諏訪から日本海へと行くには、川沿いに行ったのですけど、日本海の何処に出たのか?
どれくらい時間がかかったのか?調べてみようと思います。
おそらく、案内人が居たのではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/b7/e484501f359553efc5a0fbf0c912a96b.jpg)
スタート地点の諏訪からは、田川を北上したのだと思います。
そして、奈良井川に出ます。そして、犀川(さいがわ)から、千曲川に出ます。
千曲川が新潟県に入ると信濃川へと名称が変わります。そして、日本海に出ます。
川を下るには、カヌーのような小さな船を使ったのでしょう。
信濃川の長さは全長367km。平常時の流れは概ね人が歩く速さで、
この速さで流れ続けると約5日で河口にたどりつくそうです。時速3kmぐらいですかね。
一方、サタヒコ達が行った、諏訪湖から日本海までの距離はおよそ250km
単純計算で、3.5日。そして、一日に6時間移動すると、14日ぐらいかかるということですね。
意外と時間がかかるんだ
信濃川沿いには、縄文時代の遺跡も見られます。
馬高・三十稲場遺跡や、
笹山遺跡があります。
どちらも、サタヒコ達の通ったころには廃絶しているとのことです。
他の場所に移ったのでしょうか?
とにかく、縄文の時代から信濃川沿いには人が住み,移動するためのルートが出来ていたと考えても
良いのでしょう
ところで、サタヒコ達は日本海の何処に出たのでしょうか?
なかなか決め手が見つかりませんでした。
ふと、いつもの手で海面を5mほど上げてみようかと思いつき見てみました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/70/8f14a684aaa5a6df2e7a35b69d811cae.jpg)
えっ!湖なのか湾なのか、とにかく今と全然違いますね。
赤色で書いた、彌彦神社があります。
この付近に出たのではないだろうか? 彌彦神社を調べてみましょう
祭神は、伊夜日子大神(いやひこのおおかみ) 御名 天香山命(あめのかごやまのみこと)
神系図もありますね。
おいらの作った系図とは少し違います。おいらの系図を載せましょうか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 = 由碁理(竹野姫の父親),
↓
七御子・建諸隅命 (川上摩須) 丹波竹野媛(姉もしくは妹)ーーーーー開化天皇
↓
八御子・倭得玉彦命 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)ーー彦坐王 (兄) 崇神天皇
↓
九御子・若都保命 サタヒコ=朝廷別王
↓ ↓
高材比売(たかきひめ) ーーーーーー 迦邇米雷王
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まあ、どちらにせよサタヒコと深いかかわりのある神社です。
もう一つ引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天香山命がこの世からお隠れになると、息子の天五田根命(あめのいたねのみこと)が廟社を築きます。崇神天皇(在位紀元前97~30年)の時代に天香山命の子孫である建諸隅命(たけもろすみのみこと)が社殿を造営。それが彌彦神社の始まりであり、2400年以上もの歴史を有する越後一宮の神社となったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おいらの系図を見るとわかりますけど、建諸隅命=川上摩須なので、
彼は久我耳三笠に追われていたのでここに神社を建てる余裕などないと思われます。
この神社を建てたのは、サタヒコでしょう。
でもこの時ではなく、後の力をつけた時でしょう
どれくらい時間がかかったのか?調べてみようと思います。
おそらく、案内人が居たのではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/b7/e484501f359553efc5a0fbf0c912a96b.jpg)
スタート地点の諏訪からは、田川を北上したのだと思います。
そして、奈良井川に出ます。そして、犀川(さいがわ)から、千曲川に出ます。
千曲川が新潟県に入ると信濃川へと名称が変わります。そして、日本海に出ます。
川を下るには、カヌーのような小さな船を使ったのでしょう。
信濃川の長さは全長367km。平常時の流れは概ね人が歩く速さで、
この速さで流れ続けると約5日で河口にたどりつくそうです。時速3kmぐらいですかね。
一方、サタヒコ達が行った、諏訪湖から日本海までの距離はおよそ250km
単純計算で、3.5日。そして、一日に6時間移動すると、14日ぐらいかかるということですね。
意外と時間がかかるんだ
信濃川沿いには、縄文時代の遺跡も見られます。
馬高・三十稲場遺跡や、
笹山遺跡があります。
どちらも、サタヒコ達の通ったころには廃絶しているとのことです。
他の場所に移ったのでしょうか?
とにかく、縄文の時代から信濃川沿いには人が住み,移動するためのルートが出来ていたと考えても
良いのでしょう
ところで、サタヒコ達は日本海の何処に出たのでしょうか?
なかなか決め手が見つかりませんでした。
ふと、いつもの手で海面を5mほど上げてみようかと思いつき見てみました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/70/8f14a684aaa5a6df2e7a35b69d811cae.jpg)
えっ!湖なのか湾なのか、とにかく今と全然違いますね。
赤色で書いた、彌彦神社があります。
この付近に出たのではないだろうか? 彌彦神社を調べてみましょう
祭神は、伊夜日子大神(いやひこのおおかみ) 御名 天香山命(あめのかごやまのみこと)
神系図もありますね。
おいらの作った系図とは少し違います。おいらの系図を載せましょうか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 = 由碁理(竹野姫の父親),
↓
七御子・建諸隅命 (川上摩須) 丹波竹野媛(姉もしくは妹)ーーーーー開化天皇
↓
八御子・倭得玉彦命 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)ーー彦坐王 (兄) 崇神天皇
↓
九御子・若都保命 サタヒコ=朝廷別王
↓ ↓
高材比売(たかきひめ) ーーーーーー 迦邇米雷王
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まあ、どちらにせよサタヒコと深いかかわりのある神社です。
もう一つ引用します
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天香山命がこの世からお隠れになると、息子の天五田根命(あめのいたねのみこと)が廟社を築きます。崇神天皇(在位紀元前97~30年)の時代に天香山命の子孫である建諸隅命(たけもろすみのみこと)が社殿を造営。それが彌彦神社の始まりであり、2400年以上もの歴史を有する越後一宮の神社となったのです。
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おいらの系図を見るとわかりますけど、建諸隅命=川上摩須なので、
彼は久我耳三笠に追われていたのでここに神社を建てる余裕などないと思われます。
この神社を建てたのは、サタヒコでしょう。
でもこの時ではなく、後の力をつけた時でしょう