たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

菊理比売姫は誰?その7 郡上八幡

2022-12-31 08:23:13 | 猿田彦
このシリーズ、そんなに長く書くつもりはなかったのですけど、

書き始めたらいろんなことが分かり始めたので流れにまかせて書いてみます。

長瀧白山神社からの距離は、郡上八幡で25kmぐらいと書いています。

郡上八幡で、宿泊地らしき場所を探してみました。



岸劔神社(きしつるぎじんじゃ)の祭神が、
  素盞嗚尊(すさのおのみこと)
伊弉那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
菊理姫命(くくりひめのみこと)
猿田彦大神(さだひこのおおかみ)

サタヒコの名前があったので、気になり調べてみました。

時代は古くありません。明治19年(1896)に岸劔神社が城山の郡上八幡城本丸へ移転したとあります

そうすると、それ以前は何処にあったか調べると、白龍稲荷神社のある所のようです。

郡上八幡観光協会と言う所を参考にさせてもらいます。

一部引用です
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あの岩山は、江戸時代の地図には「神路山」「キシツルギ山」などの表記があり、宮ヶ瀬橋を渡ったところにあった岸劔宮の一部として、信仰対象のひとつでした。
明治19年(1896)に岸劔神社が城山の郡上八幡城本丸への移転が決まると、神社の一部であった岩山は、それまで神社の庇護にあたっていた城下の商家に委譲される形でその守護を任されました。ですからあの岩山は現在では、個人の所有物というたいへん珍しいケースになっています。
そして岩の中腹に白龍稲荷神社が祀られていますが、こちらは比較的歴史は浅く、大正時代から昭和の初めに無病息災と商売繁盛を祈念して建立され、今も地元の肴町の人たちにより大切に守られています。
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岸劔神社の初めの場所が、白龍稲荷神社のある「岩山」付近と言うことはほぼ間違いがないようです。

googleのストリートビューから画像を探してみましょうか。


ここも磐座だったのでしょうか?神籬(ひもろぎ)の場所だったのかもしれません。

サタヒコが好きそうな場所と思うのですけど。。。





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菊理比売姫は誰?その6

2022-12-31 07:32:07 | 猿田彦

須原神社は、養老5年に出来ています。須原神社のhpはこちらです。


引用します
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洲原神社は、今より約1300年前、元正天皇の御代養老元年に(西暦717年)、越前国足羽郡麻生津村、神職三神安角の二男泰澄が加賀国白山の絶頂で厳かな修行行うていられた時に霊夢を感じ、其の状を具(つぶ)さに、天皇へ奏上されたので、元正天皇より泰澄に斎鎮の勅命下り、又当社御造営使として、伴安麿に御剣一口と封戸若干、従者二人に甲胃を添えて下し賜う。養老5年5月、実に宏大荘厳な御社殿が御造営の工を竣え、勅を奉じて泰澄が御祭神をお祀(まつ)り申し上げたのであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
洲原神社は巨木もあり、そして、楼門の前を長良川が流れています。その先に神岩があります。

画像が無いので、googleのストリートビューからお借りします。


左が楼門で、そこから長良川を見ると


神岩があります。磐座でしょうか?こういう場所は、サタヒコの好きそうな場所のように思うのです。

それだけで、この地がサタヒコ達の滞在場所だったと決められませんけど、

そう考えると楽しいですね。。。











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菊理比売姫は誰?その5

2022-12-30 08:51:42 | 猿田彦
この、白山比咩神社から白山を越えて美濃に行くルートを泰澄が再現したと考えていと思うのです。

ウィキペディアより引用します
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言い伝えでは、景行天皇12年の創祀で、雄略天皇9年に護国鎮護のために剣を奉納したと伝えられている。養老元年(717年)に泰澄大師が白山中居神社の社域を拡げ、社殿を修復したという。
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景行天皇12年はいつ頃なのか?  12年をそのままの年数で考えると、322年頃です。

半分の6年とすると、316年頃になります。その時サタヒコは、51歳ぐらい。

彼が生きているならば、白山中居神社の創祀は、サタヒコが行ったことになります。

そうでなければ、景行天皇が行ったかもしれません。

どちらにせよ、白山中居神社の場所は最初からあった場所の可能性が高いのではないでしょうか。

長瀧白山神社は、養老元年(717年)、泰澄が創建したと言われます。

この場所に以前から何かサタヒコ達の痕跡があったのか?全く分かりません。

今後の課題にしておきましょう。



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菊理比売姫は誰?その4

2022-12-30 08:09:27 | 猿田彦


長良川に出れば、あとは小さなカヌーを作り川を下ることが出来るので早く楽に行くことが出来るでしょう。 帰りは歩きですけど・・・

.川の流速は、平常時でおおよそ秒速0.2mから秒速3m程度と言うことです。

まず、平常時以外には川下りはしないでしょう。

それから、川の流速は、川下りの速度ではないということ。少し遅いでしょう。

秒速3mは時速10.8kmですが、その約半分のスピードとすると、時速5km。

この数字が適当かどうかはわかりません。

とりあえず、この数字で考えてみましょうか。大きな違いは無いと思います


長瀧白山神社からの距離は、郡上八幡で25kmぐらい。

5時間ほどかかります。この付近に滞在する場所を決めたとすると、ちょうどいい場所と考えます。

前回と同様で、確信できる滞在場所はわかりません。

まだ彼らは若く、権力があるなどとは程遠い存在なので仕方ないでしょうね。

郡上八幡から須原神社も同じくらいです。

須原神社から、長良志段見(伊波乃西神社付近)までも同じくらいです。

長良志段見は伊奈波神社の近くなので、そこまでは行っていないでしょう。











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菊理比売姫は誰?その3

2022-12-29 08:16:55 | 猿田彦
白山比咩神社創祀之地が、彼らが滞在した最初の場所と思われます。

船岡山の頂上にあります。前にも書いていますけど、船岡と言う地名は、彦坐王が丹後半島で、久我耳三笠を退治してから住んでいた所です。

その藤岡で奉仕していた八乙女の一人が彦坐王の妻、つまりサタヒコの母親と考えていいと思います。

「船岡」と言う名前を使ったのは、彦坐王の関係する場所と言うことを示すためなのでしょうか。

それはともかく、この場所を起点として白山を越えて、長良川に出ます。

およそのルートを考えてみました。

前回は、白山中居神社から九頭竜川に出るようなことを書いていましたけれど、

距離的に考えると現在ある長瀧白山神社の方に出るのが正解かなと思います。

長瀧白山神社は、まだこの時にはありません。

その近くをいろいろ調べましたけれど、彼らが滞在した場所を特定することはできませんでした。

今後の課題にしておきましょう。

白山越えについては、おいら山登りしませんので、触れることはしません。

白山比咩神社から長良川まで何日かかるのだろう?どなたか分かりませんか?






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菊理比売姫は誰?その2

2022-12-29 05:56:02 | 猿田彦
284年ごろに糸魚川に来たサタヒコ達は、その後、丹後半島に向かったと思います。

いつ頃かは分かりません。それほど月日はかからないうちでしょう。すでに船はありますから。

2年後とすると、286年。サホヒコは、36歳ぐらい。サタヒコは21歳ぐらいと思います。

サタヒコの母親は、39歳ぐらいでしょう。

糸魚川と丹後半島を行き来することが多かったのではないでしょうか。

糸魚川の翡翠と、丹後半島の鉄を船に乗せ、日本海をあちこちと移動していたのかもしれません。


そうするうちに、白山を越え長良川に出て、故郷の美濃に行こうという考えが出たのではないだろうか?

レイラインの測量者たちは、星を読む技術があるのでナビも出来たと考えます。

ちなみに、岐阜城からは白山が見えるそうです。

ということは、白山に登れば美濃までの道が分かるということ?

とにかく、みんな美濃に行きたかったと思います。

ですけど、美濃にはサホヒコ(=伊勢津彦)を伊勢から追い出した崇神天皇の息子の垂仁天皇が居る。

ですから安易に近づけません。

見つかったら、殺されるかもしれないですよね。

しかし、美濃の近くまで行っていると考えてもおかしくはありませんよね。







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菊理比売姫は誰?

2022-12-28 16:07:07 | 猿田彦
以前にも書いています。

菊理比売姫(くくりひめのみこと)

ウィキペディアより引用します
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日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に一度だけ出てくるのみである

神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる。
そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った。
つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある。
菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない

菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041年-1111年)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている
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以前、白山比咩神社の最初の祭神は、彦坐王と書きましたけど違うかもしれません。

菊理媛を倭姫ではないかと思っていたのですけど、サタヒコの足跡を考えると違ってるかも・・・

その後、いろいろ発見しましたのでこれから少しずつ書こうかと思います。

まず最初は、白山比咩神社ですよね。



4m海面を下げてみます・・・あまり意味が無かった・・・


白山比咩神社は、ちょうど、糸魚川と丹後半島の中間ですね。

ここから白山を越えて行くのです。

時代を考えてみましょうか。

サホヒコが伊勢を追い出されたのが、281年頃。その3年ぐらい後には糸魚川に居るとします

284年に糸魚川に来たときにはすでに大きな船を持っていました。

彌彦神社で船を建造していると考えます。

このころの船は、準構造船と呼ばれるものです。
兵庫県立考古博物館より引用させてもらいます

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船の種類は、準構造船とよばれるものです。
縄文時代以来、船は木をくりぬいただけの丸木船が使われていましたが、その上に、板を立てて囲みをつくり、波が入らないようにしたものです。
丸木船と、後の時代にでてくるような船全体を板でつないで作る構造船との中間的な形であるので、準構造船と呼んでいます。
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サタヒコ達は、鉄の斧やそのほかの鉄でできた道具を持っているので、効率よく木を加工できたと思います。







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白鳥塚古墳その2

2022-12-28 07:10:06 | 猿田彦
ずいぶん長いこと書き込んでいませんね。

仕事の内容を大きく変えたので、まったく時間が無かったのです。

少し時間が出来たので、再開しましょうか。。。

さて、白鳥塚古墳ですけど、

「南北方向に主軸を持つ二つの埋葬施設が東西に並んで存在する可能性が指摘されている。」

とのことですね。つまり、二人埋葬されているわけですよね。

その二人とは、誰でしょうか?

レイラインがありますので、もう一度見てみましょうか。


おいら、彦坐王に気を取られすぎていたかもしれません・・・

大碓命(オオウスノミコト)の墓のある、西宮からのレイラインが、白鳥塚古墳を通るならば

そこが、サタヒコ(猿田彦)の墓と考えるのが適当なのではないだろうか?

しかも、朝鳥明神もそのライン上にあります。

詳しくはこちら参照してください

そうすると、二人の埋葬者は、「彦坐王」と「サタヒコ(猿田彦)」と考えるのが適当なのでは?

彦坐王の棺は、途中の祠から、尾張部神社古墳に移されています。

普通ならば、それでおしまいなのですけど、さらに、白鳥塚古墳に移されたということと考えなければなりませんね。

理由はわかりませんけど、サタヒコが生前に望んでいたのかもしれません。

そうすると、青塚古墳の埋葬者は誰?

もうお分かりですね。

東之宮古墳の被葬者である、 尾張大印岐 (おわりのおおいみき)の 子.である、

真敷刀婢 ( ましきとべ ) つまり、さたひこの妻ではないでしょうか?



尾張に住んでいた人たちが古くから高蔵神社磐座を崇拝していたかもしれません。



高蔵神社磐座からのレイライン上には、白山1号墳(愛知県丹羽郡大口町下小口1丁目)があります。


これは、 真敷刀婢 (マシキトベ)の兄弟かもしれません。

そう考えると、青塚古墳は 真敷刀婢 の可能性が高くなります。

娘である「玉姫」おそらく、宮簀媛(みやずひめ)と同じ人物と思いますけど、

彼女もこの青塚古墳に埋葬されているかもしれませんね。



















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