賀県高島市にある白髭神社が出来たのが304年。

椿大社は305年。

その間の約10年で、 福井県小浜市甲ヶ崎にある白髭神社から、琵琶湖を経由して

坂田神明宮付近から大垣に至るルートを整備したのでしょう。

その太平洋側に出たところの場所が、象鼻山古墳群付近でその人たちが湊を運営していたと考えられます。

象鼻山古墳群からは、海岸沿いに大垣の荒尾南遺跡を通り、居倉河宮に至るのでしょう。

湊が整備されてからは、船が交通の要になったようです。

荒尾南遺跡で、船の絵を描いた土器が、発見されています。そこに描いてある船というのは、

おそらくサタヒコがこちらで建造した船でしょう。


ようやくルートの解明が出来ましたけど、やはり最大の謎は3世紀後半から4世紀前半を特定する場所が分からないということです。

後の時代に、それまでの場所や神社の名前が代わったのでしょうか?

今後の課題にしておきます。

福井県小浜市甲ヶ崎にある白髭神社から象鼻山古墳群付近の湊のルートは、後に九里半街道と呼ばれる

道になっているようです。

中山道を通るものの、基本はこのルートだと思います。
























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天野川

2021-07-07 07:07:00 | Weblog
坂田神明宮の近くを流れる川が「天野川」です。


古代の道は、この天野川に沿って遡って行ったと思います。



でも、誰がこの名前を付けたのだろう?

星に関係するので、やはりサタヒコと行動を共にしているレイラインの観測技術者たちだろうか?

彼らは、サタヒコの母親と共に、丹波からやってきた人たちですけどサタヒコの時代では

その次の世代になっていますよね。


その丹波には、羽衣伝説が伝わるそうです。

まあ、羽衣伝説は、日本各地そして他のアジアの国々にもあるようです。

シルクロードをやって来た人たちによってもたらされたのかな?

この川を、「天野川」という名前にしたのには何か特別な思い入れでもあったのでしょうかね?

織姫と彦星

かなり以前に書いた記事です

天野川と言う名前を付けた人は、倭姫に恋心を抱いていたのかもしれん。。。
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副反応は?

2021-07-04 05:55:28 | Weblog
結論から言うと、ほとんど心配ない程度でした。

体力を使うせいなのか、睡眠時間が普段より2時間ほど多くなり、脈拍も普段より多かったです。

それから、毎朝ストレッチをするのでよくわかるのですけど、関節がいつもより硬い。

あと、倦怠感というか、集中力が無いように感じます。・・・いつもと一緒か??

とりあえず、車の運転を控えました。

3日目の睡眠時間も同じで、少し多めです。

気分の方は、2日目の夕方から、なんか雲が晴れるように明るくなったことがよくわかりました。

どっちみち、それほど大したことはなかったです。やっぱりおいらは老人の方に入るのでしょう・・・

もう20年以上風邪をひいたことが無いので(正確にはその感覚が無い…つまり鈍い・・・)

参考にはならないかもしれないなぁ・・・

現在3日目の朝。気分もスッキリ。いつもと変わりありません。
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コロナのワクチン2回目接種してきました

2021-07-02 16:41:45 | Weblog

2回目の方が、副反応が強いという事らしい。

どうなるのだろう?

ちなみに、母親の時は、副反応は何もなく全く普段と同じでしたね。

コロナのワクチン、mRNAを使ったものと言われますけど、どういうことなのか調べてみました。

mRNA(めっせんじゃーあーるえぬえー)ひらがなで書くとなんかお化けみたいだなぁ・・・

これって、コロナのスパイクの部分のmRNAを使うということと解釈していいのかな?

ならば、普通のワクチンより安全のように感じますけど

一応、仕事柄生物学の基本は勉強していますけど、遠い昔のことなのでもう一度調べてみよう。

そんなわけで、あれこれ検索したら、このユーチューブが面白かったです。

この中で、mRNAは、ある程度のたんぱく質を作ると分解しますというようなことがありましたよね。

どれくらいの期間なのだろう?

まだ詳しくはわかっていないらしい。でも、合成するたんぱく質の種類によって違うとか。

数分から数時間。ながくても数日とのこと。

ワクチン接種後に、アナキラフィシーの症状が現れる人は、30分以内が多いそうです。

これはそのたんぱく質が、30分以内でできるせいなのだろうか?

おいら、アナフィラキシーの心配があるので、一番目の届くところに案内されました・・・

まあ、おかげさまで無事終了しましたけど。。。

副反応については、後日書きたいと思います。 できるかな・・・



接種後、7日程度で、充分な免疫ができるそうです。

もうじき、スーパーサイヤ人になれる!


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本宮山 その4  坂田神明宮

2021-07-01 07:21:35 | レイライン


坂田神明宮    滋賀県米原市宇賀野835−2

神社の中を線路が通っています

駐車場からすぐに、線路があります。そこを渡ると拝殿


その後ろには本殿


本殿に二つの宮があります。

天照皇大神(坂田宮、内宮)向かって右側
豊受毘売命(岡神社、外宮)向かって左側

あまりよくわからないですね・・・右側に移動します

後ろに右側の内宮が見えます


真名井池


ここ、坂田神明宮は、倭姫が滞在したと言われる場所ですね。

ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
倭姫命は垂仁天皇8年に「甲可日雲宮(こうがのひくものみや)[1]」から「坂田宮」に遷り、2年間奉斎した

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本牟智和気命(ほむちわけのみこと)を参照していただくとわかりやすいと思います。

以前作製した年表を見ると

少し見にくいですけど、ご容赦。

291年に垂仁天皇即位です。

倭姫命は垂仁天皇8年に「坂田宮」に来ています。

1年に2回年を取るということですから、295年頃でしょうか?

以前の年表では、296年にホムチワケが、30歳で出雲に行くことになっていますけど、

数え年で考えてなかったためかな・・・1年ズレてますね・・・とすると・・・訂正して


はいっ!  ほぼ同じ時期と思われます。(汗”””)

多少の誤差はあると思いますので、その都度訂正していきます

誤差はともかく、ホムチワケが出雲に行った時と、倭姫がこの地に滞在した時期がほぼ同じと言うことは、倭姫を人質として差し出すという条件で、話が進んだと考えられます。

(ホムチワケは架空の人物)

甲可日雲宮に倭姫が滞在したかは不明ですけど、この坂田神明宮に居たことは現実味がありますね。

期間も2年(現在で言う1年)と言うことも信ぴょう性があると思います。


おっと、肝心のレイラインを見なけりゃね。

犬山の本宮山山頂から、とりあえず今年の春分の日の日没






年によって、少しずつ違う所を指します。でも誤差の範囲として考えてもいいと思います。

直線距離で、62.8km。いつも思いますけど、すごい精度です。

年代の数字が正しいとすると、倭姫が坂田神明宮に来た時の年齢は、12歳ぐらい。

ここで1年、そして伊久良河宮に4年(現在で言う2年)とすると、その時点で15歳と言うことになります。

伊勢に行くときは19歳ぐらいですので、さらに、他のどこかに4年間ぐらい滞在していると考えます。

何処だろう?  籠神社?  出雲まで行ったかも? それについては、今後の課題です。



倭姫がこの地に来た時には、すでにこの場所にはなんだかの建物、おそらく岡神社があったと考えるのが適当かと。

ここが琵琶湖における湊で、天野川を遡り、大垣、岐阜方面に行く拠点でしょう。

ここから900mほど東に行くと、神功皇后生誕地があります。(おいらはこれに少し疑問があります)

さらに、3km遡ると山津照神社古墳(6世紀中葉頃の築造と推定)があります。

ここにある古墳は、最初、神功皇后の父親のものとされていましたが、後に訂正されています。

時代が合いませんね。

ならば、その場所は何処なのか?  それについても、今後の課題と言うことで・・・

最後に一つ、気になる事が・・・

「坂田」と言う名前ですけど、「さかた」 → 「さた」 「か」が入っているだけですね。

元々は、「サタヒコ」から来た名前ではないかな? ならば、「さたじんじゃ」が元の名前だろうか?


























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