たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

白山神社の目的地 2

2023-03-23 14:33:45 | 白山神社
もう一度、位置を確認しましょうか

まるまる山山頂からの測量です。



冬至の日の入りのラインです




拡大します


現地に行ってきました。ワクワク~♪

この奥に見えるところでしょうか?

中門跡とありますけど、「弥勒寺」と言う文字の「寺」の文字のあたりと思います。


左にあるのが、金堂の跡


案内板がありますけど、画像が良くなくて見えにくいですね。ゴメンナサイ。


右にあるのが、「塔」の跡地 です。



どうも、この「塔」の跡地をレイラインが通るようです。

もっとも、まるまる山のどこの場所からの測量なのかは、確定していないので推測でしかありません。

ですけど、今までのサタヒコ達のレイラインの測量方法から推測するとほぼ、間違いないと思います。

サタヒコ達は、この場所になにか「ひもろぎ」のようなものを建て、そこにみんなが集まって

久しぶりの再会を楽しんだ。。。そう想像すると嬉しくなります。

この白山越えのルートを使った交流はその後何回も行われたのでしょう。


対岸の、重竹神社近くの長良川の様子です。


川の中に、大きな岩がたくさんあります。川を横断するのにはもってこいですね。

金華山に居ると思われる、垂仁天皇の兵が来た時の逃げ道だったのでしょうか?

まるまる山は、監視する場所で、その北にある重竹神社にサタヒコ、サホヒコ、レイラインの測量をすることが出来る供の人達が潜んでいた。

そこは、山に隠れて金華山側からは、見つからない。

そのような意味があったのかもしれません。

泰澄は、この場所が白山越えのゴールと言うことを知っていたのかもしれませんね。

さらに、この場所から春日井の白山神社、つまりサタヒコの父親の墓のある場所であり

砂鉄の産出する場所に行ったことも知っているはずです。

そして、円空もそのことを知っていたのではないでしょうか?






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白山神社の目的地

2023-03-20 05:47:09 | 白山神社
最初のころは、まるまる山の北側でつまり、重竹神社付近でサタヒコ達と美濃に居る彼の母親たちが

合流したと考えていました。

ところが、まるまる山からの冬至の日の入りが長良川対岸の弥勒寺跡を通るので、さっそく調べに出かけました。

まるまる山からのレイラインです


拡大します


このようになります」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

bingを使いました

2023-03-13 06:18:55 | bing
重竹神社の対岸に円空の関係する弥勒寺があります。円空と白山神社との関係もあるようです。

何か関係があるかもしれません。

せっかくなので、bingにいろいろ聞いてみましょうか。

不必要と思われる所はカットしました。
円空は何故弥勒寺に行ったのか


こんにちは、こちらはBingです。円空は晩年、廃寺になっていた弥勒寺を中興して自坊とし、ここを本拠地として活動しました12。元禄8年(1695年)、円空は長良川河畔で入定し、その64年にわたる生涯を終えました13。円空は仏像を生涯に12万体も彫ったといわれる名僧です4。


円空と白山信仰についての関係を教えてください


円空は白山信仰に出会って修験道の修行をしました1。白山信仰は山そのものを神として信仰する山岳信仰で、白山を水源とする流域に広がっていました12。円空は白山信仰の本地仏である十一面観音や千手観音などの仏像を多く彫りました3。円空は仏教も神道も区別せず、すべての神仏に敬意を払っていました4。


どのようにして白山信仰に出会ったのでしょう?


円空は20代の頃に白山信仰に出会いました1。円空は元々は京都の天台宗の僧侶でしたが、白山の開山者である泰澄の伝記を読んで感銘を受け、白山への巡礼を始めました1。白山では修験道の修行をし、白山信仰の神仏に仏像を奉納しました12。



泰澄の伝記には、弥勒寺について何か書かれていたのでしょうか?


泰澄の伝記には、弥勒寺についてはあまり詳しく書かれていませんが、泰澄が弥勒寺を建立したことは記されています1。弥勒寺は白山信仰の拠点であり、泰澄が白山開山の際に白山神社とともに建てた寺院です12。弥勒寺は泰澄の没後に火災で焼失しましたが、その後再建されました2。



弥勒寺と泰澄についてもう少し詳しく教えてください

弥勒寺と泰澄については、以下のようなことがわかりました。

弥勒寺は愛知県東海市にある寺院で、泰澄が白山開山の前に建立したとされます12。弥勒寺は白山信仰の拠点であり、白山神社とともに泰澄の霊場として信仰されています2。
泰澄は682年に福井県越前町に生まれ、天台宗の僧侶となりました34。717年に白山を開山し、その後も各地で仏教の布教活動を行いました34。767年に86歳で亡くなりました34。
受信したメッセージ. 弥勒寺と泰澄については、以下のようなことがわかりました。 - 弥勒寺は愛知県東海市にある寺院で、泰澄が白山開山の前に建立したとされます 。弥勒寺は白山信仰の拠点であり、白山神社とともに泰澄の霊場として信仰されています。 - 泰澄は682年に福井県越前町に生まれ、天台宗の僧侶となりました 。717年に白山を開山し、その後も各地で仏教の布教活動を行いました 。767年に86歳で亡くなりました 。

岐阜県関市にある弥勒寺と愛知県にある弥勒寺の関係はどうなるのでしょうか?


岐阜県関市にある弥勒寺と愛知県東海市にある弥勒寺の関係は、以下のようなことがわかりました。

岐阜県関市にある弥勒寺は、天台寺門宗の寺院で、本尊は弥勒菩薩です1。この寺院は、美濃地方の豪族身毛津氏の氏寺として古代に創建されたと推定されますが、その後廃寺となりました12。近世に円空が再興し、多くの円空仏を残しました1。
愛知県東海市にある弥勒寺は、真言宗智山派の寺院で、知多四国霊場の第83番札所です3。この寺院は、天平勝宝元年(749年)に行基が創建したとも、弘仁5年(814年)に空海が創建したとも伝えられます3。泰澄が白山開山の前に建立したという伝承もあります3。
両寺院は同じ名前を持ちますが、宗派や歴史や本尊などが異なります。また、両寺院の間に直接的な関係や交流があったという記録は見つかりませんでした。


身毛津(むげつ)氏はいつ頃の人でしょう。関の地に住んでいたのはいつでしょう



身毛津氏について、以下のようなことがわかりました。

身毛津氏は、牟義都国造家の一族で、姓は君です1。牟義都国造は、美濃国の武芸郡(むげのこおり)を治めたとされます12。
身毛津氏は、景行天皇の子である大碓命の子孫と伝えられます132。大碓命は、ヤマトタケルの双子の兄であり、日本武尊とも呼ばれます3。
身毛津氏は、鴨県主と婚姻関係にあり、水取としての職掌を継承したとされます1。水取とは、神社や寺院などに水を供給する役目を担った人々です1。
身毛津氏は、古代から関の地に住んでいたと推定されます45。岐阜県関市池尻にある弥勒寺跡は、身毛津氏の氏寺として創建されたと考えられています5。


弥勒寺の近くを流れる長良川の対岸に、重竹神社(天王神社)がありますが、そこと泰澄の関係は何かわかるでしょうか?</span>


重竹神社(天王神社)と泰澄の関係について、以下のようなことがわかりました。

重竹神社は、関市下有知にある神社で、大碓命を主祭神としています1。大碓命は、身毛津氏の祖先であり、ヤマトタケルの双子の兄です23。
泰澄は、奈良時代の僧で、白山開山の功績で知られます4。泰澄は、養老元年(717年)に武芸八幡宮を創建し、大碓命を祀りました5。
重竹神社と武芸八幡宮は、同じ大碓命を祭る神社であり、泰澄が関係している可能性があります。しかし、重竹神社と泰澄の直接的な関係を示す資料は見つかりませんでした。



重竹神社(天王神社)の主祭神 は 「須佐之男命」と「大己牟遅命」ですが、大碓命=大己牟遅命と考えていいのでしょうか?

‘大碓命 大己牟遅命’ を検索しています

‘大碓命 大己牟遅命’ を検索しています

回答を生成しています…



大碓命と大己牟遅命は、同一の神ではないようです。

大碓命は、景行天皇の皇子で、ヤマトタケルの双子の兄です1。美濃国(岐阜県)に赴いて、地元の娘と結婚しました2。
大己牟遅命は、国津神(土着の神々)の頭領で、大国主とも呼ばれます3。天照大神と対立し、最後には和解しました3。
受信したメッセージ. 大碓命と大己牟遅命は、同一の神ではないようです。 - 大碓命は、景行天皇の皇子で、ヤマトタケルの双子の兄です。美濃国(岐阜県)に赴いて、地元の娘と結婚しました。 - 大己牟遅命は、国津神(土着の神々)の頭領で、大国主とも呼ばれます。天照大神と対立し、最後には和解しました。

とすると、「重竹神社は、関市下有知にある神社で、大碓命を主祭神としています」とするのは、間違いでしょうか?

それは、必ずしも間違いとは言えません。重竹神社の公式サイトによると、大碓命は「大己牟遅命の別名」とされています。しかし、他の資料では、大碓命と大己牟遅命は別の神として扱われています 。神話や神社の由来には、時代や地域によって異なる解釈があることがあります。そのため、一概に正しいか間違っているかということは言えないかもしれません。

受信したメッセージ. それは、必ずしも間違いとは言えません。重竹神社の公式サイトによると、大碓命は「大己牟遅命の別名」とされています。しかし、他の資料では、大碓命と大己牟遅命は別の神として扱われています 。神話や神社の由来には、時代や地域によって異なる解釈があることがあります。そのため、一概に正しいか間違っているかということは言えないかもしれません。

申し訳ございませんが、この会話は上限に達しました。「ほうき」ボタンを使用して、これを一括してさらにチャットします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上です。最後の方では答えにくくなってきたという印象を受けます。

大碓命は架空の人物と思いますので仕方ないですよね。

でも、非常に使いやすいですし、優秀です。

これだけの事で、今までわからなかったことの解決の糸口がつかめた感じです。

おいらにとっては非常に頼りがいあるパートナーのような気がします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

bing

2023-03-12 09:19:41 | bing

対話型検索の「bing]を使ってみました。



何を聞いてみましょうか?

母親の使っている薬に追ついて聞いてみます。





すごく自然に対話が出来ます。

さらに質問をしました。他の薬がないか聞いてみました。



chatGPTは、内容に間違いがあるのですけど、こちらはそれが無いと言われます。

それぞれ一長一短があるのでしょうか?

こちら、野口 悠紀雄 さんの記事が参考になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虹の橋

2023-03-05 06:12:08 | CHAT GPT
詩のようです。おいらはこの事を知りませんでした。

ある方が、亡くなったペットを偲んで「虹の橋に行きました」とのようなことを言われたのが

知るキッカケになりました。

ちょうどその訳文を見つけたので載せておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
虹の橋(訳文)

天国に向かう手前には、虹の橋があります。

あなたが大切にしていた特別なペットが亡くなると、この虹の橋のたもとにやってきます。

虹の橋のたもとには、ペットとその仲間たちが一緒に走ったり遊んだりできるような牧草地や丘があります。

食べ物も水も日差しもたくさんあり、友達は暖かくそこは快適です。

病気で年をとったすべての動物は、そこにいると健康と力を取り戻し、傷ついた動物は元気になり、再び強くなります。

あなたのペットはとても幸せで満足しているけれど、天国に行く前に1つだけ思い出すのです。それは、自分を大切にしてくれたあなたを残してしまったこと。

ペットにとってもあなたは特別だったから、会えなくなってとても寂しいのです。

でも、ある日突然ペットが立ち止まって遠くを見ます。

そこには、あなたがいます。あなたの姿を見たペットの目は明るく輝き、体は喜びで震えます。

仲間からはなれて、全力で草の上を駆けて走ってきたペットとあなたは、再会することができたのです。

あなたとあなたの特別な友達がついに会った時、あなたはうれしさでいっぱいになってペットを抱きしめ、二度と離れることはありません。

あなたの手は再びペットの頭を抱きしめ、再び信頼できる目を見つめ、互いに涙します。

長い間離れ離れになっていたけれど、ペットがあなたの心から離れることはありませんでした。そして、一緒に虹の橋をわたっていくのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こちらに詳しく載っています

Chat gpt では以下のように出ます。

ChatGPT
「虹の橋」は、ペットが死んだ後に、天国に行くための架け橋として想像される言葉です。ペットが死んだ後、愛する家族や飼い主たちは、虹の橋を渡って天国に旅立つと信じています。

この言葉は、ペットを失った人たちにとって、彼らの悲しみと失望を和らげるための一種の慰めになっています。それは、ペットがいつも愛され、忘れられない存在であることを示しています。

この言葉は、一般的に、ペットの死を悼む際に使われますが、宗教的な背景があるわけではありません。それは、動物たちが私たちの生活において非常に重要な存在であることを示すために用いられる、感情的な比喩的な表現です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする