たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

伊勢参詣曼荼羅図

2013-03-04 05:54:31 | 神社
ある本で、伊勢参詣曼荼羅図というのがあるというのを知りました

早速検索してみました

これが分かりやすいかな



面白いですね

現在の様子と違うところもあります

社殿の形が異なってます。神明造りじゃない!?

どうも、この曼荼羅というのは京都などの町絵師に発注して作られるもので、ちゃんと見て描いていないようです。

少し安心・・・

神明造の歴史はやはり古いということでいいんでしょうね

神社の本殿の存在が確認されるもっとも古いものは、7世紀後期に第1回目の式年遷宮(しきねんせんぐう)をおこなった伊勢神宮とされます

今年は、20年ごとに行われる式年遷宮の年です

ようは、本殿を新築して、ご神体が引越しをされるんです

新宮に正殿から「御神体」を移す重要な儀式を、「遷御の儀」といいます

ちなみに「遷御の儀」の日程は、

皇大神宮(内宮)    10月2日(水)  午後8時

豊受大神宮(外宮)   10月5日(土)  午後8時

だそうです

儀式は夜間行われますが、照明もほとんどないため見ることはできないとのこと・・・







内宮の絵、まだ、描きかけですけど(いつまでかかってるんだ?)

屋根に突き出ているV字型のものを”千木”(ちぎ)といいます

これは古代、屋根を作るときに木材2本を交叉させて結びつけ、先端を切り揃えずにそのままにした名残りといわれます

祀ってある神様が、男と女で切り方の向きが違うといわれますが、決定的ではないようです


屋根にのっかってる丸い円柱のものを、”鰹木”(かつおぎ)といいます

屋根のおもしとか、かつをを干しているものがその形になったとか言われます

古事記には、すでに出てきています

************

初め、大后、日下に坐しし時に、日下の直越の道より、河内に幸行しき。しかして、山の上に登りて、国内を望けたまへば、鰹魚を上げて 舎屋を作れる家あり。天皇、その家を問はしめて云らししく、「その鰹魚を上げて舎を作れるは、誰が家ぞ」答え白ししく、「志機の 大県主が家ぞ」しかして、天皇の詔らししく、「奴や、おのが家を天皇の御舎に似て造れり」とのらして、すなはち人を遣わしてその家を 焼かしめたまふ時に、その大県主 懼畏みて稽首み白ししく、「奴にしあれば、奴ながら覚らずして、過ち作れるは、いと畏し。かれ、 のみの御幣の物を献らむ」布を白き犬にかけ、鈴を著けて、おのが族、名は腰佩(こしはき)といふ人に、犬の縄を取らしめて献上りき。 かれ、その、火を著くることを止めしめたまひき。すなはち、その若日下部の王の許に幸行して、その犬を賜ひ入れて、 詔らしめたまひしく。「この物は、今日道に得つる奇しき物ぞ。かれ、つまどひの物」と云ひて、賜ひ入れたまひき。ここに、 若日下部の王、天皇に奏さしめたまひしく、「日を背にして幸行しし事、いと恐し。かれ、おのれ、直に参上りて仕えまつらむ」ここを もちて、宮に還り上ります時に、その山の坂の上に行き立たして、歌ひたまひしく、
日下部の こちの山と たたみこも 平群の山の こちごちの 山の峡に 立ち栄ゆる 葉広熊白檮 本には いくみ竹生ひ 末辺には  たしみ竹生ひ いくみ竹 いくみは寝ず たしみ竹 たしには率寝ず 後もくみ寝む その思ひ妻 あはれ
すなはち、この歌を持たしめて、返し使はしたまひき。

*******************

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう) 419年1月~479年9月8日が、無断で鰹木をのせた家を

焼いてしまおうと言われたということが書かれているそうです

「鰹木を上げて屋根を作っている家」は天皇にしか許されていないようです

すでにこのころには、神明造りはあったんでしょうね


内宮の絵を描いているときに発見したこと

壁の板が10段、

柱が10本+2本 この2本は建物の外に見える大きなもの(棟持柱)
中心にもう1本あるらしいけど見えません

まだ描いてないけど、階段が12段めが床・・・たぶん

鰹木は10個です

考えすぎかもしれませんが、ユダヤ失われた10部族と関係するのかな?




コメント
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