堂洞合戦の行われたところです
地図ですhttp://maps.gsi.go.jp/#17/35.485170/137.000349/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
いろいろ調べていくと、悲しい物語が出てきたので、ここに行くことをためらっていました
まあ、どの戦にも悲しい物語はあるのでしょうけど・・・
とりあえず、参考になるような事柄をピックアップしてみます
永禄6(1563)年 信長の侵攻に備えるため中濃三城(関・堂洞・加治田城)
反信長の盟約を結ぶ
加治田城主 佐藤忠能が、織田信長に内通
その後、堂洞城主である岸信周に、信長への内通を悟られぬために娘
を人質に出す
以下は、織田信長の行動です
永禄7年 織田信長 清洲より小牧城に居城を移す
永禄7(1564)年(永禄8年ともいわれます) 犬山城攻略
永禄8(1565)年 宇留摩・猿啄両城攻略
永禄8年8月28日 (1565年9月22日) 堂洞城攻略
このような感じだったと思います。青色が斉藤側、赤色が織田信長側です
ウィキペディアより引用します
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合戦前には、信長は金森長近を使者として堂洞城へ派遣し投降を勧めるが岸信周は受け入れず、
嫡男信房は長近の目の前で自分の子の首を斬り落として覚悟を示したため、
長近は引き下がった。
岸方が合戦の準備をする中、人質の八重緑は堂洞城に面した長尾丸山で磔にされた。
その夜、忠能の家臣西村治郎兵衛が忍び、
八重緑の亡骸を岸方から奪い取って加治田の龍福寺へ葬ったと伝わる
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どういう心境なのでしょうね? 自分の子を切り殺すなどとは・・・
たしか、5歳と7歳の子だったとどこかに書いてあったように記憶しています
勝ち目は無いと悟っていたのでしょうか?
人質の八重緑というのは、佐藤忠能が、織田信長に内通していることを悟られぬために
堂洞城に出した人質の娘のことでしょうね
かなり、感情的になっていると思います
冷静ならば、生かしておいて役に立たせようとするでしょうから
それだけ、追い詰められていたのでしょうか?
最後には、岸信周とその妻は自害しています
その時歌を詠んだとか
見つけました
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先立つも しばし残るも 同じ道と思へば 晴るる夕暮の雲 (妻)
まてしばし 敵の浪風 切りはらい 但に至らむ 極楽の岸 (岸信周)
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本丸に行くには良く調べないと行けません
最初の画像の入り口から700mぐらいで伊豆神社
すぐに、ため池があります。この先は道が狭いのでここに車をとめます。駐車スペースはあります
そこから、300mほど坂道を登ります。すると、左手に大きな水のタンクでしょうか?
その、反対側にゴルフ場のゲートとその左に道があります。そこを登ります
さきほどの道をさらに進むとおそらく、
夕田茶臼山古墳の近くに行けると思います(行ってないので不確かです。あしからず)
こんな感じ
200mほどで山頂、本丸でしょう
なんと、塔婆が3枚。450年?ひとりは女性ですか?
岸信周とその妻、そして子の信房でしょうか?
450年後にもこうして供養しておられるのでしょうか
後ろ側です
さくらは、だいぶ散っています。桜吹雪がきれいでした