たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

御津に着いた大国主命とは、誰?

2019-05-29 07:05:27 | Weblog

朝廷別王と同じ時代に、伊勢を離れた人物といえば、こちら倭姫命その11、なぜ伊勢?に書いた人物がぴたりとくると思います。

伊勢津彦ですね。

引用します

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『伊勢国風土記』によれば、伊勢津彦神は大和の神武天皇に国土を渡すよう要求された。

「私はこの国を占拠してから長いこと住んでいる。命令には従いかねる」と、

断っていたものの、最終的に天皇に派遣された天日別命に追われ、

強風を起こしながら波に乗って東方へ去って行った

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おいら、天日別命は、彦坐王もしくはその子と思っていましたけど、どうも違うようですね。

そのことについては、今回は触れません。後ほど考えていきたいと思います。




何気なく、本宮山と伊勢のレイラインを探っていたら、面白いものを発見しました。

砥鹿神社奥宮からのレイラインを見てみます



こんな感じですね



伊勢から見ると、夏至の日の出は本宮山から見えるのでしょうか



さて、どこにヒットするのでしょう



なんと、飯野高宮神山神社ですね

直線距離を測ったら、88km。

その距離で、この精度はすごいですね。どうやって測ったのか?

いつも感心します。

少し誤差がありますけど、砥鹿神社奥社の少し北に石祠がありました。

そこからあらためてレイラインを見ると、かなり飯野高宮神山神社の本殿に近づきます。

その、場所が最初の砥鹿神社の場所かもしれませんね。

ほとんど妄想ですけど。


このレイラインを測量する技術を持った人が、

伊勢から来たのか、朝廷別王とともに来たのかはわかりません。


どちらにしても、伊勢を追い出された、伊勢津彦は、最初から本宮山をめざしていたと思われます。


ということは、その情報が朝廷別王にそれほど時間のかからないうちに伝えられたと

考えていいのではないでしょうか。

以前作った地図を見てみます




以前おいらが調べた、彦坐王ファミリーと、その関係する人たちの拠点です

伊久良河宮が抜けていますね。大垣の北東になります。伊勢への出発地です。


それぞれが、20kmぐらい離れているので、情報の伝達にはそれほど時間がかからないでしょう。

狼煙ならば、伊勢湾をはさんででも見ることができるでしょうし、

船で、伊勢湾を横断していたとも考えられます。


伊勢湾を囲んだ地域を彦坐王ファミリーが、統治していたと考えられます。






御津に着いた大国主命=伊勢津彦 と仮定して話を進めていきたいと思います。



伊勢津彦はその後、信濃国に行ったと言われています。

これは、出雲の国譲りと似てるなと思いますよね。

伊勢津彦=タケミナカタなのでしょうか?

次のようにも言われています

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タケミナカタは『日本書紀』における国譲り神話、または『出雲国風土記』や

『出雲国造神賀詞』に録されている出雲国の伝承に一切登場しないため、

本来は出雲と無関係な諏訪地方の神話の神であり、それが『古事記』に挿入されたとする説がある。

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さらに

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本居宣長は『古事記伝』で伊勢津彦神は建御名方神の別名であるとする説をとなえている。

これは天津神に反抗するも勝てず東国へ逃亡する姿が似ていることから来るが、現代では反論が多い。

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タケミナカタは、天竜川をさかのぼって諏訪にたどり着いたという話もあります。

出雲の国譲りの話に伊勢津彦をそのままあてはめると、大国主命=伊勢津彦ですから

タケミナカタは、伊勢津彦の息子ということになります。

年齢的にも、伊勢津彦は、長いこと伊勢に住んでいると言っているので、若くはないでしょう。

全くの推測ですけど、伊勢津彦は砥鹿神社付近に住みとどまったのではないでしょうか。

タケミナカタは、諏訪に行きさらに関東まで勢力を伸ばしているようです。

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先代旧事本紀に書かれている現代語訳です

相武国造(さがむのくにのみやつこ)

成務朝に、武刺国造(むさしのくにのみやつこ)の祖・伊勢都彦命(いせつひこのみこと)の

三世孫の弟武彦命(おとたけひこのみこと)を国造に定められた。


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一世孫 これは子
二世孫 これは孫
三世孫 これは孫の子

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崇神、垂仁、景行、成務と続きます。 

朝廷別王、伊勢津彦は、垂仁天皇の時代と思いますので、時代をそのままあてはめると

やはり、伊勢津彦は、砥鹿神社にとどまり、

諏訪に行ったのはその息子と考えるのがぴたりとくる気がします。


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尾張富士

2019-05-21 05:39:29 | Weblog

左の山が尾張富士、右が本宮山です





検索していたら、次のような物語がありました。

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でいたらぼっちが駿河の国「富士の山」の噴火をとめるために

近江(現在の琵琶湖)から土をすくい、被せた。

そのときこぼれた土が尾張富士になった

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そういえば、子供のころにこの話を聞いたことがあるなぁ。

10年ほど前に頂上に行ったことがあります。

久しぶりに、登ってみようと思い出かけました。

下のほうに車を止めたのですけど、一番上の駐車場までくることができたんですね。




尾張冨士大宮浅間神社



鎮座地:愛知県犬山市字冨士山3番地

御祭神:木花開耶姫命、天照大神

創建:太平元年(729)

石上げ祭というのが有名です




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祭りの由来はその昔、尾張冨士のお山が隣の本宮山との「背くらべ」に負けました。

そこで尾張冨士のご祭神は、村人に石を山頂に担ぎ上げ、山を高くすることを命じました。

そして石を積み上げた村人には願いを叶え、幸せになるよう神徳を与えました。

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そこのすぐわきから登山です


この道は、献石の石塔がいっぱいです

王監督の献石



これは誰?兵藤秀子とは誰?

前畑 秀子
日本人女性初の金メダリスト。  あの「前畑頑張れ」で有名な人なんだ。


5分ほどで、中宮に到着





その近くには


大きな鎌です。猿投神社の左鎌や、諏訪の薙鎌を連想します。


何に使うのでしょう?



さらに、登ります





人魚の肉を食し、800年生きたとされる八百比丘尼の手形が残る岩。


女人禁制である中宮奥へと進んだため、神の怒りに触れこの岩から手が離れなくなったそうです

手の形わかるかな?



頂上の奥宮が見えてきました







ここまで持ってきた石が、積み上げられています

そういえば、ポケットに石を入れてきたんだ!

おいらも、石上げに協力します。。。



本宮山は、293m



その、本宮山が隣に見えます




名古屋のビル群も見えます





本殿は富士山の方向を向いているようです




レイラインはというと、

頂上から見て、夏至の日の入りが麓の尾張冨士大宮浅間神社になります



帰り道は、こちらから行きます



すぐに舗装されている道に出ます。




駐車場に到着です
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御津神社

2019-05-16 06:35:40 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

御津神社(みとじんじゃ)



祭神 大国主命

愛知県豊川市御津町広石祓田70




引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 創建は不明。『延喜式』では三河二六座の一つの「式内社」、

『神名帳』には「正三位御津大明神」とある。

伝承によれば、祭神は御舳玉・磯宮楫取・船津各大神等の随従で船津へ着いたとされています。

豊川市教育委員会

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祭神である大国主命ご本人が、船でここに来られたんですね。

まるで、誰かを、大国主命に仕立てているように思われます。



一の鳥居をくぐると、船の形をした石積みがあります





古代には、海岸線がこの近くまで来ており、神社の東を流れている御津川を遡ってきて

たどり着いたところがこの神社か、あるいはこの船の形をした石積みのあたりが

海岸線だったかもしれません。





階段を上がり、二の鳥居の手前を左に進むと

よくわかりませんね


船津社跡

これは、右側





さらに階段を登ると



広い境内


本殿です



左側には磯宮神社



そして右側は


その奥にも



本宮山がはっきりと見えます



神社入り口付近には楠の巨木があります


樹齢 1,000年

相当大きい巨木です







ここから少し離れたところに御舳玉神社があります。



これで、御舳玉・磯宮・船津の神社がそろいました。




砥鹿神社HPより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「但馬続風土記」によれば、

神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、

更に東方三河国に向かわれたとあり

社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、

この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。

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大己貴命=大国主命と言わています

但馬国朝来郡赤淵宮とありますけど、時代が合わないような気がするのですけど。

しかし、「但馬」は、古くは丹波の一部であったようです。

但馬=たんぱと読めますね。

さらには、赤淵宮とされる赤淵神社の近くにある養父神社(やぶじんじゃ)には、

丹波道主命が祭られています。

彦坐王=丹波道主命ということで話を進めます

彦坐王は、丹波の久美浜で 朝廷別王の母である、川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)を

妻にした後、養父神社付近にとどまった時期があるようです。


以上のことから、この御津神社に上陸した祭神である「大国主命」は、

その後、砥鹿神社に移動したと考えてもいいと思います。

そして、朝廷別王は、本宮山山頂からこの「大国主命」を探し

合流しようとしたのではないかと推測します。



もしかすると、この「大国主命」と、朝廷別王は養父神社で、一緒に過ごしていたのではないでしょうか?

どれくらいの年月、その養父神社付近に滞在したかは不明ですが、

朝廷別王はそこで生まれた可能性がありますね。

まだ生まれていなくても、その母である川上摩須郎女とは面識があることになります。



それから、朝廷別王は、この「大国主命」が、伊勢から船で三河の地に来ることを知っていたかのようにも感じます。

いかがでしょうか?

次回は、この「大国主命」がどういう人なのか、検討してみたいと思います。
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砥鹿神社(奧宮)、岩戸神社 奥の院

2019-05-08 06:47:57 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

本宮山の山頂に到着です





駐車場のすぐ奥に鳥居が見えます。



ここから、少し下ると岩戸神社 奥の院です。

地図に載っていませんね。

グーグル地図見てみましょうか。画像のみですけど。





国見岩です




そこからさらに階段を下ると




ここが、岩戸神社のようです。

この隙間の奥のようです。入れないこともないけど・・・やめました・・・

決しておいらは、太ってはいません・・・念のため。。。

特別、社があるわけではありません。



景色がよくわからないので、本宮山の山頂へ向かいます。



駐車場から、それほど時間がかかりません。

景色は


素晴らしいですね

渥美半島も確認できます

実は、この景色を確かめたかったんです。

なぜかというと、朝廷別王はおそらく緊急で誰かを迎えに、ここに来たのではないかと思うのです。

その誰かとは?



砥鹿神社 奥宮の祭神である大己貴命(別称大国主命)を信仰の対象とする人物であろうと推測します。

その人物については、まだ、情報収集に現地を訪問していないので後程検討していきたいと思います。

山頂の景色を見ながら、おにぎりを食べようと・・・あれ?

お茶はあるけど、おにぎりが無い!  車に忘れてきたようです・・・




さて、空腹ではありますが、砥鹿神社 奥宮に行ってみましょうか。

本宮山の頂上から降りてきて、そのまままっすぐに進むと5分ぐらいで到着です。




すばらしい杉の巨木です。



樹齢 1,000年と説明されていますけど、合体木でなければ、それ以上の樹齢と思います。

山の頂上という、水の供給が充分でないところなのに、この大きさには驚きです。


いよいよ本殿


その前には、階段があり、そちらから登ってこられる人もおられます。

どこから来られたのだろうと思いたずねると、どうも、麓から山登りしてこられたようです。

調べたら、往復で8.7km、4時間かかるようです。

おいらは、行きません!・・・笑










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石座神社

2019-05-07 07:02:06 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン


朝廷別王 (みかどわけのみこ)は、東三河一帯を支配したとされます。

ということは、猿投神社から三河の本宮山へ向かったのではないでしょうか。

前にも書きましたけど、「本宮山」という名前は犬山市にある大縣神社の「本宮山」と

同じ名前であることから

朝廷別王が、三河に来たことはかなり確率が高いと思います。

でも、その足跡がなかなかわからないのです。

今までのようにそれらしき神社が見当たらないのです。

どのようなルートを通ったか推測してみます。


猿投神社の南東に御船町と言う所があります。

もしかすると、そこで船を作って矢作川を下ったのかもしれません。



そして、岡崎から乙川を上り夏山川、男川(川の名前が代わっていきます)とさらに上り、

くらがり渓谷にたどり着きます。

その、くらがり渓谷を登りきったところが、本宮山山頂です。

そこには、砥鹿神社(奧宮)と、岩戸神社 奥の院があります。

当時、三河に行く道はまだなかったと考えます。

ですから、川沿いに進んだと考えるのが正解なのじゃないかな。

その川沿いにも、いろいろな遺跡があり、当時でも人が暮らしていたようです。


朝廷別王が率いる部隊は、そのような場所を通らなければいけないので、現地の人との摩擦を避け

川を遡っていったのでしょう。

どれくらいの時間をかけたのだろう?

ゆっくりならば、足跡として神社が作られると思いますけど、その痕跡が見当たらないのです。

単においらが探せないだけかもしれませんけど・・・

その中で、唯一それらしき神社がありました。

石座神社(いわくらじんじゃ)です。(愛知県岡崎市石原町宮ノ入3)




主祭神は火明之命








巨木も魅力的です







さらに、奥にも社があります。



階段を登ります




神紋なのでしょうか?十六菊かな?











矢作川からここまではおよそ25km。

頑張れば、一日で、移動できる距離です。

途中、中継基地らしき神社もありますけど、決定的な理由が見当たらないのでパスしました。


朝廷別王が率いる部隊は、ここの磐座神社を中継基地にして

本宮山に向かったと考えて良いのではないでしょうか。

何かある理由があって、急いでいるようにも感じられます。

レイラインについてですけど、現時点では、三河で見つけることができません。

おいらの能力不足かもしれませんけど・・・

それとも、レイラインを測量できる技術者が同伴していないか、時間がなかったということが

考えられます。



おいらは、この先、くらがり渓谷を歩いて登る元気も気力もありません・・・

本宮山には、本宮山スカイラインというすばらしい道があるので、

そちらから頂上に向かいたいと思います。

山登りは、こうでなくっちゃね!
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