たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

岩屋観音堂(坂祝)

2016-04-30 06:44:12 | Weblog


ちょうど、猿ばみ城の真下にあります。中仙道沿いにあります



建築年代は、19世紀始めと推定されているとのこと







うろ覚えなので正確ではありませんけど、ここから、鵜沼の間は豊臣秀吉が道を作ったと記憶しています。

山と木曽川の間は崖で、昔は、とても人が通れるところではなかったようです。


道幅は狭く人がやっと通れる程度のところもあったとか







信長の猿ばみ城攻略の時には、おそらく、このあたりに

舟を数艘、綱でつないで橋のようなもの(舟橋)を作り

それを利用して、大勢の兵士が川を渡ったのではないでしょうか。

おそらく、このころには川並衆(野武士。船を巧みに操り、木曽川を上り下りする船から通行税を取り、

逆らう者は襲撃するという海賊まがいの荒くれ者たち)は、信長と関係があったと思われますので

川並衆が、舟橋をつくったと推測します。資料はありませんけどね・・・


最近思うのですけど、我が家の先祖は川並衆???



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猿啄城(さるばみじょう)

2016-04-29 10:27:24 | Weblog


猿啄城(さるばみじょう)ウィキペディアです

地図です

登るには、国道21号線(古いほう)を犬山方面から北に向かうと、勝山という信号に案内表示があります。



駐車場には、解説板があります



そこから、歩いて登っていきます



こちらから登るのは、けっこうきついんですよ・・・ハアハア 汗;



30分ほどで、頂上





これは、昔からの石積でしょうか?



展望台からの景色はなかなか良いですよ




南を見ると、伊木山が見えます

写ってないけど、小牧山も見えたと思います



このトンネル、最近開通したばかりの、新しい国道21号線です。



東側の、木曽川の流れ



さて、織田信長は、堂洞合戦の前に、この猿啄城を攻めています


信長公記より引用です

・・・・・・・・・・・・・・

猿 ば み の 城 、 飛 騨 川 へ 付 き て 、 高 山 な り 。 大 ぽ て 山 と て 、 生 茂 り た る 翻 あ り 。 或 る 時 、 大 ぼ て 山 へ 丹 羽 五 郎 左 衛 門 先 懸 に て 攻 め の ぼ り 、 御 人 数 を 上 げ ら れ 、 水 の 手 を 御 取 り 侯 て 、 上 下 よ り 攻 め ら れ 、 即 時 に つ ま り 、 降 参 、 退 散 な り 。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり、丹羽五郎左衛門が大ぼて山を攻略し水の手を取った。とあります。

大ぼて山とはどこ?

猿啄城から、西を見ると


水の手とは、清水でしょうか?それとも井戸?

以前、西にある迫間不動の方からここまで来たことがありますけど、水が出てるところはあったかな?



おそらく、水の手までは、それほど遠くではないでしょうね

とりあえず、行ってみました



それらしきものは、見当たらず・・・




もう少し、奥なのでしょうか?

時間が遅かったので、ざんねんながら引き帰しました


さて、信長の軍勢は、どこで木曽川を渡ったのでしょうか?

泳いでは渡れません

舟を使うしかないでしょう

流れが速いので、普段から渡る場所が決まってるのではないかなと思い、

逆に木曽川に向かっている道は?と考えると、先ほど来た道が、古くからの道なんです。

地図を良く見ると、対岸には「古渡」と言う地名がありました。





おそらく、このあたりを渡ったのでしょう

私事ですけど、この付近、岐阜県側で、おいらが2才のころ川に転落したそうです・・・

どうして、助かったのでしょうね?

いまだに、不明です。。。
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加治田城

2016-04-18 05:46:48 | 東山道

地図ですhttp://maps.gsi.go.jp/#16/35.497976/136.993396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0


築城主 佐藤忠能、佐藤忠康

築城年 1558年 - 1570年

主な城主 佐藤氏、斎藤氏、森氏

廃城年 1583年


堂洞合戦のとき織田信長に内通したほうです

くわしくはこちら



松井屋酒造資料館の前を東に進むと清水寺の入り口の標識があります

そこを、左折すると60mぐらいで、右手に公園の駐車場があります

そこに車をとめて、歩いて登り始めます。100mぐらいで清水寺

先ほど来た、松井屋酒造資料館の前の道が、東山道飛騨支路ではないかと思うのです

そして、堂洞城、夕田茶臼山古墳のあたりを古道(古東山道)が通っていてのではないかと推測します

そして、夕田茶臼山古墳は、岐阜県美濃市大矢田にある、喪山天神社から見た冬至の日の出の方角と

ピタリ一致します。



話を、もどしましょうか
山門です


10分ぐらいで



城跡のほうに進みます



沢があります





近道を登り








途中、眺めの良い場所がありました


名古屋駅の高層ビル群が見えます(真ん中のくぼんだところ、画像では良くわかりませんね。)

猿ばみ城は、確認できます(右の山)


到着~♪  約30分ぐらい(やや急いで登りました)



眺めはいいですけど、木々に邪魔されてよくわかりません



すこし、もどって良い場所を探します



堂洞城は、トンネルの入り口から少し右奥のようですね

トンネルの真上あたりが、人質に出された城主の娘、八重緑が磔にされた所のようです



上の画像は、このあたりよりやや東で撮った画像です



猿ばみ城も見えます。 小牧城は?

そんなことは考えてなかったので、方向がわからない

とりあえず、地図で調べてみます



右の線が、加治田城と名古屋駅を結ぶ線

左が、加治田城と小牧城を結ぶ線です

すると、こうなります



この画像では、小牧城は見えませんけど

少し東に行けば見えるかもしれませんね。未確認ですけど・・・

城主の佐藤忠能は、ここから小牧城が出来るのを、ずっと見ていたのかもしれませんね


コメント (2)
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中央構造線

2016-04-16 06:46:57 | Weblog

熊本地震で被害にあわれた方々にお見舞い申上げます。

最初、場所を確認してふと、中央構造線が思いうかびました

詳しくは、ウィキペデイアでどうぞ

ニュースを見ていると、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「今回の地震は、和歌山県から四国を通り大分県に繋がる断層であり、この断層が動いた可能性があります」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とありました


この、「断層」というのは、中央構造線のこと?

布田川断層帯、日奈久断層という名前が出てきますけどこれも、中央構造線の一部なのでしょうか





中央構造線に沿っては、古い神社が存在します

伊勢神宮もそうです。あと、諏訪大社 豊川稲荷 幣立神宮 まだいろいろあります

不思議ですね

検索してみると、こちらが興味深いですね

以前、伊勢神宮に行ったとき探したのです

ひょっとすると、外宮の鳥居の前に段差があるんですけどそこかな?

今、検索で調べたらやはり、それらしき事が書かれています


今回の地震と、中央構造線が関係するならそれに沿ったところも気をつけなければいけないですね



熊本地震が早く収まり、被害がこれ以上大きくならないことを願います






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堂洞城跡

2016-04-10 16:23:21 | Weblog

堂洞合戦の行われたところです


地図ですhttp://maps.gsi.go.jp/#17/35.485170/137.000349/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0



いろいろ調べていくと、悲しい物語が出てきたので、ここに行くことをためらっていました

まあ、どの戦にも悲しい物語はあるのでしょうけど・・・

とりあえず、参考になるような事柄をピックアップしてみます




永禄6(1563)年 信長の侵攻に備えるため中濃三城(関・堂洞・加治田城)
反信長の盟約を結ぶ

加治田城主 佐藤忠能が、織田信長に内通
            その後、堂洞城主である岸信周に、信長への内通を悟られぬために娘
            を人質に出す



以下は、織田信長の行動です


 永禄7年          織田信長  清洲より小牧城に居城を移す

 永禄7(1564)年(永禄8年ともいわれます)    犬山城攻略

 永禄8(1565)年                  宇留摩・猿啄両城攻略

永禄8年8月28日 (1565年9月22日) 堂洞城攻略




このような感じだったと思います。青色が斉藤側、赤色が織田信長側です


ウィキペディアより引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

合戦前には、信長は金森長近を使者として堂洞城へ派遣し投降を勧めるが岸信周は受け入れず、

嫡男信房は長近の目の前で自分の子の首を斬り落として覚悟を示したため、

長近は引き下がった。

岸方が合戦の準備をする中、人質の八重緑は堂洞城に面した長尾丸山で磔にされた。

その夜、忠能の家臣西村治郎兵衛が忍び、

八重緑の亡骸を岸方から奪い取って加治田の龍福寺へ葬ったと伝わる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どういう心境なのでしょうね? 自分の子を切り殺すなどとは・・・

たしか、5歳と7歳の子だったとどこかに書いてあったように記憶しています

勝ち目は無いと悟っていたのでしょうか?




人質の八重緑というのは、佐藤忠能が、織田信長に内通していることを悟られぬために
   
堂洞城に出した人質の娘のことでしょうね


かなり、感情的になっていると思います

冷静ならば、生かしておいて役に立たせようとするでしょうから

それだけ、追い詰められていたのでしょうか?

最後には、岸信周とその妻は自害しています

その時歌を詠んだとか

見つけました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先立つも しばし残るも 同じ道と思へば 晴るる夕暮の雲 (妻)

まてしばし 敵の浪風 切りはらい 但に至らむ 極楽の岸 (岸信周)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


本丸に行くには良く調べないと行けません

最初の画像の入り口から700mぐらいで伊豆神社



すぐに、ため池があります。この先は道が狭いのでここに車をとめます。駐車スペースはあります



そこから、300mほど坂道を登ります。すると、左手に大きな水のタンクでしょうか?



その、反対側にゴルフ場のゲートとその左に道があります。そこを登ります

さきほどの道をさらに進むとおそらく、夕田茶臼山古墳の近くに行けると思います(行ってないので不確かです。あしからず)



こんな感じ







200mほどで山頂、本丸でしょう
なんと、塔婆が3枚。450年?ひとりは女性ですか?
岸信周とその妻、そして子の信房でしょうか?


450年後にもこうして供養しておられるのでしょうか


後ろ側です





さくらは、だいぶ散っています。桜吹雪がきれいでした
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日の出不動

2016-04-05 06:41:00 | Weblog


地図ですhttp://www.mapion.co.jp/m2/35.42182540693093,136.93375466347956,18

岐阜県各務原市にあるのですけど、

現在のように鎮座したのは1887年(明治20年)頃で、古いわけではありません

八木山の北にある、

大安寺というお寺の奥の院にあたるそうです

以前、この地は禁足地だったとのこと

ここより北には、迫間不動があり、西には山中不動があります

どちらも、古く迫間不動は、823年(弘仁14年)

山中不動もそのころのようです

なんで、この日の出不動の場所が禁足地だったのでしょう?

何かわからないかなと思い出かけてみました






ご神体の岩です





これが受験生に人気の落ちない岩・・・あまり良く写っていませんね





八木山方面




結果、何もわかりませんでした・・・←なら、書くなよ!

いやねぇ、古代製鉄の跡か何かヒントになるものがないかなと思ったのですけど・・・





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もう一度さくら

2016-04-04 08:57:06 | 

今日は雨ですね

散らなければいいのですけど・・・




我が家の近くの昨日のさくらです



桜の根は弱いようです

我が家のすぐ裏にソメイヨシノがあったのですけど、道路工事をしたら、

数年後に枯れてしまいました

弁天桜も周りをきちんと整備したら、その時、根を傷つけて枯れたのかな?

好きな桜だったのですけど
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桜満開ですね

2016-04-03 06:56:01 | 

まずは、手力雄神社にある、信長の弓掛桜



 境内入口の一角にあり、信長が稲葉山城主の斉藤竜興を滅ぼした時、神社に参拝して武運長久を折り、

その際境内に一つの的場を作って弓術を試み、

そこの桜の大枝に弓を掛けたので弓掛桜といわれているとのこと

良く考えたら、ソメイヨシノではなくおおらくエドヒガンなんですよね

少し早く咲くのでやや時期が遅かったかな?



次は、犬山城を見たところ




そして、毎年恒例の場所



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